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- アドリア海の女王、ドブロブニク
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エリア:
- ヨーロッパ>クロアチア>ドブロブニク
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/01/15 13:59
- コメント(0)
近年、ヨーロッパで人気の出てきたクロアチアツアー。
クロアチアでは美しい歴史ある街や食材、その歴史と文化に出会えます。
そんなクロアチアでヨーロッパ人観光客の中ではヨーロッパでもっとも美しい絶対にお勧めしたい街、ナンバー1がドブロブニクです。
ドブロブニクは中継貿易として栄え、発展し、共和国としての平和で豊かな国家を謳歌していました。同じくアドリア海の女王といわれたヴェネツィアと勢力を二分した15-18世紀、ドブロブニク都市国家は最盛期だったと思います。
又、白地に黒ぶちのダルメシアン犬の原産地といわれるダルマチア地方は昔からブラックワインと称される濃い赤ワインの産地としても有名です。フルーティーなワインは魚介類との愛称もよく、アドリア海から降り注ぐ太陽を沢山浴びて成長したワインは、飲みやすくて日本人にも好評です。
アドリア海を走ると、オレンジ色のかわいらしい屋根が連なっているのも見えてきました。宮崎駿アニメの「魔女の宅急便」の舞台といわれているクロアチアの町並みのでも世界遺産に登録されているドブロブニクは、内戦で65パーセントが壊されたといいます。
内戦終了後、市民の協力によりほぼ完全に修復されたという誇り高き世界遺産です。城壁の上からは、ユネスコが寄付した屋根瓦と、昔からの屋根瓦との色の違いが良くわかります。 内戦の傷跡を残しながら、美しい自然美とおいしいワインのクロアチア魅力たっぷりのクロアチアにきっと皆様も魅せられてしまうでしょう。
クロアチアでは美しい歴史ある街や食材、その歴史と文化に出会えます。
そんなクロアチアでヨーロッパ人観光客の中ではヨーロッパでもっとも美しい絶対にお勧めしたい街、ナンバー1がドブロブニクです。
ドブロブニクは中継貿易として栄え、発展し、共和国としての平和で豊かな国家を謳歌していました。同じくアドリア海の女王といわれたヴェネツィアと勢力を二分した15-18世紀、ドブロブニク都市国家は最盛期だったと思います。
又、白地に黒ぶちのダルメシアン犬の原産地といわれるダルマチア地方は昔からブラックワインと称される濃い赤ワインの産地としても有名です。フルーティーなワインは魚介類との愛称もよく、アドリア海から降り注ぐ太陽を沢山浴びて成長したワインは、飲みやすくて日本人にも好評です。
アドリア海を走ると、オレンジ色のかわいらしい屋根が連なっているのも見えてきました。宮崎駿アニメの「魔女の宅急便」の舞台といわれているクロアチアの町並みのでも世界遺産に登録されているドブロブニクは、内戦で65パーセントが壊されたといいます。
内戦終了後、市民の協力によりほぼ完全に修復されたという誇り高き世界遺産です。城壁の上からは、ユネスコが寄付した屋根瓦と、昔からの屋根瓦との色の違いが良くわかります。 内戦の傷跡を残しながら、美しい自然美とおいしいワインのクロアチア魅力たっぷりのクロアチアにきっと皆様も魅せられてしまうでしょう。

- マハラジャとピンクの街
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エリア:
- アジア>インド>ジャイプール
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/12/10 10:46
- コメント(1)
インドの北西にはラジャスタン州があります。
州都はジャイプールです。
この街は旧市街へ入る入り口のかつての城門からピンク色で、とても華やかな雰囲気です。
華やかな街はピンクシティーと称され、インド観光地のゴールデントライアングルと呼ばれる一大観光地です。
ここの観光の目玉としてご覧頂きたいのは、風の宮殿、シティ・パレス、ジャンタル・マンタル、近郊のお城アンベール城などです。
これらは全部、この地の統治者だった藩王国の王「マハラジャ」によって代々受け継がれてきたものです。
皆様は「マハラジャ」をご存知ですか?「偉大な王」という意味です。
第二次大戦前、インドには沢山の藩王国が存在し、彼らの「国土」は英国統治下の時代であっても、基本的には「自分たちの領土の統治権」を有していたわけです。
例えばジャンタル・マンタルというのは天文台ですが、当時の最新学問を駆使してつくった天文台の、その正確さには驚かれます。
そして、こうした「時を支配する」物をこんなに大きく造り上げられるなんて、しっかりとした権力が安定していたからなのでしょうか。
第二次大戦後、インドから英国が去り、インドは共和国になることになったと同時に、藩王国は消滅することとなり、実質、今はマハラジャは一市民です。
この街に初めて訪れたときに、シティ・パレスの売店だったと思いますが、最後のマハラジャ、マン・シン2世の第3妃(マハラニ)ガーヤトリー・デヴィが残した回想録が売っておりまして、表紙の女性が綺麗でしたので、つつっと購入してしまいました。
残念ながら英語のため、流し読みしか出来ず、とても熟読とはいえません。しかしながら、第二次大戦前と後では彼女の生活が180度変わってしまったことはよくわかりました。
長く英国に統治されてきたため、自分たち主導の政治の理想と現実の差にインドはとても大変でした。
おりしも印パ戦争が起きて、北インドの西と東の国境はパキスタンへ逃れるムスリムと新しいインドへ逃れるパキスタン側のヒンドゥーの難民の相互流入によって大変なことになりました。
ジャイプールは、インドの西側に位置します。
ジャイプールはとても大変でした。
元々、16世紀、このそばには「タージ・マハル」で有名なムガル帝国があり、この巨大な権力に飲み込まれないように、ジャイプールの代々のマハラジャは彼らに恭順を示し、イスラム文化も多く受け入れてきました。
そのため、街の雰囲気はイスラムチックなヒンドゥー文化であり、とてもエキゾチックで華やかです。
そうした歴史背景があるため、最後のマハラジャとマハラニ、マン・シン2世とガーヤトリーは、インドが独立するとたんにパキスタンが生まれ、宗教が異なるもの同士がいがみ合う姿にとても歯がゆい思いがあったようです。
王族から一般市民へ。
彼らには「統治」する権利がなくなってしまったのでした。
しかし共和国政府は誕生したばかり。何もかもが理想どおり行きません。
華やかなジャイプールのシティ・パレスで、二人は苦悩したのでしょう。
選挙が行われる、となると同じような立場の王族同士で協力し立候補して、「無党派」として政府に物申したのです。
インドがひとまず落ち着く頃、自分たちの宮殿をホテルにしたり博物館にして観光客に開放しました。ジャイプールは観光客が多く訪れる街として画期がみなぎり、今に至るわけです。
彼らは「王族」ではなくなりましたが、今でも市民に「マハラジャ」として慕われ、ジャイプールに住んでいます。
昨年、マハラニ・ガーヤトリー・デヴィは90歳で亡くなりました。
ロンドンで入院したそうですが、ジャイプールへ戻りたいと、戻ってきてなくなったそうです。
華やかなピンク色の街並み。
華やかなマハラジャ達の生活。
それらが今に伝わるのは、街を、市民を愛し、最後まで責任を持ったマハラジャとそのマハラジャへの尊敬の念を失わなかった市民のおかげなのかも知れません。
州都はジャイプールです。
この街は旧市街へ入る入り口のかつての城門からピンク色で、とても華やかな雰囲気です。
華やかな街はピンクシティーと称され、インド観光地のゴールデントライアングルと呼ばれる一大観光地です。
ここの観光の目玉としてご覧頂きたいのは、風の宮殿、シティ・パレス、ジャンタル・マンタル、近郊のお城アンベール城などです。
これらは全部、この地の統治者だった藩王国の王「マハラジャ」によって代々受け継がれてきたものです。
皆様は「マハラジャ」をご存知ですか?「偉大な王」という意味です。
第二次大戦前、インドには沢山の藩王国が存在し、彼らの「国土」は英国統治下の時代であっても、基本的には「自分たちの領土の統治権」を有していたわけです。
例えばジャンタル・マンタルというのは天文台ですが、当時の最新学問を駆使してつくった天文台の、その正確さには驚かれます。
そして、こうした「時を支配する」物をこんなに大きく造り上げられるなんて、しっかりとした権力が安定していたからなのでしょうか。
第二次大戦後、インドから英国が去り、インドは共和国になることになったと同時に、藩王国は消滅することとなり、実質、今はマハラジャは一市民です。
この街に初めて訪れたときに、シティ・パレスの売店だったと思いますが、最後のマハラジャ、マン・シン2世の第3妃(マハラニ)ガーヤトリー・デヴィが残した回想録が売っておりまして、表紙の女性が綺麗でしたので、つつっと購入してしまいました。
残念ながら英語のため、流し読みしか出来ず、とても熟読とはいえません。しかしながら、第二次大戦前と後では彼女の生活が180度変わってしまったことはよくわかりました。
長く英国に統治されてきたため、自分たち主導の政治の理想と現実の差にインドはとても大変でした。
おりしも印パ戦争が起きて、北インドの西と東の国境はパキスタンへ逃れるムスリムと新しいインドへ逃れるパキスタン側のヒンドゥーの難民の相互流入によって大変なことになりました。
ジャイプールは、インドの西側に位置します。
ジャイプールはとても大変でした。
元々、16世紀、このそばには「タージ・マハル」で有名なムガル帝国があり、この巨大な権力に飲み込まれないように、ジャイプールの代々のマハラジャは彼らに恭順を示し、イスラム文化も多く受け入れてきました。
そのため、街の雰囲気はイスラムチックなヒンドゥー文化であり、とてもエキゾチックで華やかです。
そうした歴史背景があるため、最後のマハラジャとマハラニ、マン・シン2世とガーヤトリーは、インドが独立するとたんにパキスタンが生まれ、宗教が異なるもの同士がいがみ合う姿にとても歯がゆい思いがあったようです。
王族から一般市民へ。
彼らには「統治」する権利がなくなってしまったのでした。
しかし共和国政府は誕生したばかり。何もかもが理想どおり行きません。
華やかなジャイプールのシティ・パレスで、二人は苦悩したのでしょう。
選挙が行われる、となると同じような立場の王族同士で協力し立候補して、「無党派」として政府に物申したのです。
インドがひとまず落ち着く頃、自分たちの宮殿をホテルにしたり博物館にして観光客に開放しました。ジャイプールは観光客が多く訪れる街として画期がみなぎり、今に至るわけです。
彼らは「王族」ではなくなりましたが、今でも市民に「マハラジャ」として慕われ、ジャイプールに住んでいます。
昨年、マハラニ・ガーヤトリー・デヴィは90歳で亡くなりました。
ロンドンで入院したそうですが、ジャイプールへ戻りたいと、戻ってきてなくなったそうです。
華やかなピンク色の街並み。
華やかなマハラジャ達の生活。
それらが今に伝わるのは、街を、市民を愛し、最後まで責任を持ったマハラジャとそのマハラジャへの尊敬の念を失わなかった市民のおかげなのかも知れません。

- ハンガロア村(イースター島)
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エリア:
- 中南米>チリ>イースター島
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産
- 投稿日:2010/09/09 14:28
- コメント(0)
みなさんこんにちは。「やっぱりモヤイ!100人のっても大丈夫!」坂岸“彫刻収集家@倉庫”茉莉です。
今年の7月に、イースター島にて皆既日食が見られました。昨年はアジアで見られたということもあり、某芸能人がやれ奄美大島にて観察したやら、中国に行くやら、多くの報道がされていました。かく言う私も、小さい頃、緑の下敷きを太陽に向け、部分日食をよく観察したものです。去年も、昼休み、レストランへと歩きながら空を見上げると、なんと太陽が一部欠けているでは!!そうなんです、もちろん皆既日食は無理ですが、部分日食を見ることが出来たのです。それも、もう1年前。時が経つのは早いものです。

本日は、そんな皆既日食が見られたイースター島に唯一ある村、「ハンガロア村」をご紹介致します。
小さな空港と、数百人の規模の小さな小さな村です。イースター島と言えば、モアイ、モアイ、モアイなのですが、そのモアイ観光の拠点になるのが、このハンガロア村です。ホテルもこのハンガロア村にしかありません。
夕方、時間があったらホテルの周辺を散策してみて下さい。
ポリネシア系とチリ系の混ざった陽気な村民が「HOLA!」と迎えてくれます。本当は秘密にしたいんですが、本日は私のお勧めハンガロア村スポットを、ご紹介します!
1)教会でミサ参加
朝9時頃と11時頃からミサをやっているハンガロア村唯一の教会。このミサは、欧州にあるそれとは少し違い、皆笑い、平和を祈るようなミサです。村民が気ままに集まり、なぜか明るい歌を唄い、そして手をつなぎ、思い思いに帰宅していく、平和な午前中を過ごせます。秘境チームのアグネスもお気に入りのスポットだそう。
2)郵便局
島に唯一ある郵便局。小さな郵便局で村の中心に位置しています。時間があったら立ち寄ってみて下さい。ここで、イースター島のスタンプを押してもらえます。確か2種類あり、そこでポストカードを差し出すと、スタンプをポンっと係りのおばさんが押してくれます。
3)レストラン
もし、食べる機会があったら、村の中のレストランに行ってみましょう。ここは島。日本と同じ島で、南太平洋の新鮮な魚介類を生で食べることができます。私は、自由食の際に、小さな地元のレストランへ行き、鮪の刺身を頂きました。醤油とワサビを持参していたので、その味は日本のものさながら!舌鼓を打ちました。
夜は、カリカリダンスショーをご覧頂いたり、その後も週末は地元の人々で盛り上がるバーやレストランが沢山!?並ぶハンガロア村。モアイの観光だけではなく、ゆったりとした滞在を演出してくれる、治安もとても良い、可愛らしい小さな村での滞在は、きっと最高の思い出になるハズです。(坂岸)
今年の7月に、イースター島にて皆既日食が見られました。昨年はアジアで見られたということもあり、某芸能人がやれ奄美大島にて観察したやら、中国に行くやら、多くの報道がされていました。かく言う私も、小さい頃、緑の下敷きを太陽に向け、部分日食をよく観察したものです。去年も、昼休み、レストランへと歩きながら空を見上げると、なんと太陽が一部欠けているでは!!そうなんです、もちろん皆既日食は無理ですが、部分日食を見ることが出来たのです。それも、もう1年前。時が経つのは早いものです。

本日は、そんな皆既日食が見られたイースター島に唯一ある村、「ハンガロア村」をご紹介致します。
小さな空港と、数百人の規模の小さな小さな村です。イースター島と言えば、モアイ、モアイ、モアイなのですが、そのモアイ観光の拠点になるのが、このハンガロア村です。ホテルもこのハンガロア村にしかありません。
夕方、時間があったらホテルの周辺を散策してみて下さい。
ポリネシア系とチリ系の混ざった陽気な村民が「HOLA!」と迎えてくれます。本当は秘密にしたいんですが、本日は私のお勧めハンガロア村スポットを、ご紹介します!
1)教会でミサ参加
朝9時頃と11時頃からミサをやっているハンガロア村唯一の教会。このミサは、欧州にあるそれとは少し違い、皆笑い、平和を祈るようなミサです。村民が気ままに集まり、なぜか明るい歌を唄い、そして手をつなぎ、思い思いに帰宅していく、平和な午前中を過ごせます。秘境チームのアグネスもお気に入りのスポットだそう。
2)郵便局
島に唯一ある郵便局。小さな郵便局で村の中心に位置しています。時間があったら立ち寄ってみて下さい。ここで、イースター島のスタンプを押してもらえます。確か2種類あり、そこでポストカードを差し出すと、スタンプをポンっと係りのおばさんが押してくれます。
3)レストラン
もし、食べる機会があったら、村の中のレストランに行ってみましょう。ここは島。日本と同じ島で、南太平洋の新鮮な魚介類を生で食べることができます。私は、自由食の際に、小さな地元のレストランへ行き、鮪の刺身を頂きました。醤油とワサビを持参していたので、その味は日本のものさながら!舌鼓を打ちました。
夜は、カリカリダンスショーをご覧頂いたり、その後も週末は地元の人々で盛り上がるバーやレストランが沢山!?並ぶハンガロア村。モアイの観光だけではなく、ゆったりとした滞在を演出してくれる、治安もとても良い、可愛らしい小さな村での滞在は、きっと最高の思い出になるハズです。(坂岸)
- タグ:
- イースター島

- 聖地ベナレス(インド)
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エリア:
- アジア>インド>ベナレス(ワーラーナシー)
- テーマ:世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/09/02 11:44
- コメント(0)
先日米国の調査機関が発表したところによると、2025年にはインドが中国を抜いて世界一の人口を持つ国なるとの事であった。中国の出生率が下がっているのに対し、インドは未だ高い出生率を残している。中国では世界一の人口国でなくなる事を肯定的に捉える向きが多いようだが、インドではどうだろうか。今日はそんなインドの中でも有数の聖地であり、この国を代表する風景のひとつでもあるベナレスを紹介しよう。

ベナレスはインド北部、ガンジス河沿いに位置する人口300万人の大都市。歴史は紀元前にまで遡る古都だが、幾多もの戦乱を乗り越えて来た為、それ程古い遺物はあまり残っていない。この町の象徴はなんと言ってもガンジス河だろう。
聖なる河として信仰を集めて来たガンジス河の中でもベナレスの辺りは最も知られている聖地であり、巡礼者が絶える事はない。特に朝はこの河で沐浴している巡礼者や地元の人が数多く見られる。赤っぽい建築も少なくないせいか、朝焼けを浴びるベナレスの美しさは筆舌に尽くしがたい。ツアーでは通常早朝ボートに乗ってガンジスに繰り出してこの風景を見るのだが早起きの甲斐があるのは間違いない。

そしてベナレスは生者にとって聖地であるのと同時に死者にとっても大切な聖地である。死に至る時、ガンジス河畔で火葬の後に遺灰をガンジス河に流す事は死後の幸福に繋がるとされている故、それが実践されている例が多い。ベナレスには大きな火葬場が複数あるが、煙がほとんど絶えないという噂だ。ご存知の方も多いと思うが、一部の人は火葬に付さすにそのまま遺体を河に流す場合もある。インドの壮絶な死生観を垣間見る事ができる場所である。

余談だが、以前にインドに心酔している友人がここで沐浴に挑戦した事がある。結果は想像できるかもしれないが、帰国後1ヶ月下痢や熱が止まらなかったそうだ。インド人は不思議と免疫が出来ているが、きれい好きで衛生面では世界でも一、二を争う日本の人にはちょっと辛そうだ。旅行先としてのインドは好き嫌いが分かれる国だとも言われている。、そうであろう、前述の知人がその後何度かインドに行って免疫を作ったという風の噂を耳にした・・・。

ベナレスはインド北部、ガンジス河沿いに位置する人口300万人の大都市。歴史は紀元前にまで遡る古都だが、幾多もの戦乱を乗り越えて来た為、それ程古い遺物はあまり残っていない。この町の象徴はなんと言ってもガンジス河だろう。
聖なる河として信仰を集めて来たガンジス河の中でもベナレスの辺りは最も知られている聖地であり、巡礼者が絶える事はない。特に朝はこの河で沐浴している巡礼者や地元の人が数多く見られる。赤っぽい建築も少なくないせいか、朝焼けを浴びるベナレスの美しさは筆舌に尽くしがたい。ツアーでは通常早朝ボートに乗ってガンジスに繰り出してこの風景を見るのだが早起きの甲斐があるのは間違いない。

そしてベナレスは生者にとって聖地であるのと同時に死者にとっても大切な聖地である。死に至る時、ガンジス河畔で火葬の後に遺灰をガンジス河に流す事は死後の幸福に繋がるとされている故、それが実践されている例が多い。ベナレスには大きな火葬場が複数あるが、煙がほとんど絶えないという噂だ。ご存知の方も多いと思うが、一部の人は火葬に付さすにそのまま遺体を河に流す場合もある。インドの壮絶な死生観を垣間見る事ができる場所である。

余談だが、以前にインドに心酔している友人がここで沐浴に挑戦した事がある。結果は想像できるかもしれないが、帰国後1ヶ月下痢や熱が止まらなかったそうだ。インド人は不思議と免疫が出来ているが、きれい好きで衛生面では世界でも一、二を争う日本の人にはちょっと辛そうだ。旅行先としてのインドは好き嫌いが分かれる国だとも言われている。、そうであろう、前述の知人がその後何度かインドに行って免疫を作ったという風の噂を耳にした・・・。
- タグ:
- インド ガンジス ベナレス

- サハラのオアシス、ガダメス(リビア)
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エリア:
- アフリカ>リビア>ガダメス
- テーマ:観光地 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/08/26 17:01
- コメント(0)
さて、乾燥地帯にオアシスで思い出す場所と言えば、リビアのツアー名にも謳われているサハラのオアシス・ガダメスだ。トリポリから遥かに南方約600km、アルジェリア、チュニジアとの三国国境にも程近い場所にガダメスはある。

しかし同じオアシスとは言っても、生半可な都会のオアシスと違って、厳しい環境のサハラにおけるオアシスは砂漠に生きる者や砂漠を通る者の生命線を担っている。ガダメスは歴史を通じて、サハラ内の交通の要所として栄え、古代ローマ帝国時代にその名を遡る事ができる程。残念ながら当時の遺構は何も残っていないが、以後2,000年もの間砂漠の民はこのオアシスに生活を依存してきたのだ。町の住民の大半は、サハラ一帯に住むトゥアレグ族で構成されている。町の建物のほとんどが簡素な白色や茶色の日干し煉瓦で建てられている。しかし、ガダメスの驚きはその建物の内部である。

ガダメスの建物は外からは想像がつかない程、鮮やかな装飾が施されているのである。現在では町の住民の大半がイスラム教徒なので、イスラム芸術らしい線と対称の美が生かされた装飾が眩しいぐらいだ。残念ながら近代型の住居に移り住む人もいて、一時期こうした住居は見捨てられ始めていたが、世界遺産に登録された事も手伝って、旧市街内の住居利用率も再び増える傾向にある。

しかし同じオアシスとは言っても、生半可な都会のオアシスと違って、厳しい環境のサハラにおけるオアシスは砂漠に生きる者や砂漠を通る者の生命線を担っている。ガダメスは歴史を通じて、サハラ内の交通の要所として栄え、古代ローマ帝国時代にその名を遡る事ができる程。残念ながら当時の遺構は何も残っていないが、以後2,000年もの間砂漠の民はこのオアシスに生活を依存してきたのだ。町の住民の大半は、サハラ一帯に住むトゥアレグ族で構成されている。町の建物のほとんどが簡素な白色や茶色の日干し煉瓦で建てられている。しかし、ガダメスの驚きはその建物の内部である。

ガダメスの建物は外からは想像がつかない程、鮮やかな装飾が施されているのである。現在では町の住民の大半がイスラム教徒なので、イスラム芸術らしい線と対称の美が生かされた装飾が眩しいぐらいだ。残念ながら近代型の住居に移り住む人もいて、一時期こうした住居は見捨てられ始めていたが、世界遺産に登録された事も手伝って、旧市街内の住居利用率も再び増える傾向にある。
- タグ:
- リビア ガダメス オアシス
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