ナポリと鹿児島市が、町と火山との深い関わりから姉妹都市協定が結ばれているということは、皆さんもご存知かもしれません。
そんな絆から、鹿児島市には「ナポリ通り」という大通りがあり、ナポリにはVomero地区に「鹿児島通り(via kagoshima)」があります。
海の向こうに火山を臨む二つの町の景色は、どちらかを良く知る人にとって、一方を見るともう一方を思い出させるものなのではないでしょうか。
市民の誇りでもあるこの雄々しい火山、ヴェスヴィオ山が今から2000年前に歴史的な大噴火を起こし、皮肉なことにその不幸が古代ローマの人々の日々の姿を後世の私たちに遺したのです。
その悲劇の町が、ポンペイ。ナポリの中心街からはヴェスヴィオ火山を挟んで南側に位置した町です。
紀元79年、大噴火による火砕流で町は一瞬にして地に埋まり、地中に眠ったポンペイは18世紀半ばに発見されるまで、当時の人々の生活をそのまま保存しました。
パン屋にバー、劇場から公衆浴場まで存在し、下水道などのインフラも整っていたというこの町が噴火によって姿を消した時代が、
日本では弥生時代だったことを考えると、ローマ帝国がどれほどに裕福な国だったのかと感服させられます。
ポンペイで一度目にすると忘れられなくなるのは、都市の姿ばかりではありません。
時速100kmを越える速さで襲い掛かった火砕流は、人々に逃げる間も与えずに一瞬で彼らを飲み込み、巻き込まれた人の形を残して固まりました。
何世紀の時を経て彼らのいた場所は空間となり、そこに石膏が流し込まれ、その人々の痛々しい姿が再現されているのです。
楽しいだけでは終わらないポンペイの旅ですが、何ものにも代えられない貴重な体験になるはずです。
Ancient Pompeii ポンペイ遺跡
火山灰の街ポンペイ
- 投稿日2015/10/27
- 更新日2015/11/30
古代ローマ人の邸宅、商店、居酒屋、通り...1600年間眠っていた世界遺産の街
- 投稿日2015/10/27
- 更新日2019/02/07
ポンペイは18世紀に発掘が始まるまで、1600年余り灰に埋まっていた街です。
紀元1世紀当時は周囲3キロの城壁に囲まれた、人口一万五千人ほどの地方都市でした。
といっても、紀元前89年にローマ支配下の自治都市となる以前から、
地中海の交易都市として栄えていたといいます。
歩きはじめてまず驚かされるのが、道路です。
少しすり減って丸くなった敷き石に馬車のわだちが残る車道と、
その両脇に30センチほど高い歩道があります。
歩道と同じ高さで車道に飛び石が並んでいるのは、横断歩道です。
石と石の間は、馬車の車輪が通り抜ける幅だけ開けられています。
地図を片手にフォロ(公共広場)や神殿を見てまわったあとは、ドムス(邸宅)を訪ねましょう。
第Ⅵ地区が最古の住居地区で、紀元前3世紀から400年間にわたって建てられた邸宅が並びます。
ファウヌスの家など、列柱の並ぶ庭園や泉水を置く中庭の周囲を食堂や寝室が囲み、
フレスコ画の壁画や大理石の床のモザイクで飾られた邸宅では、
貴族階級や新興商人たちの豪奢な暮らしを垣間見ることが出来ます。
エルコラーノ門の外には、「ポンペイの赤」として有名な壁画が描かれた、広壮な秘儀荘があります。
スタビア通り沿いは商業地区です。
モデストのパン屋では挽き臼や焼き釜などの設備が整い、
システマティックにパンが製造されていたことがわかります。
焼き釜からは、8等分に切れ目を入れた丸いパンが81個見つかっています。
スタビア通りを南に下ると、スタビアーネ浴場やルバナーレ(娼館)小路が、
さらに南には大小の劇場があります。
アッボンダンツァ通り界隈には、住居・店舗・作業場・工場などが入り混じっていますが、
歩き疲れた私たちも是非立ち寄ってみたくなる一角があります。
現代のイタリアの街角にもなくてはならないバール、居酒屋です。
アッボンダンツァ通りをまっすぐ東に進み、サルノ門に突き当たる一本手前を右折すれば、
二万人を収容した円形闘技場が迎えてくれます。
こうして歩いていると、舗装された道路を荷を積んだ馬車がガタゴト音を立て、
仕事を終えた人々がフォロに集って政治談議に花を咲かせ、
旅人や外国人に交じって居酒屋でワインの杯を傾け、
裕福な人々は夜ごと館で饗宴を重ね、
そして、貴族も庶民も等しく公衆浴場で汗を流し、
演劇や剣闘士試合に熱狂している姿が、目の前に浮かんできます。
そんな豊かな日常は、紀元79年8月24日に終わりを告げます。
午前中から始まった地響きに続き、午後1時過ぎにヴェスヴィオ山が噴火した時、
多くの人は取るるものもとりあえず(居酒屋のカウンターに小銭を残したまま)逃げ出しました。
けれども、堅牢な邸宅を過信した人たちは、上階や地下室に非難することを選びます。
深夜になっても収まる気配のない噴火に、ようやく彼らも逃げようとするのですが、時すでに遅く、
二メートルにも体積した火山灰や礫とともに、火砕流にのみ込まれてしまうのです。
こうした人々の姿は二千年の後に、人体が残した空洞に石膏を流し込むことによって、
リアルな様子で取り出されました。
なかには鎖に繋がれたままの犬や、剣闘士との密会の場にとどまった、
宝石をまとった貴婦人もいたといいます。
★アクセス:ナポリ中央駅の地下から出ているヴェスヴィオ周遊鉄道(Circumvesuviana)が便利。
ソレント行きに乗り、ヴィッラ・デイ・ミステリ駅(Stazione Villa dei Misteri)で下車、遺跡入り口のマリーナ門まではすぐ。
所要時間は40分前後。30分に一本程度出ている。
★オープン時間:
4月1日~10月31日/9:00~19:30(入場は18:00まで)
11月1日~3月31日/9:00~17:00(入場は15:30まで)
★クローズ:1月1日、5月1日、12月25日
※遺跡は日差しを遮るものが無いので、夏季は暑さ・日焼け対策と水分補給をお忘れなく。
また、足元は時代を経て摩耗した「舗装」道路をなので、歩きやすい靴でお出かけください。
参考サイト:http://www.pompei.it/pompeii/pompeii-excavations.htm
毎年200万以上もの観光客が訪れているユネスコの文化遺産
- 投稿日2015/10/25
- 更新日2015/11/30
ポンペイは、紀元前79年のヴェスーヴィオの噴火で一昼夜降り続いた火山礫と火山灰が3m以上も積もり、その下に埋まってしまった町です。
紀元前6世紀頃は、まだサムニウム人の支配下にあったところを、後にローマと同盟を結び、紀元前4世紀にはローマ人による最初の市街整備が行われました。ローマ人達のこの街への関連性は、今日のポンペイ遺跡から生き生きと見て取れます。しかし2000年以上も昔の街が、これほどに鮮やかに私たちの前に存在するのは、皮肉にも件のヴェスーヴィオの噴火のせいです。この時にポンペイの街を覆い尽くし、降り積もった火山礫、火山灰が、湿気を吸収し、芸術品を劣化から守る結果になったのです。国立ナポリ考古学博物館に展示されているフレスコ画や彫刻、壺などあらゆる芸術品を通して、当時のポンペイに住む人々、そしてローマ人達の生活を私たちは知ることが出来、遠い昔に思いを馳せ、ロマンスすら感じることが出来ます。
街全体が残されていて、どのような家に住んでいたかも知ることが出来ます。富裕層はアトリウム付の屋敷に住み、通常中庭には噴水が設置されていました。大きな浴場もあったようです。中流層はそこまではありませんが、中庭付。商人らの層は、通りに面した店の後ろに生活する場があったとか。また、街には軽食を食べさせてくれる食堂や、バールのようなところもあり、どのように生きていたかを私たちに知らしめます。コロッセオのような円形劇場もあり、ここでコンサートやお芝居などが催されていました(そういえば現代では、「Pink Floyd live at Pompei」もありますね)。
しかし、石膏で復元した遺体を見るとき、この街に起こった悲劇がどれだけの規模であったかをも想像出来、このような自然脅威から逃れることは、古今東西非常に困難なであるとも思い知らされます。
広大な遺跡は、文字通り1つの街の跡ですので、全て見学するつもりなら、丸1日かかります。時間が無い方には、2時間コース、半日コースがサイトに示されているので、そちらを参照されるとよいでしょう。
HP: http://www.pompeiisites.org/index.jsp?idProgetto=1
見学時間
4月1日〜10月31日: 8.30/9.00※ 〜19.00 (最終入場時刻 18.00)
11月1日〜3月31日: 8.30 〜 17.00 (最終入場時刻15.30)
※夏時間
入場料(1日有効): 通常料金13€、割引料金7,50€
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ジャンル史跡・遺跡 世界遺産
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エリアポンペイ
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住所
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アクセスヴェスヴィオ周遊鉄道(チルクムヴェスヴィアーナ鉄道)Ferrovia Circumvesuviana ナポリ・ポルタ・ガリバルディ駅からソレント行きに乗り、ヴィッラ・デイ・ミステリ駅 Stazione Villa dei Misteri下車。遺跡入口のマリーナ門まですぐ
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電話番号+39-081-8575347
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営業時間9:00-17:30
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定休日1月1日、5月1日、12月25日
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予算入場料(18歳以上) 22ユーロ
- 上記の記事は、訪問時点の情報を元に作成しています。訪問先の都合や現地事情により、最新の情報とは異なる可能性がありますのでご了承ください。






