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旅倶楽部「こま通信」

~旅するように生きていこう~

旅倶楽部「こま通信」
旅するように生きていこう!
プロフィール

ニックネーム:
こまつうしん
居住地:
埼玉県
性別:
男性
年代:
60代
会社名:
旅倶楽部 こま通信
会社英字名:
会社所在地:
埼玉県
業種:
旅行業
自己紹介:
旅倶楽部「こま通信」代表

これまで三千日以上を旅してきて、より良い旅の為に《手造の旅》をはじめました。メンバーからの要望によって、一生モノの旅をつくっていきます。

《手造の旅》のご希望がありましたらご連絡ください。
komatsusin2@gmail.com

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完成!
リーガで石鹸作り
エリア:
  • ヨーロッパ>ラトビア>リガ
テーマ:買物・土産 お祭り・イベント 
投稿日:2013/10/14 11:44
コメント(0)
リーガの旧市街にある「ピエネネ」という可愛いお店で、石鹸作り体験が出来るというので《手造の旅》に組み込んでみた。自分の手を動かしたものは、しっかり記憶される。

「ピエネネ」とはラトヴィア語で「たんぽぽ」の意味、内装もこんな。
「ピエネネ」とは「たんぽぽ」の意味
売っている品々はこんな
お見せの品々もカラフルでかわいい
女性ばかりで運営されている、開店して二年経たないお店。

我々十人でちょうどぐらいの小さなスペースに、石鹸作りのセットが用意されていた。これらでいろいろな香り・色をつける。
いろんな材料で
ラベンダーやローズなどと共にクローブ、シナモンなどもある。さらに黄色いのはクミンだ。カレー風味の石鹸?と思って避けた人が多かったのだが、実はこれがいちばんきれいにできた。

熱い石鹸溶液が配られ、そこに好みで混ぜる。
暖かいうちにながしこまなきゃ思うよりも早く固まるのでもう一度温めなおしたりしたけど、これは色を悪くしたようである。

二回めはわりにきれいに型にはいった。
ゴム製の型に入れます

夜には完成品がホテルにとどけられる。ふむ、黄色のクミンがきれいです。
いちばんきれいにできた黄色い石鹸ベリーの赤色はあまりきれいに出なかったなぁ…次はもっときれいにできそな気がします。

スタッフの方々、分かりやすい英語で説明してくださいます。ありがとうございました!
おせわになりました

ゲディミナス城を下から見あげる
ゲディミナス城へ登ろう
エリア:
  • ヨーロッパ>リトアニア>ビリニュス
テーマ:観光地 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/10/11 11:21
コメント(0)
リトアニアの現首都ヴィリニュスの街は、この城からはじまった。小さなケーブルカーでちょっと上がるだけで視覚的にもそれがよく理解できる。
ゲディミナス城へ登ったところから
十月に入り、観光客はぐっと少なくなっているが、ちょうど紅葉真っ盛り。
塔自体はそれほど高くない
この丘は14世紀はじめに人工的に建設されたものだ。下から見上げた時よりもさほど大きく感じられない。かつてはもっとたくさん建物があったのだろうが、再建されているのは一部である。
十字架の丘方向
となりにもう一つ、三つの十字架のある丘が見える。※フランチェスコ派修道士殉教の地
こちらは自然の丘で、城の展示によれば、この城塞以前に木造の塀にかこまれた古い街があった。発掘もされている。

丘へ登るのとは別に入場料がかかるが、塔内部へ登っていくと
上へ登る階段
かつてのこの場所のモデルがある。
より古い時代のものを見ると、現在のカテドラルと同じ場所にはもっと小さな教会がある。今は独立している鐘楼は古い城壁の一部であったことが分かる。

古い時代の教会と塔
現在の教会に建て替えられた後
現在の教会と塔

この丘をふくめてぐるりと水路で囲まれたヴィリニュスのより古い時代・14世紀の旧市街がここまでであった事がわかる。
川をひきこんで周りを囲った街だった

当時の最大の敵はエルサレムを追われてこちらへ転進した「ドイツ騎士団」であった。まだキリスト教化していなかったリトアニアを標的に攻めていた。この丘を建設したゲディミナス大公自身もはじめは自然崇拝宗教者であった。下の写真から、この時代の自然崇拝神殿の跡を白く区別できるようにしてある場所が判別できるだろうか。
元神殿のあった場所を示す
ゲディミナスは「ドイツ騎士団」と和睦するために洗礼を受けキリスト教者になったが、騎士団は攻めるのを止めはしなかった。騎士が身に着けていた鎧は当時のリトアニア人を驚かせたらしく、彼らを「ヴォーケートス」と呼んだ。「ヴォー」は「とても」、「ケートス」は「キェトゥス」=「固い」、の意味である。
「固い人」

**
城塞の最上階に「人間の鎖」の展示があった。「人間の鎖」の展示当時のビデオも見せてくれる。

1989年にバルト三国の独立を求めてリトアニアの首都ヴィリニュスからエストニアの首都タリンまで人々が手をつないで平和的な示威行動をした事件である。
1989「人間の鎖」の写真
8月23日は、五十年前に独ソ不可侵条約が結ばれ、その秘密条項によってバルト三国がソ連のものとされた日である。

五百キロにもおよぶ距離を百万とも二百万ともいわれる人々が繋いだ。これは確かにユネスコの「世界記憶遺産」に登録される価値がある出来事である。

起点となったヴィリニュスの大聖堂前には、「STEBUKLAS」=リトアニア語で「奇跡」と記されたプレートがはめ込まれている。
「人間の鎖」起点

このアイデアのもとになったと思われるのが、前年1988年にバルト海の環境を守ろうとアピールするために、バルト海を囲む「人間の鎖」企画だったと思われる。下記のHPの項目3にそのことが少し言及されている。
http://jp.mfa.lt/index.php?1431368471

***
この城塞訪問、眺めだけでない価値があった。下りは紅葉真っ盛りの中旧市街へ向かって歩いていこう。

紅葉真っ盛りの山を見ながら丘を降りる

唯一サン・マリノに残るのはこれ
サンマリノ〜ドマニャーノの宝
エリア:
  • ヨーロッパ>サンマリノ共和国
テーマ:観光地 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/09/26 08:13
コメント(0)
サンマリノのど真ん中にある市立博物館をガイド説明付きで訪問。いつも前を通るだけだったけれど、けっこうおもしろいモノがある。いくつかご紹介いたします。
★ドマニャーノの宝
サンマリノ内の城塞地区・ドマニャーノから発見された五世紀末から六世紀はじめの装飾品。
復元図〜サン・マリノ博物館埋葬地から発見され、同じデザインの一揃いが美しい。

西ローマ帝国滅亡直後、当時ラヴェンナを首都としたゴート族の王テオドリクスの時代のもので、その配下の高位の女性のものと推察されている。

金、ガーネット、緑色のガラス、真珠貝を使い、「クロワゾンネ」と呼ばれる七宝焼きの一方法で制作されている。
唯一サン・マリノに残るのはこれとても美しいが、上の写真のひとかけら以外はレプリカだった。

説明によると他の品々は、ロンドンの大英博物館、NYCのメトロポリタンに所蔵されているとのこと。よし、今回は最後にロンドンを訪れるから、そこで是非見つけよう!

大英博物館は所蔵していても常時公開していないモノも多いので心配したが、以前もすぐ前を通っていた場所にしっかり展示されていた。
これらが、それ。
大英博物館所蔵4
大英博物館所蔵3
大英博物館所蔵2
1892年に発見され、1933年「購入」したと表示。

ロンドンでも全体の復元図があったが
復元図〜大英博物館当然ながらサンマリノでの展示の方が、愛情が感じられた。

サンマリノに本物を展示し、ロンドンにレプリカを贈るという方法はいかがでありましょう?(笑)遺跡からの発掘物は、基本的にはその場所に置かれる方がはるかに価値を理解させてくれるものだから。

★神域への奉納像
女神の小像
崖が集まってできたようなサンマリノの山腹に泉の湧き出す場所があり、そこが女神の神域になっていた。そこを発掘調査した時に出土した女神の小像である。
参拝者が奉納した小像は、岩の上に鉛で固定されていたそうだ。もしかしたら、これと似た本物の像が神殿内にあったのかもしれない。

★紋章石版
サンマリノの正門にあたるフランチェスコ門
フランチェスコ門この裏側にはめこまれた二つの紋章門の裏側にある二つの紋章
だが、本物はここにあった
門のレリーフ、こちらが本物

左右は現在同じように設置されているが、実は全く違う時期に制作されていた。

左の鷲は16世紀頃のもの。モンテフェルトロ家のシンボルで、サンマリノがウルビーノ公を支持する事をあらわす。近くのリミニを支配したマラテスタ家へ対抗していたのである。

右の三つの山の上の羽はサンマリノの国章。意外に新しく19世紀になってから出来たものだという。その証拠にリベルタ=「自由」と書かれた文字はラテン語ではなくイタリア語。字体もゴシック調の新しいデザイン。イタリアが統一した19世紀になってはじめてサンマリノは自国が共和国として独立することを自覚し、その自由を体現する紋章を決めたようである。

大聖堂ライトアップ5
シャルトル大聖堂驚異のライトアップと夜の地下聖堂訪問
エリア:
  • ヨーロッパ>フランス>シャルトル
テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/09/01 12:46
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シャルトル大聖堂は夏の間、驚異のライトアップが行われている。今回の《手造の旅》はこれを見るためにシャルトル旧市街へ歩けるホテルに宿泊した。さらに現地の方から「地下聖堂キャンドル訪問」をアレンジしていただいた。

**
8月後半とはいえ21時半になってやっとライトアップがスタートする。今回はしかし、その時間に大聖堂の責任者の方と待ち合わせして、珍しい夜の地下聖堂へ案内していただくのである。
大聖堂責任者の方がカギを開けてくださる

しばし地上の世界からさようなら
暮れゆく地上の世界に別れを告げ
ひとりひとり長いろうそくを手渡され、火を移してゆく
ろうそくを一人一本、火を移してゆく

「皆さんひとりひとりが、今日は中世の巡礼です。遠い道のりをこの聖堂のマリア様に会いにきたのだと思ってください」
彼はラテン語で聖歌を歌いながらゆっくりと奥へ進んでゆく、地下聖堂の天井は古いフレスコ画が描かれている
天井の古いフレスコ画
紀元1024年、10月。フルベール司教が「雪が降る前にこのフレスコが完成してほしいものだ」と手紙にかいていたそうだ。
地上がその後の火事で焼けてしまっても、この11世紀の地下聖堂はそのまま残った。

1194年の大火災では「聖母の衣(キリストを産んだ時に着ていたと言われる)も焼けてしまった…」と落胆していた民衆の前に、瓦礫の中から無傷の衣が出現した。この地下聖堂に避難していたのだ。

巡礼たちが祈った聖母子像が奥にあった
伝説の聖母子像
まるで観音様のようだ。

ヨーロッパのロマネスク後期の彫像というのは、時に日本の中世彫刻と不思議なほど似ている。

11世紀以前にあったノルマン人来襲の時の聖堂のなごりが、この井戸。異教徒のノルマン人は聖職者を殺して投げ込んだと言われている。ノルマン時代の井戸
当時この井戸は古い聖堂の外側の壁に位置していた。


ファサードにある彫刻の本物がこちらに保管されている
ファサードの彫刻の本物はここに
オリジナルはこんなにもぼろぼろになっていたのか

大聖堂南西の角にある陽時計もオリジナルはここにあった
大聖堂角にあるものもレプリカだった

こちらは19世紀に描かれたとおぼしきもの
比較的新しいフレスコ画

「明日朝、洗礼があるようで、その準備がされていますね」
シャルトルでは地下の聖堂で洗礼式が行われ、その後地上へ「産まれ出て」祝福されるのだそうだ。
明日の洗礼式の為の用意

階段を上がり、大聖堂の地上階へ出る

大聖堂の地上階部分へあがってゆく
大音量でパイプオルガンが演奏されている。
暗闇の中で圧倒的な音圧が体を包む。生のパイプオルガンでなければこれだけの迫力は体感できない。

巨大な暗闇を埋め尽くす重低音…目の前にある小さな炎にすがって前にすすんでゆく、ほとんどめまいがしそう。
大聖堂の巨大な空間すべてが闇

ここの床には巡礼の祈りの為に描かれた巨大な迷図が描かれている。フラッシュにその一部が映った。
暗闇の中、大迷図が映った

約一時間ほどの大聖堂地下訪問、巨大な扉が開けられ、夜の空がとても明るく感じる
南の大扉が開けられ、夜空が見えた

ファサードに面した広場ではすでにたくさんの人が集まって、壮大なライトアップを鑑賞していた。十五分でひとまわりする映像ショーである。

大聖堂ライトアップ1
大聖堂ライトアップ2
大聖堂ライトアップ3
かつては彩色されていた彫刻を再現
大聖堂ライトアップ4
大聖堂ライトアップ5
大聖堂ライトアップ6
大聖堂ライトアップ7

近くの広場でも週末の今日はJAZZバンドが演奏をしていた
市民ジャズバンド

いくつも中国風の建物が
ドロットニングホルム宮殿の中国パビリオン
エリア:
  • ヨーロッパ>スウェーデン>ストックホルム
テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/08/19 03:54
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ストックホルムから車で40分ほど、世界遺産ドロットニングホルム宮殿はツアーにもよく含まれている場所だ。
ドロットニングホルム宮殿本宮が見えてくる
いつもは本宮の見学が主で庭は少し散策する程度の時間しかない。が、今日の様に晴れて時間のある朝、ガイドさんと相談して、庭の奥に隠れた中国パビリオンから見学をはじめる事にした。
駐車場を出ると木陰に平屋の建物群が見えた。
本宮から遠く離れた庭側の入り口を入ると
一角を囲むように建てられている
建物全景
これらは1753年のスウェーデン王アドルフ・フレデリックが、プロイセンから来た王妃ルドヴィケ・ウルリーケの為に建てた。

当時アジア・中国世界はヨーロッパの宮廷にとってあこがれの異国であった。疑似東洋趣味の建物や部屋をつくって、そこに磁器を飾るなどしていたのである。

ストゥッコで中国人の顔までついている
中国人の顔まで

オープンの時には五歳の息子・後のグスタフ三世が、中国服を着て母ルドヴィケに鍵を渡したのだそうだ。

庭の離れでは召使も入れずに静かな会食や密談が行われる。そのために階下からせり上がり式に出てくるテーブルになっている
上下するテーブルが

横から後ろから見ると、おもしろい建てられ方をしているのが分かる
横から見ると
後ろから見ると
階下への階段は当時のままの雰囲気が感じられる。本宮の様にひっきりなしに観光客に踏み込まれることはなく、一日の限られた時間だけ開けられて、中でお茶を楽しめるそうな
厨房への階段
厨房階

ここを建てたフレデリック王とルドヴィケ妃のイニシャルも中国風にアレンジされて刻まれていた
二人のイニシャル

本宮の方へ歩いていく途中、今度はテントが見えてきた
テント?
いや、近づいてみるとテントの様に見せてある普通の建物
入口をよくみると

これは1777年にこの宮殿の所有者になったグスタフ三世がトルコ風に建てさせた衛士のためのブリキのテント。付記された解説によると、グスタフ三世が1771年にフランス王ルイ15世を訪問し、カンピエーニュで見たオスマントルコからのテントに影響されているのだとか。

★迷路のような庭木を抜けていくと、遠くに本宮が見えてきた
本宮からはるか離れた庭の奥
いつも見ていたドロットニングホルム宮殿だけではなく、こういった18世紀の宮廷趣味がそのまま残されているのが世界遺産に指定された理由なのだ。自分が見ているものだけで、物の価値を判断するのは早計なのだと知らされる訪問になった。

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