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- 【千本ゑんま堂の風祭り】恐い閻魔さんと優雅な風鈴のミスマッチ
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エリア:
- 近畿>京都>洛中(御所・北野)
- テーマ:観光地 お祭り・イベント 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/06/27 20:35
- コメント(0)
市バス「千本上立売」下車してすぐに千本ゑんま堂があります。
このお寺の説明によると、「百人一首の歌人として知られる小野篁卿は、風に乗ってこの世とあの世を行き来する神通力を有しておられ、昼は宮中に赴き、夜は閻魔の庁に仕えたとの伝説を残しておられます」とのこと。
え? 小野篁が冥界に行くのは六道珍皇寺にある井戸からじゃなかったの? というツッコミは無しにしましょう。
井戸に入ったとたんに風になるのかもしれません。かつて「千の風になって」というアニメ映画の歌が流行りましたが。
そしてその「風」の連想から最終日には風鈴を供養するお祭が行なわれます。
毎年7月、千本ゑんま堂では「風祭り」として篁卿が閻魔宮へ赴かれる時間帯に本堂を公開し、本尊である閻魔法王像を特別開扉しているのです。
お寺のホームページには下記の記載があります。
≪風祭り
7月1〜16日 夜間特別拝観・風鈴供養
ゆるやかに暮れ行く夏の夜。心に染みる風鈴の韻と心に広がる香の薫りを愉しみながら雅やかな風を感じてみませんか。
本尊開扉:午後6時30分より
午後6時より受付開始
香を楽しむ会
西陣音頭体験会
参加料 大人1,000円 中学生以下600円
浴衣または着物でご参拝の方に特典有り。
風鈴供養会:最終日午後6時30分より法要
古くなった風鈴や、ご家庭で眠っている風鈴を当山までお納め下さい。≫
太陽が沈む頃、風祭りが始まります。
日が沈む時に始まる祭りというのも珍しいかも。
本尊開扉のほか、梶の葉祈願もあります。これは願い事を書いた梶の葉が月に照らされるとその願いが叶うという祈願です。
さらに最終日には古くなった風鈴や、家で眠っている風鈴を奉納する風鈴供養会が営まれます。「針供養」があり「櫛供養」もある。そして鶏料理屋さんがやる「鶏供養」もある。だから「風鈴供養」があっても少しもおかしくありません。
趣向を凝らした本尊のライトアップや、オリジナル曲「風のまつり」の奉納もあります。
ここの住職さんは音楽CD『えんま様が見てござる』を出した事もある由。アニメ映画の真似をして「千本の風に乗って」とかいうのも出せば如何でしょうか。
ところで、このお寺の閻魔像は当初のものは応仁の乱で焼失し、現在のお像は長享2年(1488)に出来た2代目です。
閻魔さんが燃えてしまってあの世へ行けば、どうなるんでしょうね。
このお寺の説明によると、「百人一首の歌人として知られる小野篁卿は、風に乗ってこの世とあの世を行き来する神通力を有しておられ、昼は宮中に赴き、夜は閻魔の庁に仕えたとの伝説を残しておられます」とのこと。
え? 小野篁が冥界に行くのは六道珍皇寺にある井戸からじゃなかったの? というツッコミは無しにしましょう。
井戸に入ったとたんに風になるのかもしれません。かつて「千の風になって」というアニメ映画の歌が流行りましたが。
そしてその「風」の連想から最終日には風鈴を供養するお祭が行なわれます。
毎年7月、千本ゑんま堂では「風祭り」として篁卿が閻魔宮へ赴かれる時間帯に本堂を公開し、本尊である閻魔法王像を特別開扉しているのです。
お寺のホームページには下記の記載があります。
≪風祭り
7月1〜16日 夜間特別拝観・風鈴供養
ゆるやかに暮れ行く夏の夜。心に染みる風鈴の韻と心に広がる香の薫りを愉しみながら雅やかな風を感じてみませんか。
本尊開扉:午後6時30分より
午後6時より受付開始
香を楽しむ会
西陣音頭体験会
参加料 大人1,000円 中学生以下600円
浴衣または着物でご参拝の方に特典有り。
風鈴供養会:最終日午後6時30分より法要
古くなった風鈴や、ご家庭で眠っている風鈴を当山までお納め下さい。≫
太陽が沈む頃、風祭りが始まります。
日が沈む時に始まる祭りというのも珍しいかも。
本尊開扉のほか、梶の葉祈願もあります。これは願い事を書いた梶の葉が月に照らされるとその願いが叶うという祈願です。
さらに最終日には古くなった風鈴や、家で眠っている風鈴を奉納する風鈴供養会が営まれます。「針供養」があり「櫛供養」もある。そして鶏料理屋さんがやる「鶏供養」もある。だから「風鈴供養」があっても少しもおかしくありません。
趣向を凝らした本尊のライトアップや、オリジナル曲「風のまつり」の奉納もあります。
ここの住職さんは音楽CD『えんま様が見てござる』を出した事もある由。アニメ映画の真似をして「千本の風に乗って」とかいうのも出せば如何でしょうか。
ところで、このお寺の閻魔像は当初のものは応仁の乱で焼失し、現在のお像は長享2年(1488)に出来た2代目です。
閻魔さんが燃えてしまってあの世へ行けば、どうなるんでしょうね。
- 立誠シネマに行ってみよう〜またもや京都の小学校が新たに甦った〜
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エリア:
- 近畿>京都>洛中(四条河原町・二条城)
- 近畿>京都>洛東(祇園・清水)
- テーマ:観光地 鑑賞・観戦 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/06/14 18:23
- コメント(0)
京都というのは「日本で初めて〇〇をやった」というのが多い。日本で初めて市電が走ったとか、日本で初めて水力発電所を作った(世界でも2番目)とか。さらには日本で初めて公立のオーケストラ、京都市交響楽団(京響)を作ったとか。珍しいのでは明治10年(1877)日本で初めて人を乗せた軽気球を飛ばせた(島津製作所)とか。
もちろん、日本で始めて小学校を作った(明治2年)のも京都ですが、日本で始めて映画が上映されたのも京都。
明治30年に日本で初めて映画が上映された場所が、木屋町通りにある立誠小学校の講堂でだった。残念ながら学校としては閉校になりましたが、校舎は残っています。
そこで、一体どんな映画が上映されたのかが気になるところですが、どうもストーリー性のあるものではなく、単に人や物が動いているだけの映像だったらしい。文字通りの「活動写真」だったか。
さて、この立誠小学校はすでに閉校になっていましたが、新たに映画学校・映画館として生まれ変わりました。
これは龍池小学校が漫画ミュージアムになったり、明倫小学校が芸術センターになったのと同じです。
建物はかつての小学校のまま。
前には高瀬川が流れている。
そして高瀬川を開削した角倉了以の顕彰碑も。
さらには「高瀬川の沿革」という大パネルまで。
門を入れば映画の看板。
教室がミニシアターになったのですね。とは言うものの、全教室ではなくひとつだけのようですが。
ここで3Dが観れるなんて思わないでください。確かめてはいませんが、無理でしょう。
だいたい3Dなんて、2時間ほども脳に正常ではない認識をさせるのですから、こればっかり観てるとそのうちパーになりますよ。やたらお金をかけてコケおどしのド派手な画面を見せるだけではスケールが大きいとはいわない。
スケールが大きいというのは、たとえば、アルフッド・ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」や「引き裂かれたカーテン」でしょう。
このシネマではお金はなくてもアイデアはある、といったコケおどしではない作品を見せてもらいたいものです。
校舎(シアターというべきか)の中を歩いているとかつての校歌のパネルが。これを寄贈した卒業生たちは学校が閉校になって映画館になるとは夢にも思っていなかっただろうな。
ひとつだけ苦言を呈すると、トイレが一ヶ所しかないこと。あまりにもレトロな小学校の校舎をそのまま使っているので仕方ないのですが、いすせれ改善が必要になるでしょう。
さて、ここの特徴は映画学校も併設していること。
学校としては俳優・演技クラス、企画・脚本クラス、配給・宣伝クラスがある。配給と宣伝のノウハウも教えるというのがミソか。
各クラス8回〜15回の授業で、52500円〜115500円まで。まあ高いか安いかは私には分りません。この授業料を高くするのも安くするのも受講者のやる気次第でしょう。
しかし、募集期間の延長をしていたクラスもあるので、一般的には高く感じるのかな。それと、「卒業後」のアフターケアがどうなっているのか。
監督ではなく企画と脚本のコースがあるというのもいい。でも、演技や脚本は他にも学校がありますよね。大丈夫かな。
何はともあれ、ここから巣立った人たちによって京都が「日本のハリウッド」として再生する時が来るか?
もちろん、日本で始めて小学校を作った(明治2年)のも京都ですが、日本で始めて映画が上映されたのも京都。
明治30年に日本で初めて映画が上映された場所が、木屋町通りにある立誠小学校の講堂でだった。残念ながら学校としては閉校になりましたが、校舎は残っています。
そこで、一体どんな映画が上映されたのかが気になるところですが、どうもストーリー性のあるものではなく、単に人や物が動いているだけの映像だったらしい。文字通りの「活動写真」だったか。
さて、この立誠小学校はすでに閉校になっていましたが、新たに映画学校・映画館として生まれ変わりました。
これは龍池小学校が漫画ミュージアムになったり、明倫小学校が芸術センターになったのと同じです。
建物はかつての小学校のまま。
前には高瀬川が流れている。
そして高瀬川を開削した角倉了以の顕彰碑も。
さらには「高瀬川の沿革」という大パネルまで。
門を入れば映画の看板。
教室がミニシアターになったのですね。とは言うものの、全教室ではなくひとつだけのようですが。
ここで3Dが観れるなんて思わないでください。確かめてはいませんが、無理でしょう。
だいたい3Dなんて、2時間ほども脳に正常ではない認識をさせるのですから、こればっかり観てるとそのうちパーになりますよ。やたらお金をかけてコケおどしのド派手な画面を見せるだけではスケールが大きいとはいわない。
スケールが大きいというのは、たとえば、アルフッド・ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」や「引き裂かれたカーテン」でしょう。
このシネマではお金はなくてもアイデアはある、といったコケおどしではない作品を見せてもらいたいものです。
校舎(シアターというべきか)の中を歩いているとかつての校歌のパネルが。これを寄贈した卒業生たちは学校が閉校になって映画館になるとは夢にも思っていなかっただろうな。
ひとつだけ苦言を呈すると、トイレが一ヶ所しかないこと。あまりにもレトロな小学校の校舎をそのまま使っているので仕方ないのですが、いすせれ改善が必要になるでしょう。
さて、ここの特徴は映画学校も併設していること。
学校としては俳優・演技クラス、企画・脚本クラス、配給・宣伝クラスがある。配給と宣伝のノウハウも教えるというのがミソか。
各クラス8回〜15回の授業で、52500円〜115500円まで。まあ高いか安いかは私には分りません。この授業料を高くするのも安くするのも受講者のやる気次第でしょう。
しかし、募集期間の延長をしていたクラスもあるので、一般的には高く感じるのかな。それと、「卒業後」のアフターケアがどうなっているのか。
監督ではなく企画と脚本のコースがあるというのもいい。でも、演技や脚本は他にも学校がありますよね。大丈夫かな。
何はともあれ、ここから巣立った人たちによって京都が「日本のハリウッド」として再生する時が来るか?
- 京の五条の橋の上〜弁慶像の股間のモノは小さかった、そして戦いの本家争いとは?〜
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エリア:
- 近畿>京都>洛東(祇園・清水)
- 近畿>京都
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/06/08 21:04
- コメント(0)
民族のアイデンティティーとは何ぞや、と大上段に振りかぶってしまうと嫌われるかもしれませんが、要するに、どんなにカタカナ語やラテン文字の表記が増えても誰もが桃太郎や浦島太郎の話を知っている、これが民族のアイデンティテイーですね。
そこで今回は牛若丸と弁慶の話です。
京都にお越しの方はもうご存知でしょうが、五条大橋のすぐ近くに牛若丸と弁慶の像があります。歌にあるとおりですね。
ところで、この弁慶像のほうですが、ちょっと悲哀に満ちている。何かと言うと、股間のモノなのです。
あまりにも小さい。写真でお分かりでしょうか。
これでは弁慶さんが可哀そうではありませんか。別に信楽のタヌキ並みにしろとは言いませんが、もう少し「立派」なものを付けてあげればどうか。このスモールサイズはないやろう、と思います。
さて、これも「京都通」の方ならすでにご存知でしょうが、平安時代の五条通は今の通りではなく、もうひとつ北側の現在の松原通が五条通でした。豊臣秀吉が政権を取った時に名前が変わってしまったのですね。
秀吉は通りの名前を変えるつもりはなく、ただ橋を架け替えただけ。ところが橋の位置が変わっても京都の人はそれまでどおりその橋を「五条の橋」と言い続けた為、それに引っ張られて通りの名まで「五条通」に変わってしまったと。
そこで問題です。
今の五条通の商店街は当然といえば当然ですが牛若丸と弁慶がシンボルになっています。幟もそのデザインですね。
これに対して平安時代の、本来の五条通でもある今の松原通でもやっぱり牛若丸と弁慶をシンボルにした旗を出しています。
これって、本家争い?
まあどこぞのお家元や老舗会社のように「骨肉の争い」をしているわけではありませんが、むしろ「本家争い」を売り物にしたほうが話題性もあり、人も集まるのではないか、なんて無責任な事を考えている今日この頃です。
ところで、五条坂を上っていって清水寺に行く途中、やはり牛若丸と弁慶が登場します。『義経記』では五条通の対決では引き分けた牛若丸と弁慶が清水の舞台でリターンマッチをやって牛若丸が勝つことになっています。その関係でこんな人形も出来たのですね。
この人形は時間が来ると出てきて対決をします。電気仕掛けなのです。清水坂のどこにあるか、今度行かれる時に探してみては如何でしょうか。
そこで今回は牛若丸と弁慶の話です。
京都にお越しの方はもうご存知でしょうが、五条大橋のすぐ近くに牛若丸と弁慶の像があります。歌にあるとおりですね。
ところで、この弁慶像のほうですが、ちょっと悲哀に満ちている。何かと言うと、股間のモノなのです。
あまりにも小さい。写真でお分かりでしょうか。
これでは弁慶さんが可哀そうではありませんか。別に信楽のタヌキ並みにしろとは言いませんが、もう少し「立派」なものを付けてあげればどうか。このスモールサイズはないやろう、と思います。
さて、これも「京都通」の方ならすでにご存知でしょうが、平安時代の五条通は今の通りではなく、もうひとつ北側の現在の松原通が五条通でした。豊臣秀吉が政権を取った時に名前が変わってしまったのですね。
秀吉は通りの名前を変えるつもりはなく、ただ橋を架け替えただけ。ところが橋の位置が変わっても京都の人はそれまでどおりその橋を「五条の橋」と言い続けた為、それに引っ張られて通りの名まで「五条通」に変わってしまったと。
そこで問題です。
今の五条通の商店街は当然といえば当然ですが牛若丸と弁慶がシンボルになっています。幟もそのデザインですね。
これに対して平安時代の、本来の五条通でもある今の松原通でもやっぱり牛若丸と弁慶をシンボルにした旗を出しています。
これって、本家争い?
まあどこぞのお家元や老舗会社のように「骨肉の争い」をしているわけではありませんが、むしろ「本家争い」を売り物にしたほうが話題性もあり、人も集まるのではないか、なんて無責任な事を考えている今日この頃です。
ところで、五条坂を上っていって清水寺に行く途中、やはり牛若丸と弁慶が登場します。『義経記』では五条通の対決では引き分けた牛若丸と弁慶が清水の舞台でリターンマッチをやって牛若丸が勝つことになっています。その関係でこんな人形も出来たのですね。
この人形は時間が来ると出てきて対決をします。電気仕掛けなのです。清水坂のどこにあるか、今度行かれる時に探してみては如何でしょうか。
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