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ユーラシアの旅ブログinトラベルコちゃん

~世界130ヶ国を舞台に活躍するユーラシア旅行社添乗員の生の声をブログでお届け! ※毎週火曜・木曜更新!各記事は当社サイト内の7つのブログから転載しております。~

株式会社ユーラシア旅行社
ユーラシア旅行社は世界130ヶ国を舞台に、遺跡、自然、伝統文化、芸術などさまざまなテーマで、お客様の知的好奇心を満たす旅を提案しています。
プロフィール

ニックネーム:
ユーラシア旅行社
居住地:
東京都
会社名:
株式会社ユーラシア旅行社
会社英字名:
Eurasia Travel Co.,Ltd,
会社所在地:
東京都
会社電話番号:
03-3265-1691
業種:
旅行業
自己紹介:
世界130ヶ国を舞台にテーマ性の深いツアーに添乗するユーラシア旅行社の添乗員のブログから抜粋した記事を毎週火曜・木曜更新!

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ドーラビーラー遺跡北門
海を渡った謎多き文明〜ドーラビーラー
エリア:
  • アジア>インド>インドその他の都市
テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2011/03/04 16:38
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先日、西インドにあるインダス文明の遺跡ドーラビーラーへ訪れるツアーへ行ってまいりました。

歴史の教科書の一番最初に出てくる、いわゆる4大文明の一つのインダス文明。直ぐに思い浮かぶ遺跡の名前は「モヘンジョ・ダロ」や「ハラッパー」ですが、インダス文明は大変広い領域に多くの都市が点在していたようです。

現在、西インドはグジャラート州に残るインダス文明の都市遺跡はまさにそんな都市の一つだったようです。
遺跡に一番近い街、ブジからバスで約5時間(もちろん休憩も入れて)。

眼前に真っ白な平原が広がりました。
雲ひとつない青い空の下でキラキラ輝いています。このあたりは湿地帯で、7月くらいになると雨などの影響でまるで海のようになるそうです。今は乾いているため、塩の平原が続いていますが、少し掘ってみるともう水が見えました。

今から約4000年前〜3000年前、このあたりは浅瀬の海だったのだとか。
私達がこれから向かうドーラビーラーはそんな浅瀬の海に囲まれた、島にある都市だったのかもしれません。

塩の平原を抜けてようやっと遺跡へ到着。
いよいよ謎のインダス文明の遺跡が私達の前に姿を現します。


眼前にまず大きなくぼみと石段が見えてきます。
城門の前の大きな貯水池のあとです。

まるで島のように、周りを浅瀬の海で囲まれていたと想像されるドーラビーラーでは塩分のない水の確保はとても大事なことだったのでしょう。

城門をはいって真っ先に見たのはやはり水利システムです。
城内に引き込んだ水が腐らないように、風を通して、人が掃除できるようになっていたそうです。

ドーラビーラ遺跡水路の跡


いま表に出ているのは紀元前1500年位前の遺構だそうです。石組みがいくつも続くのは恐らく住居跡でしょう、との事。
ぽつんと石臼がおいてあり、この地方の村人が今も使っているものとよく似ていて、ドーラビーラー遺跡で過去に生活していた人々の姿がなんとなく思い浮かびました。

日陰もなく、訪れる人も殆どない、少々忘れられた感のある遺跡ですが、インダス文明を解明する重要な手がかりの発見されたところとあって、案内の係りの人は少々誇らしげ。

「インド人のいまの生活に根付く、牛を聖なる動物として崇めることなどは、まさにこのインダス文明から続いているのだ、ほら、看板の下のマークを良く見て。この牛のマークの印章は、まさにこの遺跡から見つかったものなんだ。恐らく何かしらの契約などに使用したと思われるけど、大切な約束事に使用したんだから、牛はやっぱり聖なる動物だったんだよ」

それに、ここからはインダス文字が10文字も書かれた看板が北門からも見つかっているし、インダス文明の謎を解く鍵が沢山埋まっているのだ。

と、教えてくれました。

発見された看板(今は埋め戻されている)


はるか昔のドーラビーラーの人々の生活が少し垣間見えるような、そんな気がしました。
いまはインドの西の端っこ、パキスタンとの国境にある遺跡ですが、古代文明の謎が一杯詰まった宝箱のようなところです。

次来るときにはどんな新しい発見が、私たちに古代の生活の一端を伝えてくれるのでしょう。
よろしければこちらもご覧下さい。

ロータル遺跡に残る井戸
インダス文明〜海へ向かったロータルの民〜
エリア:
  • アジア>インド>インドその他の都市
テーマ:観光地 歴史・文化・芸術 
投稿日:2011/02/24 22:59
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インドはクルーズの寄港地としては少々なじみが薄い場所です。
理由はいろいろあります。
国が大きい。
インドまで行くなら、そこを越えてアフリカまで向かうことが多く日数が長いコースが多いため、乗船しにくい。

それで、なんとなくクルーズ寄港地としてのインドは、ムンバイなどの一部の町を除いて、イメージにないような気がいたします。

しかし、インドはやはり大きくて深い国でした。
いずれ、リバークルーズのお話などもさせて頂きたいのですが、今回は遥か古代、アラビア海を渡ったインド人の先祖の方々のお話です。

そう、インダス文明です。

インダス文明は、世界4大文明といわれる超有名な古代文明の一つです。

恥ずかしながら私は、このあたりの古代史は少々疎く、今回、改めて本をひっくり返して付け焼刃な勉強をしたのですが、その深さを広大さに、頭がおぼれてしまいそうでした。

インダス文明とは、現代のパキスタンからインドのの西北部にかけて、インダス河といまはかれてしまったサラスヴァーティーという河の間の肥沃な土地に広がった一大文化圏だったようです。

ざっとその大きさを見ますと日本の国土よりも遥かに広い文化圏だったことがわかります。

いま、西インドで発掘されている遺跡は二つ。
今日はその一つ、ロータル遺跡の紹介です。

いまは、海まで80?ある内陸の遺跡ですが、古代は7km程しか離れておらず、町の直ぐそばを川が流れ、それを引き込んだ船着場を造っていたと考えられています。

小さな遺跡ですが、しっかりとした大きな井戸があり、その直ぐ奥には倉庫跡、さらに奥にはアクロポリス、恐らく支配者層の邸宅跡が残ります。

歴史にしてざっと3500年前の遺構です。
乾燥した日干し煉瓦の文化は素晴らしい。そんな昔の遺構がいまもしっかり残っているのだから。
よくよく見ると、細い管のような跡が。

そう、配水管です。

お手洗いやキッチンが一列並びに設けられていたようです。
そしてその後ろを配水管が通っていたのです。

日干し煉瓦と配水管跡


もしや水洗トイレだったのでしょうか?

さらに歩を進めると、大きなバスタブのような、多分小さな浴場とアクロポリス専用の井戸が。
インダス文明は水の管理がしっかりしていた文明だったようです。

工房跡を過ぎて市場の跡に。
7km先のアラビア海から河をつたい、異国からは様々なものが入ってきたでしょう。
そして恐らく、ロータル遺跡で発見された、髪の毛の先ほどの紐通し穴の開いたビーズや紅玉のアクセサリーがアラビア海から遥かオマーンやバーレーンに輸出されたことでしょう。

なぜなら、それらの装飾品やインダス文明特有の印章とよばれる判子がアラビア半島で沢山発見されているからです。

アラビア海の荒波の中を勇敢に向かい、メソポタミア文明の民と交流を行っていたロータルやそのほかのインダス文明の民。
インドの人は今も海外に羽ばたく人が多いです(クルーズスタッフにも)
遥か古代から、彼らは世界を飛び回り最新の情報を手に入れて、より発展していったのでしょうか。


ロータル遺跡イメージ

風の宮殿
マハラジャとピンクの街
エリア:
  • アジア>インド>ジャイプール
テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2010/12/10 10:46
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インドの北西にはラジャスタン州があります。

州都はジャイプールです。
この街は旧市街へ入る入り口のかつての城門からピンク色で、とても華やかな雰囲気です。

華やかな街はピンクシティーと称され、インド観光地のゴールデントライアングルと呼ばれる一大観光地です。

ここの観光の目玉としてご覧頂きたいのは、風の宮殿、シティ・パレス、ジャンタル・マンタル、近郊のお城アンベール城などです。

これらは全部、この地の統治者だった藩王国の王「マハラジャ」によって代々受け継がれてきたものです。

皆様は「マハラジャ」をご存知ですか?「偉大な王」という意味です。
第二次大戦前、インドには沢山の藩王国が存在し、彼らの「国土」は英国統治下の時代であっても、基本的には「自分たちの領土の統治権」を有していたわけです。
例えばジャンタル・マンタルというのは天文台ですが、当時の最新学問を駆使してつくった天文台の、その正確さには驚かれます。
そして、こうした「時を支配する」物をこんなに大きく造り上げられるなんて、しっかりとした権力が安定していたからなのでしょうか。

第二次大戦後、インドから英国が去り、インドは共和国になることになったと同時に、藩王国は消滅することとなり、実質、今はマハラジャは一市民です。
この街に初めて訪れたときに、シティ・パレスの売店だったと思いますが、最後のマハラジャ、マン・シン2世の第3妃(マハラニ)ガーヤトリー・デヴィが残した回想録が売っておりまして、表紙の女性が綺麗でしたので、つつっと購入してしまいました。

残念ながら英語のため、流し読みしか出来ず、とても熟読とはいえません。しかしながら、第二次大戦前と後では彼女の生活が180度変わってしまったことはよくわかりました。

長く英国に統治されてきたため、自分たち主導の政治の理想と現実の差にインドはとても大変でした。
おりしも印パ戦争が起きて、北インドの西と東の国境はパキスタンへ逃れるムスリムと新しいインドへ逃れるパキスタン側のヒンドゥーの難民の相互流入によって大変なことになりました。

ジャイプールは、インドの西側に位置します。
ジャイプールはとても大変でした。
元々、16世紀、このそばには「タージ・マハル」で有名なムガル帝国があり、この巨大な権力に飲み込まれないように、ジャイプールの代々のマハラジャは彼らに恭順を示し、イスラム文化も多く受け入れてきました。
そのため、街の雰囲気はイスラムチックなヒンドゥー文化であり、とてもエキゾチックで華やかです。

そうした歴史背景があるため、最後のマハラジャとマハラニ、マン・シン2世とガーヤトリーは、インドが独立するとたんにパキスタンが生まれ、宗教が異なるもの同士がいがみ合う姿にとても歯がゆい思いがあったようです。

王族から一般市民へ。
彼らには「統治」する権利がなくなってしまったのでした。

しかし共和国政府は誕生したばかり。何もかもが理想どおり行きません。
華やかなジャイプールのシティ・パレスで、二人は苦悩したのでしょう。
選挙が行われる、となると同じような立場の王族同士で協力し立候補して、「無党派」として政府に物申したのです。

インドがひとまず落ち着く頃、自分たちの宮殿をホテルにしたり博物館にして観光客に開放しました。ジャイプールは観光客が多く訪れる街として画期がみなぎり、今に至るわけです。

彼らは「王族」ではなくなりましたが、今でも市民に「マハラジャ」として慕われ、ジャイプールに住んでいます。
昨年、マハラニ・ガーヤトリー・デヴィは90歳で亡くなりました。
ロンドンで入院したそうですが、ジャイプールへ戻りたいと、戻ってきてなくなったそうです。

華やかなピンク色の街並み。
華やかなマハラジャ達の生活。
それらが今に伝わるのは、街を、市民を愛し、最後まで責任を持ったマハラジャとそのマハラジャへの尊敬の念を失わなかった市民のおかげなのかも知れません。


華やかなインド女性の服装

タージマハル
タージマハル 〜インドで一番輝く建造物〜
エリア:
  • アジア>インド>アグラ
テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2010/11/25 22:12
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10月〜3月の北インドは、乾期でありましてかなり過ごしやすくなります。
というわけで、今回ご紹介するのはインドです。
インドの三大都市の一つムンバイは海のシルクロードの重要な中継貿易港でした。そしてガンジス川が流れる聖地ベナレスや、北インド一番の見所のゴールデントライアングルと呼ばれる、デリー・ジャイプール・アグラをぐるりと回ってみるのも楽しいです。
そんな北インドでいまでも印象深いのは、アグラのタージマハルではないでしょうか。

「白亜の宮殿」

そんな風に称するのが相応しい、優雅で巨大な建築物ですが、実は霊廟、つまりお墓なわけです。
その昔、この地方がムガル帝国と呼ばれ、イスラム教の君主が支配していた頃、シャー・ジャハーンという皇帝がいたわけです。この方のお后様がムムターズ・マハルといいまして、子供も沢山生んでくれたのです。結果、産褥熱で38歳のときにお亡くなりになりましたが、17歳で皇子に嫁いでからなくなるまで14人くらいの子供を生んだわけですから、皇帝との仲は良かったのでしょうね。
皇帝は、即位するまで紆余曲折で結構大変だった方でしたが、その横にずっといたのが第一后のムムターズ・マハルなわけです。強い信頼関係があったのかもしれません。

さて、そんな彼女が亡くなったあと、皇帝の悲しみは大変深かったそうです。彼は2年近くも宴をしなかったともいわれています。そうして長い長い年月をかけて、彼はムムターズ・マハルの霊廟を造り上げたのでした。皇帝の愛情が造り上げたとも言われますが、どちらかというと、皇帝の権力の強さをムガル帝国の技術の素晴らしさを内外に指し示したかったともいわれています。
これは私の私見ですが、シャー・ジャハーンとムムターズ・マハルは愛情以上に強い絆で結ばれていたと思います。ムガル帝国を治めてゆくために、皇帝はこの后と互いを支えあってきたのではないかと思うのです。先に亡くなってしまった彼女と皇帝の威光をこのような形で示したいくつもの事情や仮説の一つにムムターズ・マハルへの「感謝」や彼女の名前を後世に残してやりたいという思いがあったのではないかな・・・と。あくまでも私見でございます。
まぁ・・・皇帝の思惑はどのようなものであれ、この霊廟は数百年経った今でもその美しさを留めています。
前庭、並木通り、下の水面が遠近感を際立たせ、建物をあらゆる角度から眺めてみるとその柔らかな質感と立体感を実感できます。ムガル帝国の5代目の皇帝シャー・ジャハーンが最愛の妻のため造った霊廟として、今では世界中から多くの観光客が訪れ、多くの女性がムムターズ・マハルを羨み、シャー・ジャハーンのかっこ良さに心を掴まれてしまっています。お世辞にも幸せとは言いにくい晩年でしたが、数百年経った今も輝くタージマハルがある限り、彼らは永遠の存在になったといえるのではないでしょうか。

ベナレスにて
聖地ベナレス(インド)
エリア:
  • アジア>インド>ベナレス(ワーラーナシー)
テーマ:世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2010/09/02 11:44
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先日米国の調査機関が発表したところによると、2025年にはインドが中国を抜いて世界一の人口を持つ国なるとの事であった。中国の出生率が下がっているのに対し、インドは未だ高い出生率を残している。中国では世界一の人口国でなくなる事を肯定的に捉える向きが多いようだが、インドではどうだろうか。今日はそんなインドの中でも有数の聖地であり、この国を代表する風景のひとつでもあるベナレスを紹介しよう。

ベナレスにて

ベナレスはインド北部、ガンジス河沿いに位置する人口300万人の大都市。歴史は紀元前にまで遡る古都だが、幾多もの戦乱を乗り越えて来た為、それ程古い遺物はあまり残っていない。この町の象徴はなんと言ってもガンジス河だろう。

聖なる河として信仰を集めて来たガンジス河の中でもベナレスの辺りは最も知られている聖地であり、巡礼者が絶える事はない。特に朝はこの河で沐浴している巡礼者や地元の人が数多く見られる。赤っぽい建築も少なくないせいか、朝焼けを浴びるベナレスの美しさは筆舌に尽くしがたい。ツアーでは通常早朝ボートに乗ってガンジスに繰り出してこの風景を見るのだが早起きの甲斐があるのは間違いない。

ベナレスにて

そしてベナレスは生者にとって聖地であるのと同時に死者にとっても大切な聖地である。死に至る時、ガンジス河畔で火葬の後に遺灰をガンジス河に流す事は死後の幸福に繋がるとされている故、それが実践されている例が多い。ベナレスには大きな火葬場が複数あるが、煙がほとんど絶えないという噂だ。ご存知の方も多いと思うが、一部の人は火葬に付さすにそのまま遺体を河に流す場合もある。インドの壮絶な死生観を垣間見る事ができる場所である。

ベナレスにて

余談だが、以前にインドに心酔している友人がここで沐浴に挑戦した事がある。結果は想像できるかもしれないが、帰国後1ヶ月下痢や熱が止まらなかったそうだ。インド人は不思議と免疫が出来ているが、きれい好きで衛生面では世界でも一、二を争う日本の人にはちょっと辛そうだ。旅行先としてのインドは好き嫌いが分かれる国だとも言われている。、そうであろう、前述の知人がその後何度かインドに行って免疫を作ったという風の噂を耳にした・・・。
タグ:
インド ガンジス ベナレス 

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