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旅倶楽部「こま通信」

~旅するように生きていこう~

旅倶楽部「こま通信」
旅するように生きていこう!
プロフィール

ニックネーム:
こまつうしん
居住地:
埼玉県
性別:
男性
年代:
60代
会社名:
旅倶楽部 こま通信
会社英字名:
会社所在地:
埼玉県
業種:
旅行業
自己紹介:
旅倶楽部「こま通信」代表

これまで三千日以上を旅してきて、より良い旅の為に《手造の旅》をはじめました。メンバーからの要望によって、一生モノの旅をつくっていきます。

《手造の旅》のご希望がありましたらご連絡ください。
komatsusin2@gmail.com

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テオドリクスがここに画かれていた?
ラヴェンナに残るテオドリクス王の痕跡
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>ラヴェンナ
テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/11/05 15:15
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西ローマ帝国を滅亡させた傭兵隊長オドアケルを討って、ラヴェンナを首都とした東ゴート王国の王になったテオドリクスの墓は今でもラヴェンナに残っている。
テオドリクス廟近景六世紀、未だ古代の雰囲気を感じさせる、どこかアジアのマウソレウムのような重量感ある石造り。

今は周囲になにもないが…
テオドリクスの墓遠景ずっとこんな風に残されていたのではなく、19世紀までは修道院と教会施設の只中であった。

シンプルな内部も教会だった当時はフレスコ画などで飾られていた。注意して見ればその痕跡も見える。現在の姿は教会だった頃の外観をすべてはぎ取って、出来るだけ造られた当初に近づけた結果なのだ。
テオドリクス廟二階天井
重量感ある冠石は、テオドリクスの王国の一部だったイストリア(スロヴェニアからクロアチアにまたがるアドリア海北東奥の半島)から運ばれた一枚石。設置する時のものだろうと推察されるヒビもしっかり見える。
テオドリクス冠石のヒビ
一階部分には何もなく
テオドリクス廟一階入り口二階にもこの赤い棺とおぼしき石が置かれているだけ
テオドリクス廟二階内部十字架型に開けられた窓はオリジナルだが、横に追加された窓はあとからだそうだ。
ここに置かれた「棺」が、テオドリクスのものであるかどうかも分かっていない。教会だった当時から果たしてここにあったものかも定かではない。19世紀的歴史復元によって、ここに持ち込まれたものであるかもしれない、と、ラヴェンナ在住のイタリア人ガイドさんのお話でした。

**テオドリクス廟は忙しいツアーではほとんど訪れないが、ラヴェンナの世界遺産指定物のひとつになっていて、イタリアでもここでしか見られない類の遺跡である。

★テオドリクスという人物はゴート族の王子であったが、八歳で「人質」として東ローマの首都・コンスタンチノープルに送られた。「人質」という名目ではあっても自由はあり、しっかり教育されて育つ。ローマ帝国のシンパを育てる為によく使われた方法である。

十六歳頃に帰国を許され、やがて父王が亡くなった後、部族王国の長として即位し、東ローマ皇帝からはコンスル(執政官)にも任じられた。西暦489年には簒奪者オドアケルを破り、ラヴェンナに入ったのだった。

ラヴェンナは初代皇帝アウグストスによって立派な軍港となっていたが(クラッセと呼ばれる)、テオドリクスはその少し北に新たな港も整備し、もともと先住部族が暮らしていた地区に自らの宮殿と教会を建設した。

その教会が現在も残っているサンタ・アポリナーレ・ヌオーヴォである。
アポリナーレ・ヌオーヴォ外観
塔は9世紀頃後から付け加えられたものだし、入口ポータルも、床も、内陣もオリジナルではないが、内部にの柱の上に残るモザイクはベースは6世紀からのものである。
アポリナーレ・ヌオーヴォ内部
ビザンチンらしく金をふんだんに用いた装飾。この図柄では左に船が描かれ、クラッセ港と近くの城壁に囲まれた建物群だと分かる。
クラッセの港

港の向かい側の壁
テオドリクスがここに画かれていた?
テオドリクスの宮殿が「PLATIVM」として描かれていて、その下にはテオドリクス本人の姿があった思われるのだが…今は黄金のモザイクべったりに変えられてしまっている。

この図像修正は、テオドリクスが没した後の西暦540年以降。東ゴート内のめまぐるしい権力闘争を終わらせるべくユスティニアヌス帝のコンスタンチノープルからベリサリウス将軍が征服してから行われた。

理由は、テオドリクスは異端キリスト教とされたアリウス派を信仰していたから。我々にはなかなか理解できないが、コンスタンチノープルで主流だったネオニアーニ(正統派・三位一体を信奉する現カトリック)にとっては、容認したくない装飾の部分を変更した。
先頭はマルティヌスに行列していた聖人たちの先頭は、アリウス派を攻撃したマルティヌスに変更。教会の名前もマルティヌス教会されていた。たしかにモザイクの切れ目が分かる。四人目の一人だけ金の衣を着たラウレンティウスも同様の改変かもしれない。

先ほどのテオドリクスの宮殿の横にも別の人物が描かれていたのは確実である。柱のところに、その人物の手だけが残っているのが見える。
残された手

***
これだけを見ると、アリウス派のテオドリクスの時代にはカトリックを排除していたのかと思ってしまうが、もうひとつ残されたアリウス派の遺構である小さな洗礼堂のモザイクはカトリック的である。
アリウス派洗礼堂近景
地面が一段下がっているが、この階段も大事な保存物だから「ハイヒールはダメ」などと書かれた注意書きがあった。

なにげない外見で、内部もそっけないとおもいきや…アリウス洗礼堂内部内部見上げると…
アリウス派洗礼堂天井
アポリナーレ・ヌオーヴォで見たのと同じ聖人の行列の真ん中に、ヨルダン川で洗礼を受けるキリストが描かれている。

左側の老人はヨルダン川を表す。天から精霊のハトが降りてきて、これはカトリック的三位一体?アリウス派の時代はもしかして違うデザインだったのだろうか?

この洗礼堂のすぐ近くには、その名もサン・スピリト(精霊)と名付けられた教会があるが、元はアリウス派の大聖堂だったそうだ。
アリウス派洗礼堂周辺

ラヴェンナには世界遺産指定された場所が全部で七つあるが、これら三箇所はすべてそのひとつに数えられている。

大聖堂ライトアップ5
シャルトル大聖堂驚異のライトアップと夜の地下聖堂訪問
エリア:
  • ヨーロッパ>フランス>シャルトル
テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/09/01 12:46
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シャルトル大聖堂は夏の間、驚異のライトアップが行われている。今回の《手造の旅》はこれを見るためにシャルトル旧市街へ歩けるホテルに宿泊した。さらに現地の方から「地下聖堂キャンドル訪問」をアレンジしていただいた。

**
8月後半とはいえ21時半になってやっとライトアップがスタートする。今回はしかし、その時間に大聖堂の責任者の方と待ち合わせして、珍しい夜の地下聖堂へ案内していただくのである。
大聖堂責任者の方がカギを開けてくださる

しばし地上の世界からさようなら
暮れゆく地上の世界に別れを告げ
ひとりひとり長いろうそくを手渡され、火を移してゆく
ろうそくを一人一本、火を移してゆく

「皆さんひとりひとりが、今日は中世の巡礼です。遠い道のりをこの聖堂のマリア様に会いにきたのだと思ってください」
彼はラテン語で聖歌を歌いながらゆっくりと奥へ進んでゆく、地下聖堂の天井は古いフレスコ画が描かれている
天井の古いフレスコ画
紀元1024年、10月。フルベール司教が「雪が降る前にこのフレスコが完成してほしいものだ」と手紙にかいていたそうだ。
地上がその後の火事で焼けてしまっても、この11世紀の地下聖堂はそのまま残った。

1194年の大火災では「聖母の衣(キリストを産んだ時に着ていたと言われる)も焼けてしまった…」と落胆していた民衆の前に、瓦礫の中から無傷の衣が出現した。この地下聖堂に避難していたのだ。

巡礼たちが祈った聖母子像が奥にあった
伝説の聖母子像
まるで観音様のようだ。

ヨーロッパのロマネスク後期の彫像というのは、時に日本の中世彫刻と不思議なほど似ている。

11世紀以前にあったノルマン人来襲の時の聖堂のなごりが、この井戸。異教徒のノルマン人は聖職者を殺して投げ込んだと言われている。ノルマン時代の井戸
当時この井戸は古い聖堂の外側の壁に位置していた。


ファサードにある彫刻の本物がこちらに保管されている
ファサードの彫刻の本物はここに
オリジナルはこんなにもぼろぼろになっていたのか

大聖堂南西の角にある陽時計もオリジナルはここにあった
大聖堂角にあるものもレプリカだった

こちらは19世紀に描かれたとおぼしきもの
比較的新しいフレスコ画

「明日朝、洗礼があるようで、その準備がされていますね」
シャルトルでは地下の聖堂で洗礼式が行われ、その後地上へ「産まれ出て」祝福されるのだそうだ。
明日の洗礼式の為の用意

階段を上がり、大聖堂の地上階へ出る

大聖堂の地上階部分へあがってゆく
大音量でパイプオルガンが演奏されている。
暗闇の中で圧倒的な音圧が体を包む。生のパイプオルガンでなければこれだけの迫力は体感できない。

巨大な暗闇を埋め尽くす重低音…目の前にある小さな炎にすがって前にすすんでゆく、ほとんどめまいがしそう。
大聖堂の巨大な空間すべてが闇

ここの床には巡礼の祈りの為に描かれた巨大な迷図が描かれている。フラッシュにその一部が映った。
暗闇の中、大迷図が映った

約一時間ほどの大聖堂地下訪問、巨大な扉が開けられ、夜の空がとても明るく感じる
南の大扉が開けられ、夜空が見えた

ファサードに面した広場ではすでにたくさんの人が集まって、壮大なライトアップを鑑賞していた。十五分でひとまわりする映像ショーである。

大聖堂ライトアップ1
大聖堂ライトアップ2
大聖堂ライトアップ3
かつては彩色されていた彫刻を再現
大聖堂ライトアップ4
大聖堂ライトアップ5
大聖堂ライトアップ6
大聖堂ライトアップ7

近くの広場でも週末の今日はJAZZバンドが演奏をしていた
市民ジャズバンド

いくつも中国風の建物が
ドロットニングホルム宮殿の中国パビリオン
エリア:
  • ヨーロッパ>スウェーデン>ストックホルム
テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/08/19 03:54
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ストックホルムから車で40分ほど、世界遺産ドロットニングホルム宮殿はツアーにもよく含まれている場所だ。
ドロットニングホルム宮殿本宮が見えてくる
いつもは本宮の見学が主で庭は少し散策する程度の時間しかない。が、今日の様に晴れて時間のある朝、ガイドさんと相談して、庭の奥に隠れた中国パビリオンから見学をはじめる事にした。
駐車場を出ると木陰に平屋の建物群が見えた。
本宮から遠く離れた庭側の入り口を入ると
一角を囲むように建てられている
建物全景
これらは1753年のスウェーデン王アドルフ・フレデリックが、プロイセンから来た王妃ルドヴィケ・ウルリーケの為に建てた。

当時アジア・中国世界はヨーロッパの宮廷にとってあこがれの異国であった。疑似東洋趣味の建物や部屋をつくって、そこに磁器を飾るなどしていたのである。

ストゥッコで中国人の顔までついている
中国人の顔まで

オープンの時には五歳の息子・後のグスタフ三世が、中国服を着て母ルドヴィケに鍵を渡したのだそうだ。

庭の離れでは召使も入れずに静かな会食や密談が行われる。そのために階下からせり上がり式に出てくるテーブルになっている
上下するテーブルが

横から後ろから見ると、おもしろい建てられ方をしているのが分かる
横から見ると
後ろから見ると
階下への階段は当時のままの雰囲気が感じられる。本宮の様にひっきりなしに観光客に踏み込まれることはなく、一日の限られた時間だけ開けられて、中でお茶を楽しめるそうな
厨房への階段
厨房階

ここを建てたフレデリック王とルドヴィケ妃のイニシャルも中国風にアレンジされて刻まれていた
二人のイニシャル

本宮の方へ歩いていく途中、今度はテントが見えてきた
テント?
いや、近づいてみるとテントの様に見せてある普通の建物
入口をよくみると

これは1777年にこの宮殿の所有者になったグスタフ三世がトルコ風に建てさせた衛士のためのブリキのテント。付記された解説によると、グスタフ三世が1771年にフランス王ルイ15世を訪問し、カンピエーニュで見たオスマントルコからのテントに影響されているのだとか。

★迷路のような庭木を抜けていくと、遠くに本宮が見えてきた
本宮からはるか離れた庭の奥
いつも見ていたドロットニングホルム宮殿だけではなく、こういった18世紀の宮廷趣味がそのまま残されているのが世界遺産に指定された理由なのだ。自分が見ているものだけで、物の価値を判断するのは早計なのだと知らされる訪問になった。

ムスティエのシンボル
ムスティエ・サン・マリー〜「フランスの美しい村」
エリア:
  • ヨーロッパ>フランス>フランスその他の都市
テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/03/08 14:59
コメント(2)
フランスのグランドキャニオンと言われるヴェルドン渓谷のすぐ北に、「フランスの美しい村」のひとつ、ムスティエ・サン・マリーがある。
N.D.du.Beauboirへ上がる道
近くにはローマ遺跡のある街もあるが、この町の確かな起源は西暦454年にマキシムス司教がやってきて小さな庵と礼拝堂をつくった事にあるとされる。

旧市街中心の広場から見上げると、険しい山が深く切れ込んだところに滝が流れ落ちていて、その傍らに当時の遺構の残るというノートルダム・ド・ボーボワール教会が見えている。
旧市街中心部、ロマネスクの塔

谷を渡して220mの長さの鎖が渡され、そこに金色の星が吊り下げられているのが見えるだろうか。
谷にかかる200メートルの鎖が見える?

この鎖にまつわる伝説★
十字軍に行ったこの町出身の騎士が聖地で異教徒に囚われた。「無事に故郷へ帰れたなら聖母マリアに星を捧げる」と誓いを立て、それが実行されたというもの。これは19世紀末のプロバンス作家ミストラルが書いて知られるようになったのだが。

星を拡大してみよう
ムスティエのシンボル
大きさは1メートル17センチ。現在のモノは1954年に前のものが老朽化したのを機につくりなおされた。はじめのはじめがいつだったのかは、分からない。

だが、街の紋章になっているのだから、相当に古い時代からあるものなのだろう。
ムスティエ紋章

街全体の絵地図、一番上に星が画かれている。
ムスティエ絵地図

車が止められるところからしばらく歩いて旧市街へ
村中心への道

村の真ん中を流れ落ちてくる川を渡り、中心の広場へ。
旧市街中心部、ロマネスクの塔

公共洗濯場はきっと百年ぐらい前までは現役だっただろう
洗濯場

この鐘楼は12世紀のものとされるが、1970年代の改修の際に8世紀の部分がみつかったと現地の本に解説されていた。
小川を挟んで向こうに見えるロマネスク塔
5世紀に隠者の住んだ後に修道院が出来、この町の名前の由来はそれに由来する。しかし中世の時代に何度も異民族の侵入で破壊されたので、正確な歴史はわからない。

●今日のお昼ごはん。カモのテリーヌ
カモのテリーヌ
三種類のファルシ
ファルシ三種

昼食の後、はるか上に見えたノートルダム・ド・ボーボワール教会へ登って行こう。今日の青空ならきっと美しい景色が見晴らせるだろう。


谷の川を渡る古い橋
N.D.du.Beauboirへの古い橋
曲がりながら続いていく道
N.D.du.Beauboirへの道
かなり急
N.D.du.Beauboirへの階段2
教会への入り口がみえた
N.D.du.Beauboirへの階段1

入口横には古い時代の居住跡と見える穴もあった
N.D.du.Beauboir入口
ポータル入口の木製彫刻は15世紀末のものだとか
N.D.du.Beauboirポータル
美しいロマネスクのアーチが迎えてくれる
N.D.du.Beauboir内部

クリストフォロス像の頭部本物
ベルン駅の巨大クリストフォロス像
エリア:
  • ヨーロッパ>スイス>ベルン
テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2012/11/06 20:14
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スイスの首都・ベルン中央駅地下で、突然巨大な顔に出会った。
ベルン駅の置かれたレプリカ
十九世紀に駅が建設されるまでこの場所には下図のように城壁があった。黄色が城壁。灰色が現在の駅である。左に後述する教会がある。かつての門と現在の駅の関係図

その城壁を守っていた木造の頭部がこれなのだ。
頭だけでこんなに大きい、全身10メートルに達したと言われている。

14世紀に建設された城壁は15世紀に増強され、この場所にはクリストッフェル塔と呼ばれる高さ55メートルに達する城門が出現した。
1818年頃の様子を再現した図↓
1818年頃のクリストフォロス門内側から
ここにはめ込まれていたのがこの巨像。
クリストフォロス巨像はこんなふうだった
この巨人は何者か?もともとはラインの渡し守・聖人クリストフォロスとしてつくられた。肩にキリストを載せて川を渡ったという逸話から手には杖を持っていた。再現した像がベルン歴史博物館にある。
クリストフォロス像復元図
上記二つの再現図・再現像の肩にキリストが居ないのはなぜか?
それは、1528年の宗教改革による。華美な装飾を罪悪とみなしたプロテスタントは、大聖堂内の30にも及ぶ祭壇を破壊。
カソリックの「聖人」というものを敵視し、このクリストフォロスも旧約聖書に登場するゴリアテとみなされた。ま、この時破壊されなかっただけ幸運ではある。

その後、この木造の像は三百五十年もの年月を生き延びていた。鉄道駅建設によって塔と共に破壊されるのを惜しんだベルンの人々は多かった。投票の結果はしかし、415対411で、取り壊し賛成派が勝利。

取り壊し直前1865年の様子が写真に残されている。これはクリストッフェル門を外側から写している。逆側を撮っていればクリストフォロスが写っていただろうに、残念。1865年のクリストフォロス門を外側から
この写真左端に写っている精霊教会を市内方向から写すとこんなかんじ現在の門への目抜き通り


巨像はその顔の部分と足先・手の先だけを博物館に残し、全身は貧しい人々へ薪として与えられたという。博物館へいくと、真っ先に出迎えてくれた。
クリストフォロス像の頭部本物
色は風雪で全く失くなっているけれど、本物の迫力はすごい。
南ドイツ後期ゴシックの名匠リーメンシュナイダーの影響をうけた、ニュルンベルグのアルブレヒトという人物の手になると言われている。
足の部分は地下階へ降りたところにある。
クリストフォロスの足先こちらの方には色がしっかり付いているのは何故なのだろう?

ニュルンベルグのアルブレヒトは、15世紀後半から16世紀にかけて、ベルンを代表する彫刻家の一人と言われたそうだ。大聖堂の洗礼盤はかわいいライオンちゃんが覗いている。
洗礼盤
拡大図はこちらから
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=20121103

上を見上げた。このゴシック天井のキーストーンの一つに、アルブレヒトが刻んだという聖アンドレがあると教会の説明にあるのですが・・・ちょっと見えません。
宗教改革で破壊された祭壇にあったとされる司教像の頭部が、大聖堂のテラスを発掘して見つかった。んんん、なるほおど、アルブレヒトが卓越したニュルンベルクの石工マイスターたちの伝統を受け継いでいるのがよくわかる。
アルブレヒト作「司教の頭部」

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