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エリア:
- ヨーロッパ > イタリア
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テーマ:
- 歴史・文化・芸術
中部イタリア、スポレートの町を歩くと突然こんな凱旋門が現れる。
紀元後一世紀に建てられたドゥルーススの門。
もともと建てられた古代の地面は、現在の地面から一メートル以上も下になっているのが分かる。

すぐ左の建物は、現在は教会になっているがもともとは古代の神殿だった建物で、柱や壁の一部はそのまま利用されている。
ここまでははじめて見たときにもすぐに分かる事だった。今回、二度目でもう少し深い部分を知ることができた。それはこの門があるのが、もともとどのような場所だったのかという事。
下の写真は、現在のマーケット広場から見たドゥルースス門。

道を20メートルほど歩いたところに建っているわけだが、もともとは門の場所まで古代の公共広場=フォロが広がっていた。
古代ローマの町は、南北の道=カルドと東西の道=デクマヌスが中央を貫くかたちで設計されている。
この凱旋門は、フォロから(地図上で左右に貫かれている)カルドへの入り口に建てられていたのだった。
それが分かったのは下の地図を見たから。

ちょっと見づらいけれど、灰色で示された建物が現代の家並。
濃いオレンジの横長四角が古代のフォロ。現代のマーケット広場はそのごく一部に過ぎない事がわかる。
さらに、鮮やかなオレンジ色はフォロを囲んでいた神殿などの重要建築。
この地図、ぐうぜんに入った「カサ・ロマーナ」=ローマ人の家博物館で目にしたものだ。道路工事で予定のルートをまっすぐいけなくて曲がったところで、これもなかなかの見もの、紀元後一世紀の「カサ・ロマーナ」に出会えた。

古代の家は真ん中にこんなアトリウムと呼ばれる吹き抜けの空間がある。真ん中に水が流れ、井戸まである。(※後によく資料を読んでみると、この井戸の入り口部分は古代のものではないく、別のところから持ち込まれたものであるとのことだった)
この場所を囲んで寝室やリビングルーム、食堂が配置されている。
この家が裕福な人物の所有だったのは、それぞれの床がこんな美しいモザイクで飾られている事ですぐに分かる。

☆以下、博物館の説明より
この場所は1885年にジョゼッペ・ソルディーニ氏によって発見され、はじめは私財を投じて発掘が行われていた。後にイギリス大使や有志の援助が得られて1914年までに現在みられるようなかたちがわかってきたが、さらに発掘は進められている。
もともとはカリギュラ帝恩顧の家だったが、後にヴァスパシアヌス帝の母の所有となり(彼女は近くの町ナルニの出身)、中世初期まではそのまま使われていたが、火災で焼け落ちたらしい。
**
この日の小松の行動は
19日AMS経由でローマへ到着。小松自身のスーツケースがロスト。
20日朝、空港でスーツケースの到着を待ってから09:30ローマの空港を出発。
約一時間半のドライブで(セダンだったので早い)スポレートへ到着。
スポレートは最近バス用の駐車場が完備され、近くに出来た長いエスカレーターで大聖堂の近くへさっと行く事ができるようになった。
12時少し前に大聖堂に入る。
ここは幸いお昼休みがない。
マーケット広場へ歩いていく途中で工事に遭い、仕方なく曲がった角に「ローマの家」=紀元後一世紀、を発見。入場する。これがなかなか掘り出し物、まさに(笑)。
マーケット広場で名物の豚の丸ごとハムを挟んだサンドイッチとサグランティーノ赤ワインで昼食。
その近くのドゥルーススの門は見事である。
スポレートのランドマークである「塔の門」を往復して、元の道を戻り再びエスカレーターで下まで降りる。
モンテファルコーネまで約40分のドライブ。
モンテファルコーネの門のひとつで下車し、坂を上っていく途中でサン・フランチェスコ教会=現美術館へ入場。すばらしいフレスコ画群。
その後丘の頂上の広場を経由して、サンタ・キアラ教会へ。ここはアッシジのキアラとは別の聖女の遺体がミイラになって祭られており、多くの巡礼を集めている。今日も二つの巡礼グループに出会った。
キアラ教会前からセダンに乗車。
すぐ町の外にあるサン・フォルトゥナート修道院・教会へ。
ここもベンノッツォ・ゴッツォリとティベリオ・ダ・アッシジの描いた15世紀のフレスコ画がある。
アッシジへ向かう。
町へ入る前に、フランチェスコがライ病患者の治療にあたったというリボトルト教会へ。この教会の中には、13世紀当時の石積みのたてものがそのまま残されていて驚かされる。
アンジェリ教会の中のポルツィウィンコラ礼拝堂が立派に変えられてしまったのとは対照的だ。
18時、コムーネ広場に隣接するホテル、ディ・プリオリにチェックイン。
紀元後一世紀に建てられたドゥルーススの門。
もともと建てられた古代の地面は、現在の地面から一メートル以上も下になっているのが分かる。

すぐ左の建物は、現在は教会になっているがもともとは古代の神殿だった建物で、柱や壁の一部はそのまま利用されている。
ここまでははじめて見たときにもすぐに分かる事だった。今回、二度目でもう少し深い部分を知ることができた。それはこの門があるのが、もともとどのような場所だったのかという事。
下の写真は、現在のマーケット広場から見たドゥルースス門。

道を20メートルほど歩いたところに建っているわけだが、もともとは門の場所まで古代の公共広場=フォロが広がっていた。
古代ローマの町は、南北の道=カルドと東西の道=デクマヌスが中央を貫くかたちで設計されている。
この凱旋門は、フォロから(地図上で左右に貫かれている)カルドへの入り口に建てられていたのだった。
それが分かったのは下の地図を見たから。

ちょっと見づらいけれど、灰色で示された建物が現代の家並。
濃いオレンジの横長四角が古代のフォロ。現代のマーケット広場はそのごく一部に過ぎない事がわかる。
さらに、鮮やかなオレンジ色はフォロを囲んでいた神殿などの重要建築。
この地図、ぐうぜんに入った「カサ・ロマーナ」=ローマ人の家博物館で目にしたものだ。道路工事で予定のルートをまっすぐいけなくて曲がったところで、これもなかなかの見もの、紀元後一世紀の「カサ・ロマーナ」に出会えた。

古代の家は真ん中にこんなアトリウムと呼ばれる吹き抜けの空間がある。真ん中に水が流れ、井戸まである。(※後によく資料を読んでみると、この井戸の入り口部分は古代のものではないく、別のところから持ち込まれたものであるとのことだった)
この場所を囲んで寝室やリビングルーム、食堂が配置されている。
この家が裕福な人物の所有だったのは、それぞれの床がこんな美しいモザイクで飾られている事ですぐに分かる。

☆以下、博物館の説明より
この場所は1885年にジョゼッペ・ソルディーニ氏によって発見され、はじめは私財を投じて発掘が行われていた。後にイギリス大使や有志の援助が得られて1914年までに現在みられるようなかたちがわかってきたが、さらに発掘は進められている。
もともとはカリギュラ帝恩顧の家だったが、後にヴァスパシアヌス帝の母の所有となり(彼女は近くの町ナルニの出身)、中世初期まではそのまま使われていたが、火災で焼け落ちたらしい。
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この日の小松の行動は
19日AMS経由でローマへ到着。小松自身のスーツケースがロスト。
20日朝、空港でスーツケースの到着を待ってから09:30ローマの空港を出発。
約一時間半のドライブで(セダンだったので早い)スポレートへ到着。
スポレートは最近バス用の駐車場が完備され、近くに出来た長いエスカレーターで大聖堂の近くへさっと行く事ができるようになった。
12時少し前に大聖堂に入る。
ここは幸いお昼休みがない。
マーケット広場へ歩いていく途中で工事に遭い、仕方なく曲がった角に「ローマの家」=紀元後一世紀、を発見。入場する。これがなかなか掘り出し物、まさに(笑)。
マーケット広場で名物の豚の丸ごとハムを挟んだサンドイッチとサグランティーノ赤ワインで昼食。
その近くのドゥルーススの門は見事である。
スポレートのランドマークである「塔の門」を往復して、元の道を戻り再びエスカレーターで下まで降りる。
モンテファルコーネまで約40分のドライブ。
モンテファルコーネの門のひとつで下車し、坂を上っていく途中でサン・フランチェスコ教会=現美術館へ入場。すばらしいフレスコ画群。
その後丘の頂上の広場を経由して、サンタ・キアラ教会へ。ここはアッシジのキアラとは別の聖女の遺体がミイラになって祭られており、多くの巡礼を集めている。今日も二つの巡礼グループに出会った。
キアラ教会前からセダンに乗車。
すぐ町の外にあるサン・フォルトゥナート修道院・教会へ。
ここもベンノッツォ・ゴッツォリとティベリオ・ダ・アッシジの描いた15世紀のフレスコ画がある。
アッシジへ向かう。
町へ入る前に、フランチェスコがライ病患者の治療にあたったというリボトルト教会へ。この教会の中には、13世紀当時の石積みのたてものがそのまま残されていて驚かされる。
アンジェリ教会の中のポルツィウィンコラ礼拝堂が立派に変えられてしまったのとは対照的だ。
18時、コムーネ広場に隣接するホテル、ディ・プリオリにチェックイン。


