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- シャンパンの街エペルネとオーヴィレール村
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エリア:
- ヨーロッパ>フランス>ランス
- テーマ:グルメ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/05/10 00:26
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大聖堂で有名なランスから車で四十分ほど、シャンパン製造の中心地エペルネの町がある。2011年5月2日、雨のシャルトルを朝9時に出発、三時間半ほどでエペルネの駅近くに到着。まずは、このレストランで軽くフォーミュールの昼食。
そして13時にモエ・エ・シャンドン社の見学へ。ここは「フランスで一番地価が高い」という説明もあったシャンパン通りにある。
ここは日本のグループもたくさん見学に来るので、事前にリクエストしておけば日本語で説明してくれるガイドさんもおられる。
入り口にはかの有名なドン・ペリニョンさんの像
こんな風に置かれているとドン・ペリニョンさんがモエ・エ・シャンドン社とゆかりある人物のように見えるが、そんな深い結びつきはない。彼が所属した元修道院の敷地が現在モエ社の所有になっているという理由である。

簡単なビデオを見た後、地下のカーヴへ案内される。そこは全長二十キロ以上に及ぶ古くからのセラーとなっており、けっこうなスピードで輸送カートが走ってくる。
それぞれにいつどこの畑から収穫されたものかを表す札がつけられているが、それは従業員にしか分からない、いわば符丁で書かれている。
ブレンドされ、二次醗酵してゆく過程でたまってゆく澱(おり)。これを取り出すには先端にためて、その部分を液体窒素で凍らせて抜き出す。実に手の混んだ造り方が長い年月で編み出されてきたのだ。
見学の後、試飲。そしてもちろん売店がある。ご一緒した愛好家の方によると、値段は日本でもこのぐらいの値段なら充分手に入るという程度であるそうな。
ロビーにあったナポレオンがモエを訪れる版画が目に留まった。
ナポレオンは9歳でシャンパーニュ地方の王立陸軍幼年学校に入学、ここでモエ社の三代目にあたるジャン・レミー・モエとで会っている。モエはナポレオンより十一才年長だったが、その後生涯の友人となった。
ナポレオンとの交流はモエ社の発展にもちろん寄与した。その敗北によってロシア軍がモエのシャンパンを大量に略奪していった事さえも、後年ロシアに愛好者を増やすという「シャンパンの勝利」につながった。
**
エペルネの街から少し離れ、ワイン畑の中「オーヴィレール」という標識にしたがって走る。
ひっそりとした村にはたくさんの小規模なシャンパンメーカーがある。
葡萄の木をまたいで動く専用の車をたくさん見かける。
一様に見えるブドウ畑だが、こうしたモエ社の印のある畑もあれば、そのほかの小規模農家の畑も混在している。シャンパン用の葡萄を作ると認定されれば、その土地の価値は十倍にも跳ね上がるときいた。

村の端に高い塀で囲まれた閉ざされた敷地がある。この塀の向こうが、かのドン・ペリニョンが過ごしたベネディクト派修道院。現在はモエ社が迎賓館の様に使用している。某日本の有名人の結婚パーティも行われたそうであります。

修道院の壁に沿って曲がり階段を登ると、さっき見えていた修道院の教会にたどり着く。
この修道院は七世紀末にメロビング朝の王キルデリク二世の義理兄弟だった聖ニヴァルドによって創設されたとされる。
四世紀にキリスト教を公認したコンスタンチヌス帝の母へレナゆかりの聖遺物が入れられていた箱が鎮座しているが、中身はフランス革命の時に略奪されてしまったそうだ。

ルイ十四世と全く同年に生まれ、死んだドン・ペリニョン。彼は、三十歳の時にこの修道院の会計係として赴任。荒れ果てていた葡萄畑を復活させて最上のワインをつくりだした。
現地での解説看板によれば、ドン・ペリニョンにはワイン作りに五つの功績があるそうな。?別々の畑から最上のヴィンテージをつくる?早朝に葡萄を摘み、すみやかにやさしく絞る?厚いガラスを使ったボトルを利用して醗酵の泡をコントロールする?コルクで栓をする?カーヴで一定の温度を保ち何年もかけて熟成させる。
当時は「失敗」とされたワインの二次醗酵による泡をコントロールする事を考え始めたのは彼だったのか。しかし、それが「シャンパン」と呼ばれるものに発展するのはまだ後世の事。当時ドン・ペリニョンがつくっていたのはあくまで最上のブレンドワインだったというのがおおよそ正しい事実の様である。※白水社刊「シャンパン歴史物語」参照し、現地でのドン・ペリニョンについての解説を読んでの推察であります。
彼の墓は正面祭壇のすぐ前に位置しているので、すぐに分かる。この場所は修道院長クラスの人物でなければ葬られない場所であるが、それだけの貢献をしたとの敬意を持って葬られたのであろう。

そして13時にモエ・エ・シャンドン社の見学へ。ここは「フランスで一番地価が高い」という説明もあったシャンパン通りにある。

ここは日本のグループもたくさん見学に来るので、事前にリクエストしておけば日本語で説明してくれるガイドさんもおられる。
入り口にはかの有名なドン・ペリニョンさんの像

こんな風に置かれているとドン・ペリニョンさんがモエ・エ・シャンドン社とゆかりある人物のように見えるが、そんな深い結びつきはない。彼が所属した元修道院の敷地が現在モエ社の所有になっているという理由である。

簡単なビデオを見た後、地下のカーヴへ案内される。そこは全長二十キロ以上に及ぶ古くからのセラーとなっており、けっこうなスピードで輸送カートが走ってくる。
それぞれにいつどこの畑から収穫されたものかを表す札がつけられているが、それは従業員にしか分からない、いわば符丁で書かれている。
ブレンドされ、二次醗酵してゆく過程でたまってゆく澱(おり)。これを取り出すには先端にためて、その部分を液体窒素で凍らせて抜き出す。実に手の混んだ造り方が長い年月で編み出されてきたのだ。

見学の後、試飲。そしてもちろん売店がある。ご一緒した愛好家の方によると、値段は日本でもこのぐらいの値段なら充分手に入るという程度であるそうな。
ロビーにあったナポレオンがモエを訪れる版画が目に留まった。
ナポレオンは9歳でシャンパーニュ地方の王立陸軍幼年学校に入学、ここでモエ社の三代目にあたるジャン・レミー・モエとで会っている。モエはナポレオンより十一才年長だったが、その後生涯の友人となった。ナポレオンとの交流はモエ社の発展にもちろん寄与した。その敗北によってロシア軍がモエのシャンパンを大量に略奪していった事さえも、後年ロシアに愛好者を増やすという「シャンパンの勝利」につながった。
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エペルネの街から少し離れ、ワイン畑の中「オーヴィレール」という標識にしたがって走る。

ひっそりとした村にはたくさんの小規模なシャンパンメーカーがある。
葡萄の木をまたいで動く専用の車をたくさん見かける。
一様に見えるブドウ畑だが、こうしたモエ社の印のある畑もあれば、そのほかの小規模農家の畑も混在している。シャンパン用の葡萄を作ると認定されれば、その土地の価値は十倍にも跳ね上がるときいた。

村の端に高い塀で囲まれた閉ざされた敷地がある。この塀の向こうが、かのドン・ペリニョンが過ごしたベネディクト派修道院。現在はモエ社が迎賓館の様に使用している。某日本の有名人の結婚パーティも行われたそうであります。

修道院の壁に沿って曲がり階段を登ると、さっき見えていた修道院の教会にたどり着く。

この修道院は七世紀末にメロビング朝の王キルデリク二世の義理兄弟だった聖ニヴァルドによって創設されたとされる。
四世紀にキリスト教を公認したコンスタンチヌス帝の母へレナゆかりの聖遺物が入れられていた箱が鎮座しているが、中身はフランス革命の時に略奪されてしまったそうだ。

ルイ十四世と全く同年に生まれ、死んだドン・ペリニョン。彼は、三十歳の時にこの修道院の会計係として赴任。荒れ果てていた葡萄畑を復活させて最上のワインをつくりだした。
現地での解説看板によれば、ドン・ペリニョンにはワイン作りに五つの功績があるそうな。?別々の畑から最上のヴィンテージをつくる?早朝に葡萄を摘み、すみやかにやさしく絞る?厚いガラスを使ったボトルを利用して醗酵の泡をコントロールする?コルクで栓をする?カーヴで一定の温度を保ち何年もかけて熟成させる。
当時は「失敗」とされたワインの二次醗酵による泡をコントロールする事を考え始めたのは彼だったのか。しかし、それが「シャンパン」と呼ばれるものに発展するのはまだ後世の事。当時ドン・ペリニョンがつくっていたのはあくまで最上のブレンドワインだったというのがおおよそ正しい事実の様である。※白水社刊「シャンパン歴史物語」参照し、現地でのドン・ペリニョンについての解説を読んでの推察であります。
彼の墓は正面祭壇のすぐ前に位置しているので、すぐに分かる。この場所は修道院長クラスの人物でなければ葬られない場所であるが、それだけの貢献をしたとの敬意を持って葬られたのであろう。
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