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- プーリアで昔のオリーブオイル製造場を訪れる
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>イタリアその他の都市
- テーマ:グルメ 歴史・文化・芸術 自然・植物
- 投稿日:2013/11/22 09:42
- コメント(0)
南イタリア、プーリア地方の白い街のひとつオストゥーニ

イタリアで生産されるオリーブの六割を生産するこのエリアには六千万本のオリーブがあるという
その中の約十パーセントが保護指定された古木で、こんな認識票がつけられている。

ムクドリの群れが鷹に追われている?

今日利用している二十人乗りのバスでもバックできないような道なので、オリーブ畑の中を歩いていく。11月半ばでも、今日の様に晴れた日なら、むしろ酷暑の夏より気持ち良いです。

かつてのお館でしょうか

パーン!と銃声が何度も聞こえた後、笑顔で狩人が二人

腰にはさっきのムクドリがたくさんぶらさげられてる。「おいしいんだよ」と、ほんと?
突然入口があった
持ち主のアントニェッタさんが待っていてくれた。連絡しておかないと通常はオープンしていない。
この場所はゴミ溜めになっていたのだが、アントニェッタさんのご主人が整備して昔の様子を見学できるまでに整備した。

樽を転がすための木の道がつけられている。
天井には機械を使った後の穴

洞窟をオリーブ絞りの場所にした一つの理由がこれ。
圧力をしっかりかけられるように天井を利用したのである。
収穫したオリーブは最初にこの石臼で砕かれる

「こんな風に動物がやってたのよ」とアントニェッタさんが実演

ここにも同じ機械があったにちがいない

たくさんオリーブの実がちらばっていたので穴から見上げると
まさに収穫期のオリーブの木が見下ろしていた。
砕かれたオリーブの実はこんな布の入れ物に入れてしぼり機にかけられる。

砕いただけでもオイルは出てくる。それをこの鉄製の道具ですくった。

以前、別のオリーブ製造所で、しぼらなくても出てくるオイルを「ラ・クリマ(涙)」と呼ぶのだと教えてもらったことがある。
しぼり機はこれ

オリーブの収穫期は11月から2月ごろまで続くので、そのあいだここに寝泊まりする労働者の場所

いったい何年前までここを使っていたのだろう。いったいいつから使っていのだろう?こういった場所はきっとたくさんあったに違いない。
さて、当然味わってみたいじゃないですか(^^)

オリーブのペーストをつけたのも、ドライ・トマトもおいしかったけれど、やっぱりそのものをたっぷりつけただけのシンプルなラスクがいちばんでした。
DOP=Denominazione di Origine Protetta (イタリアの原産地呼称保護制度)を冠しております

イタリアで生産されるオリーブの六割を生産するこのエリアには六千万本のオリーブがあるという
その中の約十パーセントが保護指定された古木で、こんな認識票がつけられている。
ムクドリの群れが鷹に追われている?

今日利用している二十人乗りのバスでもバックできないような道なので、オリーブ畑の中を歩いていく。11月半ばでも、今日の様に晴れた日なら、むしろ酷暑の夏より気持ち良いです。

かつてのお館でしょうか

パーン!と銃声が何度も聞こえた後、笑顔で狩人が二人

腰にはさっきのムクドリがたくさんぶらさげられてる。「おいしいんだよ」と、ほんと?
突然入口があった
持ち主のアントニェッタさんが待っていてくれた。連絡しておかないと通常はオープンしていない。この場所はゴミ溜めになっていたのだが、アントニェッタさんのご主人が整備して昔の様子を見学できるまでに整備した。

樽を転がすための木の道がつけられている。
天井には機械を使った後の穴

洞窟をオリーブ絞りの場所にした一つの理由がこれ。
圧力をしっかりかけられるように天井を利用したのである。
収穫したオリーブは最初にこの石臼で砕かれる

「こんな風に動物がやってたのよ」とアントニェッタさんが実演

ここにも同じ機械があったにちがいない

たくさんオリーブの実がちらばっていたので穴から見上げると
まさに収穫期のオリーブの木が見下ろしていた。砕かれたオリーブの実はこんな布の入れ物に入れてしぼり機にかけられる。

砕いただけでもオイルは出てくる。それをこの鉄製の道具ですくった。

以前、別のオリーブ製造所で、しぼらなくても出てくるオイルを「ラ・クリマ(涙)」と呼ぶのだと教えてもらったことがある。
しぼり機はこれ

オリーブの収穫期は11月から2月ごろまで続くので、そのあいだここに寝泊まりする労働者の場所

いったい何年前までここを使っていたのだろう。いったいいつから使っていのだろう?こういった場所はきっとたくさんあったに違いない。
さて、当然味わってみたいじゃないですか(^^)

オリーブのペーストをつけたのも、ドライ・トマトもおいしかったけれど、やっぱりそのものをたっぷりつけただけのシンプルなラスクがいちばんでした。
DOP=Denominazione di Origine Protetta (イタリアの原産地呼称保護制度)を冠しております

- ラヴェンナに残るテオドリクス王の痕跡
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>ラヴェンナ
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/11/05 15:15
- コメント(0)
西ローマ帝国を滅亡させた傭兵隊長オドアケルを討って、ラヴェンナを首都とした東ゴート王国の王になったテオドリクスの墓は今でもラヴェンナに残っている。
六世紀、未だ古代の雰囲気を感じさせる、どこかアジアのマウソレウムのような重量感ある石造り。
今は周囲になにもないが…
ずっとこんな風に残されていたのではなく、19世紀までは修道院と教会施設の只中であった。
シンプルな内部も教会だった当時はフレスコ画などで飾られていた。注意して見ればその痕跡も見える。現在の姿は教会だった頃の外観をすべてはぎ取って、出来るだけ造られた当初に近づけた結果なのだ。

重量感ある冠石は、テオドリクスの王国の一部だったイストリア(スロヴェニアからクロアチアにまたがるアドリア海北東奥の半島)から運ばれた一枚石。設置する時のものだろうと推察されるヒビもしっかり見える。

一階部分には何もなく
二階にもこの赤い棺とおぼしき石が置かれているだけ
十字架型に開けられた窓はオリジナルだが、横に追加された窓はあとからだそうだ。
ここに置かれた「棺」が、テオドリクスのものであるかどうかも分かっていない。教会だった当時から果たしてここにあったものかも定かではない。19世紀的歴史復元によって、ここに持ち込まれたものであるかもしれない、と、ラヴェンナ在住のイタリア人ガイドさんのお話でした。
**テオドリクス廟は忙しいツアーではほとんど訪れないが、ラヴェンナの世界遺産指定物のひとつになっていて、イタリアでもここでしか見られない類の遺跡である。
★テオドリクスという人物はゴート族の王子であったが、八歳で「人質」として東ローマの首都・コンスタンチノープルに送られた。「人質」という名目ではあっても自由はあり、しっかり教育されて育つ。ローマ帝国のシンパを育てる為によく使われた方法である。
十六歳頃に帰国を許され、やがて父王が亡くなった後、部族王国の長として即位し、東ローマ皇帝からはコンスル(執政官)にも任じられた。西暦489年には簒奪者オドアケルを破り、ラヴェンナに入ったのだった。
ラヴェンナは初代皇帝アウグストスによって立派な軍港となっていたが(クラッセと呼ばれる)、テオドリクスはその少し北に新たな港も整備し、もともと先住部族が暮らしていた地区に自らの宮殿と教会を建設した。
その教会が現在も残っているサンタ・アポリナーレ・ヌオーヴォである。

塔は9世紀頃後から付け加えられたものだし、入口ポータルも、床も、内陣もオリジナルではないが、内部にの柱の上に残るモザイクはベースは6世紀からのものである。

ビザンチンらしく金をふんだんに用いた装飾。この図柄では左に船が描かれ、クラッセ港と近くの城壁に囲まれた建物群だと分かる。

港の向かい側の壁

テオドリクスの宮殿が「PLATIVM」として描かれていて、その下にはテオドリクス本人の姿があった思われるのだが…今は黄金のモザイクべったりに変えられてしまっている。
この図像修正は、テオドリクスが没した後の西暦540年以降。東ゴート内のめまぐるしい権力闘争を終わらせるべくユスティニアヌス帝のコンスタンチノープルからベリサリウス将軍が征服してから行われた。
理由は、テオドリクスは異端キリスト教とされたアリウス派を信仰していたから。我々にはなかなか理解できないが、コンスタンチノープルで主流だったネオニアーニ(正統派・三位一体を信奉する現カトリック)にとっては、容認したくない装飾の部分を変更した。
行列していた聖人たちの先頭は、アリウス派を攻撃したマルティヌスに変更。教会の名前もマルティヌス教会されていた。たしかにモザイクの切れ目が分かる。四人目の一人だけ金の衣を着たラウレンティウスも同様の改変かもしれない。
先ほどのテオドリクスの宮殿の横にも別の人物が描かれていたのは確実である。柱のところに、その人物の手だけが残っているのが見える。

***
これだけを見ると、アリウス派のテオドリクスの時代にはカトリックを排除していたのかと思ってしまうが、もうひとつ残されたアリウス派の遺構である小さな洗礼堂のモザイクはカトリック的である。

地面が一段下がっているが、この階段も大事な保存物だから「ハイヒールはダメ」などと書かれた注意書きがあった。
なにげない外見で、内部もそっけないとおもいきや…
内部見上げると…

アポリナーレ・ヌオーヴォで見たのと同じ聖人の行列の真ん中に、ヨルダン川で洗礼を受けるキリストが描かれている。
左側の老人はヨルダン川を表す。天から精霊のハトが降りてきて、これはカトリック的三位一体?アリウス派の時代はもしかして違うデザインだったのだろうか?
この洗礼堂のすぐ近くには、その名もサン・スピリト(精霊)と名付けられた教会があるが、元はアリウス派の大聖堂だったそうだ。

ラヴェンナには世界遺産指定された場所が全部で七つあるが、これら三箇所はすべてそのひとつに数えられている。
六世紀、未だ古代の雰囲気を感じさせる、どこかアジアのマウソレウムのような重量感ある石造り。今は周囲になにもないが…
ずっとこんな風に残されていたのではなく、19世紀までは修道院と教会施設の只中であった。シンプルな内部も教会だった当時はフレスコ画などで飾られていた。注意して見ればその痕跡も見える。現在の姿は教会だった頃の外観をすべてはぎ取って、出来るだけ造られた当初に近づけた結果なのだ。

重量感ある冠石は、テオドリクスの王国の一部だったイストリア(スロヴェニアからクロアチアにまたがるアドリア海北東奥の半島)から運ばれた一枚石。設置する時のものだろうと推察されるヒビもしっかり見える。

一階部分には何もなく
二階にもこの赤い棺とおぼしき石が置かれているだけ
十字架型に開けられた窓はオリジナルだが、横に追加された窓はあとからだそうだ。ここに置かれた「棺」が、テオドリクスのものであるかどうかも分かっていない。教会だった当時から果たしてここにあったものかも定かではない。19世紀的歴史復元によって、ここに持ち込まれたものであるかもしれない、と、ラヴェンナ在住のイタリア人ガイドさんのお話でした。
**テオドリクス廟は忙しいツアーではほとんど訪れないが、ラヴェンナの世界遺産指定物のひとつになっていて、イタリアでもここでしか見られない類の遺跡である。
★テオドリクスという人物はゴート族の王子であったが、八歳で「人質」として東ローマの首都・コンスタンチノープルに送られた。「人質」という名目ではあっても自由はあり、しっかり教育されて育つ。ローマ帝国のシンパを育てる為によく使われた方法である。
十六歳頃に帰国を許され、やがて父王が亡くなった後、部族王国の長として即位し、東ローマ皇帝からはコンスル(執政官)にも任じられた。西暦489年には簒奪者オドアケルを破り、ラヴェンナに入ったのだった。
ラヴェンナは初代皇帝アウグストスによって立派な軍港となっていたが(クラッセと呼ばれる)、テオドリクスはその少し北に新たな港も整備し、もともと先住部族が暮らしていた地区に自らの宮殿と教会を建設した。
その教会が現在も残っているサンタ・アポリナーレ・ヌオーヴォである。

塔は9世紀頃後から付け加えられたものだし、入口ポータルも、床も、内陣もオリジナルではないが、内部にの柱の上に残るモザイクはベースは6世紀からのものである。

ビザンチンらしく金をふんだんに用いた装飾。この図柄では左に船が描かれ、クラッセ港と近くの城壁に囲まれた建物群だと分かる。

港の向かい側の壁

テオドリクスの宮殿が「PLATIVM」として描かれていて、その下にはテオドリクス本人の姿があった思われるのだが…今は黄金のモザイクべったりに変えられてしまっている。
この図像修正は、テオドリクスが没した後の西暦540年以降。東ゴート内のめまぐるしい権力闘争を終わらせるべくユスティニアヌス帝のコンスタンチノープルからベリサリウス将軍が征服してから行われた。
理由は、テオドリクスは異端キリスト教とされたアリウス派を信仰していたから。我々にはなかなか理解できないが、コンスタンチノープルで主流だったネオニアーニ(正統派・三位一体を信奉する現カトリック)にとっては、容認したくない装飾の部分を変更した。
行列していた聖人たちの先頭は、アリウス派を攻撃したマルティヌスに変更。教会の名前もマルティヌス教会されていた。たしかにモザイクの切れ目が分かる。四人目の一人だけ金の衣を着たラウレンティウスも同様の改変かもしれない。先ほどのテオドリクスの宮殿の横にも別の人物が描かれていたのは確実である。柱のところに、その人物の手だけが残っているのが見える。

***
これだけを見ると、アリウス派のテオドリクスの時代にはカトリックを排除していたのかと思ってしまうが、もうひとつ残されたアリウス派の遺構である小さな洗礼堂のモザイクはカトリック的である。

地面が一段下がっているが、この階段も大事な保存物だから「ハイヒールはダメ」などと書かれた注意書きがあった。
なにげない外見で、内部もそっけないとおもいきや…
内部見上げると…
アポリナーレ・ヌオーヴォで見たのと同じ聖人の行列の真ん中に、ヨルダン川で洗礼を受けるキリストが描かれている。
左側の老人はヨルダン川を表す。天から精霊のハトが降りてきて、これはカトリック的三位一体?アリウス派の時代はもしかして違うデザインだったのだろうか?
この洗礼堂のすぐ近くには、その名もサン・スピリト(精霊)と名付けられた教会があるが、元はアリウス派の大聖堂だったそうだ。

ラヴェンナには世界遺産指定された場所が全部で七つあるが、これら三箇所はすべてそのひとつに数えられている。

- シャルトル大聖堂の地下ツアー
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エリア:
- ヨーロッパ>フランス>シャルトル
- テーマ:世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/11/02 08:31
- コメント(0)
シャルトル大聖堂の地下ツアーに参加するのはこれで確か四回目。しかし、案内する方が変われば見せるものも案内もけっこう違っているので、毎回新たな発見がある。
一日数回、決まった時間に集まってお金を払えば参加できる。ただし、案内はフランス語のみ。入口

階段をいくつか降りた、現在半地下の様になっているところが古い時代の聖堂の床だったそうだ。日本の時代にすると平安末期のロマネスクの礼拝堂と、その後増築されたゴシックの礼拝堂が交互に並んでいる。
そこからまた一段地下に降りると、太い長い柱が見えた
地上階の主祭壇の真下にあたる場所になり、この上に重い大理石像を設置するために補強されている。
かつて空間だったところも厚い壁にして埋め込んであったのだが、1901年に穴をあけて中を調査した

すると、10世紀以前カロリング朝に建設されたと思われる聖堂の階段部分が発見された。※写真で破られた壁の向こう遠く
火災に遭ったカロリング朝の聖堂は11世紀初めフュルベール司教によって再建・拡張された。その時代に建設された、巡礼たちを寝泊まりさせるための巨大な礼拝堂がこれ

今年の夏に訪れた時、中世の巡礼たちのようにロウソクだけを持って歩いた事を思い出す。
http://www.tour.ne.jp/blog/komatsusin/71765/
かつてあった中世の木彫聖母子を再現してある。

目をつぶった表現が珍しく、これはケルトの女神の像と共通する特徴だそうである。
奉納された当時の入れ物に入った「聖母マリアの衣」がこれ

聖堂地上階に公開されているものは、ここから切り離されたごく一部である。
10世紀頃と思われるフレスコ画が壁に描かれているが、これはもしかすると増築される以前の聖堂外壁かもしれない。そこに描かれている聖母子は、正面から描かれた動きのない構図で、ビザンチン絵画の特徴を持っている。

今日のガイドさんは「これは、ステンドグラスの『青い聖母』と似た構図を持っていますから、この絵をモデルにしているのかもしれません」と説明された。
びっくり。両方何度も見ていたが、はじめて認識した。そういう可能性は確かにある、と思えた。
※下に両者の写真をいれた日記を書きました。
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=20131018
この新しい木彫は1836年に起きた火事の様子を表している。この火事では木造の屋根が焼失し、ふきなおされた。
一日数回、決まった時間に集まってお金を払えば参加できる。ただし、案内はフランス語のみ。入口

階段をいくつか降りた、現在半地下の様になっているところが古い時代の聖堂の床だったそうだ。日本の時代にすると平安末期のロマネスクの礼拝堂と、その後増築されたゴシックの礼拝堂が交互に並んでいる。
そこからまた一段地下に降りると、太い長い柱が見えた
地上階の主祭壇の真下にあたる場所になり、この上に重い大理石像を設置するために補強されている。かつて空間だったところも厚い壁にして埋め込んであったのだが、1901年に穴をあけて中を調査した

すると、10世紀以前カロリング朝に建設されたと思われる聖堂の階段部分が発見された。※写真で破られた壁の向こう遠く
火災に遭ったカロリング朝の聖堂は11世紀初めフュルベール司教によって再建・拡張された。その時代に建設された、巡礼たちを寝泊まりさせるための巨大な礼拝堂がこれ

今年の夏に訪れた時、中世の巡礼たちのようにロウソクだけを持って歩いた事を思い出す。
http://www.tour.ne.jp/blog/komatsusin/71765/
かつてあった中世の木彫聖母子を再現してある。

目をつぶった表現が珍しく、これはケルトの女神の像と共通する特徴だそうである。
奉納された当時の入れ物に入った「聖母マリアの衣」がこれ

聖堂地上階に公開されているものは、ここから切り離されたごく一部である。
10世紀頃と思われるフレスコ画が壁に描かれているが、これはもしかすると増築される以前の聖堂外壁かもしれない。そこに描かれている聖母子は、正面から描かれた動きのない構図で、ビザンチン絵画の特徴を持っている。

今日のガイドさんは「これは、ステンドグラスの『青い聖母』と似た構図を持っていますから、この絵をモデルにしているのかもしれません」と説明された。
びっくり。両方何度も見ていたが、はじめて認識した。そういう可能性は確かにある、と思えた。
※下に両者の写真をいれた日記を書きました。
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=20131018
この新しい木彫は1836年に起きた火事の様子を表している。この火事では木造の屋根が焼失し、ふきなおされた。

- ゲディミナス城へ登ろう
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エリア:
- ヨーロッパ>リトアニア>ビリニュス
- テーマ:観光地 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/10/11 11:21
- コメント(0)
リトアニアの現首都ヴィリニュスの街は、この城からはじまった。小さなケーブルカーでちょっと上がるだけで視覚的にもそれがよく理解できる。

十月に入り、観光客はぐっと少なくなっているが、ちょうど紅葉真っ盛り。

この丘は14世紀はじめに人工的に建設されたものだ。下から見上げた時よりもさほど大きく感じられない。かつてはもっとたくさん建物があったのだろうが、再建されているのは一部である。

となりにもう一つ、三つの十字架のある丘が見える。※フランチェスコ派修道士殉教の地
こちらは自然の丘で、城の展示によれば、この城塞以前に木造の塀にかこまれた古い街があった。発掘もされている。
丘へ登るのとは別に入場料がかかるが、塔内部へ登っていくと

かつてのこの場所のモデルがある。
より古い時代のものを見ると、現在のカテドラルと同じ場所にはもっと小さな教会がある。今は独立している鐘楼は古い城壁の一部であったことが分かる。

現在の教会に建て替えられた後

この丘をふくめてぐるりと水路で囲まれたヴィリニュスのより古い時代・14世紀の旧市街がここまでであった事がわかる。

当時の最大の敵はエルサレムを追われてこちらへ転進した「ドイツ騎士団」であった。まだキリスト教化していなかったリトアニアを標的に攻めていた。この丘を建設したゲディミナス大公自身もはじめは自然崇拝宗教者であった。下の写真から、この時代の自然崇拝神殿の跡を白く区別できるようにしてある場所が判別できるだろうか。

ゲディミナスは「ドイツ騎士団」と和睦するために洗礼を受けキリスト教者になったが、騎士団は攻めるのを止めはしなかった。騎士が身に着けていた鎧は当時のリトアニア人を驚かせたらしく、彼らを「ヴォーケートス」と呼んだ。「ヴォー」は「とても」、「ケートス」は「キェトゥス」=「固い」、の意味である。

**
城塞の最上階に「人間の鎖」の展示があった。
当時のビデオも見せてくれる。
1989年にバルト三国の独立を求めてリトアニアの首都ヴィリニュスからエストニアの首都タリンまで人々が手をつないで平和的な示威行動をした事件である。

8月23日は、五十年前に独ソ不可侵条約が結ばれ、その秘密条項によってバルト三国がソ連のものとされた日である。
五百キロにもおよぶ距離を百万とも二百万ともいわれる人々が繋いだ。これは確かにユネスコの「世界記憶遺産」に登録される価値がある出来事である。
起点となったヴィリニュスの大聖堂前には、「STEBUKLAS」=リトアニア語で「奇跡」と記されたプレートがはめ込まれている。

このアイデアのもとになったと思われるのが、前年1988年にバルト海の環境を守ろうとアピールするために、バルト海を囲む「人間の鎖」企画だったと思われる。下記のHPの項目3にそのことが少し言及されている。
http://jp.mfa.lt/index.php?1431368471
***
この城塞訪問、眺めだけでない価値があった。下りは紅葉真っ盛りの中旧市街へ向かって歩いていこう。

十月に入り、観光客はぐっと少なくなっているが、ちょうど紅葉真っ盛り。

この丘は14世紀はじめに人工的に建設されたものだ。下から見上げた時よりもさほど大きく感じられない。かつてはもっとたくさん建物があったのだろうが、再建されているのは一部である。

となりにもう一つ、三つの十字架のある丘が見える。※フランチェスコ派修道士殉教の地
こちらは自然の丘で、城の展示によれば、この城塞以前に木造の塀にかこまれた古い街があった。発掘もされている。
丘へ登るのとは別に入場料がかかるが、塔内部へ登っていくと

かつてのこの場所のモデルがある。
より古い時代のものを見ると、現在のカテドラルと同じ場所にはもっと小さな教会がある。今は独立している鐘楼は古い城壁の一部であったことが分かる。

現在の教会に建て替えられた後

この丘をふくめてぐるりと水路で囲まれたヴィリニュスのより古い時代・14世紀の旧市街がここまでであった事がわかる。

当時の最大の敵はエルサレムを追われてこちらへ転進した「ドイツ騎士団」であった。まだキリスト教化していなかったリトアニアを標的に攻めていた。この丘を建設したゲディミナス大公自身もはじめは自然崇拝宗教者であった。下の写真から、この時代の自然崇拝神殿の跡を白く区別できるようにしてある場所が判別できるだろうか。

ゲディミナスは「ドイツ騎士団」と和睦するために洗礼を受けキリスト教者になったが、騎士団は攻めるのを止めはしなかった。騎士が身に着けていた鎧は当時のリトアニア人を驚かせたらしく、彼らを「ヴォーケートス」と呼んだ。「ヴォー」は「とても」、「ケートス」は「キェトゥス」=「固い」、の意味である。

**
城塞の最上階に「人間の鎖」の展示があった。
当時のビデオも見せてくれる。1989年にバルト三国の独立を求めてリトアニアの首都ヴィリニュスからエストニアの首都タリンまで人々が手をつないで平和的な示威行動をした事件である。

8月23日は、五十年前に独ソ不可侵条約が結ばれ、その秘密条項によってバルト三国がソ連のものとされた日である。
五百キロにもおよぶ距離を百万とも二百万ともいわれる人々が繋いだ。これは確かにユネスコの「世界記憶遺産」に登録される価値がある出来事である。
起点となったヴィリニュスの大聖堂前には、「STEBUKLAS」=リトアニア語で「奇跡」と記されたプレートがはめ込まれている。

このアイデアのもとになったと思われるのが、前年1988年にバルト海の環境を守ろうとアピールするために、バルト海を囲む「人間の鎖」企画だったと思われる。下記のHPの項目3にそのことが少し言及されている。
http://jp.mfa.lt/index.php?1431368471
***
この城塞訪問、眺めだけでない価値があった。下りは紅葉真っ盛りの中旧市街へ向かって歩いていこう。

- サンマリノ〜ドマニャーノの宝
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エリア:
- ヨーロッパ>サンマリノ共和国
- テーマ:観光地 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/09/26 08:13
- コメント(0)
サンマリノのど真ん中にある市立博物館をガイド説明付きで訪問。いつも前を通るだけだったけれど、けっこうおもしろいモノがある。いくつかご紹介いたします。
★ドマニャーノの宝
サンマリノ内の城塞地区・ドマニャーノから発見された五世紀末から六世紀はじめの装飾品。
埋葬地から発見され、同じデザインの一揃いが美しい。
西ローマ帝国滅亡直後、当時ラヴェンナを首都としたゴート族の王テオドリクスの時代のもので、その配下の高位の女性のものと推察されている。
金、ガーネット、緑色のガラス、真珠貝を使い、「クロワゾンネ」と呼ばれる七宝焼きの一方法で制作されている。
とても美しいが、上の写真のひとかけら以外はレプリカだった。
説明によると他の品々は、ロンドンの大英博物館、NYCのメトロポリタンに所蔵されているとのこと。よし、今回は最後にロンドンを訪れるから、そこで是非見つけよう!
大英博物館は所蔵していても常時公開していないモノも多いので心配したが、以前もすぐ前を通っていた場所にしっかり展示されていた。
これらが、それ。



1892年に発見され、1933年「購入」したと表示。
ロンドンでも全体の復元図があったが
当然ながらサンマリノでの展示の方が、愛情が感じられた。
サンマリノに本物を展示し、ロンドンにレプリカを贈るという方法はいかがでありましょう?(笑)遺跡からの発掘物は、基本的にはその場所に置かれる方がはるかに価値を理解させてくれるものだから。
★神域への奉納像

崖が集まってできたようなサンマリノの山腹に泉の湧き出す場所があり、そこが女神の神域になっていた。そこを発掘調査した時に出土した女神の小像である。
参拝者が奉納した小像は、岩の上に鉛で固定されていたそうだ。もしかしたら、これと似た本物の像が神殿内にあったのかもしれない。
★紋章石版
サンマリノの正門にあたるフランチェスコ門
この裏側にはめこまれた二つの紋章
だが、本物はここにあった

左右は現在同じように設置されているが、実は全く違う時期に制作されていた。
左の鷲は16世紀頃のもの。モンテフェルトロ家のシンボルで、サンマリノがウルビーノ公を支持する事をあらわす。近くのリミニを支配したマラテスタ家へ対抗していたのである。
右の三つの山の上の羽はサンマリノの国章。意外に新しく19世紀になってから出来たものだという。その証拠にリベルタ=「自由」と書かれた文字はラテン語ではなくイタリア語。字体もゴシック調の新しいデザイン。イタリアが統一した19世紀になってはじめてサンマリノは自国が共和国として独立することを自覚し、その自由を体現する紋章を決めたようである。
★ドマニャーノの宝
サンマリノ内の城塞地区・ドマニャーノから発見された五世紀末から六世紀はじめの装飾品。
埋葬地から発見され、同じデザインの一揃いが美しい。西ローマ帝国滅亡直後、当時ラヴェンナを首都としたゴート族の王テオドリクスの時代のもので、その配下の高位の女性のものと推察されている。
金、ガーネット、緑色のガラス、真珠貝を使い、「クロワゾンネ」と呼ばれる七宝焼きの一方法で制作されている。
とても美しいが、上の写真のひとかけら以外はレプリカだった。説明によると他の品々は、ロンドンの大英博物館、NYCのメトロポリタンに所蔵されているとのこと。よし、今回は最後にロンドンを訪れるから、そこで是非見つけよう!
大英博物館は所蔵していても常時公開していないモノも多いので心配したが、以前もすぐ前を通っていた場所にしっかり展示されていた。
これらが、それ。



1892年に発見され、1933年「購入」したと表示。
ロンドンでも全体の復元図があったが
当然ながらサンマリノでの展示の方が、愛情が感じられた。サンマリノに本物を展示し、ロンドンにレプリカを贈るという方法はいかがでありましょう?(笑)遺跡からの発掘物は、基本的にはその場所に置かれる方がはるかに価値を理解させてくれるものだから。
★神域への奉納像

崖が集まってできたようなサンマリノの山腹に泉の湧き出す場所があり、そこが女神の神域になっていた。そこを発掘調査した時に出土した女神の小像である。
参拝者が奉納した小像は、岩の上に鉛で固定されていたそうだ。もしかしたら、これと似た本物の像が神殿内にあったのかもしれない。
★紋章石版
サンマリノの正門にあたるフランチェスコ門
この裏側にはめこまれた二つの紋章
だが、本物はここにあった

左右は現在同じように設置されているが、実は全く違う時期に制作されていた。
左の鷲は16世紀頃のもの。モンテフェルトロ家のシンボルで、サンマリノがウルビーノ公を支持する事をあらわす。近くのリミニを支配したマラテスタ家へ対抗していたのである。
右の三つの山の上の羽はサンマリノの国章。意外に新しく19世紀になってから出来たものだという。その証拠にリベルタ=「自由」と書かれた文字はラテン語ではなくイタリア語。字体もゴシック調の新しいデザイン。イタリアが統一した19世紀になってはじめてサンマリノは自国が共和国として独立することを自覚し、その自由を体現する紋章を決めたようである。
16 - 20件目まで(63件中)


