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旅倶楽部「こま通信」

~旅するように生きていこう~

旅倶楽部「こま通信」
旅するように生きていこう!
プロフィール

ニックネーム:
こまつうしん
居住地:
埼玉県
性別:
男性
年代:
60代
会社名:
旅倶楽部 こま通信
会社英字名:
会社所在地:
埼玉県
業種:
旅行業
自己紹介:
旅倶楽部「こま通信」代表

これまで三千日以上を旅してきて、より良い旅の為に《手造の旅》をはじめました。メンバーからの要望によって、一生モノの旅をつくっていきます。

《手造の旅》のご希望がありましたらご連絡ください。
komatsusin2@gmail.com

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salerno_right_apsis
サレルノ大聖堂
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>サレルノ
テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2016/04/07 15:33
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サレルノはカンパーニャ州ではナポリに次ぐ大都市。人口は15万人ほど。古くから栄えた港は今も活発に活動しているようだ。
salerno_view
海と山に挟まれた細長い街は古代エトルリア、ローマの時代から町があったが、特筆すべきはローマ崩壊後にロンゴバルド族の一派がサレルノ公国の首都とした時代。旧市街メルカンティ通りの「アレキの門」は、その王の名前に由来する。★アレキArechi (アレーキ)の門は、その館の門であったと伝わる。
salerno_arcodiarechi

ロンゴバルド族グィズルフォGisulfの娘を二度目の妻としたノルマン人ロベルト・グィスカルドが後援した大聖堂が、間違いなく一番の見モノである。

地震で壊れたものを復元してはいるが、中世ノルマン時代の名残が随所に感じられる場所。入り口には中世のカテドラルにもあったのだろうライオンが一対
salerno_entrance
サレルノ公の名前のあるまぐさ石。フレスコはずっと後からのものだろう。
salerno_gete
柱にかこまれた四角いアトリウムはアラブ的とも古代的とも感じられる。ここに見られる多くのものが古代の遺跡から再利用されているのがひと目でわかる。
salerno_atrium2
中央の水盤はパエストゥム遺跡からのものだそうだ。

見下ろす鐘楼は12世紀1137年から45年にかけてつくられた。アマルフィの大聖堂をはじめ19世紀に再建されたこの地方の多くの鐘楼のモデルとなっている。
salerno_belltower
聖堂内部への青銅扉もアマルフィ大聖堂と同時代に同じようにコンスタンチノープルで製作されたものだった。

再建された内部ではあるが、ノルマン時代からのものを見つけることができる。
隠れたところに、前の大聖堂からのフレスコ画
salerno_oldflesco

正面突き当たりに三つの祭壇があり、向かって一番右が金色に輝くモザイクに覆われている。
salerno_2apusis

真ん中に座するのは十二使徒のひとりマタイ。彼の遺体はロンゴバルド王グィズルフォがサレルノへ運びいれた。salerno_right_apsis

この祭壇下に葬られているのは、歴史上「カノッサの屈辱」として知られる事件の法王グレゴリオ七世。カノッサの地で神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世を三日間雪の中で立たせ、謝罪させたというその人。

しかし、その後のハインリッヒの巻き返しによってローマを追われ、ノルマン族のグイスカルドに救われてこのサレルノに逃れたのだった。ローマへ帰還する事は叶わず、1085年にここで没した。この大聖堂を聖別(教会としてつかいはじめる)したのは彼なので、このモザイクでひざまずいている僧服姿の人物がグレゴリオ七世だと思われる。
salerno_right_apsis2
顔や足や手まで執拗に剥ぎ取られているが、これはいつ、誰の手によるものだろう?


中央のモザイクは明らかに現代の修復である。※ナポリから来たガイドは「中世のもの」と言ったがありえない。デザインも新しくされているので、中世の面影はほぼないと思ったほうがよい。
salerno_mail_apusis
どこかに時代を特定できる証拠が見つからないかと詳しく見ていったら、なんと、しっかり製作年号が書かれているではないか↓
salerno_mailapusis2
左にラテン数字で西暦954年、右に同じくラテン数字で1954年と読める。
※ラテン語が書かれた下、三角型になった左右のスペース

つまり、正面のモザイク画は、聖マタイの遺体がサレルノへ運ばれて一千年が経つのを記念して、1954年に製作されたモザイク画だったのだ。

だとすれば、左にひざまずく人物はロンゴバルド族のグィズルフォ?または教会をささげているからノルマン人のロベルト・グイスカルドに違いない。
左側の奥方はロベルトの妃でグィズルフォの妹か。

向かって左側のアプシスのモザイクは半分壊れた下の部分をフレスコ画で修復している。モザイク画というのはとんでもなく高価なのだ。
salerno_leftapsis

中央部近くのフランス支配時代アンジュー家のマルゲリータ・ドラッツォの石棺も興味深い。
salerno_anjoutomb
古代の石棺を再利用しているが、主たる彫刻は15世紀の彫刻家アントニオ・バボッチョの作。ビザンチン的な無表情さとルネサンス的な豊かな表現の両方を併せ持って、ピサーノ親子の作風を思い出させる。salerno_anjoutomb2
彼自身が誇らしげに名前を残しているのを、石棺の下部に見つけた↓
salerno_anhoutomb3

地下の聖マタイの墓所は地上とは比べ物にならないほど装飾されているが、中世の雰囲気は薄い。↓
salerno_cripta

ニコシアの繁華街にある検問所
2015 キプロス視察
エリア:
  • 中近東>キプロス
テーマ:観光地 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2016/01/02 10:12
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2015年11月、キプロス島を8日間視察。主要観光地とホテルやレストランを多数見学した。
トルコやイスラエルに近い南北に分断された国ということで、日本人には「危険な場所?」とのイメージを持つ人も多いけれど、2015年末現在まったく平和な雰囲気。世界中から年間250万人の人々が訪れる平和な地中海の島であります。日本人はまだ年間千人ほど。その魅力を少しでもお伝えしたいと思います。

★全14項目を写真と文章の日記にして、下記に載せてあります
http://komatsusin.jimdo.com/これまでの-手造の旅/ヨーロッパ/11-22-29キプロス視察/

首都ニコシアは星形をした城塞都市だが、ど真ん中に「グリーンライン」が走り、分断されている。
ニコシアの壁国全体がこの「グリーンライン」によって分断され、北がトルコ系、南がギリシャ系、と、わかれて住んでいる。

軍事紛争があった1974年ごろと、今は大きく状況が変わり、下の写真の場所にあった「ニコシアの壁」は撤去された。観光客だけでなく、市民も、身分証明書を見せるだけで自由に行き来できる南で働く労働者だけでなく、北のトルコ側から南の大学に通うこともできる。ニコシアの繁華街にある検問所


南ニコシアにある高層ホテルの最上階展望台から南ニコシアから北ニコシアを展望する
**
西海岸の古都パフォスにある遺跡「貴族の墓」は、紀元前三世紀ごろからのものとされる。
パフォスの「貴族の墓」

レースで有名なレフカラ村は世界遺産に指定された
レフカラ村
この村の名物料理TAVASはお米と具を層にして土鍋で焼いたもの
TAVAS
**
イギリス軍基地内にある北への検問所
北への検問所

北キプロスのファマゴスタ大聖堂は、現在モスクとして使われている
ファマゴスタの旧大聖堂


南部海岸にあるコロンビア・ビーチリゾート
コロンビア・ビーチリゾート
キプロスには手ごろでレベルの高いリゾートホテルがたくさんある

キプロス島は、ギリシャ神話で生まれたばかりのヴィーナスが流れ着いた島とされている。島には古代にいくつものヴィーナス神殿があり、たくさんのヴィーナス像が発掘されている。下のものはニコシアの考古学博物館にある代表的なひとつ。
ヴィーナス

ニコラの息子
ボーヌ施療院とウェイデンの祭壇画に残されたニコラ・ロランの物語
エリア:
  • ヨーロッパ>フランス>ボーヌ
テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2015/06/29 22:39
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15世紀、百年戦争の最中。
ブルゴーニュ公国の宰相だったニコラ・ロランはボーヌにオスピス(日本語だと「施療院」と訳せるか)をひらいた。

現在でもその雰囲気をよく伝えている中庭。
施療院中庭
三十床のベッドに二人ずつが収容されていた。
施療院ベッドルーム重病人というよりも、栄養ある食事と清潔な寝床で回復できる程度の困窮者に施しをしていたという場所だったようだ。
後の時代には本格的な病院にも、年長者の入院施設にもなり、つい四十年前までこの場所で運営されていた。現在でも場所は移ったが、活動はより広範囲に行われている。

創立者のニコラ・ロランと妻のギゴンは、礼拝堂の祭壇にその姿を留めている。15世紀フランドル絵画のマスター・ピースのひとつ、ウェイデン作「最後の審判」
ウェイデン作「最後の審判」横幅5メートル60センチの大作。
祭壇は日曜日にのみ開けられ、この画面を拝むことが出来た。

細密な描写を観賞するために、移動式の巨大ルーペが用意されている。
「最後の審判」公開の様子
中央の天使のブローチ部分「最後の審判」天使拡大

普段、閉じた時にあらわれる、寄進者ニコラとギゴン、二人の全身図
ニコラとギゴン
この祭壇が描かれたとき、ニコラはおよそ六十歳、ギゴンは三十才ぐらいと推定される
ニコラ
ギゴン

開いた時に見られる聖人群像のなかにもニコラは登場する。赤い服を着たペテロと思しき人物の左で、ひとりこちらを見ているのがそれ。ニコラの息子
●よくみると、ニコラの左三人のうち一人には、彼の息子ジャンが登場している。司教の冠をかぶって顔半分だけが見えているのがそれ。

地元ガイドさんによると、ジャンはロラン家の故郷オータンの司教に任命されていて、この祭壇画に画いてほしくて懇願したのだそうだ。
画家のウェイデンはそれをしぶしぶ認めたが、左右に画く人物の数を同じにしたかったので、肩越しに半分だけという不自然なスタイルになったのだそうだ。

ジャンは父ニコラの二度目の結婚から生まれた次男か三男で、ブルゴーニュ公の二代目と親交が深かった。また、自身が絵描きにもなりたかったようだと、ガイドさん曰く。
近くのノートルダム聖堂にはジャンが描かせたフレスコ画が残っている。

●ニコラの娘も右側パネルに登場している。ニコラの娘右側の女性三人のうちいちばん左の、あきらかに「一般人」顔で描かれている。
こういう表現を見ていると、ウェイデンという絵描きは怖いぐらいに人物そのものを写し取っているように思えてくる。

**
施療院の床のタイルには、二十八歳年下の三度目の妻ギゴンへのニコラの気持ちが紋章にされた。施療院礼拝堂の床英語のONLYは、フランス語でSUELE(スゥーリュ)
「ただひとつの★星」という文字がまわりを囲み、ニコラのNとギゴンのGの頭文字があらわされている。施療院の礼拝堂

ニコラが八十六歳で亡くなると、ギゴンは別のデザインで亡き夫を追慕した。このタピスリーがそれギゴンのつくらせたタピスリー
ギゴンの紋章と「ひとつだけの(孤独な)星」と書かれている
このタピスリーは、ブルゴーニュワインの祭典として有名な「栄光の三日間」の時に張り出される一枚だそうだ。
タピスリー拡大

NoPhoto
セゴビアの知られざる中世フレスコ画
エリア:
  • ヨーロッパ>スペイン>セゴビア
テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2015/04/27 19:28
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教会のドアを開けると、後陣の部分がライトアップされて、中世のフレスコ画がうかびあがっていた。サンタフスト内部俯瞰

1960年代に漆喰の下から見つかったので、すばらしくよく保存されている。
サンタフストフレスコ1
これはユダの裏切りのシーン、右にはアダムとイブを誘惑する蛇。

マドリッドから日帰りで行ける、ローマ時代からの水道橋とアルカサールが有名なセゴビア。
このサンフスト教会は予想外の収穫だった。

旧市街の外、水道橋の続く少し丘になったところにある住宅街に位置している。
サンタフスト外観2
鐘楼をみると、少なくとも五回は建築や改築を施されているのが分かる。
サンタフスト外観1
この聖堂は十二世紀ごろに建造されたとされているが、イスラム時代以前、ヴィシ・ゴート時代にも建造物があったのかもしれない場所だ。

入口のローズ文様は幾何学的で古くならない装飾美。
サンタフスト入口

サンタフスト入口2

★天井部分の天使が掲げるメダルには犠牲を意味する子羊
サンタフストフレスコ2

アーモンド形の中に全能のキリスト。周囲には預言者たち?が楽器を奏でながら祝福している
サンタフストフレスコ5

ユダの口づけのシーン、ペテロがひとり兵士に抵抗してナイフで耳を切っている
サンタフストフレスコ3

すぐ横に位置している窓にはやってくるローマ兵士らしき人物。下にはキリストの墓と目を赤く泣きはらしたヨハネ?
サンタフストフレスコ7

逆にある植物の文様は「家系図」と説明されたが、「エッサイの木」という主題だろうか?
サンタフストフレスコ8

左右には磔刑のキリストが描かれているが、右の十字架降下は未完成のまま。そして、マリアの頭の上のところに「もう描けない」と書かれている
サンタフストフレスコ6
いったいどんな事情がこのフレスコ画職人をおそったというのだろう…。

今は白くなってしまった壁だが、もとはすべてフレスコ画で飾られていたと考えられている。疫病が流行った時代、衛生的にするという観点からすべてのフレスコ画は白い漆喰の下に塗り込められてしまっていた。
1960年代に発見されるまで、後陣の部分以外は雨漏りなどで消失した。と、番人の男性は話してくれた。サンタフスト内部俯瞰2

彼が指さしているのは、同じく12世紀ごろと思われるロマネスク彫刻
サンタフスト管理人
冠をかぶった女性はコンスタンチヌス帝の母ヘレナ。エルサレムでキリストの墓を発見したとされている。右は祝福する天使。左の司教冠をかぶっているのはマカリウスだろう。当時ヴェヌス神殿になっていた場所がキリストの墓だと発見した人物。
サンタフスト浮彫彫刻1
現在エルサレムの聖墳墓教会になっている。
ビザンチン的に無表情ながら力強く表現されているサンタフスト浮彫彫刻2

★「ガスコーニュのキリスト」と呼ばれる木彫は、伝説によるとフランスはガスコーニュからロバに引かれてやってきたが、この地でロバが倒れたことからここが像の行きたかった場所だとして奉納されたという。
サンタフストガスコーニュのキリスト1
実際にフランスからもたらされたものだというのはそうだろうが、伝説は眉唾もの。肘をはじめ関節部分が蝶番になっていて、人形としてよくできている。祭りの時に磔刑にされたりして使われていたのかもしれない。
サンタフストガスコーニュのキリスト2
今は後年になって追加されたバロック式の礼拝堂に安置されている
サンタフストガスコーニュのキリスト3
そのクーポラ部分がこちら
サンタフストクーポラ

塔の下部は、かつては礼拝堂であったと考えられている。
Capilla del Santo Sepulcroとの解説もあったから、ここに真の十字架かなにかの聖遺物が安置されていたのかもしれない。
サンタフスト鐘楼下部内側
現在も信徒檀家によって守られている。これはその信徒会のマーク
サンタフスト信徒会の旗

外観1
アヴィラのサンヴィセンテ教会
エリア:
  • ヨーロッパ>スペイン>アビラ
テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2015/04/25 11:20
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マドリッドから北西に一時間半、中世の城壁が見事に残るアヴィラ。
アヴィラ城壁
この町で必見のロマネスク教会はサン・ヴィセンテだろう。
城壁のすぐ外に位置している。その理由は、城壁のすぐ外で処刑が行われていたからだ。
外観1

西暦4世紀はじめ(ディオクレティアヌスが303年に出したキリスト教徒への迫害令の時と言われる)、聖ヴィセンテとサビーナとクリステタの二人の妹がここで殉教した。正確なその場所は教会の奥・アプスの南側部分の地下に今も残る岩場だったとされている。

最初の小さな礼拝堂、その後の最初の教会はアラブ時代を経て荒れ果てていた。
12世紀後半、アヴィラ生まれのペドロ・デ・バルコという聖者の遺体をまつる場所を決めるとき、聖者の遺体を引く目隠ししたロバが、この教会にたどり着いて死んだ。この事から現在見られる大規模な教会へ改修されたのだという伝説。


三角の破風は13世紀に形成された、建物で一番新しい部分。
外観2
南側には列柱のポータルがあるが、これは巡礼たちのための場所か。新しい時代に設置されたもののように見える。
外観3

南側の門。シンプルなロマネスクのアーチの下に数体の彫刻がある。
南のポータル1
向かって左側に、対話するような受胎告知
南のポータル左
向かって右側「ダビデ王と聖女サビーナ」と題されている二体。
左のダビデ王は、実はアラブ人の手からこの町を取り戻したアルフォンソ六世の姿をうつし、その隣にすっくと立つ女性は聖女の姿を借りて後継者となった娘・ウラカの姿を彫ったと言われている。南のポータル右

西側のファサード
西側ファサード
フランス南部のロマネスク教会と同じ雰囲気を感じさせる。

西側ティンパヌム

西のファサード彫刻より

内部、奥右手にある、これぞ必見のロマネスクの記念棺。
サルコファゴス1
上部は15世紀の木製装飾天蓋だが、下の石の部分は12世紀の末(=日本の平安の終わりから鎌倉時代にかけて)に製作されたもの。

これだけ美しく彩色が残っているものは、そうは多くない。
サルコファゴス2

サルコファゴス4


サルコファゴス3

側面の彫刻を四つの場面に区切って紹介いたします
★聖ビセンテの生涯、その1
左:ディオクレティアヌスの前に引き出されるヴィセンテ
サンヴィンセント1
中:ジュピターへの礼拝を拒否するヴィセンテ
右の兵士が彼を動かそうとがんばっている。左の兵士がヴィセンテの足元が石のように固くなっている?のを指さしている=意志の強さを表す?
右:二人の妹がヴィセンテを訪ねてくる

★聖ヴィセンテの生涯 その2
左の王に報告する兵士、馬に乗せられる聖ヴィセンテと妹ふたりが右方向へひかれてゆく
サンヴィンセント2

★聖ヴィセンテの生涯 その3
左:着衣を脱がされる三人、
中:処刑される三人
右:頭をつぶされる三人(この図で赤い服を着ているのがユダヤ人エゼキエル。ヴィセンテを告発した人物とされている)
サンヴィンセント3

★聖ヴィセンテの生涯 その4
左:三人の遺体から巨大な蛇が現れ、エゼキエルに絡みつく。
エゼキエルは回心して神に祈りをささげる。
※大蛇は城外に晒された三人の遺体を野獣から守っていた
右:エゼキエルは三人の墓をつくる
サンヴィンセント4

現代の我々が見てもそのまま分かりやすく、力強い表現の彫刻であります。

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