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- 煌きのアドリア海、宮殿が街になったスプリット
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エリア:
- ヨーロッパ>クロアチア>スプリット
- テーマ:観光地 クルーズ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/01/27 22:03
- コメント(0)
アドリア海沿岸に輝く、クロアチアには古代から住み心地が良かったようです。
なぜかというと、美しい旧市街が多く残っているからです。
そんないくつもある都市で、女王のや真珠との異名を取るのはドブロブニクですが、今日は古代ローマ皇帝が別荘を建てて引退後の余生を過ごした古都スプリットをご案内します。
スプリットは、海に面した街です。背後に山が迫る街で、背後から敵に侵入されにくいらしいです。というと、なんとなく源頼朝のひらいた鎌倉幕府が鎌倉を選んだ理由のようにも聞かれますが…。
スプリットはそもそも、ローマ皇帝を退位して余生にのんびり?過ごそうと思って建てられた別荘が街の始まりです。
宮殿は岸辺に作られ、船から皇帝に届けられた数々の物資が、そのまま宮殿に運び込まれていた模様です。
「模様です」というのはですね、宮殿の全てが残っているわけではないからです。
ディオクレティアヌス帝という方は、キリスト教を弾圧した方ではありますが、混乱期のローマ帝国(A.D.3世紀)で国はがたがたでした。広大すぎる領土を何とか治めるため、皇帝を正帝と副帝二人ずつの制度をつくり、ローマ帝国の寿命を伸ばしたといわれています。
彼が有能な皇帝であったことは間違いなく、その証拠がこのスプリットなのです。
彼が生きた時代のローマ帝国はいわゆる「パックスロマーナ(ローマの平和)」が終わり、軍人皇帝時代と称された頃です。
軍人なんて聞きますと強い皇帝のイメージがありますが、これは兵士に支持されて帝位についた皇帝ということです。あっちの軍団で祭り上げられた皇帝やらこっちの皇帝に祭り上げられた皇帝やらで、大げさに言いますとローマ帝国は皇帝だらけ。
50年間に26人の皇帝がいました。
ひょっとしたらもっといたかもしれません。在位平均2年。ほぼ全員暗殺されているそうです。
ローマは「パンとサーカス」で有名なように、民衆の支持を得られてこそ「帝位」を保てるのでした。軍人皇帝時代は、簡単に言ってしまいますと、それがものすごく顕著に進んでしまった事態だったといえなくもありません。
こんなローマの状態をだれもが「当たり前」と受け入れていた頃、この悪循環を破壊したのがディオクレティアヌス帝でした。当時30代後半の男盛り?でした。
皇帝の地位を高め、議員が皇帝の前で寛ぐことを認めず、皇帝の下に国を一つにまとめようと試みたのです。
残念なことに、そのために皇帝を礼賛しないキリスト教徒を認めなかったのですね。
ローマを一時的だったにせよ立て直したディオクレティアヌスは、突然退位し、自分の生まれ故郷の近くの田舎に別荘を作ったのです。それがこのスプリットでした。
彼の死後、数世紀たち、近郊の町が敵に侵略されたということで町の人がスプリットへ逃げ込み、宮殿跡にそのまま街を作ってしまいました。
立派な宮殿でしたので資源再利用ですね。
中世には教会が立てられ、時にはバルカン半島の東からイスラム教徒がやってきて、時には近隣の王国の支配下に入り、時にはヴェネチアの支配下に入り、等々時代と共に支配者が変わり、そのたびに流行が変わり、様々な建築スタイルが受け入れられたのです。
いまスプリットの街を歩いていると、ディオクレティアヌス帝が姿を現したであろうテラスにはカフェが並び、よく見ると大聖堂と呼ぶには小さなカテドラルがあります。
中世には宮殿の壁が城壁になったのがよくわかります。
様々な建築様式も楽しいですが、A.D.3世紀から現代までのときが全て凝縮しているこの中を歩くこと、そしてお買い物をすることがとても楽しいのです。
でも疲れたら、そこいらのカフェで一杯というのもいいですが、春から初夏に行くなら、ジェラートがお勧めです。
私のお気に入りはピスタチオとレモンです。
もちろんダブルも大丈夫です。
なぜかというと、美しい旧市街が多く残っているからです。
そんないくつもある都市で、女王のや真珠との異名を取るのはドブロブニクですが、今日は古代ローマ皇帝が別荘を建てて引退後の余生を過ごした古都スプリットをご案内します。
スプリットは、海に面した街です。背後に山が迫る街で、背後から敵に侵入されにくいらしいです。というと、なんとなく源頼朝のひらいた鎌倉幕府が鎌倉を選んだ理由のようにも聞かれますが…。
スプリットはそもそも、ローマ皇帝を退位して余生にのんびり?過ごそうと思って建てられた別荘が街の始まりです。
宮殿は岸辺に作られ、船から皇帝に届けられた数々の物資が、そのまま宮殿に運び込まれていた模様です。
「模様です」というのはですね、宮殿の全てが残っているわけではないからです。
ディオクレティアヌス帝という方は、キリスト教を弾圧した方ではありますが、混乱期のローマ帝国(A.D.3世紀)で国はがたがたでした。広大すぎる領土を何とか治めるため、皇帝を正帝と副帝二人ずつの制度をつくり、ローマ帝国の寿命を伸ばしたといわれています。
彼が有能な皇帝であったことは間違いなく、その証拠がこのスプリットなのです。
彼が生きた時代のローマ帝国はいわゆる「パックスロマーナ(ローマの平和)」が終わり、軍人皇帝時代と称された頃です。
軍人なんて聞きますと強い皇帝のイメージがありますが、これは兵士に支持されて帝位についた皇帝ということです。あっちの軍団で祭り上げられた皇帝やらこっちの皇帝に祭り上げられた皇帝やらで、大げさに言いますとローマ帝国は皇帝だらけ。
50年間に26人の皇帝がいました。
ひょっとしたらもっといたかもしれません。在位平均2年。ほぼ全員暗殺されているそうです。
ローマは「パンとサーカス」で有名なように、民衆の支持を得られてこそ「帝位」を保てるのでした。軍人皇帝時代は、簡単に言ってしまいますと、それがものすごく顕著に進んでしまった事態だったといえなくもありません。
こんなローマの状態をだれもが「当たり前」と受け入れていた頃、この悪循環を破壊したのがディオクレティアヌス帝でした。当時30代後半の男盛り?でした。
皇帝の地位を高め、議員が皇帝の前で寛ぐことを認めず、皇帝の下に国を一つにまとめようと試みたのです。
残念なことに、そのために皇帝を礼賛しないキリスト教徒を認めなかったのですね。
ローマを一時的だったにせよ立て直したディオクレティアヌスは、突然退位し、自分の生まれ故郷の近くの田舎に別荘を作ったのです。それがこのスプリットでした。
彼の死後、数世紀たち、近郊の町が敵に侵略されたということで町の人がスプリットへ逃げ込み、宮殿跡にそのまま街を作ってしまいました。
立派な宮殿でしたので資源再利用ですね。
中世には教会が立てられ、時にはバルカン半島の東からイスラム教徒がやってきて、時には近隣の王国の支配下に入り、時にはヴェネチアの支配下に入り、等々時代と共に支配者が変わり、そのたびに流行が変わり、様々な建築スタイルが受け入れられたのです。
いまスプリットの街を歩いていると、ディオクレティアヌス帝が姿を現したであろうテラスにはカフェが並び、よく見ると大聖堂と呼ぶには小さなカテドラルがあります。
中世には宮殿の壁が城壁になったのがよくわかります。
様々な建築様式も楽しいですが、A.D.3世紀から現代までのときが全て凝縮しているこの中を歩くこと、そしてお買い物をすることがとても楽しいのです。
でも疲れたら、そこいらのカフェで一杯というのもいいですが、春から初夏に行くなら、ジェラートがお勧めです。
私のお気に入りはピスタチオとレモンです。
もちろんダブルも大丈夫です。
- アドリア海の女王、ドブロブニク
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エリア:
- ヨーロッパ>クロアチア>ドブロブニク
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/01/15 13:59
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近年、ヨーロッパで人気の出てきたクロアチアツアー。
クロアチアでは美しい歴史ある街や食材、その歴史と文化に出会えます。
そんなクロアチアでヨーロッパ人観光客の中ではヨーロッパでもっとも美しい絶対にお勧めしたい街、ナンバー1がドブロブニクです。
ドブロブニクは中継貿易として栄え、発展し、共和国としての平和で豊かな国家を謳歌していました。同じくアドリア海の女王といわれたヴェネツィアと勢力を二分した15-18世紀、ドブロブニク都市国家は最盛期だったと思います。
又、白地に黒ぶちのダルメシアン犬の原産地といわれるダルマチア地方は昔からブラックワインと称される濃い赤ワインの産地としても有名です。フルーティーなワインは魚介類との愛称もよく、アドリア海から降り注ぐ太陽を沢山浴びて成長したワインは、飲みやすくて日本人にも好評です。
アドリア海を走ると、オレンジ色のかわいらしい屋根が連なっているのも見えてきました。宮崎駿アニメの「魔女の宅急便」の舞台といわれているクロアチアの町並みのでも世界遺産に登録されているドブロブニクは、内戦で65パーセントが壊されたといいます。
内戦終了後、市民の協力によりほぼ完全に修復されたという誇り高き世界遺産です。城壁の上からは、ユネスコが寄付した屋根瓦と、昔からの屋根瓦との色の違いが良くわかります。 内戦の傷跡を残しながら、美しい自然美とおいしいワインのクロアチア魅力たっぷりのクロアチアにきっと皆様も魅せられてしまうでしょう。
クロアチアでは美しい歴史ある街や食材、その歴史と文化に出会えます。
そんなクロアチアでヨーロッパ人観光客の中ではヨーロッパでもっとも美しい絶対にお勧めしたい街、ナンバー1がドブロブニクです。
ドブロブニクは中継貿易として栄え、発展し、共和国としての平和で豊かな国家を謳歌していました。同じくアドリア海の女王といわれたヴェネツィアと勢力を二分した15-18世紀、ドブロブニク都市国家は最盛期だったと思います。
又、白地に黒ぶちのダルメシアン犬の原産地といわれるダルマチア地方は昔からブラックワインと称される濃い赤ワインの産地としても有名です。フルーティーなワインは魚介類との愛称もよく、アドリア海から降り注ぐ太陽を沢山浴びて成長したワインは、飲みやすくて日本人にも好評です。
アドリア海を走ると、オレンジ色のかわいらしい屋根が連なっているのも見えてきました。宮崎駿アニメの「魔女の宅急便」の舞台といわれているクロアチアの町並みのでも世界遺産に登録されているドブロブニクは、内戦で65パーセントが壊されたといいます。
内戦終了後、市民の協力によりほぼ完全に修復されたという誇り高き世界遺産です。城壁の上からは、ユネスコが寄付した屋根瓦と、昔からの屋根瓦との色の違いが良くわかります。 内戦の傷跡を残しながら、美しい自然美とおいしいワインのクロアチア魅力たっぷりのクロアチアにきっと皆様も魅せられてしまうでしょう。
- ヒマラヤの間近に迫る〜ネパール〜
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エリア:
- アジア>ネパール>ポカラ
- テーマ:観光地 ハイキング・登山 自然・植物
- 投稿日:2011/01/05 21:05
- コメント(0)
ネパールと聞いて何をイメージされますか。
「ヒマラヤの山々」と答える方が多いのではないかと思います。それもそのはず。世界には8000m級の山が14座ありますが、そのうちの、なんと8座がネパールにあり、まさにヒマラヤの国と言えるのです。
ヒマラヤといえば、今はやりの山ガールというわけではございませんが、登山を楽しむイメージが強いです。しかしながら実は山々をうんと近くで見ることが出来る遊覧飛行にトライしてきました。
遊覧飛行では、ホテルのお庭から、ハイキングで歩いている最中、下から見上げていたヒマラヤの山並みを目の高さ、もしくは眼下に臨む事が出来、スケールの大きな山並をたっぷりと楽しむことが出来ました。
アンナプルナの遊覧飛行は、ヒマラヤの懐の街ポカラから早朝に出発します。
薄暗い曇り空のため、天候が整うまでの間、空港にてしばし待機。この待ち時間の間、雲が晴れて山が見えるかどうか期待と不安で胸が高まりました。
いよいよ飛行機に乗り込み、いざ出発。プロペラは大きな音を立てて回り始め、その振動が体中に伝わると同時に高鳴る胸の鼓動が耳に聞こえるような気がしました。
飛行機が滑走路から飛び立ちポカラの大空へ!
----幾つかの雲を越えると、そこにはスカイブルーの空が広がっていました。ポカラの街が小さくなるにつれ、朝日に赤く照らされて輝くヒマラヤ山脈の頂が、どんどんと近付いてきます。
窓の外をのぞくと目の高さに、ダウラギリ(8167m)が。サンスクリット語で白い山という意味だそうですが、その名にふさわしい姿でした。
飛行機の窓には次々と白き山々の頂きが現れます。アンナプルナ?(8091m)や、魚の尻尾のような形をしているマチャプチャレ(6997m)、日本人によって初登頂されたマナスル(8156m)などの峰々を眼下に、そして間近に見ながら飛行機は進みます。
遊覧飛行の間、今回は順番に前方の窓を覗かせてもらうことが出来ました。フロントガラスからの視界は横の窓からとはまた違う光景が目の前に広がります。青い空と白い雪を湛えたヒマラヤの鮮やかなコントラスト。どこまでも続くその様は、確かに神々が座するといわれてもおかしくはありません。
約40分のフライトはあっという間に過ぎていき、我々はポカラへと降りていきました。後ろを振り返って見上げるとそこにあるヒマラヤの山々。ついさっきまであの近くを飛んでいたのに、いまやあんなに遠くに美しい姿で静かに座しているのが不思議で、そして離れるのが名残惜しい気持ちになりました。
お天気や場所、時間によって様々な表情を見せるヒマラヤ。何度見ても見飽きることのない壮大な光景は、フレームに収めるには大きすぎてしまうのです。神々の座す山はこの地に、世界中の人々を惹き付けてやまないかぐわしい花のようです。
神々の座する国ネパール。2月が近づくとネパールへ行きたくなります。
「ヒマラヤの山々」と答える方が多いのではないかと思います。それもそのはず。世界には8000m級の山が14座ありますが、そのうちの、なんと8座がネパールにあり、まさにヒマラヤの国と言えるのです。
ヒマラヤといえば、今はやりの山ガールというわけではございませんが、登山を楽しむイメージが強いです。しかしながら実は山々をうんと近くで見ることが出来る遊覧飛行にトライしてきました。
遊覧飛行では、ホテルのお庭から、ハイキングで歩いている最中、下から見上げていたヒマラヤの山並みを目の高さ、もしくは眼下に臨む事が出来、スケールの大きな山並をたっぷりと楽しむことが出来ました。
アンナプルナの遊覧飛行は、ヒマラヤの懐の街ポカラから早朝に出発します。
薄暗い曇り空のため、天候が整うまでの間、空港にてしばし待機。この待ち時間の間、雲が晴れて山が見えるかどうか期待と不安で胸が高まりました。
いよいよ飛行機に乗り込み、いざ出発。プロペラは大きな音を立てて回り始め、その振動が体中に伝わると同時に高鳴る胸の鼓動が耳に聞こえるような気がしました。
飛行機が滑走路から飛び立ちポカラの大空へ!
----幾つかの雲を越えると、そこにはスカイブルーの空が広がっていました。ポカラの街が小さくなるにつれ、朝日に赤く照らされて輝くヒマラヤ山脈の頂が、どんどんと近付いてきます。
窓の外をのぞくと目の高さに、ダウラギリ(8167m)が。サンスクリット語で白い山という意味だそうですが、その名にふさわしい姿でした。
飛行機の窓には次々と白き山々の頂きが現れます。アンナプルナ?(8091m)や、魚の尻尾のような形をしているマチャプチャレ(6997m)、日本人によって初登頂されたマナスル(8156m)などの峰々を眼下に、そして間近に見ながら飛行機は進みます。
遊覧飛行の間、今回は順番に前方の窓を覗かせてもらうことが出来ました。フロントガラスからの視界は横の窓からとはまた違う光景が目の前に広がります。青い空と白い雪を湛えたヒマラヤの鮮やかなコントラスト。どこまでも続くその様は、確かに神々が座するといわれてもおかしくはありません。
約40分のフライトはあっという間に過ぎていき、我々はポカラへと降りていきました。後ろを振り返って見上げるとそこにあるヒマラヤの山々。ついさっきまであの近くを飛んでいたのに、いまやあんなに遠くに美しい姿で静かに座しているのが不思議で、そして離れるのが名残惜しい気持ちになりました。
お天気や場所、時間によって様々な表情を見せるヒマラヤ。何度見ても見飽きることのない壮大な光景は、フレームに収めるには大きすぎてしまうのです。神々の座す山はこの地に、世界中の人々を惹き付けてやまないかぐわしい花のようです。
神々の座する国ネパール。2月が近づくとネパールへ行きたくなります。
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