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- ペルー / 「マチュピチュ遺跡」の環境保護への取り組みについて
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エリア:
- 中南米>ペルー>マチュピチュ
- テーマ:世界遺産
- 投稿日:2009/02/23 17:53
「マチュピチュ遺跡」が、環境保護に取り組みます!
マチュピチュ管理局では、遺跡でのペットボトルの持ち込みや遺跡周辺でのペットボトル飲料の販売を今年2009年4月17日より禁止いたします。
この条例は昨年2008年11月より地域行政で審議されており、この度可決し、4月17日からの実施に至っています。
多くの観光客が訪れるマチュピチュ遺跡では、ペットボトル飲料の消費量もこの数年で大幅に増えています。特にここ最近は遺跡内で1日に収集されるペットボトルの量が、30リットルの袋で18袋分とその量も膨大なものとなっておりました。
このマチュピチュ遺跡の環境保護の取り組みに、どうぞ皆様もご協力ください。
マチュピチュ管理局では、遺跡でのペットボトルの持ち込みや遺跡周辺でのペットボトル飲料の販売を今年2009年4月17日より禁止いたします。
この条例は昨年2008年11月より地域行政で審議されており、この度可決し、4月17日からの実施に至っています。
多くの観光客が訪れるマチュピチュ遺跡では、ペットボトル飲料の消費量もこの数年で大幅に増えています。特にここ最近は遺跡内で1日に収集されるペットボトルの量が、30リットルの袋で18袋分とその量も膨大なものとなっておりました。
このマチュピチュ遺跡の環境保護の取り組みに、どうぞ皆様もご協力ください。

- メキシコ / チチェン・イッツァ遺跡の「ククルカン降臨現象」 (3月)
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エリア:
- 中南米>メキシコ>チチェンイッツア
- テーマ:鑑賞・観戦 世界遺産
- 投稿日:2009/02/23 17:47
毎年昼と夜の時間が同じになる「春分の日」と「秋分の日」の年2回のみ、マヤの人々が奉っていた「ククルカン=羽毛のある蛇の形をした神」が、チチェンイッツァ遺跡のメイン・ピラミッド「カスティージョ」に降り立つという現象が見られます。
これがチチェンイッツァ遺跡の「ククルカン降臨現象」です。
この「降臨現象」をご覧いただけるのは、3月20日と21日の2日間。
当日は周辺のマヤ人末裔のみならず、世界中からその現象を一目見ようとたくさんの人たちが集まってきます。特に春分の日は乾季の最中と言う事もあり、見られる確立がグーンとアップいたします。(もちろん晴れて太陽が出なければ、この現象は見られませんのでご了承ください。)
マヤ文明のミステリアス現象を、是非ご自身でご体験ください。
■ ククルカン降臨現象: 2009年3月20日、21日
これがチチェンイッツァ遺跡の「ククルカン降臨現象」です。
この「降臨現象」をご覧いただけるのは、3月20日と21日の2日間。
当日は周辺のマヤ人末裔のみならず、世界中からその現象を一目見ようとたくさんの人たちが集まってきます。特に春分の日は乾季の最中と言う事もあり、見られる確立がグーンとアップいたします。(もちろん晴れて太陽が出なければ、この現象は見られませんのでご了承ください。)
マヤ文明のミステリアス現象を、是非ご自身でご体験ください。
■ ククルカン降臨現象: 2009年3月20日、21日
- タグ:
- ククルカン

- メキシコ / メキシコの鉄人が行く! 旅日記 〜 「タイルの家」の物語−その7(最終回)
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エリア:
- 中南米>メキシコ>メキシコシティ
- テーマ:世界遺産
- 投稿日:2008/12/01 10:55
これまで6回にわたりお届けしてまいりましたメキシコが誇る文化遺産「タイルの家」の話も、大変残念ではありますが、今回が最終回となります。
前回のお話第6話はこちらから
ビベロ伯爵の報告書には、読む者に不思議な感じを起こさせる箇所が多々ありますが、ここで取り上げる日本の地名もその一つです。
彼は「江戸」を“Yendo”、駿河を“Surunga”と記録しているのです。
これは単に彼の聞き間違いなのでしょうか? もし聞き間違いではないとしたら、江戸(Edo)が“Yendo”、駿河(Suruga)が“Surunga”とした理由は何なのでしょうか?
それは、当時の日本人がこの様に発音していたからであって、彼の聞き取りは正しかったのです。
実は言葉の発音は不変ではなく、時代を経るにつれ変化するものなのです。では、ここにその有名な例を一つ挙げてみましょう。
現在の「母」=ハハはその昔「パパ」でありました。とは言っても別に性転換した訳ではなく、これは音韻変化の故なのです。
今の「ハ」の音ですが、平安・鎌倉時代には「パ」(Pa)と発音されておりました。それが室町時代に入り「フ」(f)と変化し、その後、江戸時代に「ハ」(ha)音になり現在に至っています。
では、テープレコーダーの無いこの時代の発音をいかにして突き止めたかというと、その方法は大きく分けて二つあるのです。
1) 一つは、古文書から現在の「ハ」音が記されている箇所を捜し出し、その発音についてコメントしている部分から、どんな音だったかを予測する方法です。例えば、古い「なぞなぞ」に「母には二度会えて、父には一度も会えないもの、なあに?」=答えは「唇」というのがあります。
つまり、唇は「母」を発音する時に、唇上下が二度触れ合う事から「母」の発音は「パパ」であったことがわかるのです。
2) 二つ目の方法は、室町時代以降のキリシタン宣教師である欧米人の日本語のローマ字表記の記録から、当時の発音を推測するものです。
室町時代の「ハ」音は全て「f」で書かれおり、その後、江戸初期の英国人 コックの日記には「h」で記されています。(「箱根」=“Hacomey”)
つまり現在の「ハ」音は「パ」→「フ」→「ハ」という変化の結果なのです。
同じ方法で「江戸」“Yendo”について見てみましょう。まず気付いた点としては、古代の日本には“e”音が三つあり、区別されて発音されていた事です。(ア行、ヤ行、ワ行の“e”、“Ye”、“We”)
平安時代の紀貫之の文には、ア行“e”を「衣」、ヤ行“Ye”を「江」と書き分けています。ワ行“We”も他の古文書によって書き分けが発見出来ます。
それが平安末期になりヤ行“Ye”に統一され、ア行とワ行の“e”、“We”の文字は消えしまっています。室町時代のキリシタン文献にも全て“Ye”で記録されております。この時代の政治の中心は関西にありましたので、ビベロ伯爵も中心地の発音に基づき“Ye‐ndo”と書き写したのでしょう。
それが今、何故“e”と発音されるようになったかは、中心地が江戸に移り関東方言の“e”に変化したからなのです。しかしこの発音は「ぞんざいな言い方」であってあまりマネすべきものではない、と当時の文献ではコメントしています。
紀貫之が“Ye”を「江」と書いている事から見ても「江戸」の「江」は“Ye”であったことがわかります。
次に“Ye‐ndo”の“ndo”、“Suru‐nga”の“nga”についてはどうかというと、上代から室町時代まで「ガ行」と「ダ行」は鼻音で発音され、“nga”、“ndo”が正音であったという記録があります。それが東国方言、かつ江戸庶民の「歯切れのいい」“ga”、“do”に変化し定着した模様です。
つまりは、ビベロ伯爵の書いた“Yendo”と“Surunga”の言い回しは、当時の正統な発音の記録であって、聞き間違いではありませんでした。
メキシコでは「屏風」(びょうぶ)を“Biombo”と言いますが、これはフィリピン経由でメキシコに渡った時の発音を、当時のまま残しているのかもしれません。又“Guarache”(ワラッチェ)も日本語の「わらじ」が語源であったかもしれないのです。
日本語も品物と共に海外へ渡ったのでしょうが、反対に日本へ入って来た言葉もあります。
1543年に種子島に火縄銃と共に漂着したポルトガル商人が、日本人が出会った初のヨーロッパ人であり、その後ポルトガル語が商品と共に輸入されました。間もなくフランシスコ・ザビエルを筆頭に、イエズス会派宣教師が来日し、ポルトガル語は当時の流行語になりました。
実は古い日本語だと思っていた言葉が、ポルトガル語だったりする事があるのです。例を挙げると「サラサ」、「ラシャ」、「じゅばん」、「こんぺいとう」等です。
その他には、今ではすっかり日本語になり漢字まで当てられていて、ポルトガル語だったとは知らずに使われている言葉もあります。例えば「合羽」(カッパ)、「歌留多」(カルタ)、「煙草」、「南瓜」(カボチャ)、「亜鉛」(トタン)、「カステラ」、「パン」、「フラスコ」、「ブランコ」もポルトガルから品物に伴って入ってきた言葉です。
又、ポルトガル語の中には今の私達の生活の中に生き、毎日使われているものもあります。それは「どうも、ありがとう」という言葉なのです。これは、ポルトガル語の
「ムート・オブリガード」から由来し、ポルトガル宣教師が盛んに言った事から室町時代の流行語になったらしいのです。
又、「ムート・オブリガード」は、武士語の「有難い」に発音も意味も似ている事から、すっかり日本語として定着し、現在ではポルトガル語と疑う事なく「どうも、ありがとう」と言い交わしているのです。
1590年に活字印刷機がポルトガルより持参され、ローマ字活字本が出版され始めます。1603年には、日本語・ポルトガル語辞典が宣教師により作成〜出版され、その後1630年にスペイン語に訳され、日西辞典となって世に出ています。
ポルトガル人のロドリゲスは、1577年に日本に来てから通訳として活躍し、日本語を体系的にまとめた「日本文典」を執筆、その後、マカオで日本語の方言も含め当時の日本語全般についてとりまとめた「日本小文典」を書いています。
杉田玄白の「蘭学事始」が世に出る200年以上も前の事でした。
おわり
(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)
前回のお話第6話はこちらから
ビベロ伯爵の報告書には、読む者に不思議な感じを起こさせる箇所が多々ありますが、ここで取り上げる日本の地名もその一つです。
彼は「江戸」を“Yendo”、駿河を“Surunga”と記録しているのです。
これは単に彼の聞き間違いなのでしょうか? もし聞き間違いではないとしたら、江戸(Edo)が“Yendo”、駿河(Suruga)が“Surunga”とした理由は何なのでしょうか?
それは、当時の日本人がこの様に発音していたからであって、彼の聞き取りは正しかったのです。
実は言葉の発音は不変ではなく、時代を経るにつれ変化するものなのです。では、ここにその有名な例を一つ挙げてみましょう。
現在の「母」=ハハはその昔「パパ」でありました。とは言っても別に性転換した訳ではなく、これは音韻変化の故なのです。
今の「ハ」の音ですが、平安・鎌倉時代には「パ」(Pa)と発音されておりました。それが室町時代に入り「フ」(f)と変化し、その後、江戸時代に「ハ」(ha)音になり現在に至っています。
では、テープレコーダーの無いこの時代の発音をいかにして突き止めたかというと、その方法は大きく分けて二つあるのです。
1) 一つは、古文書から現在の「ハ」音が記されている箇所を捜し出し、その発音についてコメントしている部分から、どんな音だったかを予測する方法です。例えば、古い「なぞなぞ」に「母には二度会えて、父には一度も会えないもの、なあに?」=答えは「唇」というのがあります。
つまり、唇は「母」を発音する時に、唇上下が二度触れ合う事から「母」の発音は「パパ」であったことがわかるのです。
2) 二つ目の方法は、室町時代以降のキリシタン宣教師である欧米人の日本語のローマ字表記の記録から、当時の発音を推測するものです。
室町時代の「ハ」音は全て「f」で書かれおり、その後、江戸初期の英国人 コックの日記には「h」で記されています。(「箱根」=“Hacomey”)
つまり現在の「ハ」音は「パ」→「フ」→「ハ」という変化の結果なのです。
同じ方法で「江戸」“Yendo”について見てみましょう。まず気付いた点としては、古代の日本には“e”音が三つあり、区別されて発音されていた事です。(ア行、ヤ行、ワ行の“e”、“Ye”、“We”)
平安時代の紀貫之の文には、ア行“e”を「衣」、ヤ行“Ye”を「江」と書き分けています。ワ行“We”も他の古文書によって書き分けが発見出来ます。
それが平安末期になりヤ行“Ye”に統一され、ア行とワ行の“e”、“We”の文字は消えしまっています。室町時代のキリシタン文献にも全て“Ye”で記録されております。この時代の政治の中心は関西にありましたので、ビベロ伯爵も中心地の発音に基づき“Ye‐ndo”と書き写したのでしょう。
それが今、何故“e”と発音されるようになったかは、中心地が江戸に移り関東方言の“e”に変化したからなのです。しかしこの発音は「ぞんざいな言い方」であってあまりマネすべきものではない、と当時の文献ではコメントしています。
紀貫之が“Ye”を「江」と書いている事から見ても「江戸」の「江」は“Ye”であったことがわかります。
次に“Ye‐ndo”の“ndo”、“Suru‐nga”の“nga”についてはどうかというと、上代から室町時代まで「ガ行」と「ダ行」は鼻音で発音され、“nga”、“ndo”が正音であったという記録があります。それが東国方言、かつ江戸庶民の「歯切れのいい」“ga”、“do”に変化し定着した模様です。
つまりは、ビベロ伯爵の書いた“Yendo”と“Surunga”の言い回しは、当時の正統な発音の記録であって、聞き間違いではありませんでした。
メキシコでは「屏風」(びょうぶ)を“Biombo”と言いますが、これはフィリピン経由でメキシコに渡った時の発音を、当時のまま残しているのかもしれません。又“Guarache”(ワラッチェ)も日本語の「わらじ」が語源であったかもしれないのです。
日本語も品物と共に海外へ渡ったのでしょうが、反対に日本へ入って来た言葉もあります。
1543年に種子島に火縄銃と共に漂着したポルトガル商人が、日本人が出会った初のヨーロッパ人であり、その後ポルトガル語が商品と共に輸入されました。間もなくフランシスコ・ザビエルを筆頭に、イエズス会派宣教師が来日し、ポルトガル語は当時の流行語になりました。
実は古い日本語だと思っていた言葉が、ポルトガル語だったりする事があるのです。例を挙げると「サラサ」、「ラシャ」、「じゅばん」、「こんぺいとう」等です。
その他には、今ではすっかり日本語になり漢字まで当てられていて、ポルトガル語だったとは知らずに使われている言葉もあります。例えば「合羽」(カッパ)、「歌留多」(カルタ)、「煙草」、「南瓜」(カボチャ)、「亜鉛」(トタン)、「カステラ」、「パン」、「フラスコ」、「ブランコ」もポルトガルから品物に伴って入ってきた言葉です。
又、ポルトガル語の中には今の私達の生活の中に生き、毎日使われているものもあります。それは「どうも、ありがとう」という言葉なのです。これは、ポルトガル語の
「ムート・オブリガード」から由来し、ポルトガル宣教師が盛んに言った事から室町時代の流行語になったらしいのです。
又、「ムート・オブリガード」は、武士語の「有難い」に発音も意味も似ている事から、すっかり日本語として定着し、現在ではポルトガル語と疑う事なく「どうも、ありがとう」と言い交わしているのです。
1590年に活字印刷機がポルトガルより持参され、ローマ字活字本が出版され始めます。1603年には、日本語・ポルトガル語辞典が宣教師により作成〜出版され、その後1630年にスペイン語に訳され、日西辞典となって世に出ています。
ポルトガル人のロドリゲスは、1577年に日本に来てから通訳として活躍し、日本語を体系的にまとめた「日本文典」を執筆、その後、マカオで日本語の方言も含め当時の日本語全般についてとりまとめた「日本小文典」を書いています。
杉田玄白の「蘭学事始」が世に出る200年以上も前の事でした。
おわり
(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)

- ペルー / 注目の世界遺産「マヌー国立公園」ご紹介
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エリア:
- 中南米>ペルー>ペルーその他の都市
- テーマ:世界遺産
- 投稿日:2008/11/19 11:48
現在世界からも注目されている世界遺産「マヌー国立公園」をご紹介いたします。
1987年にユネスコの世界遺産に登録されたこの「マヌー国立公園」(英文名: biosphere of Manu)は、ペルーでも最大級の自然公園で、クスコから空路(小型機)でわずか45分の場所に位置します。
面積は日本の四国とほぼ同じ。生息する鳥類は1,000種(何と南米大陸の半分以上の鳥が、生息しています!)、植物は5,000種、蝶は約1,200種類、動物の数も多く、世界の自然・動物愛好家にはなんともたまらない、一度は訪れてみたい場所となっています。
ここマヌー国立公園には、下記の3つの異なるエリアがあります。
1) 文化地区
地元の人々が居住。
ここでは狩猟・漁業・森林伐採が、自然環境を破壊しない範囲で許されている場所です。
2) 保護地区
エコツーリズム用に開かれた地区で、居住・狩猟・森林伐採は一切許可されておりません。
3) 公園地区
現在居住しているいくつかの部族以外、一般の人の立ち入りは禁止されております。
注目の世界遺産に、是非、お越しください。
(下記画像は、マヌー国立公園の地図)
1987年にユネスコの世界遺産に登録されたこの「マヌー国立公園」(英文名: biosphere of Manu)は、ペルーでも最大級の自然公園で、クスコから空路(小型機)でわずか45分の場所に位置します。
面積は日本の四国とほぼ同じ。生息する鳥類は1,000種(何と南米大陸の半分以上の鳥が、生息しています!)、植物は5,000種、蝶は約1,200種類、動物の数も多く、世界の自然・動物愛好家にはなんともたまらない、一度は訪れてみたい場所となっています。
ここマヌー国立公園には、下記の3つの異なるエリアがあります。
1) 文化地区
地元の人々が居住。
ここでは狩猟・漁業・森林伐採が、自然環境を破壊しない範囲で許されている場所です。
2) 保護地区
エコツーリズム用に開かれた地区で、居住・狩猟・森林伐採は一切許可されておりません。
3) 公園地区
現在居住しているいくつかの部族以外、一般の人の立ち入りは禁止されております。
注目の世界遺産に、是非、お越しください。
(下記画像は、マヌー国立公園の地図)
- タグ:
- マヌー国立公園 世界遺産

- メキシコ / メキシコの鉄人が行く! 旅日記 〜 「タイルの家」の物語−その6
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エリア:
- 中南米>メキシコ>メキシコシティ
- テーマ:世界遺産
- 投稿日:2008/10/31 11:51
前回の話から続く、メキシコが誇る文化遺産「タイルの家」の話の第6話となります。
第5話はこちらから
1608年に日本に漂着したビベロ伯爵の報告書「日本国事情」が、既に亡きフェリッペ二世へ向けて書かれた「死者への手紙」であった事は、前号でお伝えした通りですが、フェリッペ二世が世を去った1598年9月、日本では太閤 豊臣秀吉も他界しています。
ユーラシア大陸の東端の日本の主権者と、西端の主権者フェリッペ二世の生い立ちはみごとに正反対でありました。
フェリッペ二世は「日の没することなき」神聖ローマ皇帝の息子として生を受け、一方、豊臣秀吉は愛知県の小さな村の百姓の子として生を受けました。その両者が歴史の偶然により、同年同月に平等に死を受けているのです。
秀吉の死後は、秀吉政権時代に大老(No.2)の位置に就いていた名実ともに実力派の武将 徳川家康が政権を握りましたが、フェリッペ二世の死後、その政権は「存在価値ゼロ以下」の息子 フェリッペ三世が継いだのです。
奇妙に思うのはビベロ伯爵の報告書「日本国事情」が個人の日記ではなく公文書でありながら、その時代のスペイン王「フェリッペ三世」を完全に無視している点でしょう。例えフェリッペ三世が無形であったとしても、この様な事が許されるのでしょうか。
答えは、当時のメキシコとスペイン本国の関係に見出せそうです。
スペインの実権は、無形の王 フェリッペ三世に代わりレルマ公爵が握っていたのです。公爵という位は日本の大名(一国一城の主=お殿様)にあたります。
現に日本も明治維新後にはヨーロッパの華族制に倣い、大名を公爵、次に石高の順に、侯爵、伯爵としておりました。つまりレルマ公爵はビベロ伯爵より上位にあったという事です。
レルマ公爵の目にふれるであろう公文書を通じ、ビベロ伯爵の実の主人にあたるスペイン王 フェリッペ三世を無視したのです。
誰かがこれを許したのでしょうか? いえ、これを許したのはビベロ伯爵自らの自信から出ていたのです。その自信は、スペインの植民地であったメキシコにいた当時の貴族の自信でもあるのです。
この時期の本国スペインは、公爵の汚職と無能から経済が悪化し、メキシコからの仕送り無しには生活出来なくなっていたのです。
当然、スペイン国民は公爵に反発し、これに伴いスペイン貴族の信頼は下落いたしました。その一方で、新天地メキシコに赴いた貴族は腐敗した古くからのスペイン貴族に成り代わり本国を支えたのです。メキシコにいた貴族の多くは「きっと我らこそ、スペイン貴族の本流なり!」と思った事でしょう。
確かにこの時代の貴族には、歴史に名を残す名君が多いのです。そして彼達は本国の貴族と競う様に、彼の地メキシコにおいて華麗な館造りにいそしんだのです。
現在、サンボーンズの本店となっている「タイルの家」もその中の一つでありました。
その頃のヨーロッパ旅行者がメキシコシティを「宮殿の町」と呼んでいたのもうなずけます。
ビベロ伯爵の「日本国事情」は、まず彼の直接の上司であるメキシコ副王 ベラスコに提出され、その後、本国スペインに送られたと思われます。この亡王 フェリッペ二世宛の報告書を受け取った副王は、ビベロ伯爵の勇気をたたえた事でしょう。
ちなみにこの副王 ベラスコは、ビベロ伯爵の叔父でありました。この叔父は、メキシコ生まれのスペイン人(クリオージョ=Criolloと言います)として、初のメキシコ副王となった人物で、甥のビベロ伯爵もクリオージョ(Criollo)でありました。
もしかするとビベロ伯爵の報告書は、スペイン貴族二世の、スペイン貴族一世に対する挑戦状ではなかったのでしょうか。昔のスペインの貴族一世は、古い体質のスペイン本国では不可能な夢を実現するために新大陸 メキシコにやって来た、スペイン貴族二世はその夢を実現させ、本国に勝利したのです。
その7につづきます(残り少なくなりました)。 どうぞお楽しみに!!!
(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)
第5話はこちらから
1608年に日本に漂着したビベロ伯爵の報告書「日本国事情」が、既に亡きフェリッペ二世へ向けて書かれた「死者への手紙」であった事は、前号でお伝えした通りですが、フェリッペ二世が世を去った1598年9月、日本では太閤 豊臣秀吉も他界しています。
ユーラシア大陸の東端の日本の主権者と、西端の主権者フェリッペ二世の生い立ちはみごとに正反対でありました。
フェリッペ二世は「日の没することなき」神聖ローマ皇帝の息子として生を受け、一方、豊臣秀吉は愛知県の小さな村の百姓の子として生を受けました。その両者が歴史の偶然により、同年同月に平等に死を受けているのです。
秀吉の死後は、秀吉政権時代に大老(No.2)の位置に就いていた名実ともに実力派の武将 徳川家康が政権を握りましたが、フェリッペ二世の死後、その政権は「存在価値ゼロ以下」の息子 フェリッペ三世が継いだのです。
奇妙に思うのはビベロ伯爵の報告書「日本国事情」が個人の日記ではなく公文書でありながら、その時代のスペイン王「フェリッペ三世」を完全に無視している点でしょう。例えフェリッペ三世が無形であったとしても、この様な事が許されるのでしょうか。
答えは、当時のメキシコとスペイン本国の関係に見出せそうです。
スペインの実権は、無形の王 フェリッペ三世に代わりレルマ公爵が握っていたのです。公爵という位は日本の大名(一国一城の主=お殿様)にあたります。
現に日本も明治維新後にはヨーロッパの華族制に倣い、大名を公爵、次に石高の順に、侯爵、伯爵としておりました。つまりレルマ公爵はビベロ伯爵より上位にあったという事です。
レルマ公爵の目にふれるであろう公文書を通じ、ビベロ伯爵の実の主人にあたるスペイン王 フェリッペ三世を無視したのです。
誰かがこれを許したのでしょうか? いえ、これを許したのはビベロ伯爵自らの自信から出ていたのです。その自信は、スペインの植民地であったメキシコにいた当時の貴族の自信でもあるのです。
この時期の本国スペインは、公爵の汚職と無能から経済が悪化し、メキシコからの仕送り無しには生活出来なくなっていたのです。
当然、スペイン国民は公爵に反発し、これに伴いスペイン貴族の信頼は下落いたしました。その一方で、新天地メキシコに赴いた貴族は腐敗した古くからのスペイン貴族に成り代わり本国を支えたのです。メキシコにいた貴族の多くは「きっと我らこそ、スペイン貴族の本流なり!」と思った事でしょう。
確かにこの時代の貴族には、歴史に名を残す名君が多いのです。そして彼達は本国の貴族と競う様に、彼の地メキシコにおいて華麗な館造りにいそしんだのです。
現在、サンボーンズの本店となっている「タイルの家」もその中の一つでありました。
その頃のヨーロッパ旅行者がメキシコシティを「宮殿の町」と呼んでいたのもうなずけます。
ビベロ伯爵の「日本国事情」は、まず彼の直接の上司であるメキシコ副王 ベラスコに提出され、その後、本国スペインに送られたと思われます。この亡王 フェリッペ二世宛の報告書を受け取った副王は、ビベロ伯爵の勇気をたたえた事でしょう。
ちなみにこの副王 ベラスコは、ビベロ伯爵の叔父でありました。この叔父は、メキシコ生まれのスペイン人(クリオージョ=Criolloと言います)として、初のメキシコ副王となった人物で、甥のビベロ伯爵もクリオージョ(Criollo)でありました。
もしかするとビベロ伯爵の報告書は、スペイン貴族二世の、スペイン貴族一世に対する挑戦状ではなかったのでしょうか。昔のスペインの貴族一世は、古い体質のスペイン本国では不可能な夢を実現するために新大陸 メキシコにやって来た、スペイン貴族二世はその夢を実現させ、本国に勝利したのです。
その7につづきます(残り少なくなりました)。 どうぞお楽しみに!!!
(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)
251 - 255件目まで(270件中)


