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エリア:
- ヨーロッパ > イタリア > ボローニャ
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テーマ:
- 観光地
- / その他
- / 歴史・文化・芸術
アッシジの聖フランチェスコとほぼ同じ時代を生きた聖ドメニコ。
元もと今のスペインで生まれた彼だが、1221年にボローニャで亡くなり、そこで葬られた。
旧市街にあるドメニコ・マジョーレ教会がその場所である。
入口には後の時代に描かれたドメニコの誕生にまつわる逸話が描かれている。
母親は、胎内のドメニコが白黒の犬が松明を加えて現れて闇を照らす夢を見た。彼が世界を照らす存在になるという予言である。
ドメニコ会の衣は今でも白と黒。
※このモザイク画の右下にはボローニャの斜塔が描かれている。
石棺は見事な彫刻で飾られている。
もともとは尖塔や独立した彫刻はなく、浮彫で飾られた石棺だけを、その時代最高のマエストロだったニコラ・ピサーノが制作した。
当初、石棺は現在の場所ではなく、堂のど真ん中に柱を立ててその上に安置されていた。かつてあった場所がこの×印によって記憶されている。
石棺以外の装飾が追加されたのは15世紀半ば、ルネサンスの彫刻家ニコロ・デラルカによる。
そして、若きミケランジェロもここにその足跡を残している。
なるほど天使でも筋肉隆々ですね。
この像は後の彼の代表作となるダビデを思い出させる。
ミケランジェロはそのスタートからすでにミケランジェロだったのだ。
石棺の上のクーポラには、ボローニャ出身の画家グイド・レーニ「聖ドメニコの昇天」がフレスコ画を描いている。
レーニ自身の墓もすぐ近くにある。
**
ドメニコ教会には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ(フェデリコ)二世に最も愛された息子エンツォの墓があった。それを記念したプレートがこれ。
二十代後半にボローニャに捕えられ、その後の二十年以上の年月をこの宮殿で軟禁されていた。
虜囚とはいえ王侯として遇され、市民は彼の詠じる詩に耳を傾け敬意をあらわした。ここは現在でも「エンツォ宮殿」と呼ばれているのである。
元もと今のスペインで生まれた彼だが、1221年にボローニャで亡くなり、そこで葬られた。
旧市街にあるドメニコ・マジョーレ教会がその場所である。
入口には後の時代に描かれたドメニコの誕生にまつわる逸話が描かれている。
母親は、胎内のドメニコが白黒の犬が松明を加えて現れて闇を照らす夢を見た。彼が世界を照らす存在になるという予言である。
ドメニコ会の衣は今でも白と黒。
※このモザイク画の右下にはボローニャの斜塔が描かれている。
石棺は見事な彫刻で飾られている。
もともとは尖塔や独立した彫刻はなく、浮彫で飾られた石棺だけを、その時代最高のマエストロだったニコラ・ピサーノが制作した。
当初、石棺は現在の場所ではなく、堂のど真ん中に柱を立ててその上に安置されていた。かつてあった場所がこの×印によって記憶されている。
石棺以外の装飾が追加されたのは15世紀半ば、ルネサンスの彫刻家ニコロ・デラルカによる。
そして、若きミケランジェロもここにその足跡を残している。
なるほど天使でも筋肉隆々ですね。
この像は後の彼の代表作となるダビデを思い出させる。
ミケランジェロはそのスタートからすでにミケランジェロだったのだ。
石棺の上のクーポラには、ボローニャ出身の画家グイド・レーニ「聖ドメニコの昇天」がフレスコ画を描いている。
レーニ自身の墓もすぐ近くにある。
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ドメニコ教会には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ(フェデリコ)二世に最も愛された息子エンツォの墓があった。それを記念したプレートがこれ。
二十代後半にボローニャに捕えられ、その後の二十年以上の年月をこの宮殿で軟禁されていた。
虜囚とはいえ王侯として遇され、市民は彼の詠じる詩に耳を傾け敬意をあらわした。ここは現在でも「エンツォ宮殿」と呼ばれているのである。