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旅倶楽部「こま通信」

~旅するように生きていこう~

旅倶楽部「こま通信」
旅するように生きていこう!
プロフィール

ニックネーム:
こまつうしん
居住地:
埼玉県
性別:
男性
年代:
60代
会社名:
旅倶楽部 こま通信
会社英字名:
会社所在地:
埼玉県
業種:
旅行業
自己紹介:
旅倶楽部「こま通信」代表

これまで三千日以上を旅してきて、より良い旅の為に《手造の旅》をはじめました。メンバーからの要望によって、一生モノの旅をつくっていきます。

《手造の旅》のご希望がありましたらご連絡ください。
komatsusin2@gmail.com

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聖ドメニコの棺
ボローニャにある聖ドメニコの墓
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>ボローニャ
テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/12/22 13:12
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アッシジの聖フランチェスコとほぼ同じ時代を生きた聖ドメニコ。
元もと今のスペインで生まれた彼だが、1221年にボローニャで亡くなり、そこで葬られた。

旧市街にあるドメニコ・マジョーレ教会がその場所である。
ドメニコ・マジョーレ教会

入口には後の時代に描かれたドメニコの誕生にまつわる逸話が描かれている。
教会入口のドメニコの図
母親は、胎内のドメニコが白黒の犬が松明を加えて現れて闇を照らす夢を見た。彼が世界を照らす存在になるという予言である。
ドメニコ会の衣は今でも白と黒。
※このモザイク画の右下にはボローニャの斜塔が描かれている。

石棺は見事な彫刻で飾られている。
聖ドメニコの棺
もともとは尖塔や独立した彫刻はなく、浮彫で飾られた石棺だけを、その時代最高のマエストロだったニコラ・ピサーノが制作した。

当初、石棺は現在の場所ではなく、堂のど真ん中に柱を立ててその上に安置されていた。かつてあった場所がこの×印によって記憶されている。
この印があらわすものは?

石棺以外の装飾が追加されたのは15世紀半ば、ルネサンスの彫刻家ニコロ・デラルカによる。
中段の石彫

そして、若きミケランジェロもここにその足跡を残している。
なるほど天使でも筋肉隆々ですね。
筋肉隆々の天使

この像は後の彼の代表作となるダビデを思い出させる。
ダビデ?小像
ミケランジェロはそのスタートからすでにミケランジェロだったのだ。

石棺の上のクーポラには、ボローニャ出身の画家グイド・レーニ「聖ドメニコの昇天」がフレスコ画を描いている。
昇天する聖ドメニコ

レーニ自身の墓もすぐ近くにある。
グイド・レーニの墓
**
ドメニコ教会には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ(フェデリコ)二世に最も愛された息子エンツォの墓があった。それを記念したプレートがこれ。
エンツォの記念碑
二十代後半にボローニャに捕えられ、その後の二十年以上の年月をこの宮殿で軟禁されていた。
エンツォ宮殿
虜囚とはいえ王侯として遇され、市民は彼の詠じる詩に耳を傾け敬意をあらわした。ここは現在でも「エンツォ宮殿」と呼ばれているのである。

石臼
プーリアで昔のオリーブオイル製造場を訪れる
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>イタリアその他の都市
テーマ:グルメ 歴史・文化・芸術 自然・植物 
投稿日:2013/11/22 09:42
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南イタリア、プーリア地方の白い街のひとつオストゥーニ
オストゥーニの街
イタリアで生産されるオリーブの六割を生産するこのエリアには六千万本のオリーブがあるという
オリーブ畑その中の約十パーセントが保護指定された古木で、こんな認識票がつけられている。
認識票の付いたオリーブの木
ムクドリの群れが鷹に追われている?
ムクドリの群れ

今日利用している二十人乗りのバスでもバックできないような道なので、オリーブ畑の中を歩いていく。11月半ばでも、今日の様に晴れた日なら、むしろ酷暑の夏より気持ち良いです。
バスではとても入れません
かつてのお館でしょうか
途中の廃墟

パーン!と銃声が何度も聞こえた後、笑顔で狩人が二人
狩人
腰にはさっきのムクドリがたくさんぶらさげられてる。「おいしいんだよ」と、ほんと?

突然入口があった
入口持ち主のアントニェッタさんが待っていてくれた。連絡しておかないと通常はオープンしていない。

この場所はゴミ溜めになっていたのだが、アントニェッタさんのご主人が整備して昔の様子を見学できるまでに整備した。
樽を運び出すための木のレール
樽を転がすための木の道がつけられている。

天井には機械を使った後の穴
洞窟天井の機械を使ったあと
洞窟をオリーブ絞りの場所にした一つの理由がこれ。
圧力をしっかりかけられるように天井を利用したのである。

収穫したオリーブは最初にこの石臼で砕かれる
石臼

「こんな風に動物がやってたのよ」とアントニェッタさんが実演
オリーブを砕く石臼

ここにも同じ機械があったにちがいない
ここにもかつては
たくさんオリーブの実がちらばっていたので穴から見上げると
穴の上にはまさに収穫期のオリーブの木が見下ろしていた。

砕かれたオリーブの実はこんな布の入れ物に入れてしぼり機にかけられる。
砕いたものを入れる袋

砕いただけでもオイルは出てくる。それをこの鉄製の道具ですくった。
最初のオイルをすくう
以前、別のオリーブ製造所で、しぼらなくても出てくるオイルを「ラ・クリマ(涙)」と呼ぶのだと教えてもらったことがある。

しぼり機はこれ
しぼり機

オリーブの収穫期は11月から2月ごろまで続くので、そのあいだここに寝泊まりする労働者の場所
寝起き・煮炊きの場所
いったい何年前までここを使っていたのだろう。いったいいつから使っていのだろう?こういった場所はきっとたくさんあったに違いない。

さて、当然味わってみたいじゃないですか(^^)
試食開始!

オリーブのペーストをつけたのも、ドライ・トマトもおいしかったけれど、やっぱりそのものをたっぷりつけただけのシンプルなラスクがいちばんでした。

DOP=Denominazione di Origine Protetta (イタリアの原産地呼称保護制度)を冠しております

DOP!

テオドリクスがここに画かれていた?
ラヴェンナに残るテオドリクス王の痕跡
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>ラヴェンナ
テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/11/05 15:15
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西ローマ帝国を滅亡させた傭兵隊長オドアケルを討って、ラヴェンナを首都とした東ゴート王国の王になったテオドリクスの墓は今でもラヴェンナに残っている。
テオドリクス廟近景六世紀、未だ古代の雰囲気を感じさせる、どこかアジアのマウソレウムのような重量感ある石造り。

今は周囲になにもないが…
テオドリクスの墓遠景ずっとこんな風に残されていたのではなく、19世紀までは修道院と教会施設の只中であった。

シンプルな内部も教会だった当時はフレスコ画などで飾られていた。注意して見ればその痕跡も見える。現在の姿は教会だった頃の外観をすべてはぎ取って、出来るだけ造られた当初に近づけた結果なのだ。
テオドリクス廟二階天井
重量感ある冠石は、テオドリクスの王国の一部だったイストリア(スロヴェニアからクロアチアにまたがるアドリア海北東奥の半島)から運ばれた一枚石。設置する時のものだろうと推察されるヒビもしっかり見える。
テオドリクス冠石のヒビ
一階部分には何もなく
テオドリクス廟一階入り口二階にもこの赤い棺とおぼしき石が置かれているだけ
テオドリクス廟二階内部十字架型に開けられた窓はオリジナルだが、横に追加された窓はあとからだそうだ。
ここに置かれた「棺」が、テオドリクスのものであるかどうかも分かっていない。教会だった当時から果たしてここにあったものかも定かではない。19世紀的歴史復元によって、ここに持ち込まれたものであるかもしれない、と、ラヴェンナ在住のイタリア人ガイドさんのお話でした。

**テオドリクス廟は忙しいツアーではほとんど訪れないが、ラヴェンナの世界遺産指定物のひとつになっていて、イタリアでもここでしか見られない類の遺跡である。

★テオドリクスという人物はゴート族の王子であったが、八歳で「人質」として東ローマの首都・コンスタンチノープルに送られた。「人質」という名目ではあっても自由はあり、しっかり教育されて育つ。ローマ帝国のシンパを育てる為によく使われた方法である。

十六歳頃に帰国を許され、やがて父王が亡くなった後、部族王国の長として即位し、東ローマ皇帝からはコンスル(執政官)にも任じられた。西暦489年には簒奪者オドアケルを破り、ラヴェンナに入ったのだった。

ラヴェンナは初代皇帝アウグストスによって立派な軍港となっていたが(クラッセと呼ばれる)、テオドリクスはその少し北に新たな港も整備し、もともと先住部族が暮らしていた地区に自らの宮殿と教会を建設した。

その教会が現在も残っているサンタ・アポリナーレ・ヌオーヴォである。
アポリナーレ・ヌオーヴォ外観
塔は9世紀頃後から付け加えられたものだし、入口ポータルも、床も、内陣もオリジナルではないが、内部にの柱の上に残るモザイクはベースは6世紀からのものである。
アポリナーレ・ヌオーヴォ内部
ビザンチンらしく金をふんだんに用いた装飾。この図柄では左に船が描かれ、クラッセ港と近くの城壁に囲まれた建物群だと分かる。
クラッセの港

港の向かい側の壁
テオドリクスがここに画かれていた?
テオドリクスの宮殿が「PLATIVM」として描かれていて、その下にはテオドリクス本人の姿があった思われるのだが…今は黄金のモザイクべったりに変えられてしまっている。

この図像修正は、テオドリクスが没した後の西暦540年以降。東ゴート内のめまぐるしい権力闘争を終わらせるべくユスティニアヌス帝のコンスタンチノープルからベリサリウス将軍が征服してから行われた。

理由は、テオドリクスは異端キリスト教とされたアリウス派を信仰していたから。我々にはなかなか理解できないが、コンスタンチノープルで主流だったネオニアーニ(正統派・三位一体を信奉する現カトリック)にとっては、容認したくない装飾の部分を変更した。
先頭はマルティヌスに行列していた聖人たちの先頭は、アリウス派を攻撃したマルティヌスに変更。教会の名前もマルティヌス教会されていた。たしかにモザイクの切れ目が分かる。四人目の一人だけ金の衣を着たラウレンティウスも同様の改変かもしれない。

先ほどのテオドリクスの宮殿の横にも別の人物が描かれていたのは確実である。柱のところに、その人物の手だけが残っているのが見える。
残された手

***
これだけを見ると、アリウス派のテオドリクスの時代にはカトリックを排除していたのかと思ってしまうが、もうひとつ残されたアリウス派の遺構である小さな洗礼堂のモザイクはカトリック的である。
アリウス派洗礼堂近景
地面が一段下がっているが、この階段も大事な保存物だから「ハイヒールはダメ」などと書かれた注意書きがあった。

なにげない外見で、内部もそっけないとおもいきや…アリウス洗礼堂内部内部見上げると…
アリウス派洗礼堂天井
アポリナーレ・ヌオーヴォで見たのと同じ聖人の行列の真ん中に、ヨルダン川で洗礼を受けるキリストが描かれている。

左側の老人はヨルダン川を表す。天から精霊のハトが降りてきて、これはカトリック的三位一体?アリウス派の時代はもしかして違うデザインだったのだろうか?

この洗礼堂のすぐ近くには、その名もサン・スピリト(精霊)と名付けられた教会があるが、元はアリウス派の大聖堂だったそうだ。
アリウス派洗礼堂周辺

ラヴェンナには世界遺産指定された場所が全部で七つあるが、これら三箇所はすべてそのひとつに数えられている。

サッフォー(ナポリ考古学博物館)
古代、あこがれの女性像
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>ナポリ
  • 中近東>トルコ>イスタンブール
テーマ:観光地 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/05/23 09:53
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イスタンブルの考古学博物館にある巨大な女性の頭部。顔だけだが一メートル近くある。
イスタンブル考古学博物館より
以前読んでいた博物館図録説明では「女神像頭部」となっていたが、2013年4月に訪れてみると、「サッフォー」と、断定的に書かれていた。
確かにナポリ考古学博物館で見たフレスコ画と似ている。

●サッフォー(サッポーとも)は紀元前七世紀にレスボス島に生きた一般人。神様ではない。詩人で生きている時から名声を得ていたとされる女性。確認される記録では、政治的な発言から一時シチリアのシラクサへ亡命していた事がわかるそうだ。

紀元前七世紀の古代において、女神でもない女性が有名になり、像までつくられたとしたら、異例な事だ。

五百年以上後の古代ローマ時代になっても、サッフォーの名前は記憶され続け、紀元後一世紀の遺跡から、有名なこのフレスコ画が発見された。
サッフォー(ナポリ考古学博物館)
ペンを片手に美しくこちらを見ている姿は、当時の女性のあこがれだったようで、同じようなスタイルで自分自身を描かせたフレスコ画がいくつも見つかる。これらはナポリ考古学博物館所蔵
有名なポンペイの商家の夫妻図
ポンペイ出土の夫婦像
忘れてならないのは、この時代、「文字が書ける」ということは、それだけで誇れたという事。ましてや女性で読み書きが出来、詩まで創作するというのは、あこがれの的だったに違いない。
この絵を描かせた彼女は、意識してこのポーズを描かせたのである。

他にも、同様のポーズをとった女性像がある。
ポンペイ出土の婦人像

現代においても、才色兼備でありたいと、女性達は思うのありましょう。
サッフォーが女性同士の愛=レズビアン(レスボス島出身)の語源となった人物であったとしても。

今日は晴れの日
アグリジェントのアーモンド祭
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>アグリジェント
テーマ:観光地 お祭り・イベント 
投稿日:2013/02/13 00:44
コメント(0)
二月の第二週、シチリアの南岸アグリジェントではすでにアーモンドの花が盛りだった。アーモンド祭りは今年で68回を迎える。
アーモンド祭看板
同時に「国際フォークロア・フェスティバル」は58回目。
今日は旧市街でパレードが開催され、世界中からのパフォーマンスが見られた。

まずは露払いの軍楽隊
露払いの軍楽隊

地元の一番手のグループ
地元一番手のチーム
「アグリジェントには四つもフォークロア・グループがあるんだ」と、地元ガイドさん。このグループは太鼓の皮に描かれた聖カロージェロの名前が冠されている。

太鼓の聖人を見よ

十字軍兵士登場!
サービス精神旺盛(笑)
我十字軍の兵士なり十字軍兵士と記念写真

次の地元のグループは中世風の装い
グループ1

みぃんなおしゃれして晴れ着
今日は晴れの日

カターニャ近くから参加のグループが旗のパフォーマンス
中世の旗振り

狭い中世の通りだからベランダからよく見えます
ベランダから

インドから
グループ8

フランスから
グループ7

エジプトから
グループ5

中南米からの参加
グループ8
グループ6

韓国から※他にアジアからの参加は見当たらなかった
グループ4

地元グループが大騒ぎしながらやってくる
グループ2
案内してくれたガイドさん曰く「このグループで踊ってたんだよ、日本にも行って帝国ホテルに泊まったんだ二十年前」

この旧市街にはドイツからグランド・ツアーにやってきたゲーテも泊まっていた。その記念プレートがぼろぼろになった由緒ある建物に設置してある。
ゲーテ滞在記念プレート
今は朝食とベッドだけの簡易ホテルになっているそうだ。
ゲーテが滞在した館

祭り行列の最後には、シチリアらしい装飾された馬車の隊列。

馬車
馬車細部

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