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- ボローニャにある聖ドメニコの墓
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>ボローニャ
- テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/12/22 13:12
- コメント(0)
アッシジの聖フランチェスコとほぼ同じ時代を生きた聖ドメニコ。
元もと今のスペインで生まれた彼だが、1221年にボローニャで亡くなり、そこで葬られた。
旧市街にあるドメニコ・マジョーレ教会がその場所である。

入口には後の時代に描かれたドメニコの誕生にまつわる逸話が描かれている。

母親は、胎内のドメニコが白黒の犬が松明を加えて現れて闇を照らす夢を見た。彼が世界を照らす存在になるという予言である。
ドメニコ会の衣は今でも白と黒。
※このモザイク画の右下にはボローニャの斜塔が描かれている。
石棺は見事な彫刻で飾られている。

もともとは尖塔や独立した彫刻はなく、浮彫で飾られた石棺だけを、その時代最高のマエストロだったニコラ・ピサーノが制作した。
当初、石棺は現在の場所ではなく、堂のど真ん中に柱を立ててその上に安置されていた。かつてあった場所がこの×印によって記憶されている。

石棺以外の装飾が追加されたのは15世紀半ば、ルネサンスの彫刻家ニコロ・デラルカによる。

そして、若きミケランジェロもここにその足跡を残している。
なるほど天使でも筋肉隆々ですね。

この像は後の彼の代表作となるダビデを思い出させる。

ミケランジェロはそのスタートからすでにミケランジェロだったのだ。
石棺の上のクーポラには、ボローニャ出身の画家グイド・レーニ「聖ドメニコの昇天」がフレスコ画を描いている。

レーニ自身の墓もすぐ近くにある。

**
ドメニコ教会には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ(フェデリコ)二世に最も愛された息子エンツォの墓があった。それを記念したプレートがこれ。

二十代後半にボローニャに捕えられ、その後の二十年以上の年月をこの宮殿で軟禁されていた。

虜囚とはいえ王侯として遇され、市民は彼の詠じる詩に耳を傾け敬意をあらわした。ここは現在でも「エンツォ宮殿」と呼ばれているのである。
元もと今のスペインで生まれた彼だが、1221年にボローニャで亡くなり、そこで葬られた。
旧市街にあるドメニコ・マジョーレ教会がその場所である。

入口には後の時代に描かれたドメニコの誕生にまつわる逸話が描かれている。

母親は、胎内のドメニコが白黒の犬が松明を加えて現れて闇を照らす夢を見た。彼が世界を照らす存在になるという予言である。
ドメニコ会の衣は今でも白と黒。
※このモザイク画の右下にはボローニャの斜塔が描かれている。
石棺は見事な彫刻で飾られている。

もともとは尖塔や独立した彫刻はなく、浮彫で飾られた石棺だけを、その時代最高のマエストロだったニコラ・ピサーノが制作した。
当初、石棺は現在の場所ではなく、堂のど真ん中に柱を立ててその上に安置されていた。かつてあった場所がこの×印によって記憶されている。

石棺以外の装飾が追加されたのは15世紀半ば、ルネサンスの彫刻家ニコロ・デラルカによる。

そして、若きミケランジェロもここにその足跡を残している。
なるほど天使でも筋肉隆々ですね。

この像は後の彼の代表作となるダビデを思い出させる。

ミケランジェロはそのスタートからすでにミケランジェロだったのだ。
石棺の上のクーポラには、ボローニャ出身の画家グイド・レーニ「聖ドメニコの昇天」がフレスコ画を描いている。

レーニ自身の墓もすぐ近くにある。

**
ドメニコ教会には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ(フェデリコ)二世に最も愛された息子エンツォの墓があった。それを記念したプレートがこれ。

二十代後半にボローニャに捕えられ、その後の二十年以上の年月をこの宮殿で軟禁されていた。

虜囚とはいえ王侯として遇され、市民は彼の詠じる詩に耳を傾け敬意をあらわした。ここは現在でも「エンツォ宮殿」と呼ばれているのである。

- プーリアで昔のオリーブオイル製造場を訪れる
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>イタリアその他の都市
- テーマ:グルメ 歴史・文化・芸術 自然・植物
- 投稿日:2013/11/22 09:42
- コメント(0)
南イタリア、プーリア地方の白い街のひとつオストゥーニ

イタリアで生産されるオリーブの六割を生産するこのエリアには六千万本のオリーブがあるという
その中の約十パーセントが保護指定された古木で、こんな認識票がつけられている。

ムクドリの群れが鷹に追われている?

今日利用している二十人乗りのバスでもバックできないような道なので、オリーブ畑の中を歩いていく。11月半ばでも、今日の様に晴れた日なら、むしろ酷暑の夏より気持ち良いです。

かつてのお館でしょうか

パーン!と銃声が何度も聞こえた後、笑顔で狩人が二人

腰にはさっきのムクドリがたくさんぶらさげられてる。「おいしいんだよ」と、ほんと?
突然入口があった
持ち主のアントニェッタさんが待っていてくれた。連絡しておかないと通常はオープンしていない。
この場所はゴミ溜めになっていたのだが、アントニェッタさんのご主人が整備して昔の様子を見学できるまでに整備した。

樽を転がすための木の道がつけられている。
天井には機械を使った後の穴

洞窟をオリーブ絞りの場所にした一つの理由がこれ。
圧力をしっかりかけられるように天井を利用したのである。
収穫したオリーブは最初にこの石臼で砕かれる

「こんな風に動物がやってたのよ」とアントニェッタさんが実演

ここにも同じ機械があったにちがいない

たくさんオリーブの実がちらばっていたので穴から見上げると
まさに収穫期のオリーブの木が見下ろしていた。
砕かれたオリーブの実はこんな布の入れ物に入れてしぼり機にかけられる。

砕いただけでもオイルは出てくる。それをこの鉄製の道具ですくった。

以前、別のオリーブ製造所で、しぼらなくても出てくるオイルを「ラ・クリマ(涙)」と呼ぶのだと教えてもらったことがある。
しぼり機はこれ

オリーブの収穫期は11月から2月ごろまで続くので、そのあいだここに寝泊まりする労働者の場所

いったい何年前までここを使っていたのだろう。いったいいつから使っていのだろう?こういった場所はきっとたくさんあったに違いない。
さて、当然味わってみたいじゃないですか(^^)

オリーブのペーストをつけたのも、ドライ・トマトもおいしかったけれど、やっぱりそのものをたっぷりつけただけのシンプルなラスクがいちばんでした。
DOP=Denominazione di Origine Protetta (イタリアの原産地呼称保護制度)を冠しております

イタリアで生産されるオリーブの六割を生産するこのエリアには六千万本のオリーブがあるという
その中の約十パーセントが保護指定された古木で、こんな認識票がつけられている。
ムクドリの群れが鷹に追われている?

今日利用している二十人乗りのバスでもバックできないような道なので、オリーブ畑の中を歩いていく。11月半ばでも、今日の様に晴れた日なら、むしろ酷暑の夏より気持ち良いです。

かつてのお館でしょうか

パーン!と銃声が何度も聞こえた後、笑顔で狩人が二人

腰にはさっきのムクドリがたくさんぶらさげられてる。「おいしいんだよ」と、ほんと?
突然入口があった
持ち主のアントニェッタさんが待っていてくれた。連絡しておかないと通常はオープンしていない。この場所はゴミ溜めになっていたのだが、アントニェッタさんのご主人が整備して昔の様子を見学できるまでに整備した。

樽を転がすための木の道がつけられている。
天井には機械を使った後の穴

洞窟をオリーブ絞りの場所にした一つの理由がこれ。
圧力をしっかりかけられるように天井を利用したのである。
収穫したオリーブは最初にこの石臼で砕かれる

「こんな風に動物がやってたのよ」とアントニェッタさんが実演

ここにも同じ機械があったにちがいない

たくさんオリーブの実がちらばっていたので穴から見上げると
まさに収穫期のオリーブの木が見下ろしていた。砕かれたオリーブの実はこんな布の入れ物に入れてしぼり機にかけられる。

砕いただけでもオイルは出てくる。それをこの鉄製の道具ですくった。

以前、別のオリーブ製造所で、しぼらなくても出てくるオイルを「ラ・クリマ(涙)」と呼ぶのだと教えてもらったことがある。
しぼり機はこれ

オリーブの収穫期は11月から2月ごろまで続くので、そのあいだここに寝泊まりする労働者の場所

いったい何年前までここを使っていたのだろう。いったいいつから使っていのだろう?こういった場所はきっとたくさんあったに違いない。
さて、当然味わってみたいじゃないですか(^^)

オリーブのペーストをつけたのも、ドライ・トマトもおいしかったけれど、やっぱりそのものをたっぷりつけただけのシンプルなラスクがいちばんでした。
DOP=Denominazione di Origine Protetta (イタリアの原産地呼称保護制度)を冠しております

- ラヴェンナに残るテオドリクス王の痕跡
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>ラヴェンナ
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/11/05 15:15
- コメント(0)
西ローマ帝国を滅亡させた傭兵隊長オドアケルを討って、ラヴェンナを首都とした東ゴート王国の王になったテオドリクスの墓は今でもラヴェンナに残っている。
六世紀、未だ古代の雰囲気を感じさせる、どこかアジアのマウソレウムのような重量感ある石造り。
今は周囲になにもないが…
ずっとこんな風に残されていたのではなく、19世紀までは修道院と教会施設の只中であった。
シンプルな内部も教会だった当時はフレスコ画などで飾られていた。注意して見ればその痕跡も見える。現在の姿は教会だった頃の外観をすべてはぎ取って、出来るだけ造られた当初に近づけた結果なのだ。

重量感ある冠石は、テオドリクスの王国の一部だったイストリア(スロヴェニアからクロアチアにまたがるアドリア海北東奥の半島)から運ばれた一枚石。設置する時のものだろうと推察されるヒビもしっかり見える。

一階部分には何もなく
二階にもこの赤い棺とおぼしき石が置かれているだけ
十字架型に開けられた窓はオリジナルだが、横に追加された窓はあとからだそうだ。
ここに置かれた「棺」が、テオドリクスのものであるかどうかも分かっていない。教会だった当時から果たしてここにあったものかも定かではない。19世紀的歴史復元によって、ここに持ち込まれたものであるかもしれない、と、ラヴェンナ在住のイタリア人ガイドさんのお話でした。
**テオドリクス廟は忙しいツアーではほとんど訪れないが、ラヴェンナの世界遺産指定物のひとつになっていて、イタリアでもここでしか見られない類の遺跡である。
★テオドリクスという人物はゴート族の王子であったが、八歳で「人質」として東ローマの首都・コンスタンチノープルに送られた。「人質」という名目ではあっても自由はあり、しっかり教育されて育つ。ローマ帝国のシンパを育てる為によく使われた方法である。
十六歳頃に帰国を許され、やがて父王が亡くなった後、部族王国の長として即位し、東ローマ皇帝からはコンスル(執政官)にも任じられた。西暦489年には簒奪者オドアケルを破り、ラヴェンナに入ったのだった。
ラヴェンナは初代皇帝アウグストスによって立派な軍港となっていたが(クラッセと呼ばれる)、テオドリクスはその少し北に新たな港も整備し、もともと先住部族が暮らしていた地区に自らの宮殿と教会を建設した。
その教会が現在も残っているサンタ・アポリナーレ・ヌオーヴォである。

塔は9世紀頃後から付け加えられたものだし、入口ポータルも、床も、内陣もオリジナルではないが、内部にの柱の上に残るモザイクはベースは6世紀からのものである。

ビザンチンらしく金をふんだんに用いた装飾。この図柄では左に船が描かれ、クラッセ港と近くの城壁に囲まれた建物群だと分かる。

港の向かい側の壁

テオドリクスの宮殿が「PLATIVM」として描かれていて、その下にはテオドリクス本人の姿があった思われるのだが…今は黄金のモザイクべったりに変えられてしまっている。
この図像修正は、テオドリクスが没した後の西暦540年以降。東ゴート内のめまぐるしい権力闘争を終わらせるべくユスティニアヌス帝のコンスタンチノープルからベリサリウス将軍が征服してから行われた。
理由は、テオドリクスは異端キリスト教とされたアリウス派を信仰していたから。我々にはなかなか理解できないが、コンスタンチノープルで主流だったネオニアーニ(正統派・三位一体を信奉する現カトリック)にとっては、容認したくない装飾の部分を変更した。
行列していた聖人たちの先頭は、アリウス派を攻撃したマルティヌスに変更。教会の名前もマルティヌス教会されていた。たしかにモザイクの切れ目が分かる。四人目の一人だけ金の衣を着たラウレンティウスも同様の改変かもしれない。
先ほどのテオドリクスの宮殿の横にも別の人物が描かれていたのは確実である。柱のところに、その人物の手だけが残っているのが見える。

***
これだけを見ると、アリウス派のテオドリクスの時代にはカトリックを排除していたのかと思ってしまうが、もうひとつ残されたアリウス派の遺構である小さな洗礼堂のモザイクはカトリック的である。

地面が一段下がっているが、この階段も大事な保存物だから「ハイヒールはダメ」などと書かれた注意書きがあった。
なにげない外見で、内部もそっけないとおもいきや…
内部見上げると…

アポリナーレ・ヌオーヴォで見たのと同じ聖人の行列の真ん中に、ヨルダン川で洗礼を受けるキリストが描かれている。
左側の老人はヨルダン川を表す。天から精霊のハトが降りてきて、これはカトリック的三位一体?アリウス派の時代はもしかして違うデザインだったのだろうか?
この洗礼堂のすぐ近くには、その名もサン・スピリト(精霊)と名付けられた教会があるが、元はアリウス派の大聖堂だったそうだ。

ラヴェンナには世界遺産指定された場所が全部で七つあるが、これら三箇所はすべてそのひとつに数えられている。
六世紀、未だ古代の雰囲気を感じさせる、どこかアジアのマウソレウムのような重量感ある石造り。今は周囲になにもないが…
ずっとこんな風に残されていたのではなく、19世紀までは修道院と教会施設の只中であった。シンプルな内部も教会だった当時はフレスコ画などで飾られていた。注意して見ればその痕跡も見える。現在の姿は教会だった頃の外観をすべてはぎ取って、出来るだけ造られた当初に近づけた結果なのだ。

重量感ある冠石は、テオドリクスの王国の一部だったイストリア(スロヴェニアからクロアチアにまたがるアドリア海北東奥の半島)から運ばれた一枚石。設置する時のものだろうと推察されるヒビもしっかり見える。

一階部分には何もなく
二階にもこの赤い棺とおぼしき石が置かれているだけ
十字架型に開けられた窓はオリジナルだが、横に追加された窓はあとからだそうだ。ここに置かれた「棺」が、テオドリクスのものであるかどうかも分かっていない。教会だった当時から果たしてここにあったものかも定かではない。19世紀的歴史復元によって、ここに持ち込まれたものであるかもしれない、と、ラヴェンナ在住のイタリア人ガイドさんのお話でした。
**テオドリクス廟は忙しいツアーではほとんど訪れないが、ラヴェンナの世界遺産指定物のひとつになっていて、イタリアでもここでしか見られない類の遺跡である。
★テオドリクスという人物はゴート族の王子であったが、八歳で「人質」として東ローマの首都・コンスタンチノープルに送られた。「人質」という名目ではあっても自由はあり、しっかり教育されて育つ。ローマ帝国のシンパを育てる為によく使われた方法である。
十六歳頃に帰国を許され、やがて父王が亡くなった後、部族王国の長として即位し、東ローマ皇帝からはコンスル(執政官)にも任じられた。西暦489年には簒奪者オドアケルを破り、ラヴェンナに入ったのだった。
ラヴェンナは初代皇帝アウグストスによって立派な軍港となっていたが(クラッセと呼ばれる)、テオドリクスはその少し北に新たな港も整備し、もともと先住部族が暮らしていた地区に自らの宮殿と教会を建設した。
その教会が現在も残っているサンタ・アポリナーレ・ヌオーヴォである。

塔は9世紀頃後から付け加えられたものだし、入口ポータルも、床も、内陣もオリジナルではないが、内部にの柱の上に残るモザイクはベースは6世紀からのものである。

ビザンチンらしく金をふんだんに用いた装飾。この図柄では左に船が描かれ、クラッセ港と近くの城壁に囲まれた建物群だと分かる。

港の向かい側の壁

テオドリクスの宮殿が「PLATIVM」として描かれていて、その下にはテオドリクス本人の姿があった思われるのだが…今は黄金のモザイクべったりに変えられてしまっている。
この図像修正は、テオドリクスが没した後の西暦540年以降。東ゴート内のめまぐるしい権力闘争を終わらせるべくユスティニアヌス帝のコンスタンチノープルからベリサリウス将軍が征服してから行われた。
理由は、テオドリクスは異端キリスト教とされたアリウス派を信仰していたから。我々にはなかなか理解できないが、コンスタンチノープルで主流だったネオニアーニ(正統派・三位一体を信奉する現カトリック)にとっては、容認したくない装飾の部分を変更した。
行列していた聖人たちの先頭は、アリウス派を攻撃したマルティヌスに変更。教会の名前もマルティヌス教会されていた。たしかにモザイクの切れ目が分かる。四人目の一人だけ金の衣を着たラウレンティウスも同様の改変かもしれない。先ほどのテオドリクスの宮殿の横にも別の人物が描かれていたのは確実である。柱のところに、その人物の手だけが残っているのが見える。

***
これだけを見ると、アリウス派のテオドリクスの時代にはカトリックを排除していたのかと思ってしまうが、もうひとつ残されたアリウス派の遺構である小さな洗礼堂のモザイクはカトリック的である。

地面が一段下がっているが、この階段も大事な保存物だから「ハイヒールはダメ」などと書かれた注意書きがあった。
なにげない外見で、内部もそっけないとおもいきや…
内部見上げると…
アポリナーレ・ヌオーヴォで見たのと同じ聖人の行列の真ん中に、ヨルダン川で洗礼を受けるキリストが描かれている。
左側の老人はヨルダン川を表す。天から精霊のハトが降りてきて、これはカトリック的三位一体?アリウス派の時代はもしかして違うデザインだったのだろうか?
この洗礼堂のすぐ近くには、その名もサン・スピリト(精霊)と名付けられた教会があるが、元はアリウス派の大聖堂だったそうだ。

ラヴェンナには世界遺産指定された場所が全部で七つあるが、これら三箇所はすべてそのひとつに数えられている。

- 古代、あこがれの女性像
-
エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>ナポリ
- 中近東>トルコ>イスタンブール
- テーマ:観光地 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/05/23 09:53
- コメント(0)
イスタンブルの考古学博物館にある巨大な女性の頭部。顔だけだが一メートル近くある。

以前読んでいた博物館図録説明では「女神像頭部」となっていたが、2013年4月に訪れてみると、「サッフォー」と、断定的に書かれていた。
確かにナポリ考古学博物館で見たフレスコ画と似ている。
●サッフォー(サッポーとも)は紀元前七世紀にレスボス島に生きた一般人。神様ではない。詩人で生きている時から名声を得ていたとされる女性。確認される記録では、政治的な発言から一時シチリアのシラクサへ亡命していた事がわかるそうだ。
紀元前七世紀の古代において、女神でもない女性が有名になり、像までつくられたとしたら、異例な事だ。
五百年以上後の古代ローマ時代になっても、サッフォーの名前は記憶され続け、紀元後一世紀の遺跡から、有名なこのフレスコ画が発見された。

ペンを片手に美しくこちらを見ている姿は、当時の女性のあこがれだったようで、同じようなスタイルで自分自身を描かせたフレスコ画がいくつも見つかる。これらはナポリ考古学博物館所蔵
有名なポンペイの商家の夫妻図

忘れてならないのは、この時代、「文字が書ける」ということは、それだけで誇れたという事。ましてや女性で読み書きが出来、詩まで創作するというのは、あこがれの的だったに違いない。
この絵を描かせた彼女は、意識してこのポーズを描かせたのである。
他にも、同様のポーズをとった女性像がある。

現代においても、才色兼備でありたいと、女性達は思うのありましょう。
サッフォーが女性同士の愛=レズビアン(レスボス島出身)の語源となった人物であったとしても。

以前読んでいた博物館図録説明では「女神像頭部」となっていたが、2013年4月に訪れてみると、「サッフォー」と、断定的に書かれていた。
確かにナポリ考古学博物館で見たフレスコ画と似ている。
●サッフォー(サッポーとも)は紀元前七世紀にレスボス島に生きた一般人。神様ではない。詩人で生きている時から名声を得ていたとされる女性。確認される記録では、政治的な発言から一時シチリアのシラクサへ亡命していた事がわかるそうだ。
紀元前七世紀の古代において、女神でもない女性が有名になり、像までつくられたとしたら、異例な事だ。
五百年以上後の古代ローマ時代になっても、サッフォーの名前は記憶され続け、紀元後一世紀の遺跡から、有名なこのフレスコ画が発見された。

ペンを片手に美しくこちらを見ている姿は、当時の女性のあこがれだったようで、同じようなスタイルで自分自身を描かせたフレスコ画がいくつも見つかる。これらはナポリ考古学博物館所蔵
有名なポンペイの商家の夫妻図

忘れてならないのは、この時代、「文字が書ける」ということは、それだけで誇れたという事。ましてや女性で読み書きが出来、詩まで創作するというのは、あこがれの的だったに違いない。
この絵を描かせた彼女は、意識してこのポーズを描かせたのである。
他にも、同様のポーズをとった女性像がある。

現代においても、才色兼備でありたいと、女性達は思うのありましょう。
サッフォーが女性同士の愛=レズビアン(レスボス島出身)の語源となった人物であったとしても。

- アグリジェントのアーモンド祭
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>アグリジェント
- テーマ:観光地 お祭り・イベント
- 投稿日:2013/02/13 00:44
- コメント(0)
二月の第二週、シチリアの南岸アグリジェントではすでにアーモンドの花が盛りだった。アーモンド祭りは今年で68回を迎える。

同時に「国際フォークロア・フェスティバル」は58回目。
今日は旧市街でパレードが開催され、世界中からのパフォーマンスが見られた。
まずは露払いの軍楽隊

地元の一番手のグループ

「アグリジェントには四つもフォークロア・グループがあるんだ」と、地元ガイドさん。このグループは太鼓の皮に描かれた聖カロージェロの名前が冠されている。

十字軍兵士登場!
サービス精神旺盛(笑)


次の地元のグループは中世風の装い

みぃんなおしゃれして晴れ着

カターニャ近くから参加のグループが旗のパフォーマンス

狭い中世の通りだからベランダからよく見えます

インドから

フランスから

エジプトから

中南米からの参加


韓国から※他にアジアからの参加は見当たらなかった

地元グループが大騒ぎしながらやってくる

案内してくれたガイドさん曰く「このグループで踊ってたんだよ、日本にも行って帝国ホテルに泊まったんだ二十年前」
この旧市街にはドイツからグランド・ツアーにやってきたゲーテも泊まっていた。その記念プレートがぼろぼろになった由緒ある建物に設置してある。

今は朝食とベッドだけの簡易ホテルになっているそうだ。

祭り行列の最後には、シチリアらしい装飾された馬車の隊列。


同時に「国際フォークロア・フェスティバル」は58回目。
今日は旧市街でパレードが開催され、世界中からのパフォーマンスが見られた。
まずは露払いの軍楽隊

地元の一番手のグループ

「アグリジェントには四つもフォークロア・グループがあるんだ」と、地元ガイドさん。このグループは太鼓の皮に描かれた聖カロージェロの名前が冠されている。

十字軍兵士登場!
サービス精神旺盛(笑)


次の地元のグループは中世風の装い

みぃんなおしゃれして晴れ着

カターニャ近くから参加のグループが旗のパフォーマンス

狭い中世の通りだからベランダからよく見えます

インドから

フランスから

エジプトから

中南米からの参加


韓国から※他にアジアからの参加は見当たらなかった

地元グループが大騒ぎしながらやってくる

案内してくれたガイドさん曰く「このグループで踊ってたんだよ、日本にも行って帝国ホテルに泊まったんだ二十年前」
この旧市街にはドイツからグランド・ツアーにやってきたゲーテも泊まっていた。その記念プレートがぼろぼろになった由緒ある建物に設置してある。

今は朝食とベッドだけの簡易ホテルになっているそうだ。

祭り行列の最後には、シチリアらしい装飾された馬車の隊列。

6 - 10件目まで(22件中)


