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自貢恐竜博物館
自貢恐竜博物館は漢の時代から続く四川省の古い町自貢郊外の大山舗に位置している。この博物館は恐竜発掘現場をそのまま建物で覆い、骨が産出する様子をそのまま見学できる博物館。現在、全世界で恐竜のボーンベッドをそっくりそのまま覆う形で造られた博物館は3か所のみ。
自貢の「大山鋪恐龍化石群遺跡」は、中国で見つかった中でも最大級の恐竜化石群であり、面積は17,000?に達する。1980年代、自貢市街地の西7kmにある大山鋪地区で大きな化石が発見され、そのうちのジュラ紀中期の竜脚下目に属する新発見の恐竜には、大山鋪(Dashanpu、ダーシャンプー)の名をとって Dashanpusaurus (大山鋪龍)と名づけられた。保存状態がよく興味深い化石が発見されるため、この地は世界の恐竜学者の関心を引いた。1987年にはアジアでも最初の恐竜博物館である自貢恐竜博物館が大山鋪に設立された。
現在も大山鋪での発掘は続いており、恐竜や進化の歴史の解明に寄与している<
自貢恐竜博物館は漢の時代から続く四川省の古い町自貢郊外の大山舗に位置している。この博物館は恐竜発掘現場をそのまま建物で覆い、骨が産出する様子をそのまま見学できる博物館。現在、全世界で恐竜のボーンベッドをそっくりそのまま覆う形で造られた博物館は3か所のみ。
自貢の「大山鋪恐龍化石群遺跡」は、中国で見つかった中でも最大級の恐竜化石群であり、面積は17,000?に達する。1980年代、自貢市街地の西7kmにある大山鋪地区で大きな化石が発見され、そのうちのジュラ紀中期の竜脚下目に属する新発見の恐竜には、大山鋪(Dashanpu、ダーシャンプー)の名をとって Dashanpusaurus (大山鋪龍)と名づけられた。保存状態がよく興味深い化石が発見されるため、この地は世界の恐竜学者の関心を引いた。1987年にはアジアでも最初の恐竜博物館である自貢恐竜博物館が大山鋪に設立された。
現在も大山鋪での発掘は続いており、恐竜や進化の歴史の解明に寄与している<
蜀南竹海
蜀南竹海は成都の南側約300kmの宜賓市にある。中国十大森林の一つ。山と湖、洞窟、滝などが一体となった竹林公園である。面積は約4万k?にも達し、海抜は600〜1,000mで、竹が覆われた園内は、気温は夏でも30度までで、避暑地には最適。高いところから眺めると、まるで緑の海のような壮大な眺め。
翡翠長廊 竹海で一般的な楠竹の色が翡翠を思わせるので、翡翠長廊と名付けられたものである。竹の葉が覆い茂る夏ともなると、葉で空を覆い隠し、竹のトンネルともなる。 忘憂谷 中国では最も名高いところである。道の両側には「楠竹」よりやや太目の竹の林が続いている。中を散歩すると、すがすがしいで空気を深呼吸し、浮き世を離れた別天地のようで癒される。 仙寓洞 駐車場から10分ほど階段を下った切り立った崖に造られている。お寺の中には南宋時代に造られた石仏像がある。古い仏像の脇には1980年に造られた大仏と1997年に造られた観音像、1994年に造られた涅槃像が並んでいる。 海中海 海中海は翡翠長廊から仙寓洞景観区へ向かう道の左側にあり、竹海の中で出来た湖で、「海中海」と名づけられた。湖の周囲は遊歩道で、一周巡って楽しむことが出来る。遠くから眺めると湖面に浮かぶ小島が湖を分割しているように見え、竹林の中にたたずむ姿は非常に神秘的である。 七彩飛瀑 竹海最大の滝で、4段に分かれた滝が高度差200mほどを落ちる。この滝は北面していますが、正午になると陽を受けて虹が出るとのことから、名付けられた。
蜀南竹海は成都の南側約300kmの宜賓市にある。中国十大森林の一つ。山と湖、洞窟、滝などが一体となった竹林公園である。面積は約4万k?にも達し、海抜は600〜1,000mで、竹が覆われた園内は、気温は夏でも30度までで、避暑地には最適。高いところから眺めると、まるで緑の海のような壮大な眺め。
翡翠長廊 竹海で一般的な楠竹の色が翡翠を思わせるので、翡翠長廊と名付けられたものである。竹の葉が覆い茂る夏ともなると、葉で空を覆い隠し、竹のトンネルともなる。 忘憂谷 中国では最も名高いところである。道の両側には「楠竹」よりやや太目の竹の林が続いている。中を散歩すると、すがすがしいで空気を深呼吸し、浮き世を離れた別天地のようで癒される。 仙寓洞 駐車場から10分ほど階段を下った切り立った崖に造られている。お寺の中には南宋時代に造られた石仏像がある。古い仏像の脇には1980年に造られた大仏と1997年に造られた観音像、1994年に造られた涅槃像が並んでいる。 海中海 海中海は翡翠長廊から仙寓洞景観区へ向かう道の左側にあり、竹海の中で出来た湖で、「海中海」と名づけられた。湖の周囲は遊歩道で、一周巡って楽しむことが出来る。遠くから眺めると湖面に浮かぶ小島が湖を分割しているように見え、竹林の中にたたずむ姿は非常に神秘的である。 七彩飛瀑 竹海最大の滝で、4段に分かれた滝が高度差200mほどを落ちる。この滝は北面していますが、正午になると陽を受けて虹が出るとのことから、名付けられた。
昭化古城
広元市郊外の昭化古城は旧名を葭萌関といい、張飛と馬超が夜を徹して戦っ
た場所。
魏・呉・蜀の三国鼎立が定まる前夜、確たる領土を持たなかった劉備が成都
の太守劉璋(りゅうしょう)の求めをうけ、漢中の張魯(ちょうろ)の南下
に対して援軍として出撃し、成都進出への足がかりを作った。当時、曹操に
破れ、張魯のもとにいた馬超は劉備軍と戦い、張飛と馬超は決着がつかず馬
超の勇姿を惜しんだ劉備の仲立ちもあり、その後馬超は劉備の下に身を寄せ
る。 以後、張飛・馬超は蜀の五虎将軍(趙雲、関羽、張飛、馬超、黄忠)の
なった。
昭化古城は揚子江の支流嘉陵江に注ぐさらに支流の清水河に沿い、四戦の地
とも言われ、東西南北の各関に通じる、蜀の咽喉に当る重要戦略拠点で全体
が遺跡となっている。
地元の伝説によると、広元出身の則天武后が、幼少の頃母に連られてここに
よく遊びにきたことがあると言う。毎年9月1日は則天武后を記念するために
「女の祭り」が行われ、更に、旧暦の1月23日には則天武后の誕生日を祝う盛
大な儀式を行われる。
広元市郊外の昭化古城は旧名を葭萌関といい、張飛と馬超が夜を徹して戦っ
た場所。
魏・呉・蜀の三国鼎立が定まる前夜、確たる領土を持たなかった劉備が成都
の太守劉璋(りゅうしょう)の求めをうけ、漢中の張魯(ちょうろ)の南下
に対して援軍として出撃し、成都進出への足がかりを作った。当時、曹操に
破れ、張魯のもとにいた馬超は劉備軍と戦い、張飛と馬超は決着がつかず馬
超の勇姿を惜しんだ劉備の仲立ちもあり、その後馬超は劉備の下に身を寄せ
る。 以後、張飛・馬超は蜀の五虎将軍(趙雲、関羽、張飛、馬超、黄忠)の
なった。
昭化古城は揚子江の支流嘉陵江に注ぐさらに支流の清水河に沿い、四戦の地
とも言われ、東西南北の各関に通じる、蜀の咽喉に当る重要戦略拠点で全体
が遺跡となっている。
地元の伝説によると、広元出身の則天武后が、幼少の頃母に連られてここに
よく遊びにきたことがあると言う。毎年9月1日は則天武后を記念するために
「女の祭り」が行われ、更に、旧暦の1月23日には則天武后の誕生日を祝う盛
大な儀式を行われる。
ロウ中古城
ロウ(門の中に良)中古城は四川の東北部に位置し、紀元前314年に築かれ
た2300年の歴史を持つ小さい町。ロウ中は雲南の麗江、山西の平遥、徽州の
歙県と合わせ 中国四大古鎮と称えられている。
蜀国の名将軍張飛が駐屯して7年もなる地で、また、彼が部下に殺された地
でもあるから、張飛の町とも言われる。
「恒侯」は飛廟の謚 (おくりな) 。関羽の弔い合戦へ参加した途中、范彊と
張達に殺害された張飛の胴体がこの地に埋葬され、廟が建てられた。お墓は
漢桓侯祠の境内の一番奥にある。墓前には墓碑ではなく墓亭と張飛像が立て
られており、他の武将の墓とは一味違っている。ちなみに、頭部は雲陽に葬
られたとされ、ロウ中の雲陽は飛廟の聖地となっています。最初の廟は火災
で焼失し、現存する廟は明・清時代に何度も修復されたもの。「蛇矛」の展
示もある。
ロウ(門の中に良)中古城は四川の東北部に位置し、紀元前314年に築かれ
た2300年の歴史を持つ小さい町。ロウ中は雲南の麗江、山西の平遥、徽州の
歙県と合わせ 中国四大古鎮と称えられている。
蜀国の名将軍張飛が駐屯して7年もなる地で、また、彼が部下に殺された地
でもあるから、張飛の町とも言われる。
「恒侯」は飛廟の謚 (おくりな) 。関羽の弔い合戦へ参加した途中、范彊と
張達に殺害された張飛の胴体がこの地に埋葬され、廟が建てられた。お墓は
漢桓侯祠の境内の一番奥にある。墓前には墓碑ではなく墓亭と張飛像が立て
られており、他の武将の墓とは一味違っている。ちなみに、頭部は雲陽に葬
られたとされ、ロウ中の雲陽は飛廟の聖地となっています。最初の廟は火災
で焼失し、現存する廟は明・清時代に何度も修復されたもの。「蛇矛」の展
示もある。
剣門関
四川省広元市剣閣県にある大剣山は、山脈がくねくねと連なり、頂上まで行
くといきなり切り立った崖になっている。北から南を眺めると、どの山も剣
のようにそびえて、ただ一本だけ道が通っている。これが「天下の雄関」剣
門関だ。
「剣門関を得れば、四川を得る」とも言われた険峻地で、この二千数百年
の間に百回近くの戦いがあった。三国時代には諸葛孔明が関楼の下の谷に15
kmに及ぶ閣道を造って北伐の根拠地とした。そして蜀が滅亡した直前、3ヶ
月に渡って剣門関を死守したのが蜀の最後の名将の姜維である。263年8月、
魏は全軍をあげて蜀に侵攻する。姜維は沓中から退いて剣閣(剣門関)に立
てこもり、鐘会に抵抗した。兵数10万を誇る鐘会軍もなかなかこれを攻め落
とせず、姜維に向かって投降を呼びかけるが、姜維は頑に抵抗を続けた。し
かし、?艾が陰平から前人未踏の険路を七百里も超えて江油に入り、綿竹関
の諸葛瞻を討ち取って成都に至り、劉禅は無抵抗で魏に降伏した。事情を知
らぬ姜維は広漢に退き状況把握につとめた。城主の「降伏せよ」との令を知
り、姜維は「ふ城」で鐘会に降伏した。武将達は知らせを聞くと、刀を抜い
て石を斬りつけ、その無念さを表した。
四川省広元市剣閣県にある大剣山は、山脈がくねくねと連なり、頂上まで行
くといきなり切り立った崖になっている。北から南を眺めると、どの山も剣
のようにそびえて、ただ一本だけ道が通っている。これが「天下の雄関」剣
門関だ。
「剣門関を得れば、四川を得る」とも言われた険峻地で、この二千数百年
の間に百回近くの戦いがあった。三国時代には諸葛孔明が関楼の下の谷に15
kmに及ぶ閣道を造って北伐の根拠地とした。そして蜀が滅亡した直前、3ヶ
月に渡って剣門関を死守したのが蜀の最後の名将の姜維である。263年8月、
魏は全軍をあげて蜀に侵攻する。姜維は沓中から退いて剣閣(剣門関)に立
てこもり、鐘会に抵抗した。兵数10万を誇る鐘会軍もなかなかこれを攻め落
とせず、姜維に向かって投降を呼びかけるが、姜維は頑に抵抗を続けた。し
かし、?艾が陰平から前人未踏の険路を七百里も超えて江油に入り、綿竹関
の諸葛瞻を討ち取って成都に至り、劉禅は無抵抗で魏に降伏した。事情を知
らぬ姜維は広漢に退き状況把握につとめた。城主の「降伏せよ」との令を知
り、姜維は「ふ城」で鐘会に降伏した。武将達は知らせを聞くと、刀を抜い
て石を斬りつけ、その無念さを表した。
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