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- あま〜いスイーツが止まらない!カフェ巡りinチェコ&オーストリア
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エリア:
- ヨーロッパ>オーストリア>ウィーン
- ヨーロッパ>チェコ>プラハ
- ヨーロッパ>チェコ>テルチ
- テーマ:世界遺産 グルメ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2016/06/23 16:25
お酒に強くない私はビールを飲めるよう練習していました。なぜなら最初の訪問国はビールの国チェコ。ビールが安くておいしいと聞いたので。そしてスイーツが甘くて美味しいところでもあるので、カフェ巡りがとても楽しみで、もちろん観光もするのですが、とにかくKLMオランダ航空でプラハへ。夕方に到着し、空港内にカウンターがあるエアポートタクシーを使って市内のホテルへ。観光地で客待ちしているタクシーはぼったくられる事も多いようですが、このエアポートタクシーなら安心です。空港から市内はだいたい30分くらいで600CK前後です。
プラハでの主な観光地はほとんど徒歩でまわれますが、ホテルから中心部や、プラハ城など、ちょっと距離がある時にはトラム、メトロが便利です。どこも中世ヨーロッパのような街並みがとても綺麗です。
プラハ城はお昼前後には観光客でごった返す為、朝一の観光がおすすめです。門をくぐると目の前いっぱいに広がる聖ヴィート大聖堂や、赤と白のかわいらしい外観で中に入ると雰囲気満点の聖イジー教会、カラフルな小人のお家が並んでいるような黄金小路などなど、あちこちゆっくりとまわりたいものです。黄金小路のお家に入っているお土産屋さんをみてまわるのも楽しく、フランツ・カフカの仕事場だったお家もあります。
(水色のお家がカフカの仕事場)
プラハ城から城下町へ下り、カレル橋を渡ると旧市街です。カレル橋には30もの聖人像が並び、お土産屋さんや似顔絵職人、ストリートパフォーマーに、観光客が入りまじって大賑わいです。日本人には馴染み深いザビエルの像もいます。みんなさわっていくこの聖ヤン・ネポムツキー像。この台座のレリーフに触れると幸運が訪れるのだとか。
カレル橋を渡って旧市街側にやってきたら、今夜のマリオネット劇のチケットを買っておきます。国立マリオネット劇場のHPでは上演日と演目を確認でき、オンラインで予約も可能です。チケットは開演直前でも買える場合が多いようですが、念の為、日中に入手しておきました。
その後、プラハの中心である旧市街広場へ。ここでヤン・フス像やティーン教会ととも並び、プラハ観光の目玉となっているのが旧市庁舎の天文時計です。旧市庁舎は増改築を繰り返して現在の形に至るため、複数の建物が連なって一つになっています。その旧市庁舎の南側にあるのが有名な天文時計です。天動説に基づく2つの時計が並び、年月日と時間を表すプラネタリウムと1日1目盛り動くカレンダリウムになっています。朝9時から夜9時の毎正時になると時計の仕掛けが動いて、キリストの12使徒があらわれます。これを見るために観光客が山のように集まり、スリも多いため要注意です。
北に移動して、ユダヤ人地区にはシナゴーグがいくつも残っています。現在のユダヤ人地区は19世紀後半に整備されていて、それ以前は迷路のような複雑な町並みだったそうです。
夜になったら、さっきチケットを買っておいたマリオネット劇を観にいきます。せっかくチェコを訪れるなら、伝統芸能であるマリオネット劇を一度は観てみたい。プラハでは、由緒ある国立マリオネット劇場や王の道のマリオネット劇場をはじめ、あちこちで上演されています。国立マリオネット劇場では、伝統的なマリオネット人形達が巧みな技術で操られ、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を現代風アレンジで面白おかしく熱演してくれます。
女たらしのドン・ジョヴァンニが数々の女性に言い寄り、最後は罰があたって石像に地獄に連れて行かれてしまうというお話。ダメ男のジョヴァンニに、なんだかんだついていってしまう従者レポレッロや、女性たちとの修羅場など、事前に演目の内容を予習しておくと、さらに楽しめます。幕間にはモーツァルトのマリオネットも登場し、激しいアクションで観客の笑いを誘ったり、ドン・ジョヴァンニがお風呂に入る場面では、客席に水しぶきが飛んできたりと笑いどころ満載です。
国立マリオネット劇場はこじんまりとしたホールで、ロビーではアイスやジュースを売っています。小さめの映画館みたいな雰囲気で、観光帰りにも気軽に寄れる劇場でした。
☆プラハのおすすめカフェ&スイーツ
○オヴォツニー・シュヴェトゾルOvocny Svetozor
プラハに何店舗かある人気のケーキ屋さん。ケーキの種類が豊富で、ポップなお店。イートインもテイクアウトも可能。
○Apetit
赤い外観に、螺旋階段やシャンデリアがかわいい雰囲気の良いカフェ。ケーキ、お菓子やフレビチキと呼ばれるチェコのオープンサンド、ビールもあり、価格も良心的。地元民の利用客も多い。トラムDlouha trida駅のすぐ向かいにある。このメドヴニークはハチミツのスポンジケーキにキャラメルソースを挟んだチェコの伝統的なケーキ。懐かしい感じのほのかな甘みがたまらない。
○あちこちで売っているトゥルデルニーク
小麦粉の生地を筒状に巻いて炭火で焼き、表面に砂糖やシナモンをまぶした伝統的なお菓子。中にチョコレートを塗ったり、アイスクリームをいれたりと色々なトッピングをしてくれるお店も。食べ歩きに大人気のおやつ。
チェスキークロムロフに向かう途中で世界遺産の町テルチへ。町の中心となるザハリアーシュ広場には、ルネッサンス様式、初期バロック様式のカラフルな家々がずらりと並び、まさにおとぎ話の1ページのような眺め。
「モラヴィアの真珠」と言われるこの可愛らしい町でメルヘンな気分に浸ったら、本日の宿があるチェスキークロムロフへ。プラハ〜テルチ、テルチ〜チェスキークロムロフは車で各2時間くらいです。
メルヘンの次はファンタジーの世界にやってきました。石畳みの細い路地が入り組む旧市街は、赤い屋根の間から独特な塔が延び、ヴルタヴァ川が流れています。美しい街並みに、だまし絵のようなスグラフィット装飾が面白く、地図も持たずに歩き回るだけでも楽しめます。
(街のシンボル、チェスキークロムロフ城の塔)
チェスキークロム城にもスグラフィット装飾があちこちに見られます。
こんな壁も近くでよく見ると…
レンガ造りや、彫刻が施されているように描かれているんです。
城内はツアーで見学し、残念ながら撮影禁止ですが、カラフルな城の塔にも登ることができます。ここからの景色は絶景!
お城には広大な庭園があり、花の時期にはまだ早いようですが、不思議の国のアリスに出てくるような生け垣の迷路もあって、とても素敵なお庭です。
(町でかっこいい魔女を発見!)
(フチ子みたいな彼ら)
チェコでの3日間、各地でビールを頂きましたが、個人的に1番美味しかったのがチェスキークロムロフのエッゲンベルグビール。醸造所の直営レストランがあり、魚料理もおいしい!醸造所は見学もできるそうです。
その後、車でオーストリアとの国境を越え、リンツ駅まで約1時間半。国境は看板がちらっと出ているだけでした。リンツから列車でハルシュタットを目指します。が、駅の電光掲示板でスケジュールを確認するも、乗る予定の列車が無いような、何かおかしい。駅員さんに確認すると、途中の区間が運休で、その区間だけ代わりにバスが出てるんだとか。アットナング・プッハイムからグムンデンまではバスに乗り換えとなりましたが、駅の目の前にバスが停まっていて、係員さんも案内してくれ、車掌さん含む乗客みんながそのバスに乗り換えるようだったので、難なく済みました。ザルツカンマーグートと呼ばれる地方に入り、車窓から次々に見えてくる2000m級の山々と湖の大自然の景色に目を奪われます。ハルシュタットの小さな駅で下車すると、駅の出口は船着場とつながっています。ハルシュタットの町は駅とは反対岸にある為、渡し船を使います。向こう岸まではたった10分足らずですが、湖の上から大自然の山々やハルシュタットの町を堪能できる貴重な時間でした。
ザルツカンマーグートとは「塩の宝庫」という意味で、ハルシュタットにも世界最古の塩坑があります。しかも今でも操業していて、ケーブルカーで山を登って見学できます。ケーブルカーは15分毎に出ていますが、ツアーは全部で3時間近くかかります。その途中には世界遺産展望橋があり、ちょこんと飛び出した三角形の展望スペースからはハルシュタット湖の美しい景色を見渡すことができます。こんなに高い所から下を覗き込んでも、怖くないのは今までの海外研修の賜物に違いありません。
また、小さなハルシュタットの町では墓地も狭く、古い遺骨を取り出して、新しい遺体を埋めていました。その遺骨を納めていたバインハウスには、1000もの頭蓋骨があるそうで、楽しみにしていたのですが、なんとクローズしていました。。。
湖畔の町なのでここもお魚が美味しいです。
(マスのフィレ)
ハルシュタット滞在中はだいぶ天候が荒れましたが、ちょこちょこ覗く晴れ間を頼りになんとか観光できました。
次は列車でザルツブルクへ向かいます。ハルシュタットでは帰りの駅への渡し船も列車にあわせて出ています。そしてザルツブルク行きの列車も、行きと同様に途中の区間はバスに乗り換え、ハルシュタットから約2時間半でザルツブルクへ。駅前のバスターミナルから町の中心部へオーブスと言うトロリーバスに乗ります。ミラベル広場までは10分ほど。
ザルツブルクはモーツァルト生誕の地であり、この近辺は映画『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台としても有名です。ザルツブルクには、モーツァルトの生家やその後移り住んだ住居があり、モーツァルト像や、彼をモチーフにしたお土産はもちろん、ザルツブルク音楽祭などではモーツァルトの楽曲が演奏されます。モーツァルトの生家では、モーツァルトが幼い頃に使っていたバイオリンや、『魔笛』を作曲したクラヴィコード(鍵盤楽器)などが展示されています。プラハで観たマリオネット劇のドン・ジョヴァンニもモーツァルトのオペラでした。250年以上も前にここで生まれ、今なお演奏され続ける楽曲を残したモーツァルトがここで過ごしたことを思うと、尊敬を超えて不思議な気持ちというか、むしろ馴染み深くなれたような気がしてきて少し嬉しくなります。
(サウンド・オブ・ミュージック『ドレミの歌』の舞台、ミラベル宮殿)
(モーツァルトグッズ色々)
☆ザルツブルグのおすすめカフェ&スイーツ
○トマセッリ
モーツァルトやカラヤンも通ったという歴史あるカフェ。ウェイトレスさんがケーキをトレーに並べて持ってきてくれます。ケーキを選ぶのが楽しすぎて、その場面を撮り忘れました。
ザルツブルクからさらに列車で2時間半、ウィーンにやって来ました。市内を縦横無尽に走る地下鉄Uバーンや路面電車、バスを使ってシェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿、シュテファン寺院など観光名所をまわります。
(ベルヴェデーレ宮殿)
(シェーンブルン宮殿)
そして今回行ってきたのがホイリゲ酒場。ホイリゲとはその年の新しいワインのことで、ホイリゲが飲める酒場も指す言葉。できたてのホイリゲが飲める庶民的なホイリゲ酒場は、ウィーン近くのグリンツィングの町に特に多くあります。ウィーンのリンク上のショッテントーア駅から38番の路面電車で終点グリンツィング駅まで30分ほどで行くことができました。
(ショッテントーア駅の路面電車乗り場)
ホイリゲは毎年11月11日の聖マルティンの日に解禁され、ハムやチーズなどの冷たいおつまみやローストチキン、時にはアコーディオンなどの生演奏と一緒に楽しむことができます。観光終わりに、ワイン好きなら是非訪れてみて欲しいところです。
そしてその観光の合間に、ウィーンのスイーツを求めてカフェを巡りました。もはや観光しているのか、カフェ巡りをしているのかわからないくらい。ウィーンにはバリエーション豊かなコーヒーとともに、カフェが驚くほどたくさんあります。休憩はもちろん、食事するにもよし、伝統の味を求めるもよし。ウィーンでポピュラーなコーヒーは、温めたミルクとコーヒーが半分ずつ入ったメランジュです。コーヒーとウィーンの絶品スイーツを注文して、おしゃれなカフェで過ごすひと時はとても贅沢です。
☆ウィーンのおすすめカフェ&スイーツ
○ザッハー
ザッハートルテで有名な、老舗ホテル・ザッハー内のカフェ。真紅に金色がポイントのイメージカラーの内装で、メニューはおしゃれな新聞風。格調高いホテルの雰囲気を持ち合わせているが、観光客が多く、行列ができていることも多々。ザッハーのザッハートルテにはあんずのマーマレードがたっぷり入っている。ザッハーは日本に出店していないが、お土産用のザッハートルテも販売されていて、賞味期限も長めなので、これで日本でもザッハーのザッハートルテを味わえる。
○デメル
カフェザッハーと「オリジナル」・ザッハートルテの名を奪い合ったカフェ。こちらも老舗で皇室御用達の看板を掲げ、皇妃エリザベートの好物はここのスミレの砂糖菓子だそうだ。デメルは洋菓子一筋のお店なのでケーキやお土産のお菓子の種類も豊富で、日本でもデパートに入っていたりする。デメルのザッハートルテはザッハーのものよりさっぱりしていて、どちらかというと日本人向き。甘いもの好きな私はザッハーの方も好きだけれど。夏は店頭でアイスクリームも売っている。この時4月中旬は既にアイス始まっていました。
○インペリアル
最高級ランクのインペリアルホテル内のカフェ。まさに御褒美として訪れるのにぴったり。皇帝に献上したインペリアルトルテは、チョコレートとマジパン、アーモンドも入って、何層にもなっている。小ぶりでもずっしりと重量感があり美味しい。インペリアルトルテはオリジナルの他に2種類あり、モーツァルト生誕250周年記念に作られたピスタチオ入りのモーツァルトエディションと、オレンジのマジパンとダークチョコレートのブラックオレンジ。
○ゲルストナー
皇妃エリザベートの好きなスミレの砂糖菓子を指すゲルストナーを店名に持つカフェ。皇室御用達で、国立オペラ座や楽友協会にもケータリングしている。美術史博物館内や、他にも何店舗かある。ケルントナー通りの店舗ではショーケースからマカロンが誘惑してきた。
○モーツァルト
映画『第三の男』の脚本が書かれ、映画内にも登場して有名なカフェ。チョコレートとピスタチオのモーツァルトトルテが売り。広いテラス席が気持ち良さそう。ザッハーで食べた直後、同じ区画にあったので、ここでは食べずに写真だけ。
○アイーダ
気軽に立ち寄れるピンク色のチェーン店。一つはシュテファン寺院の近くの角にあり、多くの人がここでアイスクリームを食べたりして休憩している。
○ハヴェルカ
戦後、ウィーンに戻って来た作家や文化人が集ったという伝説的カフェ。店舗はかなり古びているが改装していないので、当時のままになっている。賑やかなグラーベン通りから細い路地に入ったところにあり、恐らくこのカフェの存在を知らなければ気付かないようなお店。
カフェツェントラルをはじめ、行ってみたかったけれど、まわりきれなかったカフェやここに書ききれなかったり、未だ知らないカフェも無数にあります。きっとまた来るような気がするので、その時にまたカフェ巡りしたいです。お酒をのみ、美しい景色と音楽に癒され、大好きなケーキに囲まれて本当に幸せな旅でした。
オススメ度
プラハ・・・★★★★★ 中世ヨーロッパの面影を残す美しい文化の街
テルチ・・・★★★★ かわいらしいおとぎ話の世界。観光客がいない時が最高。
チェスキークロムロフ・・・★★★★★ 町中にだまし絵があって、どこも絵になる景色
ハルシュタット・・・★★★★ 雨の日も幻想的な湖畔の町
ザルツブルグ・・・★★★★★ モーツァルトの故郷であり、見所もたくさん!
ウィーン・・・★★★★★ カフェ天国。スイーツ好きにはたまらない街。
(2016年4月 増田里紗)
- 見どころ満載、そして奥が深い、イタリア北部紀行9日間
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>ミラノ
- ヨーロッパ>イタリア>ベネチア
- ヨーロッパ>イタリア>ジェノヴァ
- テーマ:世界遺産 グルメ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2016/06/23 16:21
今回の研修先はイタリア。ミラノ・ベネチアの大都市と地方のジェノバ、ボローニャ、ラヴェンナ、サンマリノを訪れイタリアの奥深さを知り、パルマハムで有名なオーベルジュで食を堪能してまいりました。
まず降り立ったミラノは三大ファッションショーが行われる最先端の街ですが同時に何百年もの歴史ある建築物が息づいている街でもあります。ミラノでのメインイベントは「最後の晩餐」鑑賞。予約も取れとても楽しみにしていたのですが・・・「最後の晩餐」があるサンタマリア・デッレ・グラツィエ教会に到着すると何と当日は職員によるストライキで休館に!しばし茫然とし、その場を動けませんでした(泣)。
実はパリでも事情がありルーブル美術館に行けず「モナリザ」を見られずにいたので、レオナルド・ダ・ヴィンチに縁がないのかも・・・。
サンタマリア・デッレ・グラツィエ教会自体も歴史あるルネサンス様式の教会で着工から完成まで約200年かかっています。この建物を含めて世界遺産なので、今回は教会をじっくり見学しました。
そしてミラノ中心部へ戻りゴシック建築の大傑作ドゥオーモへ。私はイタリアが舞台の小説「冷静と情熱のあいだに」が好きなのですが、そこに『世界一美しいドゥオーモ』と記されている言葉のとおり、その美しさは圧巻です。14世紀後半から約500年の年月をかけて完成したということは、今でいうスペインのサグラダ・ファミリアのような状況だったのですね。
屋上テラスへはエレベーターか階段で登ることができます(方法により料金が異なる)が、屋上まで緻密に施された彫刻は、その数トータルで2245体。想像しただけで気が遠くなるような作業です。
ドゥオーモの隣にある王宮内にある博物館ではその彫刻のオリジナルや模型などが展示されていて、その緻密さをより間近に見ることができます。
他にもガレリアや中世の貴族の屋敷など歴史的な建築物がドゥオーモ周辺に集中していて歩くだけで楽しく、中には美術館になっている建物もあるのですが外観を見るだけで精いっぱいでした。
ガレリア
レオナルド・ダ・ヴィンチ広場
スフォルツァ城
中世の建物数々
コロンブスとマルコのふるさとジェノバ
ジェノバと聞いて思い出すのは「母をたずねて三千里」。主人公マルコがお母さんのいるアルゼンチンへ旅立った地です。港町というイメージしか持っていなかった私は豪奢な邸宅群に驚きを隠せませんでした。
中世には海洋貿易で栄えたジェノバはベネチアと覇権を争うほどで、その華麗なる栄光は現在でも「la Superba(誇り高い都)」と呼ばれます。そして繁栄の時代コロンブスもこの港から旅立ちました。
ジェノバ・プリンチペ駅前のバルビ通りは狭い道幅の両側に高い建物が並び薄暗い雰囲気で少し怖いような気もしたのですが、この通りは1.5kmにわたるストラーデ・ヌオーヴェと呼ばれる邸宅群の一部なのです。
そのストラーデ・ヌオーヴェの中でも特にガリバルディ通りは必見。ミラノとはまた違い豪華かつ重厚という感じも受けました。
個人的に好きなのは地下鉄サンジョルジョ駅からフェッラーリ広場周辺です。こちらは教会や官公庁街ですが邸宅群にも負けず劣らずの立派さです。
そして遺跡好きの目に留まったのはソプラーナ門。ここは中世ジェノバの入り口でした。その麓にはコロンブスの生家が復元されています。
そのコロンブスや航海の歴史はポルトアンティコ(古い港)と呼ばれる港エリアにある海の上の博物館でみることができます。ちょうど行きの飛行機で「白鯨との戦い」という映画を見たばかりだったのでイメージはわきやすかったのですが(その映画は19世紀が舞台なので時代が違いますが)、とてつもない気力が必要で当時の人々の国外に向ける思いに頭が下がります。
ポルトアンティコは他に潜水艦や水族館、観光ガレー船など海に関する開発が進む注目のエリアです。マーケットが開かれたり、ベンチでゆっくりしたり、観光客はもちろん地元の人たちの憩いの場となっています。今回このジェノバの天気が今一つで、この風景を青空の下で見るとまた格別だろうと思いつつ、この町をあとにしました。
もう一つの海洋国家、ベネチア
中世時代ジェノバと合わせて海洋国家として栄えたベネチアはジェノバとはまた違った趣で「水の都」「アドリア海の真珠」という言葉どおりの優雅さ。路地を曲がったり、運河にかかる橋を渡るたびにテレビなどで見た光景が次々に現れ、自分の目で見ていることが信じられないくらいでした。着いた時には曇っていた空が、お昼頃には「オ〜、ソレミオ〜(私の太陽)」と歌いたいくらいくらいの快晴となり(ちなみにこれはナポリ民謡らしいのですが、なぜかベネチアのイメージ)、気分はますます盛り上がります。天気がいいというだけで得した気分。
曇りの場合
晴れの場合
本島をかなり歩き回り「ここはどこ?」状態になったりしたのですが、ガイドブックには載っていない、いろいろな発見もまた楽しいひと時です。運河を渡す洗濯物でさえ絵になります。
島内の大運河を移動するヴァポレットにも乗ってみました。運河上から見る景色もまた格別です。
「一度訪れたものにはまた何度でも来たいと思わせる」の言葉のとおり、また訪れてゆっくり夢の世界に浸りたいと思ったのでした。
ボローニャ・ラヴェンナ・サンマリノにも立ち寄り
ボローニャも中世の古都で、豪華ではないですが、ルネサンス、バロック時代の趣が感じられる、他の町と名また違った雰囲気があります。ボローニャの斜塔と呼ばれる塔に上ると景色がよいということだったので頑張って上ってきました。
「降りてくる人がいたら踊り場で待ってください」と注意を受けるくらい狭い階段を498段上ると赤とオレンジのまさに中世という光景が目の前に広がりました。
ラヴェンナはモザイクの宝庫。5〜6世紀のビザンチン時代のもっとも完成されたモザイク画として有名で、モザイク画と言えばラヴェンナというくらい重要な町なのです。これが全部モザイク!?というくらい綿密に描かれ、見応えは十分。かのダンテはこの地で「神曲」を書き上げ、モザイクの美しさを称賛しています。
ラヴェンナ郊外のクラッセ聖堂は羊がモチーフ(?)
サンマリノは世界で5番目に小さな国(面積は山手線の内側と同じ)で、最古の共和国でもあり、標高750mのティターノ山頂にある旧市街は城砦をはじめとする全ての歴史的建造物が当時のまま残されています。
そしてサンマリノは税金が高いヨーロッパにあって消費税がないので買い物もおすすめ。当時の建物にお土産屋やレストランが軒を連ねています。またツーリストインフォメーションでは5ユーロで入国記念のビザをスタンプしてくれます。
アグリツーリズモを提唱する素敵なオーベルジュで食を堪能
イタリアの楽しみといえば食も外せません。今回はパルマ郊外の素敵なオーベルジュに宿泊しました。アンティカコルテ・パラヴィチーナは、ミシュラン1つ星を獲得したレストランを持ち、その料理に使用する食材は野菜、お肉(鶏、豚、牛)は、パスタに使う小麦粉、バターなどなど、ほぼ自家製なのです。特に生ハムはこのオーベルジュへ世界中から注文が入るほどで地下の倉庫には熟成中のハムたちがその時を待っています。
今回クッキングレッスンでパスタを習うことができました。シェフから習えるということもすごいのですが新鮮な食材を目の前で見ることができ、一緒に成形までさせてもらえるのでかなりお勧めのアクティビティです。
できたてパスタはその場で調理し試食タイム。もちろん絶品、「ボーノ」です。
ディナーでは有名な生ハムをもちろんいただきました。口の中でとろけます。本当においしい、幸せ。
スタッフもホスピタリティにあふれ居心地がよく、今度はプライベートでまた来たいと思える素敵なオーベルジュを是非体験してみてください。
イタリアは初めてで入門編というところですが、まだまだ見たいところはたくさん。
「ボンジョルノ〜」と言えば温かく迎えてくれる人々にまた会いに行きたい気持ちになる旅でした。
お勧め度
ミラノ・ベネチア ★★★★★ まさにイタリア!町自体が芸術品
ボローニャ・ラヴェンナ・サンマリノ ★★★★ 時間があれば是非お勧めしたい
ジェノバ ★★★★ 豪華な邸宅群は必見
生ハム ★★★★★ 絶品です
(2016年4月 平田真美)
まず降り立ったミラノは三大ファッションショーが行われる最先端の街ですが同時に何百年もの歴史ある建築物が息づいている街でもあります。ミラノでのメインイベントは「最後の晩餐」鑑賞。予約も取れとても楽しみにしていたのですが・・・「最後の晩餐」があるサンタマリア・デッレ・グラツィエ教会に到着すると何と当日は職員によるストライキで休館に!しばし茫然とし、その場を動けませんでした(泣)。
最後の晩餐の入り口は左側の扉
ストライキの案内
実はパリでも事情がありルーブル美術館に行けず「モナリザ」を見られずにいたので、レオナルド・ダ・ヴィンチに縁がないのかも・・・。
サンタマリア・デッレ・グラツィエ教会自体も歴史あるルネサンス様式の教会で着工から完成まで約200年かかっています。この建物を含めて世界遺産なので、今回は教会をじっくり見学しました。
そしてミラノ中心部へ戻りゴシック建築の大傑作ドゥオーモへ。私はイタリアが舞台の小説「冷静と情熱のあいだに」が好きなのですが、そこに『世界一美しいドゥオーモ』と記されている言葉のとおり、その美しさは圧巻です。14世紀後半から約500年の年月をかけて完成したということは、今でいうスペインのサグラダ・ファミリアのような状況だったのですね。
朝は人もまばら
屋上テラスへはエレベーターか階段で登ることができます(方法により料金が異なる)が、屋上まで緻密に施された彫刻は、その数トータルで2245体。想像しただけで気が遠くなるような作業です。
昼近くになるとこの人出
ドゥオーモの隣にある王宮内にある博物館ではその彫刻のオリジナルや模型などが展示されていて、その緻密さをより間近に見ることができます。
他にもガレリアや中世の貴族の屋敷など歴史的な建築物がドゥオーモ周辺に集中していて歩くだけで楽しく、中には美術館になっている建物もあるのですが外観を見るだけで精いっぱいでした。
ガレリア
レオナルド・ダ・ヴィンチ広場
スフォルツァ城
中世の建物数々
コロンブスとマルコのふるさとジェノバ
ジェノバと聞いて思い出すのは「母をたずねて三千里」。主人公マルコがお母さんのいるアルゼンチンへ旅立った地です。港町というイメージしか持っていなかった私は豪奢な邸宅群に驚きを隠せませんでした。
中世には海洋貿易で栄えたジェノバはベネチアと覇権を争うほどで、その華麗なる栄光は現在でも「la Superba(誇り高い都)」と呼ばれます。そして繁栄の時代コロンブスもこの港から旅立ちました。
ジェノバ・プリンチペ駅前のバルビ通りは狭い道幅の両側に高い建物が並び薄暗い雰囲気で少し怖いような気もしたのですが、この通りは1.5kmにわたるストラーデ・ヌオーヴェと呼ばれる邸宅群の一部なのです。
そのストラーデ・ヌオーヴェの中でも特にガリバルディ通りは必見。ミラノとはまた違い豪華かつ重厚という感じも受けました。
個人的に好きなのは地下鉄サンジョルジョ駅からフェッラーリ広場周辺です。こちらは教会や官公庁街ですが邸宅群にも負けず劣らずの立派さです。
そして遺跡好きの目に留まったのはソプラーナ門。ここは中世ジェノバの入り口でした。その麓にはコロンブスの生家が復元されています。
そのコロンブスや航海の歴史はポルトアンティコ(古い港)と呼ばれる港エリアにある海の上の博物館でみることができます。ちょうど行きの飛行機で「白鯨との戦い」という映画を見たばかりだったのでイメージはわきやすかったのですが(その映画は19世紀が舞台なので時代が違いますが)、とてつもない気力が必要で当時の人々の国外に向ける思いに頭が下がります。
ポルトアンティコは他に潜水艦や水族館、観光ガレー船など海に関する開発が進む注目のエリアです。マーケットが開かれたり、ベンチでゆっくりしたり、観光客はもちろん地元の人たちの憩いの場となっています。今回このジェノバの天気が今一つで、この風景を青空の下で見るとまた格別だろうと思いつつ、この町をあとにしました。
もう一つの海洋国家、ベネチア
中世時代ジェノバと合わせて海洋国家として栄えたベネチアはジェノバとはまた違った趣で「水の都」「アドリア海の真珠」という言葉どおりの優雅さ。路地を曲がったり、運河にかかる橋を渡るたびにテレビなどで見た光景が次々に現れ、自分の目で見ていることが信じられないくらいでした。着いた時には曇っていた空が、お昼頃には「オ〜、ソレミオ〜(私の太陽)」と歌いたいくらいくらいの快晴となり(ちなみにこれはナポリ民謡らしいのですが、なぜかベネチアのイメージ)、気分はますます盛り上がります。天気がいいというだけで得した気分。
曇りの場合
晴れの場合
本島をかなり歩き回り「ここはどこ?」状態になったりしたのですが、ガイドブックには載っていない、いろいろな発見もまた楽しいひと時です。運河を渡す洗濯物でさえ絵になります。
島内の大運河を移動するヴァポレットにも乗ってみました。運河上から見る景色もまた格別です。
「一度訪れたものにはまた何度でも来たいと思わせる」の言葉のとおり、また訪れてゆっくり夢の世界に浸りたいと思ったのでした。
ボローニャ・ラヴェンナ・サンマリノにも立ち寄り
ボローニャも中世の古都で、豪華ではないですが、ルネサンス、バロック時代の趣が感じられる、他の町と名また違った雰囲気があります。ボローニャの斜塔と呼ばれる塔に上ると景色がよいということだったので頑張って上ってきました。
「降りてくる人がいたら踊り場で待ってください」と注意を受けるくらい狭い階段を498段上ると赤とオレンジのまさに中世という光景が目の前に広がりました。
ラヴェンナはモザイクの宝庫。5〜6世紀のビザンチン時代のもっとも完成されたモザイク画として有名で、モザイク画と言えばラヴェンナというくらい重要な町なのです。これが全部モザイク!?というくらい綿密に描かれ、見応えは十分。かのダンテはこの地で「神曲」を書き上げ、モザイクの美しさを称賛しています。
ラヴェンナ郊外のクラッセ聖堂は羊がモチーフ(?)
サンマリノは世界で5番目に小さな国(面積は山手線の内側と同じ)で、最古の共和国でもあり、標高750mのティターノ山頂にある旧市街は城砦をはじめとする全ての歴史的建造物が当時のまま残されています。
そしてサンマリノは税金が高いヨーロッパにあって消費税がないので買い物もおすすめ。当時の建物にお土産屋やレストランが軒を連ねています。またツーリストインフォメーションでは5ユーロで入国記念のビザをスタンプしてくれます。
アグリツーリズモを提唱する素敵なオーベルジュで食を堪能
イタリアの楽しみといえば食も外せません。今回はパルマ郊外の素敵なオーベルジュに宿泊しました。アンティカコルテ・パラヴィチーナは、ミシュラン1つ星を獲得したレストランを持ち、その料理に使用する食材は野菜、お肉(鶏、豚、牛)は、パスタに使う小麦粉、バターなどなど、ほぼ自家製なのです。特に生ハムはこのオーベルジュへ世界中から注文が入るほどで地下の倉庫には熟成中のハムたちがその時を待っています。
今回クッキングレッスンでパスタを習うことができました。シェフから習えるということもすごいのですが新鮮な食材を目の前で見ることができ、一緒に成形までさせてもらえるのでかなりお勧めのアクティビティです。
できたてパスタはその場で調理し試食タイム。もちろん絶品、「ボーノ」です。
ディナーでは有名な生ハムをもちろんいただきました。口の中でとろけます。本当においしい、幸せ。
スタッフもホスピタリティにあふれ居心地がよく、今度はプライベートでまた来たいと思える素敵なオーベルジュを是非体験してみてください。
イタリアは初めてで入門編というところですが、まだまだ見たいところはたくさん。
「ボンジョルノ〜」と言えば温かく迎えてくれる人々にまた会いに行きたい気持ちになる旅でした。
お勧め度
ミラノ・ベネチア ★★★★★ まさにイタリア!町自体が芸術品
ボローニャ・ラヴェンナ・サンマリノ ★★★★ 時間があれば是非お勧めしたい
ジェノバ ★★★★ 豪華な邸宅群は必見
生ハム ★★★★★ 絶品です
(2016年4月 平田真美)
- 近代史における人間の多面性を垣間見た旅(ポーランド・ドイツ)
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エリア:
- ヨーロッパ>ドイツ>ベルリン
- ヨーロッパ>ポーランド>ワルシャワ
- ヨーロッパ>ポーランド>クラクフ
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2016/06/23 16:16
人間一人の力には限りがあるけれど人々が集団となった場合、その可能性には無限になります。今回は良い意味と悪い意味での人間の持つ無限の力、多様性を垣間見た旅となりました。
〇ポーランド
〜クラクフ・アウシュビッツ(ビルケナウ)〜
今回の研修でまず予備知識として、ナチスドイツとヒトラーを知らなくてはなりません。独裁者でも有名なヒトラーはオーストリアに生まれ第1次世界大戦後から国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)指導者として、アーリア民族を中心に据えた人種主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになりました。1933年には大統領による指名を受けてドイツ国首相となり、就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握しました。この時期のドイツを一般的にナチス・ドイツと呼びます。
ヒトラーは選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種が世界を指導するべき主たる人種と主張、アーリア人の血統を汚すとされた他人種である有色人種(黄色人種・黒色人種)や、ユダヤ系、スラブ系、ロマとドイツ国民の接触を断ち、またドイツ民族であるとされた者でも、性的少数者、退廃芸術、障害者、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者は迫害・断種されました。
ヒトラー率いるナチス党は1939年のポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦を引き起こし、一時的に領土を拡大しました。この戦争の最中でユダヤ人に対するホロコースト、障害者に対するT4作戦などの虐殺政策が推し進められました。
なおホロコーストとは第二次世界大戦中のナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺の事を指します。
今回の研修ではポーランドのクラクフから、アウシュビッツを訪れました。アウシュビッツはナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的なホロコースト および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所です。収容された90%がユダヤ人であった。1979年にはこのような悲劇が2度とおこらぬよう願いを込めて、ユネスコの世界遺産に指定されています。
アウシュビッツは現在博物館となっている第1収容所と2km離れたビルケナウにある第2収容所に分かれており、半日あれば両方見学することができます。博物館には当時アウシュビッツに連行されたユダヤ人のカバンや靴、頭髪などに加え当時の写真も展示されており、大変生々しいが当時の様子を伺うことができます。
特に虐殺を目的とした連行もあり、ポーランドや近隣国から収容されたユダヤ人がアウシュビッツに着くなり、男性と女性・子供に分かられ、女性・子供はすぐにシャワー室を経てガス室に連れられたといわれ、あまりにも負の展示すぎるので言葉も出ません。
見学した第1収容所のガス室はレプリカで、実際に使用されていたガス室は第2収容所であるビルケナウにあるが、ナチスドイツが大量虐殺を隠すため爆薬を用いて破壊をしたため、現在では残骸しか残っていません。
ガス室からは上階の焼却炉へトロッコを利用し死体が運ばれ、そのまま焼却されていたという。また資料としては大変少なかったが、人体実験も多くされ幼い子供たちが実験体にされていました。
ビルケナウの入り口には通称死の門と呼ばれるゲートがあり、多数のユダヤ人や政治犯が列車で連行された。現在残されるのは死の門と線路のみであるが、博物館で見た写真とリンクし当時の風景が思い浮かんでしまいます。
アウシュビッツを巡り、私はふと被害者はともかく加害者であるドイツ軍の一兵までもが、この大虐殺に心から加担していたのだろうか?と思ってしまいました。
その時に思い出した興味深い事件があります。1970年代にアメリカ・スタンフォード大学で行われた実験で、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとした実験で、普通の大学生などの70人から選ばれた被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせるという実験で、その結果時間が経つに連れ看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明されたといいます。
ヒトラー自身は選民思想を持っていたが、その時の将校や一兵卒までもが同じ思想を持っていたとは考えにくく、もちろんトップに就く人間に考えを合わせなければ自分がアウシュビッツに送られてしまう恐怖もあったのではないでしょうか?アウシュビッツの悲劇は一人の狂信者がこのような環境を作り、集団化することで罪悪感が薄れ、虐殺をする者・される者を生んでしまったと信じたいです。
ただ世界では今もまだ戦闘や拷問、奴隷など、過去を教訓としない出来事が多発している。みんな仲良くは難しいかもしれないが、せめて人々が苦しい思いをしないよう願います。
アウシュビッツの観光への拠点に滞在したのがクラクフです。クラクフはかつてポーランド王国の首都であり、第2次世界大戦の破壊を逃れた旧市街は現在も中世の佇まいをそのまま残しており、現在世界遺産にも指定されています。
たまたまクラクフを訪れた日がイースターマンデーという祝日で、どの教会でもミサが行われ天気の良さも相まって、多くの観光客が楽しんでいました。中央広場にある聖マリア教会は1222年に建築されたゴシック様式の重厚な教会で、教会内にある祭壇は国宝にも指定されている。ミサの合間を狙って見学しましたが、この祭壇は今まで見てきた中世教会にある祭壇の中でもナンバー5に入るくらいの素晴らしい彫刻でした。
その他旧市街はヴァヴェル城や、ユダヤ人街のあったカジミエシュ地区、シンドラーのリストにも出てきたシンドラーの工場など見どころがたくさんあります。ぜひ徒歩でゆっくりと中世の雰囲気と近代ポーランドの雰囲気を味わってほしいです。
〜ワルシャワ〜
ポーランドではワルシャワ、グダンスクも訪れました。ワルシャワは第2次世界大戦の折、壊滅的な打撃を受け徹底的に破壊されてしまいました。その後市民は“ひびの1本にいたるまで”忠実に街を復元、世界遺産にも指定されています。
実際ワルシャワの旧市街地を歩くと、その予備知識がなければ第2次世界大戦で破壊されたとは思えないほど、中世の街並み感を出しています。アウシュビッツで負の可能性を見せつけられたが、ワルシャワでは人間が団結した時の良い意味での可能性を見ることができました。旧市街地には旧王宮もあり、王の寝室や王冠の間など、絢爛豪華な部屋が復元されており一見の価値があります。人気で言えば、クラクフを訪れる人が多いと思いが、ワルシャワの旧市街地を見学していただき、ポーランド人の気迫や意地をぜひ感じていただきたいと思います。
〜グダンスク・マルボルク城〜
ポーランドの北部にあるグダンスクは、ポーランドでも最も美しいといわれる街のひとつ。ワルシャワと同じく第2次世界大戦で破壊されてしまったが、現在は復興され、その当時の美しい街並みが取り戻されています。
グダンスクは中世後期に北ドイツを中心にバルト海沿岸地域の貿易を独占し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配した都市同盟であるハンザ同盟都市として繁栄し、旧市街地にはバロックやルネッサンス、バロックなど、その当時に流行りの建築様式で建てられた街並みが大変美しいです。街の中心には聖母マリア教会があり、500段の階段を上ると教会の上からグダンスクの美しい街並みを見ることができます。あいにく天気が悪く、華やかさに少しかけてはいたが十分中世の息遣いを感じることができました。
また半日かけて郊外にある世界遺産マルボルク城も訪れました。1274年に建築されたドイツ騎士団の城で、こちらもやはり第2次世界大戦で大きな被害を受けたが現在は修復され、同時の雰囲気を感じることができます。きらびやかな装飾などは一切なく、実際に使われいた城という雰囲気がとても印象的。夏のシーズンへ向けての改装や工事が行われており、通常入れる部屋に入れなかったりという事があったが、逆に隠し扉のようになっている所もありドラクエなど歴代のゲームをしてきた私には、ちいさいメダルを探すがごとく城の探索ができ大変楽しかったです。ちなみに財宝やアイテムは落ちていなかった。少し残念。
〇ドイツ
〜ベルリン〜
ポーランドは第2次世界大戦中の物語であったが、ドイツ・ベルリンは第2次世界大戦後の物語です。ベルリンといえば何と言ってもベルリンの壁ではないでしょうか?
ベルリンの壁が建築された背景は、第2次世界大戦後に勝利した連合国軍の占領下に入ったことから始まります。ベルリンは資本主義を名目とした西ドイツと、共産主義を名目とした東ドイツに分断され、共産主義を嫌う東ドイツの住民が多く西ドイツに流失したことから、東ドイツを囲う為に作られた壁をベルリンの壁と呼ぶようになりました。
そのことから冷戦の象徴とも呼ばれています。世界情勢の変化に伴い1989年に壁は崩壊しましたが、今もベルリンにはチェックポイントチャーリーと呼ばれる検問ゲート跡が残されており、近くにある博物館も併せてみるとその当時、どのような雰囲気だったかが想像できます。
お上りさんよろしく、私もついつい記念写真を撮ってもらいました。また当時国家秘密警察(ゲシュタポ)と親衛隊(SS)のあった場所は、ナチによって人々が拷問を受けた地下牢などと一緒にベルリンの壁がそのまま残されており見学することができます。ポーランドとは雰囲気がガラッと変わり、ベルリンは最新都市。博物館などを見学して、ベルリンの街を満喫してきました。
〜ポツダム〜
ベルリンから電車で約20分。ベルリンの庭とも呼ばれるポツダムも行ってみました。ポツダムは何といっても教科書に出てくるポツダム宣言が策定されたまさに歴史の場所。見どころは街中心の広大なサンスーシ公園の中にある、いくつかの宮殿です。サンスーシ宮殿は1747年フリードリヒ大王によって建てられた宮殿で、その当時の流行りの様式であるロココ様式で建てらました。宮殿の正面には階段状の温室もあり、絢爛豪華でいかにも王宮といった作りです。暖かい日差しの中公園を歩いていくと、同じくフリードリヒ大王に建てられた新宮殿も見学できます。真向かいにある重厚な建物があり、そちらが新宮殿かと思っていましたが実はポツダム大学でした。ドイツの大学生はこんな立派な建物で授業ができるなんてとてもうらやましいです。今回はクローズしていて入れませんでしたが、絵画館などもあり、1日のんびり見学したい小都市です。
〜B級グルメ・カリーウルスト〜
ベルリンのB級グルメ・カリーウルストも食べてみました。私が食べたお店はカリー36という結構有名なお店のようで、行列までは行かないもののそこそこ並んで購入しました。多めの油で焼き上げされたおいしそうなソーセージに、カレー粉と甘めのケチャップをかけるといういわゆるB級グルメです。オプションでケチャップ+マヨのポテトもつけることができます。味はおいしいです。さすがソーセージの国だけあり、なかなかのお味です。
ただ少し考えました。ただでさえうまいソーセージをこんなにジャンクにして食べる必要があるのかと・・・。
おそらくソーセージを良く食べる人が 確かにおいしいがさすがに飽きてきた→ケチャップをかけてみる→おいしいが一味足りない→さらにカレー粉をかけてみる→やるじゃん!カレーウルスト! といった感じだったのではないでしょうか?でも私個人としてはマスタードをつけザワークラウトと一緒にビールを飲みながら食べるソーセージが一番おいしいと思います。
私は中世文化が好きなのですが、中世の自体にはもちろん写真もないので文献や絵画などがその当時を知る手段となります。今回訪れたポーランドやドイツはまさに近代史の中心。
近代は写真も残されておりよりその当時の状況を知ることができます。その分逆に生々しく思うこともありましたが、すごく考えされられる研修でもありました。そういう意味では中世史も近代史も両方楽しめるポーランドは、見どころ満載ですごくおすすめです。
クラクフ:☆☆☆☆☆ 中世の街並みが綺麗に残りおすすめ。
アウシュビッツ:☆☆☆☆☆ 歴史の事実としてぜひ見学したい。
ワルシャワ:☆☆☆☆ 復興のされ具合が半端ない。
グダンスク:☆☆☆☆ ゲーム好きな方はぜひマルボルク城へ
ベルリン:☆☆☆☆ 近代都市なので食事も博物館も無難に楽しめる
(2016年3月 菅原幸介)
アウシュビッツ “働けば自由になる”
〇ポーランド
〜クラクフ・アウシュビッツ(ビルケナウ)〜
今回の研修でまず予備知識として、ナチスドイツとヒトラーを知らなくてはなりません。独裁者でも有名なヒトラーはオーストリアに生まれ第1次世界大戦後から国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)指導者として、アーリア民族を中心に据えた人種主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになりました。1933年には大統領による指名を受けてドイツ国首相となり、就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握しました。この時期のドイツを一般的にナチス・ドイツと呼びます。
ヒトラーは選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種が世界を指導するべき主たる人種と主張、アーリア人の血統を汚すとされた他人種である有色人種(黄色人種・黒色人種)や、ユダヤ系、スラブ系、ロマとドイツ国民の接触を断ち、またドイツ民族であるとされた者でも、性的少数者、退廃芸術、障害者、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者は迫害・断種されました。
ヒトラー率いるナチス党は1939年のポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦を引き起こし、一時的に領土を拡大しました。この戦争の最中でユダヤ人に対するホロコースト、障害者に対するT4作戦などの虐殺政策が推し進められました。
なおホロコーストとは第二次世界大戦中のナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺の事を指します。
今回の研修ではポーランドのクラクフから、アウシュビッツを訪れました。アウシュビッツはナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的なホロコースト および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所です。収容された90%がユダヤ人であった。1979年にはこのような悲劇が2度とおこらぬよう願いを込めて、ユネスコの世界遺産に指定されています。
アウシュビッツは現在博物館となっている第1収容所と2km離れたビルケナウにある第2収容所に分かれており、半日あれば両方見学することができます。博物館には当時アウシュビッツに連行されたユダヤ人のカバンや靴、頭髪などに加え当時の写真も展示されており、大変生々しいが当時の様子を伺うことができます。
アウシュビッツに連行されたユダヤ人の旅行カバン
当時連行されてきた人たちの写真 死亡年月日も記載されている
当時のアウシュビッツの写真
特に虐殺を目的とした連行もあり、ポーランドや近隣国から収容されたユダヤ人がアウシュビッツに着くなり、男性と女性・子供に分かられ、女性・子供はすぐにシャワー室を経てガス室に連れられたといわれ、あまりにも負の展示すぎるので言葉も出ません。
列車で連行され、降りると男と女・子供に分けられた。
毒ガスの原材料となったチクロンB
銃殺刑場の跡
見学した第1収容所のガス室はレプリカで、実際に使用されていたガス室は第2収容所であるビルケナウにあるが、ナチスドイツが大量虐殺を隠すため爆薬を用いて破壊をしたため、現在では残骸しか残っていません。
ガス室からは上階の焼却炉へトロッコを利用し死体が運ばれ、そのまま焼却されていたという。また資料としては大変少なかったが、人体実験も多くされ幼い子供たちが実験体にされていました。
ガス室のレプリカ 800人収容できたという
焼却炉のレプリカ 死体をトロッコで運んでくる。
ビルケナウにあるナチスが破壊した実際のガス室
ビルケナウの入り口には通称死の門と呼ばれるゲートがあり、多数のユダヤ人や政治犯が列車で連行された。現在残されるのは死の門と線路のみであるが、博物館で見た写真とリンクし当時の風景が思い浮かんでしまいます。
入口の死の門から続く線路。
当時実際に使われた車両
死体が投げ込まれたとされる池
アウシュビッツを巡り、私はふと被害者はともかく加害者であるドイツ軍の一兵までもが、この大虐殺に心から加担していたのだろうか?と思ってしまいました。
その時に思い出した興味深い事件があります。1970年代にアメリカ・スタンフォード大学で行われた実験で、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとした実験で、普通の大学生などの70人から選ばれた被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせるという実験で、その結果時間が経つに連れ看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明されたといいます。
ヒトラー自身は選民思想を持っていたが、その時の将校や一兵卒までもが同じ思想を持っていたとは考えにくく、もちろんトップに就く人間に考えを合わせなければ自分がアウシュビッツに送られてしまう恐怖もあったのではないでしょうか?アウシュビッツの悲劇は一人の狂信者がこのような環境を作り、集団化することで罪悪感が薄れ、虐殺をする者・される者を生んでしまったと信じたいです。
ただ世界では今もまだ戦闘や拷問、奴隷など、過去を教訓としない出来事が多発している。みんな仲良くは難しいかもしれないが、せめて人々が苦しい思いをしないよう願います。
犠牲者の慰霊塔
アウシュビッツの観光への拠点に滞在したのがクラクフです。クラクフはかつてポーランド王国の首都であり、第2次世界大戦の破壊を逃れた旧市街は現在も中世の佇まいをそのまま残しており、現在世界遺産にも指定されています。
中央広場にある聖マリア教会
広場には屋台も並ぶ
ヴァヴェル城
たまたまクラクフを訪れた日がイースターマンデーという祝日で、どの教会でもミサが行われ天気の良さも相まって、多くの観光客が楽しんでいました。中央広場にある聖マリア教会は1222年に建築されたゴシック様式の重厚な教会で、教会内にある祭壇は国宝にも指定されている。ミサの合間を狙って見学しましたが、この祭壇は今まで見てきた中世教会にある祭壇の中でもナンバー5に入るくらいの素晴らしい彫刻でした。
重厚な作りの聖マリア教会
絵画も素晴らしい聖マリア教会
その他旧市街はヴァヴェル城や、ユダヤ人街のあったカジミエシュ地区、シンドラーのリストにも出てきたシンドラーの工場など見どころがたくさんあります。ぜひ徒歩でゆっくりと中世の雰囲気と近代ポーランドの雰囲気を味わってほしいです。
昔のユダヤ商店を模したカフェ
ユダヤ教の教会であるシナゴーグ
旧市街地は馬車で回ることもできる
〜ワルシャワ〜
ポーランドではワルシャワ、グダンスクも訪れました。ワルシャワは第2次世界大戦の折、壊滅的な打撃を受け徹底的に破壊されてしまいました。その後市民は“ひびの1本にいたるまで”忠実に街を復元、世界遺産にも指定されています。
実際ワルシャワの旧市街地を歩くと、その予備知識がなければ第2次世界大戦で破壊されたとは思えないほど、中世の街並み感を出しています。アウシュビッツで負の可能性を見せつけられたが、ワルシャワでは人間が団結した時の良い意味での可能性を見ることができました。旧市街地には旧王宮もあり、王の寝室や王冠の間など、絢爛豪華な部屋が復元されており一見の価値があります。人気で言えば、クラクフを訪れる人が多いと思いが、ワルシャワの旧市街地を見学していただき、ポーランド人の気迫や意地をぜひ感じていただきたいと思います。
復興された旧市街地広場
旧王宮がある王宮広場
旧王宮内にある王冠の間
ショパンの心臓が埋められているとされる聖十字架教会
〜グダンスク・マルボルク城〜
ポーランドの北部にあるグダンスクは、ポーランドでも最も美しいといわれる街のひとつ。ワルシャワと同じく第2次世界大戦で破壊されてしまったが、現在は復興され、その当時の美しい街並みが取り戻されています。
グダンスクのドゥーギ広場
グダンスクは中世後期に北ドイツを中心にバルト海沿岸地域の貿易を独占し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配した都市同盟であるハンザ同盟都市として繁栄し、旧市街地にはバロックやルネッサンス、バロックなど、その当時に流行りの建築様式で建てられた街並みが大変美しいです。街の中心には聖母マリア教会があり、500段の階段を上ると教会の上からグダンスクの美しい街並みを見ることができます。あいにく天気が悪く、華やかさに少しかけてはいたが十分中世の息遣いを感じることができました。
聖母マリア教会の上からグダンスクの街を眺める
聖母マリア教会にある15世紀の天文時計
旧モトワヴァ運河
また半日かけて郊外にある世界遺産マルボルク城も訪れました。1274年に建築されたドイツ騎士団の城で、こちらもやはり第2次世界大戦で大きな被害を受けたが現在は修復され、同時の雰囲気を感じることができます。きらびやかな装飾などは一切なく、実際に使われいた城という雰囲気がとても印象的。夏のシーズンへ向けての改装や工事が行われており、通常入れる部屋に入れなかったりという事があったが、逆に隠し扉のようになっている所もありドラクエなど歴代のゲームをしてきた私には、ちいさいメダルを探すがごとく城の探索ができ大変楽しかったです。ちなみに財宝やアイテムは落ちていなかった。少し残念。
マルボルク城
マルボルク城の場内
マルボルク城の歴代城主の墓
マルボルク城の昔のトイレ
〇ドイツ
〜ベルリン〜
ポーランドは第2次世界大戦中の物語であったが、ドイツ・ベルリンは第2次世界大戦後の物語です。ベルリンといえば何と言ってもベルリンの壁ではないでしょうか?
ベルリンの壁が建築された背景は、第2次世界大戦後に勝利した連合国軍の占領下に入ったことから始まります。ベルリンは資本主義を名目とした西ドイツと、共産主義を名目とした東ドイツに分断され、共産主義を嫌う東ドイツの住民が多く西ドイツに流失したことから、東ドイツを囲う為に作られた壁をベルリンの壁と呼ぶようになりました。
そのことから冷戦の象徴とも呼ばれています。世界情勢の変化に伴い1989年に壁は崩壊しましたが、今もベルリンにはチェックポイントチャーリーと呼ばれる検問ゲート跡が残されており、近くにある博物館も併せてみるとその当時、どのような雰囲気だったかが想像できます。
お上りさんよろしく、私もついつい記念写真を撮ってもらいました。また当時国家秘密警察(ゲシュタポ)と親衛隊(SS)のあった場所は、ナチによって人々が拷問を受けた地下牢などと一緒にベルリンの壁がそのまま残されており見学することができます。ポーランドとは雰囲気がガラッと変わり、ベルリンは最新都市。博物館などを見学して、ベルリンの街を満喫してきました。
チェックポイントチャーリーで記念写真
リアルベルリンの壁
ベルリンの博物館でエジプト展を見学
〜ポツダム〜
ベルリンから電車で約20分。ベルリンの庭とも呼ばれるポツダムも行ってみました。ポツダムは何といっても教科書に出てくるポツダム宣言が策定されたまさに歴史の場所。見どころは街中心の広大なサンスーシ公園の中にある、いくつかの宮殿です。サンスーシ宮殿は1747年フリードリヒ大王によって建てられた宮殿で、その当時の流行りの様式であるロココ様式で建てらました。宮殿の正面には階段状の温室もあり、絢爛豪華でいかにも王宮といった作りです。暖かい日差しの中公園を歩いていくと、同じくフリードリヒ大王に建てられた新宮殿も見学できます。真向かいにある重厚な建物があり、そちらが新宮殿かと思っていましたが実はポツダム大学でした。ドイツの大学生はこんな立派な建物で授業ができるなんてとてもうらやましいです。今回はクローズしていて入れませんでしたが、絵画館などもあり、1日のんびり見学したい小都市です。
ポツダム サンスーシ宮殿
ポツダム 新宮殿と思いきやポツダム大学だった。
〜B級グルメ・カリーウルスト〜
ベルリンのB級グルメ・カリーウルストも食べてみました。私が食べたお店はカリー36という結構有名なお店のようで、行列までは行かないもののそこそこ並んで購入しました。多めの油で焼き上げされたおいしそうなソーセージに、カレー粉と甘めのケチャップをかけるといういわゆるB級グルメです。オプションでケチャップ+マヨのポテトもつけることができます。味はおいしいです。さすがソーセージの国だけあり、なかなかのお味です。
ただ少し考えました。ただでさえうまいソーセージをこんなにジャンクにして食べる必要があるのかと・・・。
おそらくソーセージを良く食べる人が 確かにおいしいがさすがに飽きてきた→ケチャップをかけてみる→おいしいが一味足りない→さらにカレー粉をかけてみる→やるじゃん!カレーウルスト! といった感じだったのではないでしょうか?でも私個人としてはマスタードをつけザワークラウトと一緒にビールを飲みながら食べるソーセージが一番おいしいと思います。
人気のお店 カリー36
B級グルメ、カリーウルスト。
私は中世文化が好きなのですが、中世の自体にはもちろん写真もないので文献や絵画などがその当時を知る手段となります。今回訪れたポーランドやドイツはまさに近代史の中心。
近代は写真も残されておりよりその当時の状況を知ることができます。その分逆に生々しく思うこともありましたが、すごく考えされられる研修でもありました。そういう意味では中世史も近代史も両方楽しめるポーランドは、見どころ満載ですごくおすすめです。
クラクフ:☆☆☆☆☆ 中世の街並みが綺麗に残りおすすめ。
アウシュビッツ:☆☆☆☆☆ 歴史の事実としてぜひ見学したい。
ワルシャワ:☆☆☆☆ 復興のされ具合が半端ない。
グダンスク:☆☆☆☆ ゲーム好きな方はぜひマルボルク城へ
ベルリン:☆☆☆☆ 近代都市なので食事も博物館も無難に楽しめる
(2016年3月 菅原幸介)
- 今年は日本・ブータン外交関係樹立30周年記念イヤー!キング・オブ・ブータンがブータンサッカー界に日本のキング・カズを招へいする?
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エリア:
- アジア>ブータン>パロ
- アジア>ブータン>プナカ
- アジア>ブータン>ブータンその他の都市
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 グルメ
- 投稿日:2016/06/23 16:11
一般家庭で夕食をごちそうになりお酒のフルコースで二日酔い
2011年11月、現国王である第5代国王(ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク=1980年生まれ)が即位後初の外遊先として選んだのが日本でした。とても美しく麗しい王妃とともに訪問され、日本でもブームになりました。そして、今年2月、国王ご夫妻に王子が誕生し、ブータンでは王子様ブームの真っただ中です。
まず、ブータンのことを簡単に紹介しておきましょう。
ブータンは、1971年に国連に加盟するまで長らく鎖国政策を続けていました。1974年に初めて外国人観光客の入国を認め、日本と外交関係を樹立したのが1986年。今年は節目の30周年です。1999年に初めて衛星放送の受信とテレビ放送を開始。同時にインターネット接続を許可。言語はゾンカ語。小学校から英語を学ぶブータン国民は流暢に英語を話します。他にもインドのヒンディー語を話せる人も多いです。とうがらしを多く使うのでとても辛い料理が多いです。しかし、海外からの旅行者には、辛さを控えめに、もしくは、使わないようにしてくれますので心配無用です。人口は約80万人。世界187か国中158位(出典: 2014年CIA - The World Factbook)。首都はティンプー。通貨はニュルタムで、1ニュルタム=約1.8円(2016年3月現在)。インドルピーと連動しています。インドとの経済的な強いつながりがわかります。物価の指標として、iPhone5s=52000ニュルタム=約¥94000、iPhone6=64000ニュルタム=約¥115200でプリペイ方式。国の産業は酪農業が主で、すべて自給自足と言いたいところですが、肉類はインドからの輸入に頼っています。他に産業らしい産業と言えば、自然を生かした水力発電です。電気の安定供給に不安のあるインドに電気を売って外貨を得ています。そして、ブータンの秘境的なイメージを前面に押し出した観光業が盛んです。私が訪問した時は、中国(香港含む)、台湾からの観光客が多かったように思いました。日本含めインドなどから、政府開発援助(ODA)を受け、さらなる発展を目指しています。
1971年に「開国後」ゆっくりとしたペースで着実に近代化政策を進め、1990年代末から先代国王(第4代=現国王の父)の強いリーダーシップの下、何と王制から議会制民主主義体制への移行準備を開始しました。その後、王位を継承した現国王(第5代)が一部国民の反対を押し切り、2008年ブータン初の総選挙が行われ、初めて国会が開かれました。国王が主導して作り上げた民主主義国家の誕生です。国民から絶大な信頼を得る頼もしい国王がいる国・ブータン。王制のままがよいと国王に直訴する国民がいる国・ブータン。国民の幸福が経済成長より重視される国・ブータン。実におもしろいです!
「ぶっかけご飯が大好きな私にはブータン料理は最高!」
ブータン料理の王道と言われるのが、干し肉を使った料理です。「パクシャパ」は豚肉、「ノウシャパ」は牛肉と唐辛子と野菜をチーズと一緒に煮込んだものです。唐辛子の量で辛さを簡単に調整できます。辛い物好きのブータン人はびっくりするくらいの唐辛子を入れて煮込みます。
これが本場の「パクシャパ」(ガイドさん用の料理)
辛さは別にして、肉の旨みが出てとてもよい味です。これをご飯に掛けて食べるととても美味い!毎回食べ過ぎの私でした。ただ、この肉はすべて輸入に頼っています。動物は殺してはいけないという仏教の教えからだそうです。川に魚はいますが、釣りは禁止です。つまり、食用の魚も輸入に頼っています。主にインドからの輸入です。
ブータンで食べる食事はほとんどビュッフェスタイル
国産ビールの「DRUK」
「DRUK PREMIUM」もある(値段は同じ)
辛い物好きのブータン人の料理に欠かせないものが、これまた辛い、「エマダツィ」。エマ=唐辛子とダツィ=チーズを混ぜ合わせて煮込んだもので、さらに辛みが欲しい時に料理に混ぜて味を調整します。エマダツィだけをご飯にのせて食べるのもブータン料理の定番です。外国人に対しては罰ゲームで使えるメニューです。チーズを好まない気分の時は、「エヅェ」=トウガラシを玉葱で炒めたものを同じ用途で使います。
作る人によって雰囲気が変わる「エマダツィ」
市場に積まれた「ぜんまい」
おいしそうなアスパラ
くだものも豊富
「モモ」=ブータン式蒸し餃子も美味いです。これはネパール料理としてお馴染みだと思います。私がブータンを訪れた3月は、ぜんまいの季節です。煮込んだぜんまいはとてもやわらかく箸休めに最適。他に、アスパラ、じゃがいも、キャベツ、大根、ナス、ニンジン、インゲン豆等々豊富な種類の野菜が食べられるのもうれしいです。市場にたくさん売っていました。
「これからのブータンは歯医者と眼医者が大忙し」
ブータンの年齢別人口分布は、0〜24歳が47%、25歳以上が53%です。(出典: 2014年CIA - The World Factbook)因みに、日本の年齢別人口分布は、0〜24歳が22%です。(出典:2014年総務省統計局発表)このデータから見てもわかるように、ブータンの近代化政策は今後、より一層活発化していくことでしょう。逆に言うと、国として急務の作業とも言えます。
かわいらしい小坊主さん
カメラを構えるまでは笑ってた
表情が硬い
滞在中、いろんな場所でブータンの子供たちと接触する機会がありました。基本的に内気でおとなしく、子供たちから積極的に話しかけてくることはありませんでした。カメラを向けるとそれまでの笑顔がなくなり、姿勢正しくきりりとした顔で撮影に応じてくれ、「スマ〜イル」って声を掛けてあげて、やっとリラックスしてくれます。
日本のとある団体が行った、子供が将来なりたい職業の調査結果(2015年)の情報を見つけました。男子の1位は「サッカー選手」。続いて、2位は「科学者」、3位は同率で「警察官」「お医者さん」という結果でした。また5位には「電車の運転手」「ゲームクリエイター」「マンガ家」が並んでいます。一方、女子の1位は「パティシエ」。次いで、2位「お医者さん」、3位「幼稚園・保育園の先生」。4位「デザイナー」、5位「スポーツ選手」と続いています。
ガイドさんに聞いてみましたが、ブータンの子供たちに共通の人気職業は特にはないそうです。産業が少ない国なので、無理もないことかなとは思います。近代化が進むブータンで、これからのブータンの発展を担う子供たちにどのような世界が提供されていくのでしょうか。
今回、私が宿泊した鶴の飛来で有名なポプジカのホテル「Gakiling Guest House」に今年3歳になる「リクザン」という名の女の子がいます。このホテルの若いオーナー夫婦のお子さんです。
リクザンちゃん3才
宿泊客がいるのでお母さんは忙しく働いています。この村の村長さんだというおじいちゃんと一緒に散歩に行ったり、ブランコで一人で遊んだりしている様子をずっと見ていましたが、大きな声で歌ったり、敷地内を走り回ったり、従業員の人たちと大きな声で何やら会話をしていたり、彼女がどこにいるのか、常にわかりました。リクザンは、いずれこのホテルのあとを継ぐことになるそうです。十数年後の彼女に是非会ってみたいです。
ガイドさんに聞いてみたところ、現在、女性のガイドさんは全体の5%くらいだそうです。先進国と言われる日本ですら「女性の活躍」が最近頻繁に取り沙汰されています。ブータンではどのように変わっていくのでしょうか。
折り鶴講習会(先生は私です!)
リクザンは、いま、虫歯ができて治療中なのだそうです。歯医者は遠い町にしかないそうで、行くのが嫌でしょうがないそうです。ブータンでは歯医者は少ないのです。それに眼医者や眼鏡屋さんも。近代化が進み、昔はブータンにはなかったチョコレートなど甘いお菓子が外国から輸入されるようになりました。パソコンや携帯、ポータブルゲームも普及し、近年、子供たちの視力に影響しはじめてきたそうです。今こそ、ブータンで開業すると間違いなく儲かる商売です。
「一般家庭で夕食をごちそうになる。お酒もたくさん飲む」
今回、ホームステイの宿泊はできませんでしたが、夕食をごちそうになる機会を2度持つことができました。海外旅行で一般家庭の雰囲気を味わえるのは貴重な体験だと思います。もしも、そのようなチャンスがあれば、是非、積極的に参加していただきたいと思います。
ブータンの家は、私の祖母の家によく似ていました。つまり、昔の日本の家屋、日本の田舎の家屋に似ていると思います。土間の台所があって、食事をとる板の間の食堂、その周りに寝室がある。そんな感じです。ブータンでは今も、床に座布団を敷いてテーブルを使わずに床を利用して食事をとります。食事にお箸を使うこともありますが、手で食べることも一般的だそうです。宗教上の制約ではなく、右手でも左手でもどちらを使ってもよいです。インドの習慣とは無関係だとのことです。
お酒のフルコース
こんな感じでお料理が出る(パロのホームステイ宿にて)
つい1か月間に赤ちゃんが生まれた、ペマさんと、カルマさんの家におじゃましました。ところで、ブータンの名前は、日本と同じように意味があります。ペマさんは「たくさんの花」。ブータンでは非常に多い名前です。カルマさんは「星」です。仏教用語のカルマとは違う言葉です。生まれて1か月の赤ちゃんは女の子で、ソナムちゃん。「幸運」という意味です。
ソナムちゃん
ちなみに、ガイドさんの名前はタシさんで、「重要」という意味。そして、ドライバーのニマさんは「太陽」です。名前に意味があるっていいですね。名前は、お坊さんに付けてもらうのが一般的なんだそうです。
高級そうな雰囲気満点の「DRUK PREMIUM LAGAR」
一番のお気に入り「PANDA BEER」(地ビール特有の味)
食べた料理は、パクシャパ。いつも通りに作って欲しいとお願いしましたが、唐辛子は少しおさえてくれていたようです。でも、とても辛かったので、お酒が進みました。最初にいただいたのが、ブータンの焼酎・アラを薬缶で温めて生卵を入れ軽く混ぜた、日本のたまご酒のような感じです。砂糖は入れないので甘くありません。他に飲んだのは、もちろんビール、ウィスキー、アラのロック、ワイン。お酒のフルコースです。ワインは甘かったです。
「ヒッチハイクは重要な移動手段」
ブータンを移動中、何人ものヒッチハイカーに出会いました。ブータンではごく普通の習慣だそうです。我々は、時間内に目的地に到着しなければならないので、なかなか応じることはできませんでした。
ドライバーのニマさん
でも、ある時、ドライバーのニマさんが急に車を止めて、あるヒッチハイカーに声を掛けました。それは、尼さんでした。さすがは仏教国のブータン国民です。お坊さんは無条件に手助けをするのだそうです。私も車内で少しお話をさせていただきましたが、英語が話せるお坊さんでした。お坊さんになった動機を訪ねてみたのですが、お坊さんという職業が好きで、いつも仏様の近くに身を置きたいからだそうです。
ブータンならでは?の修行僧
拝みながら少しずつ進む。気の遠くなるような行
平和な国と言われているブータンも、失業問題、犯罪数の増加、薬物問題など国として避けては通れない問題をかかえるようになっています。知らない人を自分の車に乗せる習慣も少なくなっていくのでしょうか。
プナカを訪れた時、たくさんの学生さんたちがいました。ちょうど授業が終わる時間だったようです。校門の前を通り過ぎようとしているとき、学生の集団の中に、ヒッチハイクの合図を送る2人の高校生の女の子がいました。ドライバーのニマさんは、お坊さんの時と同じように即座に車を停め、声をかけました。5分ほど離れた通り道にある町に行きたかったそうです。私は車の中で、卒業したら何がしたいのと質問してみました。一人は、日本でもよくある、大学に行ってITエンジニアを目指したいという希望。もう一人は、軍隊に入ってパイロットになりたいとのことでした。これは意外でした。
「ほんの13年前、動物も殺さないブータンが戦争をした」
ブータンに滞在していると、ホテルや、レストラン、商業ビル、一般家屋の玄関先などいたる場所に国王の肖像画が飾ってあります。でも、その中の7割くらいは先代国王のそれでした。ガイドさんに、「ブータン国民は先代国王の方が好きなのですか?」とストレートに聞いてみました。するとガイドさんは声を潜めて、「はい、そうなんです」。
可哀そうな5代目と思いましたが、ガイドさんからいろいろ話を聞いたり調べてみると、それも無理はないのかなと思いました。
先代国王(現国王のお父上)
ここでは肖像画を二人並べていた
先代(第4代)国王は、現在60歳でまだまだ若いのです。即位したのは、なんと16歳のときでした。第3代国王が急死したためです。若くして即位した先代は、自身の体験から、自分の息子に辛い思いをさせたくなかったからだと言われています。自分が生きているうちに息子を立派な国王として育てたい。国民全員に尊敬される国王になって欲しい。そんな親心から?あるいは、先代国王としての責任感から早めの譲位を決断しました。すでに発表されていた予定を2年繰り上げて。
国を会社に例えると、この先代の行為は非常に理にかなっていて、先代が死なない限り社長が交代しないことの方がおかしなことです。先代国王は合理的な人だったのでしょうね。現国王が即位したのは26歳の時、2006年のことでした。
この譲位にまつわるもうひとつの話をガイドさんは教えてくれました。今から13年前の2003年、ブータンは戦争をしました。動物を殺すことを嫌う国が、人を殺す戦争をしたのです。インドの反政府ゲリラが、突然国境を越えブータン国内に侵入してきたのがきっかけです。侵略ではなく亡命を目的とした越境だったそうです。しかし、インドと密接な関係を築いていたブータンは、インド政府の意向を最優先するしかありません。先代国王は、何度も何度も交渉を重ね、退去するよう説得したそうですが、ゲリラ側は聞き入れず、ついに、軍事行動を起こすしか方法がなくなりました。そのとき先代は、自らが大元帥となり、軍の指揮を執ったそうです。そして、2日で3000人のゲリラを全滅に追い込みました。もちろん、ブータン側にも多数の戦死者が出たそうです。この戦争を指揮した先代は、このとき、反省を込めて、早く退位することを心に誓ったのではないかというお話です。
これがドチュ・ラのチョルテン
ドチュ・ラ(峠)に108のチョルテン(仏塔)があります。観光客の名所となっています。この戦争で亡くなった、たくさんの戦死者の供養のため、このチョルテンが建てられました。二度と同じことが繰り返されないようにと先代国王夫人が国王や国民、そしてインド国民のために平和への祈りを込めて作ったそうです。感慨深いお話です。
自らが先頭に立ち国民を守った先代はブータン国民のヒーローに違いありません。現国王は、多くのブータン国民にとって、まだ王子様のままなのかもしれません。
時が止まっているような雰囲気のする「ハ」
聖なる地・チェレ・ラの峠も魅力的
パロは、断崖絶壁のタクツァン僧院の入り口として有名ですが、他にも「ハ」という町への入り口でもあります。「ハ」へは車で約3時間。標高約4000mの峠、チェレラを通るルートと、麓を縫うように比較的平坦な道を通る2つのルートがあります。峠越えのルートがお奨めですが、冬は雪が降り凍結の危険がありますので、峠のルートは避けた方がよいでしょう。
標高4000mの案内板
ブータンでは峠は聖なる場所とされています。地上世界の中では天から最も近い場所だからです。だから信仰の対象ともなっていて、毎日のように誰かが香呂でお香を焚いているそうです。お香は天然の松の葉が使われます。実際にその場に立ち会うことができましたが、強風に煽られ、炎とともに煙が激しく立ち上り天まで届くかのような勢いです。それに、非常によい香りがします。峠には、ダルシンやルンダルが所狭しとひしめき合い、峠に吹きすさぶ風に終始煽られています。その様は、もの悲しさを醸し出しているように感じます。
橋にくくりつけられたルンダル
ダルシンとは、長い棒にお経を書いた旗を通し、家族や親類の無病息災を祈願し、また、亡くなった人の供養を行うためのものです。ダル=旗、シン=木を意味します。旗は、白だけのものもありますし、青、白、赤、緑、黄の5色の旗を使う習慣もあります。青は空、白は空気、赤は火、緑は木、黄は土を表します。ルンダルも同じ用途で使われる布だけのものです。ルンは風を意味します。
この景色に圧倒されました!
お香が焚かれていた
チェレ・ラを越えるとすぐ眼下に「ハ」の小さな町が見えます。インド軍の巨大な軍事施設も隣接しています。ブータンにはインド軍の施設がいくつかありますが、中でも「ハ」はインドへの玄関口になっている町でインドとは強いつながりがある町です。「ハ」の町を南下すると、国境の町・プンツォリンでインドはすぐそこなのです。インド人もブータン人もビザなしで行き来は自由です。
「ハ」のホームステイ宿
今回の私の旅の大きな目的のひとつが「ハ」の訪問でした。当社には「ハ」を訪れるツアーはまだありません。
ハは近代化が進むパロや首都ティンプーと違い、ブータンの伝統的な生活スタイルを見ることができる田舎町で、海外からの旅行者に人気の町です。車なら数分で通り過ぎてしまうくらいの小さな村ですが通りには昔ながらの伝統家屋が並んでいて、ブータンの中でも時間が止まっているような雰囲気を味わえます。パロから気軽に日帰り訪問も可能です。できれば、昔ながらの農家にホームステイするのがお奨めです。
古都・プナカは、ブータン国民が心から大切に思う歴史的、信仰的にもとても重要な町
1955年にティンプーが通年の首都に定められるまで冬の首都だったプナカはティンプーと比べ標高が約1000m低いことから真冬でも温暖で夏は熱帯のジャングルかと思うほど暑くなります。
菜の花とプナカゾン
そんなプナカの町にブータンで最も重要な建造物と言えるプナカゾンがあります。ブータン仏教の開祖・パドマ・サンババや、ブータン建国の父、シャブドゥン・ナムゲルなどブータン国民が大切思う人々との縁が深いゾンで、2011年に日本でもブームを巻き起こした第5代国王の結婚式、2016年に誕生した皇太子の命名式が行われるなど、王室、国民が共に認めるブータンになくてはならない存在です。どんな名前になるか、全ブータン国民が注目しています。また、「ツェチュ」など盛大なおまつりが行われる町としても有名です。
「今、ブータンは空前のサッカーブーム」
ブータンは、今年、2018年開催のロシアワールドカップサッカー1次予選を突破しました。2次予選は突破できず、残念ながら最終予選に進出する夢はかないませんでした。しかし、ブータン国民は1次予選を突破した代表チームに熱狂したそうです。現在、FIFAランキングは186位。最高位は昨年の159位。最低位も昨年の209位(←たぶん最下位)。
ブータンは、世界ランキングの最下位争いをする常連の世界最弱チームです。そんなブータンが、ついに予選リーグを突破できる力をつけてきました。そして、なんと、ブータン代表監督は日本人です。資料によると現監督は、2012年から着任している小原一典さん。日本人監督として3人目です。
私のガイドさん、タシさんもサッカーが大好き
普段着のタシさん
かつて、海外技術協力事業団に所属して活動した日本人農業指導者の故西岡京治(けいじ)さんを思い出します。ブータンの農業の発展に大きく貢献し、「ブータン農業の父」と称えられ、ブータン国王から「最高に優れた人」を意味する「ダショー」の称号を贈られました。現地ではダショー・ニシオカとも呼ばれ、そのお米は、町の市場で「西岡ライス」の名で売られています。お土産で買ってきましたが、日本のお米と比べて何となくですが水分が多く、ねばっこい感じがしましたが、日本米特有の炊き上がった時の白さは美しかったです。
真ん中に「西岡ライス」その左は「赤米」
家で炊いた「西岡ライス」
赤米を炊くとこうなる
サッカーに話を戻します。ブータンではサッカー含めスポーツのプロチームはありません。サッカーは日本と同じくクラブチームのリーグ戦が行われていて、そこから代表チームに選抜されます。何チームあるかわかりませんが、一部と二部にわかれています。極秘情報(?)ですが、ブータンでは、そのクラブチームに日本から現役選手3人を招へいする計画が進められているそうです。もしも、キングカズが招かれて行くようなことがあり、ブータンサッカーのレベルがもっと上がり、ブータンで引退したキングカズは代表チームの監督になりワールドカップに出場するようになれば、ダショー・ミウラと呼ばれるようになるでしょう。経済協力ばかりでなく、スポーツの世界でも、日本とブータンとの協力関係が深まればよいですね。我々、ファイブスタークラブは、観光の世界でブータンの発展に協力したいと考えています。
●ワンデュポダン ★★★
冬でも比較的温暖な地域。のんびりした雰囲気がよい
●ポプジカ ★★★★★
毎年11月初旬から2月頃まで、世界に 5,000羽ぐらしかいないといわれる絶滅危惧種のオグロヅル約200羽〜500羽が、チベットからヒマラヤ山脈を越えて飛来してきます。この時期がベストだが、それ以外でもたっぷりとブータン情緒が楽しめる。この地も比較的温暖。
●プナカ ★★★★★
ブータン国民が愛するプナカゾンがある町。堂々とした佇まいは必見!
●ティンプー ★★
どこに行くにも必ず通り道になるので、滞在をしなくても雰囲気を見るだけで十分。警官に手信号の交差点が名物。
●パロ ★★★
ブータン唯一の国際空港のある町。断崖絶壁の寺院、タクツァン僧院に行くなら必ず泊まる。ホームステイが充実している町でもある。
●ハ ★★★★★
ブータンの中でも、昔ながらの町並みや生活が垣間見れる貴重な場所。ここも、ホームステイをして直にブータン人の生活ぶりを実体験するのがおすすめ。
●チェレ・ラ
町を移動する際に必ず通るのが峠(ラ)。その中でもチェレ・ラは特におすすめ。聖なる雰囲気を体験できる。背筋も伸びる。
(2016年3月24日〜30日滞在 森裕)
- ヒマラヤの絶景に焦がれて、地震後のネパール旅
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エリア:
- アジア>ネパール>カトマンズ
- アジア>ネパール>ポカラ
- アジア>ネパール>ジョムソン
- テーマ:街中・建物・景色 ハイキング・登山 自然・植物
- 投稿日:2016/06/23 16:06
約1年前の2015年4月25日にネパール大地震で8000人以上の多くの犠牲者を出したニュースは、日本にも届き記憶にも新しい。しかし地震後のネパールの現状はあまり届いていないこともあり、ネガティブなイメージがしっかりついてしまった。そんな中、約1年が経過した2016年の3月にネパールを訪問する機会を得た。
ネパールのイメージは、ただ一つ「エベレスト」を筆頭にしたヒマラヤ山脈に憧れを抱き一度は訪問したいと昔から思っていた。出発2週間前に現地から国内線墜落のニュースが飛び込んできて、期待から大きな不安に変わりつつある中で出発したのである。
ネパールの首都カトマンズまでは、キャセイパシフィック航空を利用し香港で乗継ぎ、バングラディッシュのダッカを経由し機内食や香港でのトランジット時に飲茶を食べ約15時間後の日付の変わる前に到着した。
カトマンズに到着後は、アライバルVISAの取得に申請機械を利用し、申請書を作成した後にVISAカウンターでUS$25を払いレシートを持って入国審査を通過した。
特に難しいこともなく荷物を取って無事にガイドとミートし、空港からタメル地区のホテルまでは、渋滞もなく30分ほどで到着した。深夜にもかかわらず、タメル地区の路上には多くの人が歩く姿が見受けられます。
エベレストに代表されるヒマラヤ連峰を目指しアルピニストやトレッカーを含む旅行者の多くが玄関口の首都カトマンズのタメル地区には今も変わらずに集っている。トレッキングショップやレストランや土産物屋が密集し賑わっているので、ネパールに来たらまずはここに行くだろう。
ヒマラヤを望む静かな湖畔の街「ポカラ」
現地ガイドにポカラを訪れる観光客の7割が国内からのネパール人だと意外でもあり、納得も出来る街が「ポカラ」である。旅行客の中心地のレイクサイドには多くのホテル、レストラン、土産物などのショップなどが軒を連ねカトマンズの喧騒から逃れ静かなフェワ湖畔でゆっくりするバックパッカーの姿も多く見られる。サランコットからは天候が良ければ、間近で美しいヒマラヤを拝むことができる。またポカラへは往復とも国内線を利用し30分間、天候も良く窓から見るヒマラヤ山脈が間近に見える景色は圧巻の一言です。ポカラへのフライトは右側の座席をカトマンズへのフライトは左側の座席を確保したい。心配していた国内線も天候が良く揺れもほとんどなく、心配が嘘のように楽しめた。
国内線の16人乗りのシムリックエアー
CAも腰をかがめてサービス
機内からみるヒマラヤ
アンナプルナ山域の絶景ホテル「タサン・ビレッジ」
ジョムソンへはポカラから国内線を利用し約25分のフライト、窓から見るヒマラヤ山脈が間近で出迎えてくれる。ジョムソンからローカルバスを乗り、凸凹の山道を進むこと1時間で、ジョムソン街道上のラルジョン村に到着した。ラルジョンから山道を運動不足の身体にムチを打ち、息が切れながらも休み休み歩いて登ること約30分、ナウリコット村に建つタサン・ビレッジに到着します。玄関口には桜が咲き正面にはダウラギリ(8167m)の雄姿と氷河が背後にはニルギリとヒマラヤ山脈のパノラマに圧倒された。
ロッジ内には暖炉やこたつもありヒマラヤの山中とは思えないほど快適に過ごせる。新鮮な野菜やソバ粉など土地の食材を使った日本料理も美味しい。ロッジの屋上からは満点の星空や日の出時には、黄金に輝くダウラギリを屋上から眺めることが出来る。
コックピットが目の前に・・・
フライト中ずっと不安で祈り無事に到着した笑顔
タサン・ビレッジからの日帰り往復5時間のトレッキングは、無理の無いように休憩をしながら歩いて標高2727mに位置する山上湖へ行くことが出来る。湖畔から見る、鏡のような湖面に映るニルギリ峰はまさに絶景。ロッジから山道をゆっくり下り、そして急坂を登る。決して楽ではないが、目の前にアンラプルナ、ダウラギリ、ニルギリを見ながらのハイキングは最高に気分が良い!帰った後は、お風呂で疲れを癒す事も出来る。
タサン・ビレッジでのうれしい日本食。
念願のヒマラヤを間近で思う存分堪能した後、カトマンズに戻り市内を含め近郊の世界遺産の町を訪れた。
美の都「パタン」
カトマンズの南に位置するパタンは車で30分ほどに位置している。「パタン」は、サンスクリット語では「Lalitpur(ラリトプル)」、ネワール語では「Yala(イェラ)」と呼ばれいずれも「美の都」と意味している。
世界遺産のダルバール広場は旧王宮に面し、歴史的な建築物がいくつも立ち並び震災で被害を受け、いくつかの建物が崩落しているが、すでに問題なく観光ができる状態になっている。
そして生き神と信じられているカトマンズのクマリは有名だが、他の町や村にも居るとのことでパタンのクマリさんを訪れると直に対面でき、まずはお祈りをし、寄付をすると額にオームのご朱印を貰うことが出来た。
またカトマンズのクマリは、写真がNGだがパタンでは写真も許された。
パタンは工芸の町としても知られ掘り出しものを探すのもよいでしょう。
ネワール族の古都「バクタプル」
世界遺産に認定されているバクタプル(バドガオン)はカトマンズから東に12キロ離れた場所にある。15世紀から18世紀にかけてネワール文化とともに発展したが古都であるが為に、ネパール地震では町全体がダメージを受け、一年が経った今でもダルバール広場などの寺院などが再建中である。旧王宮や寺院が並ぶダルバール広場、トゥマディー広場、最も古い町並みが残るタチュパル広場の各広場と徒歩で観光しているときに通る裏道には今なお瓦礫が積まれている。復興までには時間を要するかもしれないが、古きよき文化の香りがする雰囲気を感じることが出来る。
カトマンズの主要観光地であるダルバール広場、スワヤンブナート、ボダナートの世界遺産も地震により被災し、
現在もまだ一部寺院を含め復興および再建中であるものの観光客や参拝客ですでに賑わっている。また良くも悪くもカトマンズ市内の喧騒や渋滞を含めネパールの親切な人達は何も変わらずに迎えくれる。
パシュパティナート
軍人も並んで故人を偲ぶ
復興中のボダナート
カトマンズのクマリの館
到着翌日に会った現地旅行会社の人に今のネパールを見て、今のネパールを日本人の方に伝えて欲しいと頼まれました。ネパールの地震の後、ネパールの主な産業である「観光」も同様に打撃を受け、観光収入が激減して職を失った人々もいるそうです。一つ言えることは観光が出来るのか心配など不要ということです。
ネパールの人達は、日本人の旅行者が大好きで日本人が訪れてくれることを待っています。
今だからこそ復興の一助に、ネパール旅行に訪れて欲しい!
タサン・ビレッジ ★★★★★ ヒマラヤ山脈が眼前に!
ポカラ ★★★★ 湖畔でゆっくり。
カトマンズ★★★★★ タメル地区で旅に必要なものはすべて揃う。
(2016年 3月 大道隆宏)
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