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- スリランカの城塞都市、ゴールを歩く
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エリア:
- アジア>スリランカ>ゴール
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2015/02/07 17:18
- コメント(0)
スリランカの南西海岸は日本の冬場にちょうど乾季。
城壁に囲まれたゴールの町は、俯瞰写真をひと目見たときから訪れたいと思っていた。伝説では、紀元前10世紀ソロモン王が交易していたタルシシュの港がここだともいう。
この町で、いやスリランカでも屈指の最高のホテルアマンガラへチェックインし、夕方までまだ間がある午後の町を歩き始めた。※アマンガラについてはまた別のところに書きます。
日が良いらしく、そこここで新婚さんが写真撮影をしているのにであう。
スター要塞からのパノラマ
新市街の巨大な市庁舎と19世紀あたりとおぼしき教会
白い建物はオランダ時代の火薬工場・倉庫で、現在は軍の管理下にある建物だとか
イギリスが建設した時計塔
バスに乗ってすぐにフラッグ要塞に着く。イギリスの建設した灯台があるユトレヒト要塞もすぐ近く。
ここで客待ちをしていた刺青いっぱいの男性が「2000Rpでここから飛び込むよ」と売り込みにきた。
観光化したといっても、まだまだ素朴な美しい街並みが残っている。こういう雰囲気があるうちに来られてよかった(^^)
18世紀オランダ語のプレートがはまった壊れた倉庫?も
ポルトガル時代からの広場にやってきた。この巨木はそのころからあるのかしらん隅のブラック・フォート=現在の警察署の古い城壁がポルトガル時代1589年に建設されたものだそうだ。
昔の旧市街の正門。オランダ・東インド会社の紋章は現代になってから復元してとりつけられたものにちがいない外側にはイギリスの紋章
夕方、ひっそりしたアマンガラのプールでひと泳ぎ
**翌朝の散歩、夕方とはまたちがう美しいインド洋
きのう夕方には閉じていた夜にだけ咲くという「サガリバナ」もまだ花をつけていたバスで通り過ぎたところも、歩けばまた新しい発見がある。これは「イスラム・センター」と看板があったオランダ時代の病院だった建物は、2014年にショッピングアーケードとレストランがはいって改装された
よく晴れた朝の光で撮影をする新婚さんに、きのうにもましてたくさん出会った
アマンガラ・ホテルのすぐまえでも
英国教会
オランダ教会
すぐ向こうに見えている建物がアマンガラ・ホテルである。小さな建物だけれどそれをむしろ快適だと感じさせてくれる。
入ってすぐの光と風が心地よく入ってくるテラスで朝食。
スリランカの定番朝食アーッパ=HOPPERもいただきます(^^)
城壁に囲まれたゴールの町は、俯瞰写真をひと目見たときから訪れたいと思っていた。伝説では、紀元前10世紀ソロモン王が交易していたタルシシュの港がここだともいう。
この町で、いやスリランカでも屈指の最高のホテルアマンガラへチェックインし、夕方までまだ間がある午後の町を歩き始めた。※アマンガラについてはまた別のところに書きます。
日が良いらしく、そこここで新婚さんが写真撮影をしているのにであう。
スター要塞からのパノラマ
新市街の巨大な市庁舎と19世紀あたりとおぼしき教会
白い建物はオランダ時代の火薬工場・倉庫で、現在は軍の管理下にある建物だとか
イギリスが建設した時計塔
バスに乗ってすぐにフラッグ要塞に着く。イギリスの建設した灯台があるユトレヒト要塞もすぐ近く。
ここで客待ちをしていた刺青いっぱいの男性が「2000Rpでここから飛び込むよ」と売り込みにきた。
観光化したといっても、まだまだ素朴な美しい街並みが残っている。こういう雰囲気があるうちに来られてよかった(^^)
18世紀オランダ語のプレートがはまった壊れた倉庫?も
ポルトガル時代からの広場にやってきた。この巨木はそのころからあるのかしらん隅のブラック・フォート=現在の警察署の古い城壁がポルトガル時代1589年に建設されたものだそうだ。
昔の旧市街の正門。オランダ・東インド会社の紋章は現代になってから復元してとりつけられたものにちがいない外側にはイギリスの紋章
夕方、ひっそりしたアマンガラのプールでひと泳ぎ
**翌朝の散歩、夕方とはまたちがう美しいインド洋
きのう夕方には閉じていた夜にだけ咲くという「サガリバナ」もまだ花をつけていたバスで通り過ぎたところも、歩けばまた新しい発見がある。これは「イスラム・センター」と看板があったオランダ時代の病院だった建物は、2014年にショッピングアーケードとレストランがはいって改装された
よく晴れた朝の光で撮影をする新婚さんに、きのうにもましてたくさん出会った
アマンガラ・ホテルのすぐまえでも
英国教会
オランダ教会
すぐ向こうに見えている建物がアマンガラ・ホテルである。小さな建物だけれどそれをむしろ快適だと感じさせてくれる。
入ってすぐの光と風が心地よく入ってくるテラスで朝食。
スリランカの定番朝食アーッパ=HOPPERもいただきます(^^)
- モデナの北、カルピの街
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア
- テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2014/10/24 20:27
- コメント(0)
イタリア中北部、エミリア・ロマーニャ州。
カルピの街は1909年創立のサッカーチームもあって、これがそのエンブレム。
赤と白はこの地を長く治めたピオ家の家紋から。
木の上の鳥の由来はこうだ。
紀元後八世紀、この地を支配していたロンゴバルド族の王アストルフォが鷹狩の途中落馬。その拍子にお気に入りの鷹が逃げ出してしまった。
アストルフォ王が探し回ったあげく、一本のシデ(学名carpinus)の上にいるのを見つけた。そしてそこがこのカルピの街になったというのである。
**
2014年10月、モデナの案内をしてくれたガイドさんがカルピから来ているとわかったので、帰りにちょっと案内してもらう事にした。人口七万でモデナ県ではモデナの次に大きな街だそうだ。
閑静な住宅街の向こうに高い鐘楼がみえた。
広場へ出てみると、鐘楼に比べて教会がずいぶん小さい。
このサグラ教会は前述のアストルフォ王の時代には建設されていた古い教会の跡地に12世紀から13世紀には建設されていたとされる。
もとの教会で横の入り口だったポータルを、現在の中央入口ポータルとして再利用している。
「16世紀に小さくされる前まではここまであったのよ」と、ガイドさんが地面のレンガで示された四角い線に注意を促す。
なるほど、言われてはじめて気づいた。もとは現在の三倍ぐらいの大きさがあったのだ。これが、その当時を再現したという絵。宮殿の向こうに現在の姿に短縮されたサグラ教会が確認できる。
実際中に入って天井を見上げると、19世紀に当時はあったアーチ天井の下から見つかったというフレスコ画があった。
何故、教会を縮小したのだろう?
16世紀初め、この地を治めるピオ家の当主となったアルベルト三世は、もっと大きな広場を宮殿の逆側につくる事に決めた。
今も当時からの宮殿がそのまま残っている。
当時、宮殿の逆側は堀があったのが、分かる。
それを埋めて新たにつくられた大きな広場は、現在「マルティリ(殉教者)広場」と呼ばれている。上の絵図と比べていただくと、時計塔は跳ね橋のあった入口の上に付け加えられた事がわかる。その左側に画かれている斜めの塔は現存していて、写真に写っている。ということは、時計塔が真ん中になるように、建物が増築されているのだ。
ここで言う「殉教者」とは、第二次大戦中、ドイツの支配時代ここで射殺された十六人を指しているのだそうだ。
カルピのすぐ北にあるフォッソリの街は、アウシュビッツへ輸送される前にユダヤ人たちを集めた強制収容所の一つがあった。
それを記憶する為に、宮殿の一角には「ユダヤ博物館」がある。
開館した当時の写真
**
マルティリ広場は、長さ220m、幅60mの、当時イタリア屈指の広さを誇る広場だったそうだ。
周辺の建物は、現在つきあたりの大聖堂を含め、修復中。
2012年5月、二度の強烈な地震によって大きな被害をうけた。
広場にある19世紀の劇場。
ここにも、最初に言及したカルピの紋章が掲げられている。
カルピの街は1909年創立のサッカーチームもあって、これがそのエンブレム。
赤と白はこの地を長く治めたピオ家の家紋から。
木の上の鳥の由来はこうだ。
紀元後八世紀、この地を支配していたロンゴバルド族の王アストルフォが鷹狩の途中落馬。その拍子にお気に入りの鷹が逃げ出してしまった。
アストルフォ王が探し回ったあげく、一本のシデ(学名carpinus)の上にいるのを見つけた。そしてそこがこのカルピの街になったというのである。
**
2014年10月、モデナの案内をしてくれたガイドさんがカルピから来ているとわかったので、帰りにちょっと案内してもらう事にした。人口七万でモデナ県ではモデナの次に大きな街だそうだ。
閑静な住宅街の向こうに高い鐘楼がみえた。
広場へ出てみると、鐘楼に比べて教会がずいぶん小さい。
このサグラ教会は前述のアストルフォ王の時代には建設されていた古い教会の跡地に12世紀から13世紀には建設されていたとされる。
もとの教会で横の入り口だったポータルを、現在の中央入口ポータルとして再利用している。
「16世紀に小さくされる前まではここまであったのよ」と、ガイドさんが地面のレンガで示された四角い線に注意を促す。
なるほど、言われてはじめて気づいた。もとは現在の三倍ぐらいの大きさがあったのだ。これが、その当時を再現したという絵。宮殿の向こうに現在の姿に短縮されたサグラ教会が確認できる。
実際中に入って天井を見上げると、19世紀に当時はあったアーチ天井の下から見つかったというフレスコ画があった。
何故、教会を縮小したのだろう?
16世紀初め、この地を治めるピオ家の当主となったアルベルト三世は、もっと大きな広場を宮殿の逆側につくる事に決めた。
今も当時からの宮殿がそのまま残っている。
当時、宮殿の逆側は堀があったのが、分かる。
それを埋めて新たにつくられた大きな広場は、現在「マルティリ(殉教者)広場」と呼ばれている。上の絵図と比べていただくと、時計塔は跳ね橋のあった入口の上に付け加えられた事がわかる。その左側に画かれている斜めの塔は現存していて、写真に写っている。ということは、時計塔が真ん中になるように、建物が増築されているのだ。
ここで言う「殉教者」とは、第二次大戦中、ドイツの支配時代ここで射殺された十六人を指しているのだそうだ。
カルピのすぐ北にあるフォッソリの街は、アウシュビッツへ輸送される前にユダヤ人たちを集めた強制収容所の一つがあった。
それを記憶する為に、宮殿の一角には「ユダヤ博物館」がある。
開館した当時の写真
**
マルティリ広場は、長さ220m、幅60mの、当時イタリア屈指の広さを誇る広場だったそうだ。
周辺の建物は、現在つきあたりの大聖堂を含め、修復中。
2012年5月、二度の強烈な地震によって大きな被害をうけた。
広場にある19世紀の劇場。
ここにも、最初に言及したカルピの紋章が掲げられている。
- モデナの北、ノナントラ修道院跡
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア
- テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2014/10/22 17:47
- コメント(0)
イタリア中北部、モデナの北10キロに位置するノナントラ。今は田舎町だが、中世前期には大きなベネディクト派修道院があった場所。
その中心だった聖シルヴェストロ教会が残されている。
シンプルなファサードは、1913年から1920年の間に12世紀頃の姿に戻された。
修復以前はこんな風だった。窓や扉がちがっているのがわかる。
いちばん重要なのは、入口の大理石浅浮彫。
モデナ大聖堂と同じ名工ヴィリジェルモとその一門の技。
この修道院の起源がこの部分。ロンゴバルド王アストルフォが義理の兄弟であるアンセルモに修道院建造を許可している。左の王冠を被った人物がアストルフォ王、右の僧衣を来た人物がアンセルモ司教。シンプルな構図のなかでも人物をちゃんと描き分け、ヴィリジェルモ一門のものとすぐにわかる特徴的な目の表現をもっている。もともとは目のところに色石がはまっていたと考えられる。
その二つ上のシーンでは、ローマから聖シルヴェストロの遺体を貰い受けるように法皇にお願いしている図。
当時、教会が聖人の遺骨を所有することでたくさんの巡礼を呼び寄せることが出来た。聖シルヴェストロは伝説ではコンスタンチヌス帝に洗礼を施した人物だから、全キリスト教徒にとって重要なのだ。
※実際にはローマから盗まれてノナントラへきたとか?
地下のクリプトには今も聖人の遺骨が置かれていた。
ここの地下聖堂はモデナ大聖堂の二倍の広さがある。かつてはそれだけの修道院だったのだ。
博物館にはシルヴェストロのシンプルな石棺がある。
よく見ると、756年から1912年までここに納められていた、と書かれている。
書かれたのは当然1912年だろうが、納められたのが756年なのか確証はない。そういうもの。
この年につくられた新たな祭壇がこれ。現在は2012年の地震の後公開されていないようす。
入場予約をしておいたからか、案内のおじさんが、「三分だけだよ」と言って、教会の内部まで案内してくれた。2012年の地震はかなりひどかったらしく、足場もまだまだそのまま。
後陣外側も20世紀初期にかつての姿に戻されている。
かつて、まったく似合わない四角い鐘楼が載せられていたなんて。
写真をよく見ると、壁の下の方によりかかるように家があったのが見える。この家によって、かつてロマネスク時代のクリプトの窓が隠されていた。
当時クリプトはほとんど埋め込まれていたので窓なんて関係なかったのだが、修復によってクリプトが復活させられて、外側も美しい12世紀の雰囲気がよみがえった。
たぶん、12世紀以前の教会にあったのだろう石の浮彫が一部はめこまれている。
一時間ほどの滞在で、付属博物館は見切れなかったが、ここの目玉の一つが、カール大帝直筆とされるサインがある羊皮紙。
常時展示されているのは複製品だが、Kの文字が見えるモノグラムがそれ。
ノナントラ、二回目の訪問で少しその価値が理解できてきた。
その中心だった聖シルヴェストロ教会が残されている。
シンプルなファサードは、1913年から1920年の間に12世紀頃の姿に戻された。
修復以前はこんな風だった。窓や扉がちがっているのがわかる。
いちばん重要なのは、入口の大理石浅浮彫。
モデナ大聖堂と同じ名工ヴィリジェルモとその一門の技。
この修道院の起源がこの部分。ロンゴバルド王アストルフォが義理の兄弟であるアンセルモに修道院建造を許可している。左の王冠を被った人物がアストルフォ王、右の僧衣を来た人物がアンセルモ司教。シンプルな構図のなかでも人物をちゃんと描き分け、ヴィリジェルモ一門のものとすぐにわかる特徴的な目の表現をもっている。もともとは目のところに色石がはまっていたと考えられる。
その二つ上のシーンでは、ローマから聖シルヴェストロの遺体を貰い受けるように法皇にお願いしている図。
当時、教会が聖人の遺骨を所有することでたくさんの巡礼を呼び寄せることが出来た。聖シルヴェストロは伝説ではコンスタンチヌス帝に洗礼を施した人物だから、全キリスト教徒にとって重要なのだ。
※実際にはローマから盗まれてノナントラへきたとか?
地下のクリプトには今も聖人の遺骨が置かれていた。
ここの地下聖堂はモデナ大聖堂の二倍の広さがある。かつてはそれだけの修道院だったのだ。
博物館にはシルヴェストロのシンプルな石棺がある。
よく見ると、756年から1912年までここに納められていた、と書かれている。
書かれたのは当然1912年だろうが、納められたのが756年なのか確証はない。そういうもの。
この年につくられた新たな祭壇がこれ。現在は2012年の地震の後公開されていないようす。
入場予約をしておいたからか、案内のおじさんが、「三分だけだよ」と言って、教会の内部まで案内してくれた。2012年の地震はかなりひどかったらしく、足場もまだまだそのまま。
後陣外側も20世紀初期にかつての姿に戻されている。
かつて、まったく似合わない四角い鐘楼が載せられていたなんて。
写真をよく見ると、壁の下の方によりかかるように家があったのが見える。この家によって、かつてロマネスク時代のクリプトの窓が隠されていた。
当時クリプトはほとんど埋め込まれていたので窓なんて関係なかったのだが、修復によってクリプトが復活させられて、外側も美しい12世紀の雰囲気がよみがえった。
たぶん、12世紀以前の教会にあったのだろう石の浮彫が一部はめこまれている。
一時間ほどの滞在で、付属博物館は見切れなかったが、ここの目玉の一つが、カール大帝直筆とされるサインがある羊皮紙。
常時展示されているのは複製品だが、Kの文字が見えるモノグラムがそれ。
ノナントラ、二回目の訪問で少しその価値が理解できてきた。
- チチェスター大聖堂の宝物館
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エリア:
- ヨーロッパ>イギリス>イギリスその他の都市
- ヨーロッパ>イギリス
- テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2014/01/30 13:48
- コメント(0)
イギリス南部、ウエスト・サセックスの古都チチェスターはノルマン時代12世紀からの大聖堂がそびえている。
都市の起源はローマ時代に遡り、大聖堂の床下にもこんなモザイクが埋まっている。
美しいシャガールのステンドグラスもある
一見に値するタピスリーもある
作曲家ホルストの墓もある
★宝物館★
50ペンスコインの自動改札で入る宝物館はひっそりした一角だったが、解説と共にじっくり見ていくと、興味深い展示物があった。
これハ一見ただの杯やパテナのひとつのようだが、実は聖歌隊席に埋められていた司教の墓から1829年に発見されたもの。
少し離れた場所にその発見された時の様子が版画で展示されていた。肩の部分に杯とパテナが見える。
イギリスは16世紀ヘンリー八世による宗教改革によって、カトリックの産物である修道院や巡礼は廃止され、墓を含む多くの歴史的な事物が破壊されてしまっている。
その中を聖歌隊席の地下でひっそり生き延びていたこの二体の司教の遺体。彼らが現代に伝えたものだった。
すぐ下に展示されている指輪は遺体がはめていたもの。
四世紀にローマ法王からくだされた司教指輪。たぶん本物は次の司教が継承し、コピーをつくっていっしょに埋葬したと思われる。
*
真っ黒な十字型をした鉛板も、よく読み取るとおもしろい。
いちばん上の欠けた部分からGODEFRIUS eps(エピスコバル=司教)CICESTR(チチェスター)
これは1830年に工事をしている時、教会横の古い墓地から見つかった。第二代の司教ゴドフリーの死去に際し、ローマ法皇が送った赦しの文面。その前年に同じ場所から見つかっていた石棺も彼のものだと推定されている。
教会内にある歴代司教のリスト、ここチチェスターに司教座が移された後の二代目司教にゴドフリーの名前が読める。
1066年、ヘイスティングの戦いの後、アングロ・サクソン時代の中心だったSelseyからローマ時代から駐屯地があったこちらへ司教座が移された。その時に大聖堂が建設スタートし、その二代目司教がゴドフリーである。
この町の名前はアングロ・サクソンのアーレ王の息子の名前チッサCissaからきているのだけれど。
*
この木製の箱には1190頃からはじまった第三回十字軍に関連する品がおさめられていた。法皇イノチェンツォ三世が贈ったものとされている。
宝物室自体の壁にも12世紀ノルマン時代からのものと推察される壁絵の色が残っている。
日本ではあまり馴染みのないチチェスターだけれど、大聖堂のこんな地味な宝物室にも、興味深い事物が詰まっておりました。
都市の起源はローマ時代に遡り、大聖堂の床下にもこんなモザイクが埋まっている。
美しいシャガールのステンドグラスもある
一見に値するタピスリーもある
作曲家ホルストの墓もある
★宝物館★
50ペンスコインの自動改札で入る宝物館はひっそりした一角だったが、解説と共にじっくり見ていくと、興味深い展示物があった。
これハ一見ただの杯やパテナのひとつのようだが、実は聖歌隊席に埋められていた司教の墓から1829年に発見されたもの。
少し離れた場所にその発見された時の様子が版画で展示されていた。肩の部分に杯とパテナが見える。
イギリスは16世紀ヘンリー八世による宗教改革によって、カトリックの産物である修道院や巡礼は廃止され、墓を含む多くの歴史的な事物が破壊されてしまっている。
その中を聖歌隊席の地下でひっそり生き延びていたこの二体の司教の遺体。彼らが現代に伝えたものだった。
すぐ下に展示されている指輪は遺体がはめていたもの。
四世紀にローマ法王からくだされた司教指輪。たぶん本物は次の司教が継承し、コピーをつくっていっしょに埋葬したと思われる。
*
真っ黒な十字型をした鉛板も、よく読み取るとおもしろい。
いちばん上の欠けた部分からGODEFRIUS eps(エピスコバル=司教)CICESTR(チチェスター)
これは1830年に工事をしている時、教会横の古い墓地から見つかった。第二代の司教ゴドフリーの死去に際し、ローマ法皇が送った赦しの文面。その前年に同じ場所から見つかっていた石棺も彼のものだと推定されている。
教会内にある歴代司教のリスト、ここチチェスターに司教座が移された後の二代目司教にゴドフリーの名前が読める。
1066年、ヘイスティングの戦いの後、アングロ・サクソン時代の中心だったSelseyからローマ時代から駐屯地があったこちらへ司教座が移された。その時に大聖堂が建設スタートし、その二代目司教がゴドフリーである。
この町の名前はアングロ・サクソンのアーレ王の息子の名前チッサCissaからきているのだけれど。
*
この木製の箱には1190頃からはじまった第三回十字軍に関連する品がおさめられていた。法皇イノチェンツォ三世が贈ったものとされている。
宝物室自体の壁にも12世紀ノルマン時代からのものと推察される壁絵の色が残っている。
日本ではあまり馴染みのないチチェスターだけれど、大聖堂のこんな地味な宝物室にも、興味深い事物が詰まっておりました。
- イギリス海軍のポーツマスを見学
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エリア:
- ヨーロッパ>イギリス>イギリスその他の都市
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2014/01/23 11:07
- コメント(0)
ロンドンから列車で二時間ほど、英仏海峡に面したポーツマスはイギリス軍の歴史的本拠地である。
ナポレオンのイギリス侵攻の野望を打ち砕いたトラファルガー海戦の旗艦HMSヴィクトリー号は現在でもこの港を母港とする現役戦艦として登録されている。
海戦には勝利したが、甲板で狙撃されて落命したネルソン提督の像
片目片腕であります。
※HMSヴィクトリー号の写真日記は下記からご覧ください↓
http://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/9a3616c6529170dd4ad3db07b31746b8
ドックヤードは巨大な博物館となっており、見学できる船は全部で三隻。
1860年に世界初の鉄の船として建造されたウォーリアー号にも乗船できる
もうひとつの見学できる船は、16世紀にポーツマス港内で沈没したメアリー・ローズ号。1982年に引き上げられ、たいへん興味深い品々が見つかった。
こちらについては下記の日記からごらんください↓
http://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/9a3616c6529170dd4ad3db07b31746b8
★これら軍港の博物館、全部に入場できる共通券は2014年1月現在26ポンド。一年間有効だそうです。
**
ポーツマス・ハーバー駅から軍港と逆の方に、2005年に完成したスピネーカータワーがそびえている
真後ろが入口
駅からはこのガード下をくぐってアクセス
「ガンワーフ・キー」というのがその再開発エリアの名前だ。
ガードをくぐるとショッピングエリア。ロンドンから遠いのでアウトレットショップがたくさんならぶ。マークス・アンド・スペンサーもあります。
レストランも豊富で、海辺はこんな
高さ170mのスピネーカータワーに上ると、ポーツマスの街からドックヤードまで一望できる
フランスと結ぶフェリーが入港してくる。
展望台の真ん中にはガラスの床が開けられている
土足厳禁だそうな。
2014年1月のおだやかに晴れた午後だったが、夏場はきっとたくさんの人でにぎわっているにちがいない。
昨年夏にプリマスからフランスのブルターニュへの船を使った《手造の旅》を催行したけれど、ポーツマスも面白そうです。
※日露戦争の終結として有名なポーツマス条約が結ばれたのは、アメリカ東海岸にある同名の都市です。
ナポレオンのイギリス侵攻の野望を打ち砕いたトラファルガー海戦の旗艦HMSヴィクトリー号は現在でもこの港を母港とする現役戦艦として登録されている。
海戦には勝利したが、甲板で狙撃されて落命したネルソン提督の像
片目片腕であります。
※HMSヴィクトリー号の写真日記は下記からご覧ください↓
http://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/9a3616c6529170dd4ad3db07b31746b8
ドックヤードは巨大な博物館となっており、見学できる船は全部で三隻。
1860年に世界初の鉄の船として建造されたウォーリアー号にも乗船できる
もうひとつの見学できる船は、16世紀にポーツマス港内で沈没したメアリー・ローズ号。1982年に引き上げられ、たいへん興味深い品々が見つかった。
こちらについては下記の日記からごらんください↓
http://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/9a3616c6529170dd4ad3db07b31746b8
★これら軍港の博物館、全部に入場できる共通券は2014年1月現在26ポンド。一年間有効だそうです。
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ポーツマス・ハーバー駅から軍港と逆の方に、2005年に完成したスピネーカータワーがそびえている
真後ろが入口
駅からはこのガード下をくぐってアクセス
「ガンワーフ・キー」というのがその再開発エリアの名前だ。
ガードをくぐるとショッピングエリア。ロンドンから遠いのでアウトレットショップがたくさんならぶ。マークス・アンド・スペンサーもあります。
レストランも豊富で、海辺はこんな
高さ170mのスピネーカータワーに上ると、ポーツマスの街からドックヤードまで一望できる
フランスと結ぶフェリーが入港してくる。
展望台の真ん中にはガラスの床が開けられている
土足厳禁だそうな。
2014年1月のおだやかに晴れた午後だったが、夏場はきっとたくさんの人でにぎわっているにちがいない。
昨年夏にプリマスからフランスのブルターニュへの船を使った《手造の旅》を催行したけれど、ポーツマスも面白そうです。
※日露戦争の終結として有名なポーツマス条約が結ばれたのは、アメリカ東海岸にある同名の都市です。
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