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旅倶楽部「こま通信」

~旅するように生きていこう~

旅倶楽部「こま通信」
旅するように生きていこう!
プロフィール

ニックネーム:
こまつうしん
居住地:
埼玉県
性別:
男性
年代:
60代
会社名:
旅倶楽部 こま通信
会社英字名:
会社所在地:
埼玉県
業種:
旅行業
自己紹介:
旅倶楽部「こま通信」代表

これまで三千日以上を旅してきて、より良い旅の為に《手造の旅》をはじめました。メンバーからの要望によって、一生モノの旅をつくっていきます。

《手造の旅》のご希望がありましたらご連絡ください。
komatsusin2@gmail.com

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サッフォー(ナポリ考古学博物館)
古代、あこがれの女性像
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>ナポリ
  • 中近東>トルコ>イスタンブール
テーマ:観光地 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/05/23 09:53
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イスタンブルの考古学博物館にある巨大な女性の頭部。顔だけだが一メートル近くある。
イスタンブル考古学博物館より
以前読んでいた博物館図録説明では「女神像頭部」となっていたが、2013年4月に訪れてみると、「サッフォー」と、断定的に書かれていた。
確かにナポリ考古学博物館で見たフレスコ画と似ている。

●サッフォー(サッポーとも)は紀元前七世紀にレスボス島に生きた一般人。神様ではない。詩人で生きている時から名声を得ていたとされる女性。確認される記録では、政治的な発言から一時シチリアのシラクサへ亡命していた事がわかるそうだ。

紀元前七世紀の古代において、女神でもない女性が有名になり、像までつくられたとしたら、異例な事だ。

五百年以上後の古代ローマ時代になっても、サッフォーの名前は記憶され続け、紀元後一世紀の遺跡から、有名なこのフレスコ画が発見された。
サッフォー(ナポリ考古学博物館)
ペンを片手に美しくこちらを見ている姿は、当時の女性のあこがれだったようで、同じようなスタイルで自分自身を描かせたフレスコ画がいくつも見つかる。これらはナポリ考古学博物館所蔵
有名なポンペイの商家の夫妻図
ポンペイ出土の夫婦像
忘れてならないのは、この時代、「文字が書ける」ということは、それだけで誇れたという事。ましてや女性で読み書きが出来、詩まで創作するというのは、あこがれの的だったに違いない。
この絵を描かせた彼女は、意識してこのポーズを描かせたのである。

他にも、同様のポーズをとった女性像がある。
ポンペイ出土の婦人像

現代においても、才色兼備でありたいと、女性達は思うのありましょう。
サッフォーが女性同士の愛=レズビアン(レスボス島出身)の語源となった人物であったとしても。

ムタンジェナ
オスマン料理はおいしい
エリア:
  • 中近東>トルコ>イスタンブール
テーマ:グルメ 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/05/15 13:26
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トルコ料理はおいしいけど「味が濃い」とか、「肉ばっかり」とか、そんなイメージを持つ人もある。何度も来て、自分自身そんな風に思いがちだったが、ここで食べた、歴史的トルコ料理=オスマン料理は全然違った。
入口
ソラマメとスパイスをつぶしてクリームと混ぜたものとオリーブオイル+ディル。パンにつけて食べる
FAVA
前菜ひとつめ、
●魚のダンゴバルク・キョフテ松の実、干しブドウと混ぜたものをオリーブオイルで揚げる。

●キャベツのサルマ
キャベツのサルマ
米、オニオン、ムール貝の種類の小さいものをキャベツで巻いたもので、シナモンの風味。

前菜二種の断面
前菜の断面

●エビのカセロール
カリデス・ギュエチ
セロリ、オニオン、ニンジン、ディルと共に煮込んである。

天気が良いのでお庭の席で
お庭でいただきます

●タマリンド水
タマリンド
東南アジアでもよく出てくる。カキに似た風味がします。

●ムタンジェナ
ムタンジェナ
この名前は普通のトルコのレストランでは通じない。もともとトルコ語でもないようで、調べてみると、もともとペルシャかインドあたりの言葉のようだ。羊の種類を指す言葉なのだろうか?

左はカリンをくりぬいてそこに羊肉と米?を調理してアーモンド?と詰める。右は羊肉を、あんず、いちじく、もも、などと煮込んでいる。黄色はサフランライス。
果物の甘味と羊肉が合っている。

メニューによると1539年のオスマン宮廷の料理レシピから再現されたもの。現代のトルコ料理と違って、健康的でやさしい味であります。

●蜂蜜と薔薇の「ハルヴァ」水
バラ風味
「杏仁豆腐の高級トルコ版」というだけではもったいない。ザクロも入って、バラの風味がいかにもかつての宮廷デザートを感じさせてくれる。

トルコ料理の幅の広さ、歴史の深さを感じさせてくれるオスマン料理でした。

バスを降りて展望台から見る修道院
スメラ修道院縁起とその歴史
エリア:
  • 中近東>トルコ>トラブゾン
テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/05/12 13:24
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グルジア国境に近い黒海に面したトラブゾンの街から一時間ほど山の中へ入ると、岸壁にはりついたようなスメラ修道院がある。
見上げる修道院
伝説によると、アテネで元異教の神殿にあった「聖ルカが画いた聖母マリアの肖像画(イコン)」が、AD385年にアテネから飛んできた。

聖ソフロニオスと聖バルナバは、ぞれぞれ別の場所で大天使ガブリエルが夢枕に現れ、導かれて旅をし、この岸壁にの洞窟にそのイコンがあるのを発見した。
二人がそこに住んだのが、この修道院の縁起である。

かつては七十室以上あったという修道院の中心が、この場所。
外壁もフレスコで埋められている
ここは自然の洞窟をふさいだ構造。
聖堂の中
天井に巨大なマリアとキリストが画かれている
天井のマリア
このマリアの顔が黒い事がスメラ修道院の語源と言われることもある。ギリシャ語で黒は「メラス」だから。
天井にえがかれた大きなキリスト
●別の語源説
この修道院のフルネームは「Panaghia tou melas、パナギア・トゥ・メラス」=黒い岩の聖母という。「t」を発音しにくかった住民が「s」の音になり、スメラとなった。

修道院の入り口から見たところ。20世紀までは屋根があった。写真も残されている。
入口からの眺め


●東ローマ帝国時代(後世ビザンチン帝国と呼ばれるようになる)。
皇帝はもちろんこの修道院を尊ぶ。イスタンブルの現アヤソフィアを建設したユスティニアヌス大帝の時代、配下の司令官だったベリサリウス(イタリアはラヴェンナに彼の肖像画モザイクが残る)が改築、鹿皮の写本多数が寄贈された。
1204年の第四十字軍によるラテン帝国成立により、亡命した東ローマ帝国コムネノス朝が、グルジアの後押しによりトレビゾンド王国を建設。アレクシウス三世などはこのスメラ修道院で戴冠式を挙行した。

●オスマントルコ時代
1453年にコンスタンチノープルが陥落した後、1461年にトレビゾンド王国も滅亡。イスラム教のオスマン・トルコが支配者となったが、修道院は変わらず信仰を集めていた。
トラブゾンにはたくさんのギリシャ正教を信仰する住民が暮らしており、オスマントルコはそれを迫害はしなかった。

皇太子時代にトラブゾンの知事で後にヤウズ・スルタンと呼ばれることになるセリムは、狩の時(?)具合が悪くなり修道院で手当てを受けた。「私がスルタンになったら、ここの聖母マリアに贈り物をしよう」と言った。

1512年にスルタンとなったセリムは、彼と同じ背丈の黄金の燭台五本を奉納した。イランを征服した時にはシャーの宝物からやはり燭台二本を贈っている。

1710年、1732年、1740年、修道院拡張。1860年には当時のスルタン・アブドゥルメジットの命により最大の大きさになり三十人の修道士が住んでいた。同じ清教徒であるロシアのツァーも訪れた事がある。


何度も装飾しなおされているため、フレスコ画も上塗りされた。この部分をみると、それがよくわかるだろう。
何層にもなったフレスコ画古いフレスコ画の表面がでこぼこになるように傷を付け、そのうえに漆喰を塗ったのだ。

なので、場所によりさまざまな時代のフレスコ画が入り混じっている。この旧約聖書の「鯨に飲み込まれたヨナ」はわりに新しい時代に見える。
旧約聖書のヨナ

ライオンに食べられて殉教したとされる紀元後一世紀の聖イグナチウス
聖イグナチウス
なんとも表現がおもしろい。15世紀頃か?

落書きもたくさんある。ギリシャ語のもので1803と書かれているものがあったが、本当にその時代のものなのだろうか?
ギリシャ語の落書きもたくさん
大天使ガブリエル
大天使ガブリエル

19世紀に暖炉がたくさんつくられたそうだが、これもその跡
暖炉の跡

★このように、オスマン・トルコの時代に入っても、修道院は庇護され無事に活動していた。破壊された教会を見て、すぐに「イスラム教徒が破壊した」と思い込むのは早計だ。

第一大戦でトルコが敗れると数年の間ロシアがこの地域を占領していた。彼らもまた正教徒であり、この修道院を破壊はしなかった。

1919年から後のアタチュルクが新制トルコへの革命をスタート。地中海に面したイズミール周辺から、イギリスに後押しされたギリシャが侵攻。1922年までトルコ国内で激しい戦争が続く。

イギリスは、ギリシャ系住民の多かったこのトラブゾン周辺を「ギリシャ・ポントス共和国」としてトルコから切り離そうとしたが失敗。ギリシャ⇔トルコ間の住民交換の時代、三万人以上のギリシャ系住民が街を離れていった。

スメラ修道院が本当の危機に陥ったのはこの時である。何百年ものあいだイスラムの支配者の元であっても、ギリシャ系住民が住み続けている間は問題なかった。一般住民がいなくなった時、本当の危機が訪れた。

1923年8月末、修道士たちはもっとも大事な「聖ルカが画いた聖母マリアのイコン」を、一キロほど離れたバルバラ教会の地下に隠し、「トルコ人の手に落ちるよりは」と、あろうことか修道院を爆破したのだそうだ※この事は英語の解説書では、いくら調べても書かれていなかった。今回同行してくれたトルコ人ガイドさんがトルコ語で読んだ解説にだけあったそうだ。そう言われてあらためて見直すと、屋根が吹き飛んだと思われる場所もあり、「三か所で爆弾を爆発させた」というのも事実に思える。

●共和国トルコが成立した後も、ギリシャの逃れた人々はこのイコンの事を忘れなかった。ギリシャ北部に「パナギア・スメラ」という同じ名前の村をつくって住んでいた。

1931年、この小村を訪れた当時のギリシャ首相エレフシウス・ベニゼロスは、その事実を知り、後にトルコの第二代大統領となるイスメット・イノニュにイコンをギリシャに持ってくる交渉する。

同年10月25日、正装に身を包んだギリシャ正教司教アンブロジウスはトラブゾンに降り立つ。トルコ兵に守られ、スメラ修道院跡とバルバラ教会へ向かう。埋められていたイコンは無事そのまま発見され、その他の聖遺物と共にギリシャへ移送された。トルコ政府は司教に一か月の滞在許可を与えていたが、一行はたった四日、最短の滞在でトルコを後にした。

現在このイコンはギリシャ北部、マケドニア国境に近い山の中に1951年に建設された同名の教会に安置されている。そこはもともとのスメラと似た場所だという事で選ばれたそうである。
パナギア・スメラ

フェアハットとシリンの巨像拡大図
悲恋伝説の水路〜フェルハットとシリン
エリア:
  • 中近東>トルコ>トルコその他の都市
テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/05/07 08:16
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トルコ北東部、黒海から一時間半ほど内陸に入った美しいアマスィア(アマシア)の街。郊外には、悲恋伝説と共に古い水路が残されている。

街から五キロほどのところで二人の像が岩山にあるのが見えた。
フェアハットとシリンの像かなり巨大だ。

巨像の立つ岩山のふもとへ歩いていくと、岩山をくりぬいた古代の水路が延々と続いている。
古代の水路1
ところどころ水がたまっているが、大きさは人がちょうど中を歩ける程度である。
古代の水路の大きさは

この水路にまつわる悲恋伝説
★フェルハットとシリン★***
この話はいくつかヴァージョンがあるようだが、トルコ版のひとつを要約して紹介いたします。

アゼルバイジャン女王の妹シリンは、トルコから水道を掘りに来た職人フェルハットと恋に落ちる。
身分のちがいに加えて遠距離恋愛などできない時代、別れは必然だったが、アゼルバイジャンの王国が崩壊してシリンがトルコの古都アマスィアへ身を寄せることになり、二人は再会。※アマスィアはオスマントルコ時代に歴代の王子が教育のために送り込まれる街だった。

フェルハットはシリンとの間を認めてもらうよう、スルタンに願い出るが、スルタンの息子がシリンに横恋慕していたので、難題を出される。

井戸掘り職人のフェルハットが、岩山を穿つ水路をつくりアマスィアへ水をひくことが出来たら認めてやろう、というのである。

フェルハットは山に穴をあけるというこの難事業を推進。※今でもトルコでは「フェルハットの様に愛している」というと、出来ない事をも可能にするという決意表明になるそうな。

不可能と思われた水路がほぼ完成に近づいた時、スルタンは「シリンが死んだ」とウソを伝える。フェルハットは絶望のあまりつるはしで自分を打って自殺。それを知ったシリンもあとを追う。

***
この水路は確かに山を穿ち20キロの長さがある。しかし、これは古代ローマの建設によるものとされ、伝説の悲恋物語は史実ではない。

それでも、この話はトルコだけでなくペルシャ系のイランなどでも、悲恋物語として人気があるそうな。国も時代も設定も様々ないろいろなヴァージョンが見つかります。

2013年4月のトルコ航空機内誌では数ページのアマスィアの特集が載せられていた。近年だんだんと観光客も増えているそうで、それに合わせて見学できる場所も整備されていっている。

この場所も今年6月(あと二か月)に、展示館を開設して世界中から恋人たちを集めたいと考えているとの事。なるほどこのスペースにその建物が出現するのでしょう。
展示館準備中
遺跡だらけのトルコにおいては、ローマ時代の水路というだけではなかなか人を集められないかと考えた一策かしらん。繁盛すると良いのですが。

***
こちらはアマスィアを流れるイシェルマック川のほとりに以前からあるフェルハットとシリンの像
アマスィア市内にある二人の像

ブレスレット
アミソスの宝
エリア:
  • 中近東>トルコ>サムスン
テーマ:観光地 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/05/06 09:43
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トルコ北東部、黒海沿いの大都市サムスンの古代名はアミソス。1995年の道路工事の際に発見されたポントス王国時代の墳墓から優れた金の副葬品が見つかった。それは「アミソスの宝」と呼ばれ、サムスンの小さな考古学博物館に展示されている。
●博物館はまったくそれと分からない小さな平屋
サムスン、考古学博物館外観
内部に入って料金を払うと(2013年4月現在3トルコリラでした)、すぐに全部の部屋が見渡せてしまう程度のひろさ。いちばん奥にそこだけ違う色のライトで「アミソスの宝」がそれと分かるように展示されている。
サムスン、考古学博物館内部
古代の邸宅からモザイクの床。アキレウスと彼を案じる母テティスの図
アキレウスとテティス

「アミソスの宝」でいちばん目立つのはこの冠
冠
黄金の葉っぱを組み合わせてある。

墳墓は5×5×2.5m。五つの部屋のうち三つが埋葬に使われており、男性一体女性二体だった。
墳墓内部見取り図
金貨が鋳造された年代から紀元前一世紀のミトリダテス六世の時代の人物と推察される。しかし、墳墓自体はそれより二百年程度前の時代に利用されている形跡があるという。誰かの墓を再利用したのかも。
ポントス王朝コイン
高位の人物でなければ、これだけの副葬品は持てなかっただろう。

女性二人は彼の奥方と娘だとされる。女性用らしい装飾品多数。
装身具細部を見ると技術の高さが分かる装身具細工拡大

ニケ女神
ニケ女神海の精ネーレイデスが海馬ヒッポカンポスに乗っている図がたくさんつなげられた大ぶりのネックレスの拡大
ネーレイデス


このブレスレットのデザイン感覚は現代でもそのまま通用するだろう
ブレスレット

観光都市でもないサムソンの小さな考古学博物館には、ほとんど日本人などやってこない。それでも、ちゃんと目を凝らせば、歴史ある街にはちゃんと見どころがある。
※ここだけ黄色の光が当てられていて、本来の色が分かりにくい。金製品をより誇らしく見せようとしているのだろうが、自然光のもとで見られるようにしてほしいものです。

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