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エリア:
- ヨーロッパ > イタリア
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テーマ:
- 街中・建物・景色
- / 歴史・文化・芸術
イタリア中部ウンブリア州のテラスと呼ばれる丘の上の街、モンテ・ファルコ。その中心広場は丘の頂上に冠のようにまるくつくられたこの広場である。
13世紀に建設された市庁舎を中心にしたサイド。
その逆側。建物の切れ目から丘の向こうに広がる空間が見える。
アッシジも見える。
モンテ・ファルコ=鷹の山、という名前は1249年にここを征服したフェデリコ二世が鷹狩りをした事に由来する。
それ以前、おそらく古代からと思われる旧名はCoccorone=コッコローネ。これはローマの元老議員Marco Curione=マルコ・キュリオーネからきているという説。またはギリシャ語のOros=英語でOrographic=山岳が語源とされる。
この町でいちばん見学しておくべきと思われる場所は、旧フランチェスコ教会だろう。現在すばらしフレスコ画群を楽しめる美術館になっている。
これは1452年にベンノッツォ・ゴッツォリより制作された後陣の天井部分。1997年の地震被害はさほどでもなかったが、先立つ1832年の地震、落雷、長年の雨漏りにより近年までひどい保存状態だったそうだ。
下の写真で左下端に写っている地元ガイド氏曰く「四十年程前に来た時は屋根が落ちて廃屋状態だった。扉が閉まっていたので近くの家をまわってカギの持ち主を探し、開けてもらったんだ」と話してくれた。こんな風に修復されていったのは1990年代の事なのである。
※このフレスコ画はペルジーノの作品です。
ベンノッツォ・ゴッツォリは、後陣いっぱいに描いたフレスコ画の端に自分の名前を書きこんだ。全文の要約は「聖人たちよ、フィレンツェ人ベノティウス(自分の事)がこの礼拝堂を描くのに力をお貸し下さい。これらを見た人々が私を思い起こしてくれますように」というもの。
ベンノッツォ・ゴッツォリは1447年にモンテファルコを訪れた法王ニコラス5世の推薦により、この町へ招聘された。1450年にフラ・アントニオの要請によりサン・フォルトゥナート教会に画き、その二年後にこちらを手がけた。その時ベンノッツォはおよそ32歳頃と想定される。
逆サイドにはこのフレスコ画を注文した僧ヤコポの言葉がある。「モンテファルコのヤコポの小さな願いとして」と読める?※ラテン語表記、正確な読み取りに習熟したいです。
ベンノッツォにこのフレスコ画を注文した僧・ヤコポが下の絵に登場している。ひざまづく人物のうしろから二人目がそれ。
これはフランチェスコがモンテ・ファルコの町を祝福する図。後ろに大きく描かれた町がモンテ・ファルコ。その左に小さく描かれているのはスポレート。
ベンノッツォがこのフランチェスコ教会の二年前に描いたフレスコ画が見たくて、町のすぐ外に位置するサン・フォルトゥナート教会を訪れた。
教会の壁に描かれた聖母子などは見ることが出来たが、回廊の部屋の扉は閉まっていた。破れた窓から中を覗くとそこにも下のような鮮やかなフレスコ画が見えた。
「アッシジのティベリオが描いたものだよ」と前出の老ガイド氏。
二人の天使に手をひかれたフランチェスコが見える。
何気なく撮影しておいたこの写真だが、二日後にこれと全く同じものにアッシジで出会う事になるとは、思ってもみなかった。
それが、下の絵、細部を比べてみていただきたい。
アッシジの町を降りた、S.M.アンジェリ教会内、フランチェスコが煩悩に克つため自らを鞭打っていたと伝えられる場所につくられた部屋にある。
両者はフランチェスコが手に花を持っているかいないかなど違いはあるものの、同じ下絵をつかって描かれた事は疑いの余地はない。
これを見て、はっきり分かった事。
この時代の絵描きとはアーティストであるよりもアルチザンであった。唯一無二のゲージツ作品を描くというよりも、常に高度な水準の商品を注文主に供給する事が最大の目的だったのである。
それが作品であろうと商品であろうと、美しいフレスコ画であることに何の違いがあるだろうか。
13世紀に建設された市庁舎を中心にしたサイド。
その逆側。建物の切れ目から丘の向こうに広がる空間が見える。
アッシジも見える。
モンテ・ファルコ=鷹の山、という名前は1249年にここを征服したフェデリコ二世が鷹狩りをした事に由来する。
それ以前、おそらく古代からと思われる旧名はCoccorone=コッコローネ。これはローマの元老議員Marco Curione=マルコ・キュリオーネからきているという説。またはギリシャ語のOros=英語でOrographic=山岳が語源とされる。
この町でいちばん見学しておくべきと思われる場所は、旧フランチェスコ教会だろう。現在すばらしフレスコ画群を楽しめる美術館になっている。
これは1452年にベンノッツォ・ゴッツォリより制作された後陣の天井部分。1997年の地震被害はさほどでもなかったが、先立つ1832年の地震、落雷、長年の雨漏りにより近年までひどい保存状態だったそうだ。
下の写真で左下端に写っている地元ガイド氏曰く「四十年程前に来た時は屋根が落ちて廃屋状態だった。扉が閉まっていたので近くの家をまわってカギの持ち主を探し、開けてもらったんだ」と話してくれた。こんな風に修復されていったのは1990年代の事なのである。
※このフレスコ画はペルジーノの作品です。
ベンノッツォ・ゴッツォリは、後陣いっぱいに描いたフレスコ画の端に自分の名前を書きこんだ。全文の要約は「聖人たちよ、フィレンツェ人ベノティウス(自分の事)がこの礼拝堂を描くのに力をお貸し下さい。これらを見た人々が私を思い起こしてくれますように」というもの。
ベンノッツォ・ゴッツォリは1447年にモンテファルコを訪れた法王ニコラス5世の推薦により、この町へ招聘された。1450年にフラ・アントニオの要請によりサン・フォルトゥナート教会に画き、その二年後にこちらを手がけた。その時ベンノッツォはおよそ32歳頃と想定される。
逆サイドにはこのフレスコ画を注文した僧ヤコポの言葉がある。「モンテファルコのヤコポの小さな願いとして」と読める?※ラテン語表記、正確な読み取りに習熟したいです。
ベンノッツォにこのフレスコ画を注文した僧・ヤコポが下の絵に登場している。ひざまづく人物のうしろから二人目がそれ。
これはフランチェスコがモンテ・ファルコの町を祝福する図。後ろに大きく描かれた町がモンテ・ファルコ。その左に小さく描かれているのはスポレート。
ベンノッツォがこのフランチェスコ教会の二年前に描いたフレスコ画が見たくて、町のすぐ外に位置するサン・フォルトゥナート教会を訪れた。
教会の壁に描かれた聖母子などは見ることが出来たが、回廊の部屋の扉は閉まっていた。破れた窓から中を覗くとそこにも下のような鮮やかなフレスコ画が見えた。
「アッシジのティベリオが描いたものだよ」と前出の老ガイド氏。
二人の天使に手をひかれたフランチェスコが見える。
何気なく撮影しておいたこの写真だが、二日後にこれと全く同じものにアッシジで出会う事になるとは、思ってもみなかった。
それが、下の絵、細部を比べてみていただきたい。
アッシジの町を降りた、S.M.アンジェリ教会内、フランチェスコが煩悩に克つため自らを鞭打っていたと伝えられる場所につくられた部屋にある。
両者はフランチェスコが手に花を持っているかいないかなど違いはあるものの、同じ下絵をつかって描かれた事は疑いの余地はない。
これを見て、はっきり分かった事。
この時代の絵描きとはアーティストであるよりもアルチザンであった。唯一無二のゲージツ作品を描くというよりも、常に高度な水準の商品を注文主に供給する事が最大の目的だったのである。
それが作品であろうと商品であろうと、美しいフレスコ画であることに何の違いがあるだろうか。