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みゅうローマ発信 現地情報

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みゅうローマ
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ヨーロッパ>イタリア>ローマ
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みゅうローマ
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Myu Rome
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ヨーロッパ>イタリア>ローマ
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+39-335-750-1984
業種:
旅行業
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イタリア国内の旅行関連手配をしています。オリジナル定期観光バス・みゅうバス、レストラン、通訳、ガイド、アシスタント、送迎サービスなどを手配しています。何なりとご相談下さい。

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精神病院
【2021年・ブログ観光】ピサの元精神病院と一人のアーティスト
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
テーマ:街中・建物・景色 その他 歴史・文化・芸術 
投稿日:2021/02/25 00:00
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先日ピサ県ヴォルテッラ市にあった元精神病院を見学してきました。

 

現在は廃墟になっている元精神病院

 

1888年創設の歴史ある精神病院で、最大時には、イタリア中から患者が集まり4000人以上が40の建物に分かれて住んでいました。

比較的症状が軽い人は、敷地内でパンを作ったり、洗濯したり、庭師などの技術も身につけています。

いくらかの給料がもらえ、町に食料を買いに行くこともできたそうです。

日曜には恒例の看護士対患者のサッカーも行われ、病院関係者の家族もお弁当を持ってここに来て、みんなで食べていたそうです。

 

ちょっとほっとしました。

 

博物館には、患者の着ていたシャツとか、電気ショック療法のための機械なども置かれています。

 

でも今回、注目をしたのは1人のアーティストです。

 
 

Foto da Manicomio di Volterra autorizzato

フェルナンド 若い頃の写真

 

フェルナンド・オレステ・ナンネッティは、父親を知らずに1927年ローマで生まれました。7歳の時に母にも捨てられてしまいました。

 

その後、孤児院に入り、10歳で精神に支障があると判断されました病院で重症の脊髄炎が見つかり長い入院生活を余儀なくされています。

1948年には、警官に反抗したという理由で裁判にもかけられますが、精神異常という判断で、訴訟は却下され、ローマの精神病院に入ります。

 

そして、1958年にヴォルテッラの精神病院に移ります。

 

ここに滞在中に、病院の壁にグラフィックデザインを刻み始め、これが芸術的にも、歴史の資料としても評価されています。

 

アーティスト名、NOF4としても知られています。

 

1973年にこの精神病院を退院して、ヴォルテッラの町に住み、1994年に生涯を終えました。

 

病院の外壁のグラフィック

 

彼は、病院の外壁に、制服の一部だったベルトのバックを使いながら、文字や絵、数字を刻みます。

 

これは、大きな壁に書かれた日記、そして手紙なのです。手紙のあて先は、空想上の高貴な両親です。

 

彼のサインは、NOF4

 

名字、名前の頭文字に数字の4を加えたもの。

4は、ここに入館した時に与えられた彼の個人番号だそうです。

 

時には、宇宙工学鉱山技師になったり、英雄の大佐になったり、核泥棒になったりしながら、左から右へ、右から左へ、自由自在に刻んでいきます。

 

長さは180メートル、高さは2メートルにも及びます。

 

そこには、ファンタジーあふれる話や、解読不可能なものもあるのですが、中にはこんな記述もあります。

 

「病院の中の人の10%がテレビから出ている磁気放射によって死に、40%の人が他人から病気を移されて、または他人に病気を移して死に、あとの50%の人は、他人に対する、または自分に対する憎しみや怒りによって死んでいく。」

 

どきっとさせられる言葉です。

 

近くの川の石を拾ってきて患者たちが造った庭の階段

 

1978年のバザーリア法により、精神病院が閉鎖されたあと、美術研究者が作品の重要さに気づき、写真を撮り保存しました。

1985年には本も出版され、彼にも報酬が届きましたが、受け取りを辞退しています。その後、彼の作品は映画に使われたり、ドキュメンタリー映画が製作されたりもしています。

現在では、大変稀で、重要なアウトサイダーアートとして評価されています。

 

グラフィック以外に彼の残した手紙やメモは、1700ページにも及びました。

死後、その大部分が紛失してしまっていますが、すべてがコピーされ保存されています。

 

建物に刻まれたグラフィックは、病院閉鎖後、徐々に崩れてしまい、2011年には53メートルのみが残りました。

2012年から壁をはがして、博物館に移しています。

 

こうして歴史的にも文化的にも貴重な資料を保存する方向に作業がすすめられています。

 

壁を保存するためにも、機会がある方は、ぜひ訪れて見てください。

 

見学 月、水、金 一日三回 予約要 イタリア語ガイド付き

見学時間 2時間半。金額 10ユーロ

*ここでのチケット代金は、壁の保存に使われます。

 


男の横顔
2021年【ブログバーチャル観光】ミケランジェロの〇〇な説
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2021/02/21 00:00
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こんにちは。フィレンツェガイドの福島です。

 

今回は、ヴェッキオ宮殿の正面入り口右側、ニンナ通り(Via della Ninna)の 近くの壁の目立たない場所に彫り込まれた男の横顔についてお話したいと思います。

 

 

伝説では、これはミケランジェロが彫ったと言われています。

 

幾つか説はありますが、今回は2つ有名な説をご紹介します。

 

まず一つ目の説は、ミケランジェロは自分の仕事場に行くために、このニンナ通りをよく通っていたそうです。

 

そこにはいつもミケランジェロを質問攻めにしたり、つまらないリクエストで邪魔をしたり、お金を要求したりする彼を悩ませる男がいたそうで、いつもよけて通らなければなりませんでした。

 

ある日ミケランジェロはこのいつも邪魔をしてくる男の横顔を、ヴェッキオ宮殿の壁に彫り込んでやろうと思い彫刻刀を持参することにします。

 

ここでミケランジェロは才能を見せます。

 

彼の存在に嫌気がさしたミケランジェロは、彼の話を聞いているふりをしながら、背中に腕を回し後ろ向きでこの横顔を彫ったのです。

 

男はそれに気づいて「おお、私の鼻はこんなに大きくない」と文句をつけたそうですが、それに対してミケランジェロは「私の指には目はないんですよ」と言い返したそうです。

 

その日を境に、この男はミケランジェロを邪魔しなくなったと言われいます。



もう一つの説は「罪人の顔」と言われています。

 

 

ミケランジェロは借金で首が回らなくなった罪人が、偶然シニョリーア広場を通っているのを見かけます。

 

この罪人には、ミケランジェロ自信もお金を貸していたと思われます。

 

この罪人は木のけたに結び付けられており、広場のポルティコの下で(Loggia dei Lanzi)で処刑されるところでした。

 

処刑の方法は、2つの木のけたに手と頭を結び付け、首にはその罪を書いた札をぶら下げられた罪人が、市民にののしられたり体罰を与えられたりするものでした。

 

ミケランジェロは見張りの役の男に「どのくらいこの男は木に縛りつけられているのか?」と聞き、答えを聞くと「それは短すぎる」と言ったそうで、フィレンツェの人がずっと彼のことを忘れないよう不滅にする為にこの横顔を彫り込んだとも言われています。

 

どちらにしろちょっとユーモアがありますね。ヴェッキオ宮殿に行ったら是非この顔を探してみて下さい。


カーヴォロ・ネーロ
【おうちごはん】家で作れる本場のイタリアン!カーヴォロ・ネーロのパスタペースト
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
テーマ:留学・長期滞在 グルメ 自然・植物 
投稿日:2021/02/19 00:00
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こんにちは!フィレンツェのガイド岡本です。

 

こちらでは今年は早くも1月の末には

ミモザが開花しましたが、まだ結構寒い日が多く

春まではもう一息です。

 

そこでこの季節ならではの食材を使った

パスタなどに使える簡単なペーストのお話です。

 

イタリアンのペースト、といえばなんと言っても

爽やかなバジリコのペースト、ジェノベーゼですが、

冬には旬の冬野菜を使ってみるのもオツなものです。

 

冬にトスカーナ地方を中心とする中部イタリアに出回る

カーボロ・ネーロ、黒キャベツ。

 

アブラナ科の野菜で日本でまったく同じものは見かけないかもですが、

国内でも一部で生産されているケールの仲間です。

 

 

黒キャベツといえども、実際は黒ではなく美しい深い緑色。

"私には大地の恵みが凝縮されています!"という主張が

感じられるかのようです。

 

いわゆる一般的なキャベツよりも味わいが濃く、

単にゆでてオリーブオイルとレモン汁などで和えて

食べるのも美味しいですし、こちらトスカーナ地方の

郷土料理のリボッリータ(パンと野菜の煮込み料理)の材料にも

欠かせませんが、フィレンツェのどこかのレストランの

メニューにこのペースト、というメニューがあったことを

思い出し、作ってみました。

 

 

松の実ニンニク少量唐辛子少々をフードプロセッサーで攪拌し、

あらかじめ2,3分ゆでて冷ました黒キャベツの葉とそのゆで湯少々を

加えてさらに攪拌。

器に取り出してオリーブオイル(できるだけ良質の)適宜を混ぜて

ペーストにちょうど良い濃度にします。

 

 

このままでもパンに塗るだけでもとっても美味しいですが、

是非ゆでたパスタに和えましょう!その時にはやはり

パルメザンチーズをプラスするとコクが出ます。

 

 

写真ではリングイネを使っていますが、フジッリなどの

ショートパスタにもバッチリです。

 

日本ではケールで類似のものが作れると思います。

 

そして是非イタリアにいらっしゃった際には

カーボロ・ネーロを使った本場のお料理を

食べてみてくださいね!

 


リドルフォ・デル・ギルランダイオ
【2021年・ブログバーチャル観光】フィレンツェ 洗礼堂の近くにある3本の柱
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2021/02/18 00:00
コメント(0)

洗礼堂の北側にサンザノビの柱と呼ばれている白い大理石の柱があります。

 

 

サンザノビはフィレンツェで最初の司教で、4世紀の半ばにフィレンツェで生まれました。

 

裕福で権力のあるのジロラミ家(Girolami)出身で、旧市街のランベルテスカ道りに家をもっていました。

 

ここには現在でもジロラミ家の片隅(Canto de’Girolami)と言う碑が残っていて、彼らに捧げられた通り、ジロラミ通り(Via de’Girolami)も残っているので重要な一族であったことがわかります。

 

サンザノビは幾つかの教会(例えばサンロレンツォ教会)を建て、さらにはフランス人の巡礼者の息子を生き返らせたなど、色々な奇跡も起こしました。

 

そして417年から429年の間に亡くなります。

 

伝説によると、聖人の遺体を420年にサンロレンツォ教会からサンタレパラータ教会(現在のドゥオーモができる前にあった小さな教会)に運んでいる時に、サンジョバンニ広場に一本の枯れたにれの木があり、遺体を入れたお棺がこの木に触れた突端に、木に葉がつきだしたと言われていいます。

 

この奇跡の話はアカデミアび美術館にあるリドルフォ・デル・ギルランダイオの絵にも描かれています。

 

 

その木はその後何百年もありましたが、イベントを記念して、最初の柱が御影石で作らました。

 

しかし、1333年の洪水で傷んだ為、現在残っている白い大理石の柱に作り替えられました。

しかし実際に彼の遺体が運ばれたのは9世紀くらいであったとも言われています。

 

現在、彼の遺体はサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会のロレンツォ・ギベルティが作った壺の中にあります。

 

もう2つの柱は、洗礼堂の天国の扉の両脇にある斑岩の紫色の柱です。

 

 

斑岩はとても貴重な石で、当時のフィレンツェではとても珍しい大理石でした。

 

↑拡大した写真。

 

フィレンツェとピサはずっと敵対関係でしたが、1117年にピサの町がフィレンツェの町にこの2本の柱を贈ります。

 

これはバレアレス諸島(スペインのマヨルカ島)にてサラセン人の海賊(イスラム教徒)と戦っていたピサ共和国をフィレンツェが助けて勝利を導いたお礼に贈ったものです。

 

この2本の柱はマヨルカ、ミノルカからの戦利品でとても光沢があったため、その反射で法で罰せられなかった人達の顔が見えるという特別な柱でした。

 

フィレンツェ人はこれを、まずアルノ川を船で運び、そこから壊さないよう注意してさらに運んだ末には、大きなお祭りを行う予定でした。

 

ところがフィレンツェ人が着いた柱を見ると実際には罰せられなかった罪人の顔が見えるわけでもなく、くすんだ色の何も反射しない柱だったのです。

 

何故ならばピサ人はいやいやこの光沢のある柱を贈ったので、フィレンツェに船で運ぶ前の日に、この柱の周りに大きな火を焚いてその輝きを消してしまい、反射しないように、何も見えなくなるようにしてしまったのです。

 

これは贈り物ではなくて詐欺である、と言うことでこの2つの都市の間に根深い憎しみが生まれてしまいました。

 

2世紀たってもフィレンツェ人の怒りは収まらず、1362年にフィレンツェ軍がピサの港を征服したときに、港の大きな2つの錨をフィレンツェに運び、この2つの柱にかけておきました。

 

ここからフィレンツェ人は、ピサ人をめくらで裏切り者だと言うようになったそうです。<


スキアッチャータ・アッラ・フィオレンティ
【2021年イタリア】フィレンツェのカーニバル時期ならではのお菓子をご紹介!
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
テーマ:お祭り・イベント 留学・長期滞在 グルメ 
投稿日:2021/02/11 00:00
コメント(0)

こんにちは!フィレンツェの食べること大好きなガイドの岩本です。

 

 

カーニバル(謝肉祭)の時期です。

 

 

華やかな仮面をつけた、仮装のお祭りみたいに思ってらっしゃる方も多いかもしれませんが、キリスト教の宗教行事の一つなんです。

 

 

カーニバルという言葉は、 carne(肉)levare(取る)という二つの単語からできてます。

 

 

肉断ちをするという意味で、日本では謝肉祭と訳されてます。

 

キリストが復活される前に四旬節(40日間)という生活を質素にしたり禁欲したりして心身を清める浄化期間の前に、身分や性別、素性を隠すために仮面をつけて、みんなでドンチャン無礼講を楽しんでしまおうという趣向です。

 

2021年のカーニバルは1月30日から2月16日までです。

 

 

ここフィレンツェの、カーニバル時期ならではのお菓子をご紹介しましょう。

 

 

 

 スキアッチャータ・アッラ・フィオレンティーナ

(Schiacciata alla Fiorentina

 

 

本来はカーニバル最後の日に食べるスポンジケーキの一種ですが、最近はカーニバル中はどこのバールでも楽しめます。

 

フィレンツェの紋章が粉砂糖か粉ココアで配われて(あしらわれて)います。

 

 

この紋章の切り抜き型、今回は自家製です!

 

 

 

チェンチ(Cenci )

 

イタリア中で作られている薄いサクサクした揚げ菓子です。

 

トスカーナではチェンチ(Cenci)と呼ばれ、地域で呼び名が変わります。

ブジエ(Bugie)、フラッペ(Frappe)、キアッケレ(Chiacchere)、ガラーニ(Galani)、等々約30以上の呼び名があるんですよ。

 

大事なのは2mm以下の薄さに伸ばして揚げること!

 

口の中でほろほろと溶けていき、ついもう一枚もう一枚と手が伸びてしまいます。

 

ちなみにチェンチ(cenci)の意味はボロ切れという意味で、そう言われたら使い古しの穴あき擦り切れ布のような見かけですね。

 

二つともシンプルな材料なのでおうちでもよく作ります。

 

この日曜日の親戚の家でみんなで作って食べました。

 

でもバールやパン屋さんでも量り売りで召し上がることができるんですよ。

 

これらのお菓子のお供にはヴィンサント(vinsanto)という4年以上熟成させる甘口デザートワインがピッタリです。

 

 

カーニバルの時に皆さんがトスカーナにいらしたら、是非お試しくださいね!


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