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- モデナの北、ノナントラ修道院跡
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア
- テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2014/10/22 17:47
- コメント(0)
イタリア中北部、モデナの北10キロに位置するノナントラ。今は田舎町だが、中世前期には大きなベネディクト派修道院があった場所。
その中心だった聖シルヴェストロ教会が残されている。

シンプルなファサードは、1913年から1920年の間に12世紀頃の姿に戻された。
修復以前はこんな風だった。窓や扉がちがっているのがわかる。

いちばん重要なのは、入口の大理石浅浮彫。

モデナ大聖堂と同じ名工ヴィリジェルモとその一門の技。
この修道院の起源がこの部分。ロンゴバルド王アストルフォが義理の兄弟であるアンセルモに修道院建造を許可している。左の王冠を被った人物がアストルフォ王、右の僧衣を来た人物がアンセルモ司教。シンプルな構図のなかでも人物をちゃんと描き分け、ヴィリジェルモ一門のものとすぐにわかる特徴的な目の表現をもっている。もともとは目のところに色石がはまっていたと考えられる。

その二つ上のシーンでは、ローマから聖シルヴェストロの遺体を貰い受けるように法皇にお願いしている図。

当時、教会が聖人の遺骨を所有することでたくさんの巡礼を呼び寄せることが出来た。聖シルヴェストロは伝説ではコンスタンチヌス帝に洗礼を施した人物だから、全キリスト教徒にとって重要なのだ。
※実際にはローマから盗まれてノナントラへきたとか?
地下のクリプトには今も聖人の遺骨が置かれていた。

ここの地下聖堂はモデナ大聖堂の二倍の広さがある。かつてはそれだけの修道院だったのだ。
博物館にはシルヴェストロのシンプルな石棺がある。

よく見ると、756年から1912年までここに納められていた、と書かれている。

書かれたのは当然1912年だろうが、納められたのが756年なのか確証はない。そういうもの。
この年につくられた新たな祭壇がこれ。現在は2012年の地震の後公開されていないようす。

入場予約をしておいたからか、案内のおじさんが、「三分だけだよ」と言って、教会の内部まで案内してくれた。2012年の地震はかなりひどかったらしく、足場もまだまだそのまま。

後陣外側も20世紀初期にかつての姿に戻されている。

かつて、まったく似合わない四角い鐘楼が載せられていたなんて。

写真をよく見ると、壁の下の方によりかかるように家があったのが見える。この家によって、かつてロマネスク時代のクリプトの窓が隠されていた。
当時クリプトはほとんど埋め込まれていたので窓なんて関係なかったのだが、修復によってクリプトが復活させられて、外側も美しい12世紀の雰囲気がよみがえった。
たぶん、12世紀以前の教会にあったのだろう石の浮彫が一部はめこまれている。

一時間ほどの滞在で、付属博物館は見切れなかったが、ここの目玉の一つが、カール大帝直筆とされるサインがある羊皮紙。

常時展示されているのは複製品だが、Kの文字が見えるモノグラムがそれ。
ノナントラ、二回目の訪問で少しその価値が理解できてきた。
その中心だった聖シルヴェストロ教会が残されている。

シンプルなファサードは、1913年から1920年の間に12世紀頃の姿に戻された。
修復以前はこんな風だった。窓や扉がちがっているのがわかる。

いちばん重要なのは、入口の大理石浅浮彫。

モデナ大聖堂と同じ名工ヴィリジェルモとその一門の技。
この修道院の起源がこの部分。ロンゴバルド王アストルフォが義理の兄弟であるアンセルモに修道院建造を許可している。左の王冠を被った人物がアストルフォ王、右の僧衣を来た人物がアンセルモ司教。シンプルな構図のなかでも人物をちゃんと描き分け、ヴィリジェルモ一門のものとすぐにわかる特徴的な目の表現をもっている。もともとは目のところに色石がはまっていたと考えられる。

その二つ上のシーンでは、ローマから聖シルヴェストロの遺体を貰い受けるように法皇にお願いしている図。

当時、教会が聖人の遺骨を所有することでたくさんの巡礼を呼び寄せることが出来た。聖シルヴェストロは伝説ではコンスタンチヌス帝に洗礼を施した人物だから、全キリスト教徒にとって重要なのだ。
※実際にはローマから盗まれてノナントラへきたとか?
地下のクリプトには今も聖人の遺骨が置かれていた。

ここの地下聖堂はモデナ大聖堂の二倍の広さがある。かつてはそれだけの修道院だったのだ。
博物館にはシルヴェストロのシンプルな石棺がある。

よく見ると、756年から1912年までここに納められていた、と書かれている。

書かれたのは当然1912年だろうが、納められたのが756年なのか確証はない。そういうもの。
この年につくられた新たな祭壇がこれ。現在は2012年の地震の後公開されていないようす。

入場予約をしておいたからか、案内のおじさんが、「三分だけだよ」と言って、教会の内部まで案内してくれた。2012年の地震はかなりひどかったらしく、足場もまだまだそのまま。

後陣外側も20世紀初期にかつての姿に戻されている。

かつて、まったく似合わない四角い鐘楼が載せられていたなんて。

写真をよく見ると、壁の下の方によりかかるように家があったのが見える。この家によって、かつてロマネスク時代のクリプトの窓が隠されていた。
当時クリプトはほとんど埋め込まれていたので窓なんて関係なかったのだが、修復によってクリプトが復活させられて、外側も美しい12世紀の雰囲気がよみがえった。
たぶん、12世紀以前の教会にあったのだろう石の浮彫が一部はめこまれている。

一時間ほどの滞在で、付属博物館は見切れなかったが、ここの目玉の一つが、カール大帝直筆とされるサインがある羊皮紙。

常時展示されているのは複製品だが、Kの文字が見えるモノグラムがそれ。
ノナントラ、二回目の訪問で少しその価値が理解できてきた。

- ティジェッレ、いただきます
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア
- テーマ:グルメ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2014/10/22 14:20
- コメント(0)
イタリア中北部、モデナ大聖堂前。
青空の日曜日でにぎわう広場においしそうな出店が出ている。

「ティジェッレ」という。この地方のおいしそうなハムを挟んで、ひとつ三ユーロ。

小松はラルドとパルメザンチーズにて。

ラルドは豚の背中脂肪を塩漬け香草味付たもので、ただの脂肪とはちがっている。日本では敬遠されそうだが、味わいはこちらをお勧めします。
イタリア人のドライバーさんにティジェッレの話をしたら、「もともとは、食べ物そのものではなくて、それをつくる石の型の名前だったんだよ」と教えてくれた。翌日訪れたバルサミコ工場の一角に置いてあったのを教えてくれた。

ああ、これで分かった。きのう食べた時紙ナプキンに書かれていた絵はこれだったんだ。

現代では下の写真のような型でつくるようだが、もともとは焼いた石の間に小麦粉で練ったものを挟んで重ねて圧縮した、ということか。

このティジェッレ、同じようなものが町々にあって、違う名前で呼ばれていてるようだ。「ボローニャではクレシェンティーナというんだよ」との事だったが、これは形が月に似ているところからきているのかしらん。
小さな町にいろいろあるこういった、いわば「B級グルメ」も《手造の旅》小都市めぐりの楽しみです(^^)
青空の日曜日でにぎわう広場においしそうな出店が出ている。

「ティジェッレ」という。この地方のおいしそうなハムを挟んで、ひとつ三ユーロ。

小松はラルドとパルメザンチーズにて。

ラルドは豚の背中脂肪を塩漬け香草味付たもので、ただの脂肪とはちがっている。日本では敬遠されそうだが、味わいはこちらをお勧めします。
イタリア人のドライバーさんにティジェッレの話をしたら、「もともとは、食べ物そのものではなくて、それをつくる石の型の名前だったんだよ」と教えてくれた。翌日訪れたバルサミコ工場の一角に置いてあったのを教えてくれた。

ああ、これで分かった。きのう食べた時紙ナプキンに書かれていた絵はこれだったんだ。

現代では下の写真のような型でつくるようだが、もともとは焼いた石の間に小麦粉で練ったものを挟んで重ねて圧縮した、ということか。

このティジェッレ、同じようなものが町々にあって、違う名前で呼ばれていてるようだ。「ボローニャではクレシェンティーナというんだよ」との事だったが、これは形が月に似ているところからきているのかしらん。
小さな町にいろいろあるこういった、いわば「B級グルメ」も《手造の旅》小都市めぐりの楽しみです(^^)

- 二つの祖国〜19世紀ケベックの場合
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エリア:
- 北米>カナダ
- テーマ:その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2014/10/15 16:39
- コメント(0)
偶然手元に来たカナダの記念コイン、「1812年」とカラーで強調された25セント。画かれていたサラベリーという人物について調べるうちに、ケベック人の複雑な心情が少し理解できた。

*
「イギリスとの戦争に勝利したら、あなた方はまたフランス人にもどれるのですよ」
新興国アメリカは、このぐらいの事は言ったに違いない。
祖国フランスがイギリスに敗れ、カナダの地でイギリスに支配されていたケベックのフランス人には魅力的な提案だっただろう。
一方、イギリス側はケベックのフランス人に対して別の考え方で説得した。「アメリカに占領されたら、カトリック信仰と貴族制は破壊されるだろう。 我々イギリスはあなた方フランス人の権利を保障する法律を通し(1775年ケベック法を指す)すでにあなた方の第二の祖国である。それでもアメリカに味方するか?」と。
ケベックのフランス人社会では意見が分かれた。第一の祖国フランスでは革命がはじまり、貴族階級と教会がひどい破壊をうけている。いったい我々はどこへ向かえばよいのか。
1812年にアメリカはイギリス領カナダへの侵攻を開始、翌年、十月にはケベックの本拠であるモントリオールのすぐ南まで進軍してきた。
力で押してくるアメリカに、ケベックのフランス人は言葉の壁を越えてイギリスを支援することに決する。だが、もともと人口が少ないフレンチ・カナダにはまともな常備兵はなかった。
シャルル・ド・サラベリーはフランス貴族だがケベック生まれ。十四歳から軍歴をはじめ、この英米戦争がはじまった頃は三十代前半。彼は志願兵を募り、インディアンと連合して立ち向かう。
集められた兵力は二百人のモフォーク族インディアンを含めて千五百ほど。
アメリカ軍兵力は正規兵を中心に約四千。
数では圧倒的に不利だったが、ここを破られればモントリオールが危ないという、セントローレンス川を後ろにしたまさに背水の陣。
1813年10月26日、地形の利を周到に考えて待ち伏せたフレンチ・カナディアン部隊は、三倍近いアメリカ軍を撃退し、サラベリーは一躍英雄となった。
*
「コインも紅葉してる」と言って小松の手元にもってこられたその記念25セント硬貨は、カナダのシンボルであるメイプルの葉が赤くカラーになっている珍しいものだ。
紅葉を記念したわけではなく、歴史的な年号「1812」を目立たせるように赤く印刷されていた。
一緒に描かれた人物の横にはSALABERRYと刻まれている。フランス人か?
だが、ガイドさんにきいても、地元のドライバーさんにきいても、この人物が誰なのかちゃんと教えてくれる人には出会えなかった。
数日後、答えをくれたのはナイアガラにある19世紀当時のフォート・ジョージという砦を再現した場所にいたイギリス兵(の格好をした)案内役の人。

「こんなコインをみつけたんだけど」と見せると、
「ああ、これはケベックのフランス人でイギリスに味方して参戦した人物だよ。当時のケベック人は『アメリカにつくのか、イギリスにつくのか』と問われていたので、行動で立場を示したんだ」
明快な解説だった。
小さな記念硬貨 が、外国人旅行者にちょっとした歴史の旅をさせてくれた。

*
「イギリスとの戦争に勝利したら、あなた方はまたフランス人にもどれるのですよ」
新興国アメリカは、このぐらいの事は言ったに違いない。
祖国フランスがイギリスに敗れ、カナダの地でイギリスに支配されていたケベックのフランス人には魅力的な提案だっただろう。
一方、イギリス側はケベックのフランス人に対して別の考え方で説得した。「アメリカに占領されたら、カトリック信仰と貴族制は破壊されるだろう。 我々イギリスはあなた方フランス人の権利を保障する法律を通し(1775年ケベック法を指す)すでにあなた方の第二の祖国である。それでもアメリカに味方するか?」と。
ケベックのフランス人社会では意見が分かれた。第一の祖国フランスでは革命がはじまり、貴族階級と教会がひどい破壊をうけている。いったい我々はどこへ向かえばよいのか。
1812年にアメリカはイギリス領カナダへの侵攻を開始、翌年、十月にはケベックの本拠であるモントリオールのすぐ南まで進軍してきた。
力で押してくるアメリカに、ケベックのフランス人は言葉の壁を越えてイギリスを支援することに決する。だが、もともと人口が少ないフレンチ・カナダにはまともな常備兵はなかった。
シャルル・ド・サラベリーはフランス貴族だがケベック生まれ。十四歳から軍歴をはじめ、この英米戦争がはじまった頃は三十代前半。彼は志願兵を募り、インディアンと連合して立ち向かう。
集められた兵力は二百人のモフォーク族インディアンを含めて千五百ほど。
アメリカ軍兵力は正規兵を中心に約四千。
数では圧倒的に不利だったが、ここを破られればモントリオールが危ないという、セントローレンス川を後ろにしたまさに背水の陣。
1813年10月26日、地形の利を周到に考えて待ち伏せたフレンチ・カナディアン部隊は、三倍近いアメリカ軍を撃退し、サラベリーは一躍英雄となった。
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「コインも紅葉してる」と言って小松の手元にもってこられたその記念25セント硬貨は、カナダのシンボルであるメイプルの葉が赤くカラーになっている珍しいものだ。
紅葉を記念したわけではなく、歴史的な年号「1812」を目立たせるように赤く印刷されていた。
一緒に描かれた人物の横にはSALABERRYと刻まれている。フランス人か?
だが、ガイドさんにきいても、地元のドライバーさんにきいても、この人物が誰なのかちゃんと教えてくれる人には出会えなかった。
数日後、答えをくれたのはナイアガラにある19世紀当時のフォート・ジョージという砦を再現した場所にいたイギリス兵(の格好をした)案内役の人。

「こんなコインをみつけたんだけど」と見せると、
「ああ、これはケベックのフランス人でイギリスに味方して参戦した人物だよ。当時のケベック人は『アメリカにつくのか、イギリスにつくのか』と問われていたので、行動で立場を示したんだ」
明快な解説だった。
小さな記念硬貨 が、外国人旅行者にちょっとした歴史の旅をさせてくれた。

- ジャクソンレイク朝食クルーズ
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エリア:
- 北米>アメリカ西部
- テーマ:ハイキング・登山 クルーズ 自然・植物
- 投稿日:2014/06/20 13:16
- コメント(1)
グランドティトン国立公園は、イエローストーン国立公園とセットでちょっとだけ訪れる事が多いのだが、実際に行ってみるとゆっくり滞在したくなる場所だ。2014年6月、三度目の企画ではじめてジャクソンレイク・ロッジに二泊。
人気の朝食クルーズに参加することも出来た。
07:15コルターズベイの桟橋集合。この時には雲も多くてずいぶん寒かった。

夜中には風も強くて、雨が降っている音も聞こえていたのである。
やがて集まってきた朝食クルーズの参加者は、三十人乗り二艘の船に分乗。

我々10人の乗ったランデブー号の船長は三十年の経験をもつベテラン。「おらぁ、書類仕事というのは嫌いなんだ」なんて言いながら、いろんな面白い話をきかせてくれる。
このグランドティトンが国立公園に指定されたのは1929年。だが、その時にはすでに入植していた多くの農民が居て、下流のアイダホ州の農民からも大きな反対があったそうだ。
農民にとっては充分な水が供給されることは、自然保護なんぞよりもよほど重要な事。1901年にはじめてのダムが建設され、現在のモノは1916年建造。
●アシスタント・ガイド役のケイティさんは、この時期サンフランシスコから毎年きているとのこと。若いけれど、彼女もとてもおもしろい話をきかせてくれた。

自然に起こった山火事は人間が消さないのが自然公園の流儀なのだが、敷地がイエローストーン国立公園ほど大きくないグランドティトンでは近年そうもいかなくなっているとか。2009年の火事は幸い雪が消してくれたそうな。
●灰色オオカミは一度絶滅してしまったが、1995年に再導入され、増え続けている。かれらはエルクを好物にしている。
モラン山の氷河を滑り降りたスキーヤーがいる

斜度は60度にもなる。十時間かけて登って、三十分で無事降りてきた。
●船長が「この氷河はその形からジミ・ヘンドリックス氷河とも呼ばれている」と笑いをとった。そういえば、そうかな。
↓モラン山の右には氷河の削った丸い谷。ここは「フォールズ・ヴァレー」と呼ばれている。なぜかは、写真をよく見てもらうとわかるだろう。

落差百メートルを超える滝が二本流れ落ちているのがわかる。
エルク島をまわりこんで、三十分ほどの乗船で桟橋へついた。


雲が多くて寒いから、皆自然に焚火のところにあつまる。標高は2400mちかくもあるのだから6月でも朝はこんなかんじ。

西部劇でよくみるようながっしりしたケトルが火にかかっていた。

コーヒー豆を直に煮た「カウボーイ・コーヒー」なるもの。濁って、とても濃い。

●朝食メニューはわりに多彩。フルーツもいっぱい。


「湖の鱒かですか?」と訊ねると、山の向こうのアイダホから、とのこと。

朝食がおわったころ、山の上から陽があたりはじめた

近くの丘にのぼってみよう

山の天気はどんどん変わる。十五分で花の色も見違えるように鮮やかになっていった

9時15分、再乗船。
行きとちがって、うしろの小さなデッキで太陽を楽しめるおだやかさ

午前10時前、コルターズベイに帰着

2時間半のクルーズは、天候によってずいぶん価値も変わると思うが、ジャクソンレイクを存分に楽しむには、有効なショート・トリップである。
※日本人には、二時間半の間トイレにいけないのがツライかもしれない。島のトイレがほとんど使えないのであります。
人気の朝食クルーズに参加することも出来た。
07:15コルターズベイの桟橋集合。この時には雲も多くてずいぶん寒かった。

夜中には風も強くて、雨が降っている音も聞こえていたのである。
やがて集まってきた朝食クルーズの参加者は、三十人乗り二艘の船に分乗。

我々10人の乗ったランデブー号の船長は三十年の経験をもつベテラン。「おらぁ、書類仕事というのは嫌いなんだ」なんて言いながら、いろんな面白い話をきかせてくれる。
このグランドティトンが国立公園に指定されたのは1929年。だが、その時にはすでに入植していた多くの農民が居て、下流のアイダホ州の農民からも大きな反対があったそうだ。
農民にとっては充分な水が供給されることは、自然保護なんぞよりもよほど重要な事。1901年にはじめてのダムが建設され、現在のモノは1916年建造。
●アシスタント・ガイド役のケイティさんは、この時期サンフランシスコから毎年きているとのこと。若いけれど、彼女もとてもおもしろい話をきかせてくれた。

自然に起こった山火事は人間が消さないのが自然公園の流儀なのだが、敷地がイエローストーン国立公園ほど大きくないグランドティトンでは近年そうもいかなくなっているとか。2009年の火事は幸い雪が消してくれたそうな。
●灰色オオカミは一度絶滅してしまったが、1995年に再導入され、増え続けている。かれらはエルクを好物にしている。
モラン山の氷河を滑り降りたスキーヤーがいる

斜度は60度にもなる。十時間かけて登って、三十分で無事降りてきた。
●船長が「この氷河はその形からジミ・ヘンドリックス氷河とも呼ばれている」と笑いをとった。そういえば、そうかな。
↓モラン山の右には氷河の削った丸い谷。ここは「フォールズ・ヴァレー」と呼ばれている。なぜかは、写真をよく見てもらうとわかるだろう。

落差百メートルを超える滝が二本流れ落ちているのがわかる。
エルク島をまわりこんで、三十分ほどの乗船で桟橋へついた。


雲が多くて寒いから、皆自然に焚火のところにあつまる。標高は2400mちかくもあるのだから6月でも朝はこんなかんじ。

西部劇でよくみるようながっしりしたケトルが火にかかっていた。

コーヒー豆を直に煮た「カウボーイ・コーヒー」なるもの。濁って、とても濃い。

●朝食メニューはわりに多彩。フルーツもいっぱい。


「湖の鱒かですか?」と訊ねると、山の向こうのアイダホから、とのこと。

朝食がおわったころ、山の上から陽があたりはじめた

近くの丘にのぼってみよう

山の天気はどんどん変わる。十五分で花の色も見違えるように鮮やかになっていった

9時15分、再乗船。
行きとちがって、うしろの小さなデッキで太陽を楽しめるおだやかさ

午前10時前、コルターズベイに帰着

2時間半のクルーズは、天候によってずいぶん価値も変わると思うが、ジャクソンレイクを存分に楽しむには、有効なショート・トリップである。
※日本人には、二時間半の間トイレにいけないのがツライかもしれない。島のトイレがほとんど使えないのであります。

- チチェスター大聖堂の宝物館
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エリア:
- ヨーロッパ>イギリス>イギリスその他の都市
- ヨーロッパ>イギリス
- テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2014/01/30 13:48
- コメント(0)
イギリス南部、ウエスト・サセックスの古都チチェスターはノルマン時代12世紀からの大聖堂がそびえている。

都市の起源はローマ時代に遡り、大聖堂の床下にもこんなモザイクが埋まっている。

美しいシャガールのステンドグラスもある
一見に値するタピスリーもある

作曲家ホルストの墓もある

★宝物館★
50ペンスコインの自動改札で入る宝物館はひっそりした一角だったが、解説と共にじっくり見ていくと、興味深い展示物があった。
これハ一見ただの杯やパテナのひとつのようだが、実は聖歌隊席に埋められていた司教の墓から1829年に発見されたもの。

少し離れた場所にその発見された時の様子が版画で展示されていた。肩の部分に杯とパテナが見える。

イギリスは16世紀ヘンリー八世による宗教改革によって、カトリックの産物である修道院や巡礼は廃止され、墓を含む多くの歴史的な事物が破壊されてしまっている。
その中を聖歌隊席の地下でひっそり生き延びていたこの二体の司教の遺体。彼らが現代に伝えたものだった。
すぐ下に展示されている指輪は遺体がはめていたもの。

四世紀にローマ法王からくだされた司教指輪。たぶん本物は次の司教が継承し、コピーをつくっていっしょに埋葬したと思われる。
*
真っ黒な十字型をした鉛板も、よく読み取るとおもしろい。
いちばん上の欠けた部分からGODEFRIUS eps(エピスコバル=司教)CICESTR(チチェスター)
これは1830年に工事をしている時、教会横の古い墓地から見つかった。第二代の司教ゴドフリーの死去に際し、ローマ法皇が送った赦しの文面。その前年に同じ場所から見つかっていた石棺も彼のものだと推定されている。
教会内にある歴代司教のリスト、ここチチェスターに司教座が移された後の二代目司教にゴドフリーの名前が読める。
1066年、ヘイスティングの戦いの後、アングロ・サクソン時代の中心だったSelseyからローマ時代から駐屯地があったこちらへ司教座が移された。その時に大聖堂が建設スタートし、その二代目司教がゴドフリーである。
この町の名前はアングロ・サクソンのアーレ王の息子の名前チッサCissaからきているのだけれど。
*
この木製の箱には1190頃からはじまった第三回十字軍に関連する品がおさめられていた。法皇イノチェンツォ三世が贈ったものとされている。

宝物室自体の壁にも12世紀ノルマン時代からのものと推察される壁絵の色が残っている。

日本ではあまり馴染みのないチチェスターだけれど、大聖堂のこんな地味な宝物室にも、興味深い事物が詰まっておりました。

都市の起源はローマ時代に遡り、大聖堂の床下にもこんなモザイクが埋まっている。

美しいシャガールのステンドグラスもある
一見に値するタピスリーもある
作曲家ホルストの墓もある
★宝物館★
50ペンスコインの自動改札で入る宝物館はひっそりした一角だったが、解説と共にじっくり見ていくと、興味深い展示物があった。
これハ一見ただの杯やパテナのひとつのようだが、実は聖歌隊席に埋められていた司教の墓から1829年に発見されたもの。

少し離れた場所にその発見された時の様子が版画で展示されていた。肩の部分に杯とパテナが見える。

イギリスは16世紀ヘンリー八世による宗教改革によって、カトリックの産物である修道院や巡礼は廃止され、墓を含む多くの歴史的な事物が破壊されてしまっている。
その中を聖歌隊席の地下でひっそり生き延びていたこの二体の司教の遺体。彼らが現代に伝えたものだった。
すぐ下に展示されている指輪は遺体がはめていたもの。

四世紀にローマ法王からくだされた司教指輪。たぶん本物は次の司教が継承し、コピーをつくっていっしょに埋葬したと思われる。
*
真っ黒な十字型をした鉛板も、よく読み取るとおもしろい。
いちばん上の欠けた部分からGODEFRIUS eps(エピスコバル=司教)CICESTR(チチェスター)これは1830年に工事をしている時、教会横の古い墓地から見つかった。第二代の司教ゴドフリーの死去に際し、ローマ法皇が送った赦しの文面。その前年に同じ場所から見つかっていた石棺も彼のものだと推定されている。
教会内にある歴代司教のリスト、ここチチェスターに司教座が移された後の二代目司教にゴドフリーの名前が読める。

1066年、ヘイスティングの戦いの後、アングロ・サクソン時代の中心だったSelseyからローマ時代から駐屯地があったこちらへ司教座が移された。その時に大聖堂が建設スタートし、その二代目司教がゴドフリーである。
この町の名前はアングロ・サクソンのアーレ王の息子の名前チッサCissaからきているのだけれど。
*
この木製の箱には1190頃からはじまった第三回十字軍に関連する品がおさめられていた。法皇イノチェンツォ三世が贈ったものとされている。

宝物室自体の壁にも12世紀ノルマン時代からのものと推察される壁絵の色が残っている。

日本ではあまり馴染みのないチチェスターだけれど、大聖堂のこんな地味な宝物室にも、興味深い事物が詰まっておりました。
11 - 15件目まで(100件中)


