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旅倶楽部「こま通信」

~旅するように生きていこう~

旅倶楽部「こま通信」
旅するように生きていこう!
プロフィール

ニックネーム:
こまつうしん
居住地:
埼玉県
性別:
男性
年代:
60代
会社名:
旅倶楽部 こま通信
会社英字名:
会社所在地:
埼玉県
業種:
旅行業
自己紹介:
旅倶楽部「こま通信」代表

これまで三千日以上を旅してきて、より良い旅の為に《手造の旅》をはじめました。メンバーからの要望によって、一生モノの旅をつくっていきます。

《手造の旅》のご希望がありましたらご連絡ください。
komatsusin2@gmail.com

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記事一覧

11 - 15件目まで(63件中)

ティジェッレ古い型の使い方
ティジェッレ、いただきます
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア
テーマ:グルメ 歴史・文化・芸術 
投稿日:2014/10/22 14:20
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イタリア中北部、モデナ大聖堂前。
青空の日曜日でにぎわう広場においしそうな出店が出ている。
ティジェッレ売り場
「ティジェッレ」という。この地方のおいしそうなハムを挟んで、ひとつ三ユーロ。
ティジェッレ、プロシュート

小松はラルドとパルメザンチーズにて。
ティジェッレ、ラルドとパルメザン
ラルドは豚の背中脂肪を塩漬け香草味付たもので、ただの脂肪とはちがっている。日本では敬遠されそうだが、味わいはこちらをお勧めします。

イタリア人のドライバーさんにティジェッレの話をしたら、「もともとは、食べ物そのものではなくて、それをつくる石の型の名前だったんだよ」と教えてくれた。翌日訪れたバルサミコ工場の一角に置いてあったのを教えてくれた。
ティジェッレの古い型
ああ、これで分かった。きのう食べた時紙ナプキンに書かれていた絵はこれだったんだ。
ティジェッレ古い型の使い方
現代では下の写真のような型でつくるようだが、もともとは焼いた石の間に小麦粉で練ったものを挟んで重ねて圧縮した、ということか。
ティジェッレの現代の型

このティジェッレ、同じようなものが町々にあって、違う名前で呼ばれていてるようだ。「ボローニャではクレシェンティーナというんだよ」との事だったが、これは形が月に似ているところからきているのかしらん。

小さな町にいろいろあるこういった、いわば「B級グルメ」も《手造の旅》小都市めぐりの楽しみです(^^)

サラベリーの記念硬貨
二つの祖国〜19世紀ケベックの場合
エリア:
  • 北米>カナダ
テーマ:その他 歴史・文化・芸術 
投稿日:2014/10/15 16:39
コメント(0)
偶然手元に来たカナダの記念コイン、「1812年」とカラーで強調された25セント。画かれていたサラベリーという人物について調べるうちに、ケベック人の複雑な心情が少し理解できた。
サラベリーの記念硬貨

「イギリスとの戦争に勝利したら、あなた方はまたフランス人にもどれるのですよ」
新興国アメリカは、このぐらいの事は言ったに違いない。

祖国フランスがイギリスに敗れ、カナダの地でイギリスに支配されていたケベックのフランス人には魅力的な提案だっただろう。

一方、イギリス側はケベックのフランス人に対して別の考え方で説得した。「アメリカに占領されたら、カトリック信仰と貴族制は破壊されるだろう。 我々イギリスはあなた方フランス人の権利を保障する法律を通し(1775年ケベック法を指す)すでにあなた方の第二の祖国である。それでもアメリカに味方するか?」と。

ケベックのフランス人社会では意見が分かれた。第一の祖国フランスでは革命がはじまり、貴族階級と教会がひどい破壊をうけている。いったい我々はどこへ向かえばよいのか。

1812年にアメリカはイギリス領カナダへの侵攻を開始、翌年、十月にはケベックの本拠であるモントリオールのすぐ南まで進軍してきた。

力で押してくるアメリカに、ケベックのフランス人は言葉の壁を越えてイギリスを支援することに決する。だが、もともと人口が少ないフレンチ・カナダにはまともな常備兵はなかった。

シャルル・ド・サラベリーはフランス貴族だがケベック生まれ。十四歳から軍歴をはじめ、この英米戦争がはじまった頃は三十代前半。彼は志願兵を募り、インディアンと連合して立ち向かう。
集められた兵力は二百人のモフォーク族インディアンを含めて千五百ほど。
アメリカ軍兵力は正規兵を中心に約四千。

数では圧倒的に不利だったが、ここを破られればモントリオールが危ないという、セントローレンス川を後ろにしたまさに背水の陣。

1813年10月26日、地形の利を周到に考えて待ち伏せたフレンチ・カナディアン部隊は、三倍近いアメリカ軍を撃退し、サラベリーは一躍英雄となった。


「コインも紅葉してる」と言って小松の手元にもってこられたその記念25セント硬貨は、カナダのシンボルであるメイプルの葉が赤くカラーになっている珍しいものだ。

紅葉を記念したわけではなく、歴史的な年号「1812」を目立たせるように赤く印刷されていた。
一緒に描かれた人物の横にはSALABERRYと刻まれている。フランス人か?

だが、ガイドさんにきいても、地元のドライバーさんにきいても、この人物が誰なのかちゃんと教えてくれる人には出会えなかった。

数日後、答えをくれたのはナイアガラにある19世紀当時のフォート・ジョージという砦を再現した場所にいたイギリス兵(の格好をした)案内役の人。
フォート・ジョージのイギリス兵
「こんなコインをみつけたんだけど」と見せると、
「ああ、これはケベックのフランス人でイギリスに味方して参戦した人物だよ。当時のケベック人は『アメリカにつくのか、イギリスにつくのか』と問われていたので、行動で立場を示したんだ」
明快な解説だった。

小さな記念硬貨 が、外国人旅行者にちょっとした歴史の旅をさせてくれた。

1829年このように発見された
チチェスター大聖堂の宝物館
エリア:
  • ヨーロッパ>イギリス>イギリスその他の都市
  • ヨーロッパ>イギリス
テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2014/01/30 13:48
コメント(0)
イギリス南部、ウエスト・サセックスの古都チチェスターはノルマン時代12世紀からの大聖堂がそびえている。
チチェスター大聖堂夕景
都市の起源はローマ時代に遡り、大聖堂の床下にもこんなモザイクが埋まっている。
古代のモザイク床
美しいシャガールのステンドグラスもある
シャガールのステンドグラス一見に値するタピスリーもある
中央祭壇裏面、John Piper作
正面Johe Piperのタピスリー作曲家ホルストの墓もある
ホルストの墓近撮影

★宝物館★
50ペンスコインの自動改札で入る宝物館はひっそりした一角だったが、解説と共にじっくり見ていくと、興味深い展示物があった。

これハ一見ただの杯やパテナのひとつのようだが、実は聖歌隊席に埋められていた司教の墓から1829年に発見されたもの。
一緒に埋葬されていたパテナなど
少し離れた場所にその発見された時の様子が版画で展示されていた。肩の部分に杯とパテナが見える。
1829年このように発見された
イギリスは16世紀ヘンリー八世による宗教改革によって、カトリックの産物である修道院や巡礼は廃止され、墓を含む多くの歴史的な事物が破壊されてしまっている。

その中を聖歌隊席の地下でひっそり生き延びていたこの二体の司教の遺体。彼らが現代に伝えたものだった。

すぐ下に展示されている指輪は遺体がはめていたもの。
司教のリング
四世紀にローマ法王からくだされた司教指輪。たぶん本物は次の司教が継承し、コピーをつくっていっしょに埋葬したと思われる。


真っ黒な十字型をした鉛板も、よく読み取るとおもしろい。
ゴドフリーの名前が記された鉛版いちばん上の欠けた部分からGODEFRIUS eps(エピスコバル=司教)CICESTR(チチェスター)

これは1830年に工事をしている時、教会横の古い墓地から見つかった。第二代の司教ゴドフリーの死去に際し、ローマ法皇が送った赦しの文面。その前年に同じ場所から見つかっていた石棺も彼のものだと推定されている。

教会内にある歴代司教のリスト、ここチチェスターに司教座が移された後の二代目司教にゴドフリーの名前が読める。歴代司教表

1066年、ヘイスティングの戦いの後、アングロ・サクソン時代の中心だったSelseyからローマ時代から駐屯地があったこちらへ司教座が移された。その時に大聖堂が建設スタートし、その二代目司教がゴドフリーである。

この町の名前はアングロ・サクソンのアーレ王の息子の名前チッサCissaからきているのだけれど。


この木製の箱には1190頃からはじまった第三回十字軍に関連する品がおさめられていた。法皇イノチェンツォ三世が贈ったものとされている。
宝物室、十字軍の長持ち

宝物室自体の壁にも12世紀ノルマン時代からのものと推察される壁絵の色が残っている。
ノルマン聖堂時代の壁絵の名残


日本ではあまり馴染みのないチチェスターだけれど、大聖堂のこんな地味な宝物室にも、興味深い事物が詰まっておりました。

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チチェスター大聖堂そのものについてはこちらの日記に書きました。
チチェスター大聖堂そのものについてはこちらの日記に書きました。
スピネーカータワー外観
イギリス海軍のポーツマスを見学
エリア:
  • ヨーロッパ>イギリス>イギリスその他の都市
テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2014/01/23 11:07
コメント(0)
ロンドンから列車で二時間ほど、英仏海峡に面したポーツマスはイギリス軍の歴史的本拠地である。

ナポレオンのイギリス侵攻の野望を打ち砕いたトラファルガー海戦の旗艦HMSヴィクトリー号は現在でもこの港を母港とする現役戦艦として登録されている。
HMSヴィクトリー号

海戦には勝利したが、甲板で狙撃されて落命したネルソン提督の像
ネルソン提督片目片腕であります。

※HMSヴィクトリー号の写真日記は下記からご覧ください↓
http://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/9a3616c6529170dd4ad3db07b31746b8

ドックヤードは巨大な博物館となっており、見学できる船は全部で三隻。
1860年に世界初の鉄の船として建造されたウォーリアー号にも乗船できる
ドックヤードの眺め

もうひとつの見学できる船は、16世紀にポーツマス港内で沈没したメアリー・ローズ号。1982年に引き上げられ、たいへん興味深い品々が見つかった。
こちらについては下記の日記からごらんください↓
http://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/9a3616c6529170dd4ad3db07b31746b8

★これら軍港の博物館、全部に入場できる共通券は2014年1月現在26ポンド。一年間有効だそうです。

**
ポーツマス・ハーバー駅から軍港と逆の方に、2005年に完成したスピネーカータワーがそびえている
スピネーカータワー外観
真後ろが入口
スピネーカータワー別角度
駅からはこのガード下をくぐってアクセス
タワー方向へガードをくぐって向かう「ガンワーフ・キー」というのがその再開発エリアの名前だ。

ガードをくぐるとショッピングエリア。ロンドンから遠いのでアウトレットショップがたくさんならぶ。マークス・アンド・スペンサーもあります。
ショッピング街入口
レストランも豊富で、海辺はこんな
ウォーターフロント

高さ170mのスピネーカータワーに上ると、ポーツマスの街からドックヤードまで一望できる
展望台
タワーからの眺め2
フランスと結ぶフェリーが入港してくる。
タワーからの眺め

展望台の真ん中にはガラスの床が開けられている
ガラスの床土足厳禁だそうな。

2014年1月のおだやかに晴れた午後だったが、夏場はきっとたくさんの人でにぎわっているにちがいない。
昨年夏にプリマスからフランスのブルターニュへの船を使った《手造の旅》を催行したけれど、ポーツマスも面白そうです。
ベンチも波型
※日露戦争の終結として有名なポーツマス条約が結ばれたのは、アメリカ東海岸にある同名の都市です。

聖ドメニコの棺
ボローニャにある聖ドメニコの墓
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>ボローニャ
テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/12/22 13:12
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アッシジの聖フランチェスコとほぼ同じ時代を生きた聖ドメニコ。
元もと今のスペインで生まれた彼だが、1221年にボローニャで亡くなり、そこで葬られた。

旧市街にあるドメニコ・マジョーレ教会がその場所である。
ドメニコ・マジョーレ教会

入口には後の時代に描かれたドメニコの誕生にまつわる逸話が描かれている。
教会入口のドメニコの図
母親は、胎内のドメニコが白黒の犬が松明を加えて現れて闇を照らす夢を見た。彼が世界を照らす存在になるという予言である。
ドメニコ会の衣は今でも白と黒。
※このモザイク画の右下にはボローニャの斜塔が描かれている。

石棺は見事な彫刻で飾られている。
聖ドメニコの棺
もともとは尖塔や独立した彫刻はなく、浮彫で飾られた石棺だけを、その時代最高のマエストロだったニコラ・ピサーノが制作した。

当初、石棺は現在の場所ではなく、堂のど真ん中に柱を立ててその上に安置されていた。かつてあった場所がこの×印によって記憶されている。
この印があらわすものは?

石棺以外の装飾が追加されたのは15世紀半ば、ルネサンスの彫刻家ニコロ・デラルカによる。
中段の石彫

そして、若きミケランジェロもここにその足跡を残している。
なるほど天使でも筋肉隆々ですね。
筋肉隆々の天使

この像は後の彼の代表作となるダビデを思い出させる。
ダビデ?小像
ミケランジェロはそのスタートからすでにミケランジェロだったのだ。

石棺の上のクーポラには、ボローニャ出身の画家グイド・レーニ「聖ドメニコの昇天」がフレスコ画を描いている。
昇天する聖ドメニコ

レーニ自身の墓もすぐ近くにある。
グイド・レーニの墓
**
ドメニコ教会には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ(フェデリコ)二世に最も愛された息子エンツォの墓があった。それを記念したプレートがこれ。
エンツォの記念碑
二十代後半にボローニャに捕えられ、その後の二十年以上の年月をこの宮殿で軟禁されていた。
エンツォ宮殿
虜囚とはいえ王侯として遇され、市民は彼の詠じる詩に耳を傾け敬意をあらわした。ここは現在でも「エンツォ宮殿」と呼ばれているのである。

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