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3月26日は、バングラデシュの独立記念日でした。
1971年の3月26日に、パキスタンからの独立をはかるための解放戦争が始まったのですが、約300万人が犠牲になったのち、12月16日に戦争が終結しました。つまり、独立のための戦争が始まった日が独立記念日、戦争が終わった日が戦勝記念日(ビクトリーデー)となっているわけです。
この日は、緑と赤(バングラデシュの国旗の色)の民族衣装を着るのが習わしとなっています。
そんな独立記念日の翌日に、配属先でイベントがありました。スタートは17時だから遅れないでね、と言われたので時間前には着いたのですが、結局始まったのは18:30過ぎでした。実にバングラ式。
開会前に配られたバングラデシュの旗。国旗バージョンと国が描かれたバージョンの二種類があります。
開会直後。チェアマンはじめ、偉い人たちが壇上に並びます。
偉い人たちが次々に独立への想いを語ります。
後ろに立っている三名は、配属先の従業員。戦争当時にフリーダムファイターズ(自由を勝ち取るための戦士)として戦った人なんだそうです。
この後、フリーダムファイターズによるスピーチ。独立までどんな出来事があったのか、どんな思いで戦ったのかなどを、アツく語っていました。会場には大きなスピーカーがあったのですが、みんな興奮のあまり声を張り上げ、気がつくと鼓膜が破れそうなほどの音量になっていました。子どもたちは耳を塞いでいたほどです。
さて、次のプログラムでは、配属先の従業員の子どもたちが前に出てきました。
どうやら少し前に「(ダッカにある)独立記念塔の絵を描きましょう」っていうコンテストがあったらしく、その時の入賞者が呼ばれていたみたいです。
「私が描いた絵を見てー」と作品を掲げる子どもたち。
入賞者には、配属先のチェアマンから賞状とプレゼントがもらえます。
ちなみに参加賞はドラえもんのペンケース前にも書いたかもしれませんが、こちらではヒンドゥー語のドラえもんが放映されていて、子どもたちに大人気なんですよ
こちらが、入賞者の一人の子が描いた絵。カラフルだし、上手く書けていると思いました。
続いては、音楽プログラム。配属先の人たちが、独立に関する歌や、バングラを愛でる歌を歌います。
大人に交じって子どもも歌を披露してくれました。
バングラの子ども、音程がうまく掴めなくて上手く歌えない子が多いのですが、この子は上手でした。お母さんは直前まで「歌詞カード持って行きなさい!」と心配してましたが、「大丈夫だもん。覚えたもん。」と言っていた彼女。本当に、歌詞を見ずに上手に歌えていました
そんな彼女とお母さんのショット。二人とも、赤と緑の衣装を着て、とってもキレイです
そして最後に、バングラデシュの国歌である「SONAR BANGLA」をみんなで歌いました。この歌は、私が駒ヶ根訓練所で出会った初めてのバングラの歌。みんなで練習したなーと思い出しつつ、なんだか懐かしくなりました。あれももう、約二年も前のことなんだなぁー
イベント後、用意されていたカレーを食べて帰りました。時刻は22時過ぎ。カレー争奪戦もものすごく、みんな横入りしまくり。「なんで列に並ばないんだ!」と怒られても「私の娘に先に頂戴!」と怒鳴るお母さんたち。パワフルすぎて圧倒され、私は大人しく最後尾に並んだのでした。
1971年の3月26日に、パキスタンからの独立をはかるための解放戦争が始まったのですが、約300万人が犠牲になったのち、12月16日に戦争が終結しました。つまり、独立のための戦争が始まった日が独立記念日、戦争が終わった日が戦勝記念日(ビクトリーデー)となっているわけです。
この日は、緑と赤(バングラデシュの国旗の色)の民族衣装を着るのが習わしとなっています。
そんな独立記念日の翌日に、配属先でイベントがありました。スタートは17時だから遅れないでね、と言われたので時間前には着いたのですが、結局始まったのは18:30過ぎでした。実にバングラ式。
開会前に配られたバングラデシュの旗。国旗バージョンと国が描かれたバージョンの二種類があります。
開会直後。チェアマンはじめ、偉い人たちが壇上に並びます。
偉い人たちが次々に独立への想いを語ります。
後ろに立っている三名は、配属先の従業員。戦争当時にフリーダムファイターズ(自由を勝ち取るための戦士)として戦った人なんだそうです。
この後、フリーダムファイターズによるスピーチ。独立までどんな出来事があったのか、どんな思いで戦ったのかなどを、アツく語っていました。会場には大きなスピーカーがあったのですが、みんな興奮のあまり声を張り上げ、気がつくと鼓膜が破れそうなほどの音量になっていました。子どもたちは耳を塞いでいたほどです。
さて、次のプログラムでは、配属先の従業員の子どもたちが前に出てきました。
どうやら少し前に「(ダッカにある)独立記念塔の絵を描きましょう」っていうコンテストがあったらしく、その時の入賞者が呼ばれていたみたいです。
「私が描いた絵を見てー」と作品を掲げる子どもたち。
入賞者には、配属先のチェアマンから賞状とプレゼントがもらえます。
ちなみに参加賞はドラえもんのペンケース前にも書いたかもしれませんが、こちらではヒンドゥー語のドラえもんが放映されていて、子どもたちに大人気なんですよ
こちらが、入賞者の一人の子が描いた絵。カラフルだし、上手く書けていると思いました。
続いては、音楽プログラム。配属先の人たちが、独立に関する歌や、バングラを愛でる歌を歌います。
大人に交じって子どもも歌を披露してくれました。
バングラの子ども、音程がうまく掴めなくて上手く歌えない子が多いのですが、この子は上手でした。お母さんは直前まで「歌詞カード持って行きなさい!」と心配してましたが、「大丈夫だもん。覚えたもん。」と言っていた彼女。本当に、歌詞を見ずに上手に歌えていました
そんな彼女とお母さんのショット。二人とも、赤と緑の衣装を着て、とってもキレイです
そして最後に、バングラデシュの国歌である「SONAR BANGLA」をみんなで歌いました。この歌は、私が駒ヶ根訓練所で出会った初めてのバングラの歌。みんなで練習したなーと思い出しつつ、なんだか懐かしくなりました。あれももう、約二年も前のことなんだなぁー
イベント後、用意されていたカレーを食べて帰りました。時刻は22時過ぎ。カレー争奪戦もものすごく、みんな横入りしまくり。「なんで列に並ばないんだ!」と怒られても「私の娘に先に頂戴!」と怒鳴るお母さんたち。パワフルすぎて圧倒され、私は大人しく最後尾に並んだのでした。
- 言語運動記念日(国際母語の日)
-
エリア:
- アジア>バングラデシュ>ダッカ
- テーマ:お祭り・イベント 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2012/02/21 22:41
- コメント(1)
2月21日は、言語運動記念日でした。
かつてパキスタン領だったバングラデシュは、ウルドゥ語の使用を強制されていた時期がありました。ところが1952年の2月21日に、ベンガル語を公用語とするための言語運動が、ダッカ大学の学生たちによって起き、パキスタン軍と衝突したベンガル人の学生が亡くなりました。この日を忘れないために、全国各地に言語記念塔(ショヒッド・ミナール)が建てられ、毎年この日になると、ダッカの記念塔には何万人もの人が訪れ、献花を捧げるのです。
バングラデシュでのこうした運動を受けて、2月21日は、UNESCOより国際母語の日と制定されています。
ベンガル語を守るために独立した国バングラデシュを一番よく知ることができるのが、この言語運動記念日。今回は、その日の様子を余すところなくお伝えしたいと思います!
私がダッカ大学に着いたのは、朝の6時。この時すでに大統領や首相が慰問を終えた後で、これからまた混み始めるという感じでした。(献花自体は、21日の0時になったらスタートします。)
入り口では、花売りの人が献花用の花を売っています。オレンジと黄色が主流です。
バングラデシュの国旗や「2月21日」と書かれた鉢巻き?なども、色々なところで販売。
また、地面の至るところにアルポナと呼ばれる伝統的な模様が描かれ、とてもカラフルでした。
壁面にもアートが。2月21日を記念した歌があるのですが、その歌詞の一節が描かれています。意味は「私たちの兄弟の血が、2月21日に流された。この出来事を、どうして忘れることができようか?」というもの。
さてショヒッド・ミナール付近に着いてみると、すでに献花のための列ができていました。
見て下さい、このすごい人の数。これは列のほんの一部ですが、500mくらい続いていたと思います。(しかもそれが一日中)
献花には、団体、個人と分かれて並びます。団体の人たちは、こうした横断幕を持ち、準備します。
ちなみにこの日は、亡くなった方々への敬意を示すため、白と黒の衣装を着るんだそう。(これも時代の流れとともに少しずつ変わってきてしまっているらしいですが…)
私も、白と黒のサリーを着て、記念塔の前で写真を撮りました。(この日は撮影で行ったので、共演者の女性と。)
さて、こちらがそのショヒッド・ミナール。真ん中の大きな塔が親で、周りの小さいのが子どもを表しているんだとか。塔の前には、献花された花を使ったアートが広がっています。目を見張るくらいキレイな光景でした。
子どもたちも、鉢巻きを巻き、フェイスペインティングをして参加していました。
写真には写っていませんが、外国人の方々も白と黒のサリーをきれいに着こなして、献花にいらしていましたよ。
私の知る限りですが、自分たちの言葉を守るために血を流して戦ったのは、世界広しといえども、バングラデシュくらいなのではないでしょうか。この日の様子は、一見の価値がありますし、参加してみると母語の大切さというものに気付かされます。
ちなみに、日本の池袋西口公園にも言語記念塔があるそうですので、ぜひ訪れてみて下さい!
また、来年のこの時期にバングラデシュへいらっしゃる方には、ぜひ言語記念塔を訪れ、あの雰囲気を感じて頂きたいと思います!
かつてパキスタン領だったバングラデシュは、ウルドゥ語の使用を強制されていた時期がありました。ところが1952年の2月21日に、ベンガル語を公用語とするための言語運動が、ダッカ大学の学生たちによって起き、パキスタン軍と衝突したベンガル人の学生が亡くなりました。この日を忘れないために、全国各地に言語記念塔(ショヒッド・ミナール)が建てられ、毎年この日になると、ダッカの記念塔には何万人もの人が訪れ、献花を捧げるのです。
バングラデシュでのこうした運動を受けて、2月21日は、UNESCOより国際母語の日と制定されています。
ベンガル語を守るために独立した国バングラデシュを一番よく知ることができるのが、この言語運動記念日。今回は、その日の様子を余すところなくお伝えしたいと思います!
私がダッカ大学に着いたのは、朝の6時。この時すでに大統領や首相が慰問を終えた後で、これからまた混み始めるという感じでした。(献花自体は、21日の0時になったらスタートします。)
入り口では、花売りの人が献花用の花を売っています。オレンジと黄色が主流です。
バングラデシュの国旗や「2月21日」と書かれた鉢巻き?なども、色々なところで販売。
また、地面の至るところにアルポナと呼ばれる伝統的な模様が描かれ、とてもカラフルでした。
壁面にもアートが。2月21日を記念した歌があるのですが、その歌詞の一節が描かれています。意味は「私たちの兄弟の血が、2月21日に流された。この出来事を、どうして忘れることができようか?」というもの。
さてショヒッド・ミナール付近に着いてみると、すでに献花のための列ができていました。
見て下さい、このすごい人の数。これは列のほんの一部ですが、500mくらい続いていたと思います。(しかもそれが一日中)
献花には、団体、個人と分かれて並びます。団体の人たちは、こうした横断幕を持ち、準備します。
ちなみにこの日は、亡くなった方々への敬意を示すため、白と黒の衣装を着るんだそう。(これも時代の流れとともに少しずつ変わってきてしまっているらしいですが…)
私も、白と黒のサリーを着て、記念塔の前で写真を撮りました。(この日は撮影で行ったので、共演者の女性と。)
さて、こちらがそのショヒッド・ミナール。真ん中の大きな塔が親で、周りの小さいのが子どもを表しているんだとか。塔の前には、献花された花を使ったアートが広がっています。目を見張るくらいキレイな光景でした。
子どもたちも、鉢巻きを巻き、フェイスペインティングをして参加していました。
写真には写っていませんが、外国人の方々も白と黒のサリーをきれいに着こなして、献花にいらしていましたよ。
私の知る限りですが、自分たちの言葉を守るために血を流して戦ったのは、世界広しといえども、バングラデシュくらいなのではないでしょうか。この日の様子は、一見の価値がありますし、参加してみると母語の大切さというものに気付かされます。
ちなみに、日本の池袋西口公園にも言語記念塔があるそうですので、ぜひ訪れてみて下さい!
また、来年のこの時期にバングラデシュへいらっしゃる方には、ぜひ言語記念塔を訪れ、あの雰囲気を感じて頂きたいと思います!
- Victory Day
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エリア:
- アジア>バングラデシュ
- テーマ:歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/12/16 22:06
- コメント(0)
今日はビクトリーデー(戦勝記念日)。
バングラデシュはその昔、東パキスタンと呼ばれていて、パキスタンの一部でした。しかし、その中で暮らしていたベンガル人は政治的、社会的な面で迫害されていると感じるようになり、後のバングラデシュ建国の父となるシェイク・ムジブル・ラーマン(ボンゴボンドゥー)の呼び掛けにより、独立のための解放戦争を開始。
そして、約9カ月にもおよび戦いの末、約300万人もの犠牲を生みだした解放戦争は、今からちょうど40年前の12月16日に終結を迎えたのです。今日は、ベンガル人が、自分たちのアイデンティティーを守るために勝利を勝ち取った日。そんなわけで、全国で様々なプログラムが開かれています。
ダッカ郊外のサバールにある独立記念塔では、早朝シェイク・ハシナ首相が訪れたのを皮切りに、何千という人々が訪れ、亡くなった方々のために祈りを捧げました。混みすぎていてとても行くことはできなかったので、写真だけ、オンラインニュースサイトから拝借しました。
bdnews24.comより
The Daily Starより
この日を迎える一週間くらい前から、街中でバングラデシュの国旗を売り歩く人たちが出てきます。小さいもので5から10タカだとか。(1タカ≒1円)
車やバスにも小さな旗が飾られます。中には、こんな風に車体の前面を国旗で覆ってしまう人も。
あちこちのビルに国旗が飾られ…
大小の旗が、バングラデシュ全土を埋め尽くすのです。
今日はベンガル人にとって、とっても大事な日。
あるベンガル人に言われました。「ビクトリーデーは、日本にとってのヒロシマ・ナガサキぐらい重要な意味を持つ日なんだよ。」と。近くにベンガル人がいたら、「ビクトリーデーおめでとう!」と言ってあげて下さい♪
こちら(http://yaplog.jp/bangladeshu/)でも情報発信しています。
バングラデシュはその昔、東パキスタンと呼ばれていて、パキスタンの一部でした。しかし、その中で暮らしていたベンガル人は政治的、社会的な面で迫害されていると感じるようになり、後のバングラデシュ建国の父となるシェイク・ムジブル・ラーマン(ボンゴボンドゥー)の呼び掛けにより、独立のための解放戦争を開始。
そして、約9カ月にもおよび戦いの末、約300万人もの犠牲を生みだした解放戦争は、今からちょうど40年前の12月16日に終結を迎えたのです。今日は、ベンガル人が、自分たちのアイデンティティーを守るために勝利を勝ち取った日。そんなわけで、全国で様々なプログラムが開かれています。
ダッカ郊外のサバールにある独立記念塔では、早朝シェイク・ハシナ首相が訪れたのを皮切りに、何千という人々が訪れ、亡くなった方々のために祈りを捧げました。混みすぎていてとても行くことはできなかったので、写真だけ、オンラインニュースサイトから拝借しました。
bdnews24.comより
The Daily Starより
この日を迎える一週間くらい前から、街中でバングラデシュの国旗を売り歩く人たちが出てきます。小さいもので5から10タカだとか。(1タカ≒1円)
車やバスにも小さな旗が飾られます。中には、こんな風に車体の前面を国旗で覆ってしまう人も。
あちこちのビルに国旗が飾られ…
大小の旗が、バングラデシュ全土を埋め尽くすのです。
今日はベンガル人にとって、とっても大事な日。
あるベンガル人に言われました。「ビクトリーデーは、日本にとってのヒロシマ・ナガサキぐらい重要な意味を持つ日なんだよ。」と。近くにベンガル人がいたら、「ビクトリーデーおめでとう!」と言ってあげて下さい♪
こちら(http://yaplog.jp/bangladeshu/)でも情報発信しています。
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- ビクトリーデー 記念日
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