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旅倶楽部「こま通信」

~旅するように生きていこう~

旅倶楽部「こま通信」
旅するように生きていこう!
プロフィール

ニックネーム:
こまつうしん
居住地:
埼玉県
性別:
男性
年代:
60代
会社名:
旅倶楽部 こま通信
会社英字名:
会社所在地:
埼玉県
業種:
旅行業
自己紹介:
旅倶楽部「こま通信」代表

これまで三千日以上を旅してきて、より良い旅の為に《手造の旅》をはじめました。メンバーからの要望によって、一生モノの旅をつくっていきます。

《手造の旅》のご希望がありましたらご連絡ください。
komatsusin2@gmail.com

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1 - 5件目まで(11件中)

ニコラの息子
ボーヌ施療院とウェイデンの祭壇画に残されたニコラ・ロランの物語
エリア:
  • ヨーロッパ>フランス>ボーヌ
テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2015/06/29 22:39
コメント(1)
15世紀、百年戦争の最中。
ブルゴーニュ公国の宰相だったニコラ・ロランはボーヌにオスピス(日本語だと「施療院」と訳せるか)をひらいた。

現在でもその雰囲気をよく伝えている中庭。
施療院中庭
三十床のベッドに二人ずつが収容されていた。
施療院ベッドルーム重病人というよりも、栄養ある食事と清潔な寝床で回復できる程度の困窮者に施しをしていたという場所だったようだ。
後の時代には本格的な病院にも、年長者の入院施設にもなり、つい四十年前までこの場所で運営されていた。現在でも場所は移ったが、活動はより広範囲に行われている。

創立者のニコラ・ロランと妻のギゴンは、礼拝堂の祭壇にその姿を留めている。15世紀フランドル絵画のマスター・ピースのひとつ、ウェイデン作「最後の審判」
ウェイデン作「最後の審判」横幅5メートル60センチの大作。
祭壇は日曜日にのみ開けられ、この画面を拝むことが出来た。

細密な描写を観賞するために、移動式の巨大ルーペが用意されている。
「最後の審判」公開の様子
中央の天使のブローチ部分「最後の審判」天使拡大

普段、閉じた時にあらわれる、寄進者ニコラとギゴン、二人の全身図
ニコラとギゴン
この祭壇が描かれたとき、ニコラはおよそ六十歳、ギゴンは三十才ぐらいと推定される
ニコラ
ギゴン

開いた時に見られる聖人群像のなかにもニコラは登場する。赤い服を着たペテロと思しき人物の左で、ひとりこちらを見ているのがそれ。ニコラの息子
●よくみると、ニコラの左三人のうち一人には、彼の息子ジャンが登場している。司教の冠をかぶって顔半分だけが見えているのがそれ。

地元ガイドさんによると、ジャンはロラン家の故郷オータンの司教に任命されていて、この祭壇画に画いてほしくて懇願したのだそうだ。
画家のウェイデンはそれをしぶしぶ認めたが、左右に画く人物の数を同じにしたかったので、肩越しに半分だけという不自然なスタイルになったのだそうだ。

ジャンは父ニコラの二度目の結婚から生まれた次男か三男で、ブルゴーニュ公の二代目と親交が深かった。また、自身が絵描きにもなりたかったようだと、ガイドさん曰く。
近くのノートルダム聖堂にはジャンが描かせたフレスコ画が残っている。

●ニコラの娘も右側パネルに登場している。ニコラの娘右側の女性三人のうちいちばん左の、あきらかに「一般人」顔で描かれている。
こういう表現を見ていると、ウェイデンという絵描きは怖いぐらいに人物そのものを写し取っているように思えてくる。

**
施療院の床のタイルには、二十八歳年下の三度目の妻ギゴンへのニコラの気持ちが紋章にされた。施療院礼拝堂の床英語のONLYは、フランス語でSUELE(スゥーリュ)
「ただひとつの★星」という文字がまわりを囲み、ニコラのNとギゴンのGの頭文字があらわされている。施療院の礼拝堂

ニコラが八十六歳で亡くなると、ギゴンは別のデザインで亡き夫を追慕した。このタピスリーがそれギゴンのつくらせたタピスリー
ギゴンの紋章と「ひとつだけの(孤独な)星」と書かれている
このタピスリーは、ブルゴーニュワインの祭典として有名な「栄光の三日間」の時に張り出される一枚だそうだ。
タピスリー拡大

地下ツアーへの入り口
シャルトル大聖堂の地下ツアー
エリア:
  • ヨーロッパ>フランス>シャルトル
テーマ:世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/11/02 08:31
コメント(0)
シャルトル大聖堂の地下ツアーに参加するのはこれで確か四回目。しかし、案内する方が変われば見せるものも案内もけっこう違っているので、毎回新たな発見がある。

一日数回、決まった時間に集まってお金を払えば参加できる。ただし、案内はフランス語のみ。入口
地下ツアーへの入り口

階段をいくつか降りた、現在半地下の様になっているところが古い時代の聖堂の床だったそうだ。日本の時代にすると平安末期のロマネスクの礼拝堂と、その後増築されたゴシックの礼拝堂が交互に並んでいる。

そこからまた一段地下に降りると、太い長い柱が見えた
祭壇大理石像を支えている柱地上階の主祭壇の真下にあたる場所になり、この上に重い大理石像を設置するために補強されている。

かつて空間だったところも厚い壁にして埋め込んであったのだが、1901年に穴をあけて中を調査した
1901年の開けられた穴
すると、10世紀以前カロリング朝に建設されたと思われる聖堂の階段部分が発見された。※写真で破られた壁の向こう遠く

火災に遭ったカロリング朝の聖堂は11世紀初めフュルベール司教によって再建・拡張された。その時代に建設された、巡礼たちを寝泊まりさせるための巨大な礼拝堂がこれ
巡礼者の宿泊施設だった

今年の夏に訪れた時、中世の巡礼たちのようにロウソクだけを持って歩いた事を思い出す。
http://www.tour.ne.jp/blog/komatsusin/71765/

かつてあった中世の木彫聖母子を再現してある。
再現された木彫の聖母子
目をつぶった表現が珍しく、これはケルトの女神の像と共通する特徴だそうである。

奉納された当時の入れ物に入った「聖母マリアの衣」がこれ
奉納された聖なるベール
聖堂地上階に公開されているものは、ここから切り離されたごく一部である。

10世紀頃と思われるフレスコ画が壁に描かれているが、これはもしかすると増築される以前の聖堂外壁かもしれない。そこに描かれている聖母子は、正面から描かれた動きのない構図で、ビザンチン絵画の特徴を持っている。
「青い聖母」のモデル?
今日のガイドさんは「これは、ステンドグラスの『青い聖母』と似た構図を持っていますから、この絵をモデルにしているのかもしれません」と説明された。
びっくり。両方何度も見ていたが、はじめて認識した。そういう可能性は確かにある、と思えた。
※下に両者の写真をいれた日記を書きました。
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=20131018

この新しい木彫は1836年に起きた火事の様子を表している。この火事では木造の屋根が焼失し、ふきなおされた。

19世紀の火災

大聖堂ライトアップ5
シャルトル大聖堂驚異のライトアップと夜の地下聖堂訪問
エリア:
  • ヨーロッパ>フランス>シャルトル
テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/09/01 12:46
コメント(0)
シャルトル大聖堂は夏の間、驚異のライトアップが行われている。今回の《手造の旅》はこれを見るためにシャルトル旧市街へ歩けるホテルに宿泊した。さらに現地の方から「地下聖堂キャンドル訪問」をアレンジしていただいた。

**
8月後半とはいえ21時半になってやっとライトアップがスタートする。今回はしかし、その時間に大聖堂の責任者の方と待ち合わせして、珍しい夜の地下聖堂へ案内していただくのである。
大聖堂責任者の方がカギを開けてくださる

しばし地上の世界からさようなら
暮れゆく地上の世界に別れを告げ
ひとりひとり長いろうそくを手渡され、火を移してゆく
ろうそくを一人一本、火を移してゆく

「皆さんひとりひとりが、今日は中世の巡礼です。遠い道のりをこの聖堂のマリア様に会いにきたのだと思ってください」
彼はラテン語で聖歌を歌いながらゆっくりと奥へ進んでゆく、地下聖堂の天井は古いフレスコ画が描かれている
天井の古いフレスコ画
紀元1024年、10月。フルベール司教が「雪が降る前にこのフレスコが完成してほしいものだ」と手紙にかいていたそうだ。
地上がその後の火事で焼けてしまっても、この11世紀の地下聖堂はそのまま残った。

1194年の大火災では「聖母の衣(キリストを産んだ時に着ていたと言われる)も焼けてしまった…」と落胆していた民衆の前に、瓦礫の中から無傷の衣が出現した。この地下聖堂に避難していたのだ。

巡礼たちが祈った聖母子像が奥にあった
伝説の聖母子像
まるで観音様のようだ。

ヨーロッパのロマネスク後期の彫像というのは、時に日本の中世彫刻と不思議なほど似ている。

11世紀以前にあったノルマン人来襲の時の聖堂のなごりが、この井戸。異教徒のノルマン人は聖職者を殺して投げ込んだと言われている。ノルマン時代の井戸
当時この井戸は古い聖堂の外側の壁に位置していた。


ファサードにある彫刻の本物がこちらに保管されている
ファサードの彫刻の本物はここに
オリジナルはこんなにもぼろぼろになっていたのか

大聖堂南西の角にある陽時計もオリジナルはここにあった
大聖堂角にあるものもレプリカだった

こちらは19世紀に描かれたとおぼしきもの
比較的新しいフレスコ画

「明日朝、洗礼があるようで、その準備がされていますね」
シャルトルでは地下の聖堂で洗礼式が行われ、その後地上へ「産まれ出て」祝福されるのだそうだ。
明日の洗礼式の為の用意

階段を上がり、大聖堂の地上階へ出る

大聖堂の地上階部分へあがってゆく
大音量でパイプオルガンが演奏されている。
暗闇の中で圧倒的な音圧が体を包む。生のパイプオルガンでなければこれだけの迫力は体感できない。

巨大な暗闇を埋め尽くす重低音…目の前にある小さな炎にすがって前にすすんでゆく、ほとんどめまいがしそう。
大聖堂の巨大な空間すべてが闇

ここの床には巡礼の祈りの為に描かれた巨大な迷図が描かれている。フラッシュにその一部が映った。
暗闇の中、大迷図が映った

約一時間ほどの大聖堂地下訪問、巨大な扉が開けられ、夜の空がとても明るく感じる
南の大扉が開けられ、夜空が見えた

ファサードに面した広場ではすでにたくさんの人が集まって、壮大なライトアップを鑑賞していた。十五分でひとまわりする映像ショーである。

大聖堂ライトアップ1
大聖堂ライトアップ2
大聖堂ライトアップ3
かつては彩色されていた彫刻を再現
大聖堂ライトアップ4
大聖堂ライトアップ5
大聖堂ライトアップ6
大聖堂ライトアップ7

近くの広場でも週末の今日はJAZZバンドが演奏をしていた
市民ジャズバンド

ムスティエのシンボル
ムスティエ・サン・マリー〜「フランスの美しい村」
エリア:
  • ヨーロッパ>フランス>フランスその他の都市
テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/03/08 14:59
コメント(2)
フランスのグランドキャニオンと言われるヴェルドン渓谷のすぐ北に、「フランスの美しい村」のひとつ、ムスティエ・サン・マリーがある。
N.D.du.Beauboirへ上がる道
近くにはローマ遺跡のある街もあるが、この町の確かな起源は西暦454年にマキシムス司教がやってきて小さな庵と礼拝堂をつくった事にあるとされる。

旧市街中心の広場から見上げると、険しい山が深く切れ込んだところに滝が流れ落ちていて、その傍らに当時の遺構の残るというノートルダム・ド・ボーボワール教会が見えている。
旧市街中心部、ロマネスクの塔

谷を渡して220mの長さの鎖が渡され、そこに金色の星が吊り下げられているのが見えるだろうか。
谷にかかる200メートルの鎖が見える?

この鎖にまつわる伝説★
十字軍に行ったこの町出身の騎士が聖地で異教徒に囚われた。「無事に故郷へ帰れたなら聖母マリアに星を捧げる」と誓いを立て、それが実行されたというもの。これは19世紀末のプロバンス作家ミストラルが書いて知られるようになったのだが。

星を拡大してみよう
ムスティエのシンボル
大きさは1メートル17センチ。現在のモノは1954年に前のものが老朽化したのを機につくりなおされた。はじめのはじめがいつだったのかは、分からない。

だが、街の紋章になっているのだから、相当に古い時代からあるものなのだろう。
ムスティエ紋章

街全体の絵地図、一番上に星が画かれている。
ムスティエ絵地図

車が止められるところからしばらく歩いて旧市街へ
村中心への道

村の真ん中を流れ落ちてくる川を渡り、中心の広場へ。
旧市街中心部、ロマネスクの塔

公共洗濯場はきっと百年ぐらい前までは現役だっただろう
洗濯場

この鐘楼は12世紀のものとされるが、1970年代の改修の際に8世紀の部分がみつかったと現地の本に解説されていた。
小川を挟んで向こうに見えるロマネスク塔
5世紀に隠者の住んだ後に修道院が出来、この町の名前の由来はそれに由来する。しかし中世の時代に何度も異民族の侵入で破壊されたので、正確な歴史はわからない。

●今日のお昼ごはん。カモのテリーヌ
カモのテリーヌ
三種類のファルシ
ファルシ三種

昼食の後、はるか上に見えたノートルダム・ド・ボーボワール教会へ登って行こう。今日の青空ならきっと美しい景色が見晴らせるだろう。


谷の川を渡る古い橋
N.D.du.Beauboirへの古い橋
曲がりながら続いていく道
N.D.du.Beauboirへの道
かなり急
N.D.du.Beauboirへの階段2
教会への入り口がみえた
N.D.du.Beauboirへの階段1

入口横には古い時代の居住跡と見える穴もあった
N.D.du.Beauboir入口
ポータル入口の木製彫刻は15世紀末のものだとか
N.D.du.Beauboirポータル
美しいロマネスクのアーチが迎えてくれる
N.D.du.Beauboir内部

シャトルバスとMSM
モン・サン・ミッシェルへのシャトルバス
エリア:
  • ヨーロッパ>フランス
テーマ:鉄道・乗り物 世界遺産 
投稿日:2012/08/17 22:57
コメント(0)
2012年春、モン・サン・ミッシェルを元の島に戻すための工事が本格的に始まった。それに伴い、一般のバスで傍まで行くことが禁止され、対岸からシャトルバスを利用する事になっている。

8月10日変更以来はじめて実際に行ってきた。
乗り場は対岸すぐのルレ・モン・サン・ミッシェルの前。このエリア(対岸のホテルの集まった一角へ入るゲート内)まで入らないで一般的なパーキングからシャトルバス乗り場までは少し歩かなくてはならない。対岸のシャトルバス乗り場
朝8時から夜中の1時まで運行している、と書かれている。

問題はどのぐらい頻繁に来るのか、ということだが、8月10日バカンス最盛期、大混雑ではあったがわりにすんなりと乗ることができた。一台に最大95人まで乗ることができるそうである。この写真は帰路の乗車行列。8月の混雑した時期、シャトル乗車行列

バスの内部はわりあい広いと感じる。ぎゅうぎゅうになる前に係員が乗車制限をしてくれていた。
シャトルバスの内部

修道院のテラスから見晴らすと、これまで駐車場だったばしょががらんと白く空いているのがわかる。
MSMのテラスから橋のルートを見る

さらに拡大すると、これまでのバス道の左から弧を描いて建設中の橋が見つかっただろうか。
橋建設ルート拡大
現在のバス道から見ると、こんな橋が建築中だ。
こんな橋を建設中

この橋が完成したら、シャトルバスはその上を走り、現在の盛土の道は壊される予定だ。すると、クエノン川の水流が再びMSMを島にしてくれると期待されている。公式には2014年完成。予定通りいくことを祈りましょう。

完成予定図は下記より
http://jp.maison-de-la-france.com/bd_doc/802_201108234453.pdf

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