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- 二つの祖国〜19世紀ケベックの場合
-
エリア:
- 北米>カナダ
- テーマ:その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2014/10/15 16:39
- コメント(0)
偶然手元に来たカナダの記念コイン、「1812年」とカラーで強調された25セント。画かれていたサラベリーという人物について調べるうちに、ケベック人の複雑な心情が少し理解できた。

*
「イギリスとの戦争に勝利したら、あなた方はまたフランス人にもどれるのですよ」
新興国アメリカは、このぐらいの事は言ったに違いない。
祖国フランスがイギリスに敗れ、カナダの地でイギリスに支配されていたケベックのフランス人には魅力的な提案だっただろう。
一方、イギリス側はケベックのフランス人に対して別の考え方で説得した。「アメリカに占領されたら、カトリック信仰と貴族制は破壊されるだろう。 我々イギリスはあなた方フランス人の権利を保障する法律を通し(1775年ケベック法を指す)すでにあなた方の第二の祖国である。それでもアメリカに味方するか?」と。
ケベックのフランス人社会では意見が分かれた。第一の祖国フランスでは革命がはじまり、貴族階級と教会がひどい破壊をうけている。いったい我々はどこへ向かえばよいのか。
1812年にアメリカはイギリス領カナダへの侵攻を開始、翌年、十月にはケベックの本拠であるモントリオールのすぐ南まで進軍してきた。
力で押してくるアメリカに、ケベックのフランス人は言葉の壁を越えてイギリスを支援することに決する。だが、もともと人口が少ないフレンチ・カナダにはまともな常備兵はなかった。
シャルル・ド・サラベリーはフランス貴族だがケベック生まれ。十四歳から軍歴をはじめ、この英米戦争がはじまった頃は三十代前半。彼は志願兵を募り、インディアンと連合して立ち向かう。
集められた兵力は二百人のモフォーク族インディアンを含めて千五百ほど。
アメリカ軍兵力は正規兵を中心に約四千。
数では圧倒的に不利だったが、ここを破られればモントリオールが危ないという、セントローレンス川を後ろにしたまさに背水の陣。
1813年10月26日、地形の利を周到に考えて待ち伏せたフレンチ・カナディアン部隊は、三倍近いアメリカ軍を撃退し、サラベリーは一躍英雄となった。
*
「コインも紅葉してる」と言って小松の手元にもってこられたその記念25セント硬貨は、カナダのシンボルであるメイプルの葉が赤くカラーになっている珍しいものだ。
紅葉を記念したわけではなく、歴史的な年号「1812」を目立たせるように赤く印刷されていた。
一緒に描かれた人物の横にはSALABERRYと刻まれている。フランス人か?
だが、ガイドさんにきいても、地元のドライバーさんにきいても、この人物が誰なのかちゃんと教えてくれる人には出会えなかった。
数日後、答えをくれたのはナイアガラにある19世紀当時のフォート・ジョージという砦を再現した場所にいたイギリス兵(の格好をした)案内役の人。

「こんなコインをみつけたんだけど」と見せると、
「ああ、これはケベックのフランス人でイギリスに味方して参戦した人物だよ。当時のケベック人は『アメリカにつくのか、イギリスにつくのか』と問われていたので、行動で立場を示したんだ」
明快な解説だった。
小さな記念硬貨 が、外国人旅行者にちょっとした歴史の旅をさせてくれた。

*
「イギリスとの戦争に勝利したら、あなた方はまたフランス人にもどれるのですよ」
新興国アメリカは、このぐらいの事は言ったに違いない。
祖国フランスがイギリスに敗れ、カナダの地でイギリスに支配されていたケベックのフランス人には魅力的な提案だっただろう。
一方、イギリス側はケベックのフランス人に対して別の考え方で説得した。「アメリカに占領されたら、カトリック信仰と貴族制は破壊されるだろう。 我々イギリスはあなた方フランス人の権利を保障する法律を通し(1775年ケベック法を指す)すでにあなた方の第二の祖国である。それでもアメリカに味方するか?」と。
ケベックのフランス人社会では意見が分かれた。第一の祖国フランスでは革命がはじまり、貴族階級と教会がひどい破壊をうけている。いったい我々はどこへ向かえばよいのか。
1812年にアメリカはイギリス領カナダへの侵攻を開始、翌年、十月にはケベックの本拠であるモントリオールのすぐ南まで進軍してきた。
力で押してくるアメリカに、ケベックのフランス人は言葉の壁を越えてイギリスを支援することに決する。だが、もともと人口が少ないフレンチ・カナダにはまともな常備兵はなかった。
シャルル・ド・サラベリーはフランス貴族だがケベック生まれ。十四歳から軍歴をはじめ、この英米戦争がはじまった頃は三十代前半。彼は志願兵を募り、インディアンと連合して立ち向かう。
集められた兵力は二百人のモフォーク族インディアンを含めて千五百ほど。
アメリカ軍兵力は正規兵を中心に約四千。
数では圧倒的に不利だったが、ここを破られればモントリオールが危ないという、セントローレンス川を後ろにしたまさに背水の陣。
1813年10月26日、地形の利を周到に考えて待ち伏せたフレンチ・カナディアン部隊は、三倍近いアメリカ軍を撃退し、サラベリーは一躍英雄となった。
*
「コインも紅葉してる」と言って小松の手元にもってこられたその記念25セント硬貨は、カナダのシンボルであるメイプルの葉が赤くカラーになっている珍しいものだ。
紅葉を記念したわけではなく、歴史的な年号「1812」を目立たせるように赤く印刷されていた。
一緒に描かれた人物の横にはSALABERRYと刻まれている。フランス人か?
だが、ガイドさんにきいても、地元のドライバーさんにきいても、この人物が誰なのかちゃんと教えてくれる人には出会えなかった。
数日後、答えをくれたのはナイアガラにある19世紀当時のフォート・ジョージという砦を再現した場所にいたイギリス兵(の格好をした)案内役の人。

「こんなコインをみつけたんだけど」と見せると、
「ああ、これはケベックのフランス人でイギリスに味方して参戦した人物だよ。当時のケベック人は『アメリカにつくのか、イギリスにつくのか』と問われていたので、行動で立場を示したんだ」
明快な解説だった。
小さな記念硬貨 が、外国人旅行者にちょっとした歴史の旅をさせてくれた。

- ボローニャにある聖ドメニコの墓
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>ボローニャ
- テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/12/22 13:12
- コメント(0)
アッシジの聖フランチェスコとほぼ同じ時代を生きた聖ドメニコ。
元もと今のスペインで生まれた彼だが、1221年にボローニャで亡くなり、そこで葬られた。
旧市街にあるドメニコ・マジョーレ教会がその場所である。

入口には後の時代に描かれたドメニコの誕生にまつわる逸話が描かれている。

母親は、胎内のドメニコが白黒の犬が松明を加えて現れて闇を照らす夢を見た。彼が世界を照らす存在になるという予言である。
ドメニコ会の衣は今でも白と黒。
※このモザイク画の右下にはボローニャの斜塔が描かれている。
石棺は見事な彫刻で飾られている。

もともとは尖塔や独立した彫刻はなく、浮彫で飾られた石棺だけを、その時代最高のマエストロだったニコラ・ピサーノが制作した。
当初、石棺は現在の場所ではなく、堂のど真ん中に柱を立ててその上に安置されていた。かつてあった場所がこの×印によって記憶されている。

石棺以外の装飾が追加されたのは15世紀半ば、ルネサンスの彫刻家ニコロ・デラルカによる。

そして、若きミケランジェロもここにその足跡を残している。
なるほど天使でも筋肉隆々ですね。

この像は後の彼の代表作となるダビデを思い出させる。

ミケランジェロはそのスタートからすでにミケランジェロだったのだ。
石棺の上のクーポラには、ボローニャ出身の画家グイド・レーニ「聖ドメニコの昇天」がフレスコ画を描いている。

レーニ自身の墓もすぐ近くにある。

**
ドメニコ教会には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ(フェデリコ)二世に最も愛された息子エンツォの墓があった。それを記念したプレートがこれ。

二十代後半にボローニャに捕えられ、その後の二十年以上の年月をこの宮殿で軟禁されていた。

虜囚とはいえ王侯として遇され、市民は彼の詠じる詩に耳を傾け敬意をあらわした。ここは現在でも「エンツォ宮殿」と呼ばれているのである。
元もと今のスペインで生まれた彼だが、1221年にボローニャで亡くなり、そこで葬られた。
旧市街にあるドメニコ・マジョーレ教会がその場所である。

入口には後の時代に描かれたドメニコの誕生にまつわる逸話が描かれている。

母親は、胎内のドメニコが白黒の犬が松明を加えて現れて闇を照らす夢を見た。彼が世界を照らす存在になるという予言である。
ドメニコ会の衣は今でも白と黒。
※このモザイク画の右下にはボローニャの斜塔が描かれている。
石棺は見事な彫刻で飾られている。

もともとは尖塔や独立した彫刻はなく、浮彫で飾られた石棺だけを、その時代最高のマエストロだったニコラ・ピサーノが制作した。
当初、石棺は現在の場所ではなく、堂のど真ん中に柱を立ててその上に安置されていた。かつてあった場所がこの×印によって記憶されている。

石棺以外の装飾が追加されたのは15世紀半ば、ルネサンスの彫刻家ニコロ・デラルカによる。

そして、若きミケランジェロもここにその足跡を残している。
なるほど天使でも筋肉隆々ですね。

この像は後の彼の代表作となるダビデを思い出させる。

ミケランジェロはそのスタートからすでにミケランジェロだったのだ。
石棺の上のクーポラには、ボローニャ出身の画家グイド・レーニ「聖ドメニコの昇天」がフレスコ画を描いている。

レーニ自身の墓もすぐ近くにある。

**
ドメニコ教会には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ(フェデリコ)二世に最も愛された息子エンツォの墓があった。それを記念したプレートがこれ。

二十代後半にボローニャに捕えられ、その後の二十年以上の年月をこの宮殿で軟禁されていた。

虜囚とはいえ王侯として遇され、市民は彼の詠じる詩に耳を傾け敬意をあらわした。ここは現在でも「エンツォ宮殿」と呼ばれているのである。

- スメラ修道院縁起とその歴史
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エリア:
- 中近東>トルコ>トラブゾン
- テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/05/12 13:24
- コメント(0)
グルジア国境に近い黒海に面したトラブゾンの街から一時間ほど山の中へ入ると、岸壁にはりついたようなスメラ修道院がある。

伝説によると、アテネで元異教の神殿にあった「聖ルカが画いた聖母マリアの肖像画(イコン)」が、AD385年にアテネから飛んできた。
聖ソフロニオスと聖バルナバは、ぞれぞれ別の場所で大天使ガブリエルが夢枕に現れ、導かれて旅をし、この岸壁にの洞窟にそのイコンがあるのを発見した。
二人がそこに住んだのが、この修道院の縁起である。
かつては七十室以上あったという修道院の中心が、この場所。

ここは自然の洞窟をふさいだ構造。

天井に巨大なマリアとキリストが画かれている

このマリアの顔が黒い事がスメラ修道院の語源と言われることもある。ギリシャ語で黒は「メラス」だから。

●別の語源説
この修道院のフルネームは「Panaghia tou melas、パナギア・トゥ・メラス」=黒い岩の聖母という。「t」を発音しにくかった住民が「s」の音になり、スメラとなった。
修道院の入り口から見たところ。20世紀までは屋根があった。写真も残されている。

●東ローマ帝国時代(後世ビザンチン帝国と呼ばれるようになる)。
皇帝はもちろんこの修道院を尊ぶ。イスタンブルの現アヤソフィアを建設したユスティニアヌス大帝の時代、配下の司令官だったベリサリウス(イタリアはラヴェンナに彼の肖像画モザイクが残る)が改築、鹿皮の写本多数が寄贈された。
1204年の第四十字軍によるラテン帝国成立により、亡命した東ローマ帝国コムネノス朝が、グルジアの後押しによりトレビゾンド王国を建設。アレクシウス三世などはこのスメラ修道院で戴冠式を挙行した。
●オスマントルコ時代
1453年にコンスタンチノープルが陥落した後、1461年にトレビゾンド王国も滅亡。イスラム教のオスマン・トルコが支配者となったが、修道院は変わらず信仰を集めていた。
トラブゾンにはたくさんのギリシャ正教を信仰する住民が暮らしており、オスマントルコはそれを迫害はしなかった。
皇太子時代にトラブゾンの知事で後にヤウズ・スルタンと呼ばれることになるセリムは、狩の時(?)具合が悪くなり修道院で手当てを受けた。「私がスルタンになったら、ここの聖母マリアに贈り物をしよう」と言った。
1512年にスルタンとなったセリムは、彼と同じ背丈の黄金の燭台五本を奉納した。イランを征服した時にはシャーの宝物からやはり燭台二本を贈っている。
1710年、1732年、1740年、修道院拡張。1860年には当時のスルタン・アブドゥルメジットの命により最大の大きさになり三十人の修道士が住んでいた。同じ清教徒であるロシアのツァーも訪れた事がある。
何度も装飾しなおされているため、フレスコ画も上塗りされた。この部分をみると、それがよくわかるだろう。
古いフレスコ画の表面がでこぼこになるように傷を付け、そのうえに漆喰を塗ったのだ。
なので、場所によりさまざまな時代のフレスコ画が入り混じっている。この旧約聖書の「鯨に飲み込まれたヨナ」はわりに新しい時代に見える。

ライオンに食べられて殉教したとされる紀元後一世紀の聖イグナチウス

なんとも表現がおもしろい。15世紀頃か?
落書きもたくさんある。ギリシャ語のもので1803と書かれているものがあったが、本当にその時代のものなのだろうか?

大天使ガブリエル

19世紀に暖炉がたくさんつくられたそうだが、これもその跡

★このように、オスマン・トルコの時代に入っても、修道院は庇護され無事に活動していた。破壊された教会を見て、すぐに「イスラム教徒が破壊した」と思い込むのは早計だ。
第一大戦でトルコが敗れると数年の間ロシアがこの地域を占領していた。彼らもまた正教徒であり、この修道院を破壊はしなかった。
1919年から後のアタチュルクが新制トルコへの革命をスタート。地中海に面したイズミール周辺から、イギリスに後押しされたギリシャが侵攻。1922年までトルコ国内で激しい戦争が続く。
イギリスは、ギリシャ系住民の多かったこのトラブゾン周辺を「ギリシャ・ポントス共和国」としてトルコから切り離そうとしたが失敗。ギリシャ⇔トルコ間の住民交換の時代、三万人以上のギリシャ系住民が街を離れていった。
スメラ修道院が本当の危機に陥ったのはこの時である。何百年ものあいだイスラムの支配者の元であっても、ギリシャ系住民が住み続けている間は問題なかった。一般住民がいなくなった時、本当の危機が訪れた。
1923年8月末、修道士たちはもっとも大事な「聖ルカが画いた聖母マリアのイコン」を、一キロほど離れたバルバラ教会の地下に隠し、「トルコ人の手に落ちるよりは」と、あろうことか修道院を爆破したのだそうだ※この事は英語の解説書では、いくら調べても書かれていなかった。今回同行してくれたトルコ人ガイドさんがトルコ語で読んだ解説にだけあったそうだ。そう言われてあらためて見直すと、屋根が吹き飛んだと思われる場所もあり、「三か所で爆弾を爆発させた」というのも事実に思える。
●共和国トルコが成立した後も、ギリシャの逃れた人々はこのイコンの事を忘れなかった。ギリシャ北部に「パナギア・スメラ」という同じ名前の村をつくって住んでいた。
1931年、この小村を訪れた当時のギリシャ首相エレフシウス・ベニゼロスは、その事実を知り、後にトルコの第二代大統領となるイスメット・イノニュにイコンをギリシャに持ってくる交渉する。
同年10月25日、正装に身を包んだギリシャ正教司教アンブロジウスはトラブゾンに降り立つ。トルコ兵に守られ、スメラ修道院跡とバルバラ教会へ向かう。埋められていたイコンは無事そのまま発見され、その他の聖遺物と共にギリシャへ移送された。トルコ政府は司教に一か月の滞在許可を与えていたが、一行はたった四日、最短の滞在でトルコを後にした。
現在このイコンはギリシャ北部、マケドニア国境に近い山の中に1951年に建設された同名の教会に安置されている。そこはもともとのスメラと似た場所だという事で選ばれたそうである。

伝説によると、アテネで元異教の神殿にあった「聖ルカが画いた聖母マリアの肖像画(イコン)」が、AD385年にアテネから飛んできた。
聖ソフロニオスと聖バルナバは、ぞれぞれ別の場所で大天使ガブリエルが夢枕に現れ、導かれて旅をし、この岸壁にの洞窟にそのイコンがあるのを発見した。
二人がそこに住んだのが、この修道院の縁起である。
かつては七十室以上あったという修道院の中心が、この場所。

ここは自然の洞窟をふさいだ構造。

天井に巨大なマリアとキリストが画かれている

このマリアの顔が黒い事がスメラ修道院の語源と言われることもある。ギリシャ語で黒は「メラス」だから。

●別の語源説
この修道院のフルネームは「Panaghia tou melas、パナギア・トゥ・メラス」=黒い岩の聖母という。「t」を発音しにくかった住民が「s」の音になり、スメラとなった。
修道院の入り口から見たところ。20世紀までは屋根があった。写真も残されている。

●東ローマ帝国時代(後世ビザンチン帝国と呼ばれるようになる)。
皇帝はもちろんこの修道院を尊ぶ。イスタンブルの現アヤソフィアを建設したユスティニアヌス大帝の時代、配下の司令官だったベリサリウス(イタリアはラヴェンナに彼の肖像画モザイクが残る)が改築、鹿皮の写本多数が寄贈された。
1204年の第四十字軍によるラテン帝国成立により、亡命した東ローマ帝国コムネノス朝が、グルジアの後押しによりトレビゾンド王国を建設。アレクシウス三世などはこのスメラ修道院で戴冠式を挙行した。
●オスマントルコ時代
1453年にコンスタンチノープルが陥落した後、1461年にトレビゾンド王国も滅亡。イスラム教のオスマン・トルコが支配者となったが、修道院は変わらず信仰を集めていた。
トラブゾンにはたくさんのギリシャ正教を信仰する住民が暮らしており、オスマントルコはそれを迫害はしなかった。
皇太子時代にトラブゾンの知事で後にヤウズ・スルタンと呼ばれることになるセリムは、狩の時(?)具合が悪くなり修道院で手当てを受けた。「私がスルタンになったら、ここの聖母マリアに贈り物をしよう」と言った。
1512年にスルタンとなったセリムは、彼と同じ背丈の黄金の燭台五本を奉納した。イランを征服した時にはシャーの宝物からやはり燭台二本を贈っている。
1710年、1732年、1740年、修道院拡張。1860年には当時のスルタン・アブドゥルメジットの命により最大の大きさになり三十人の修道士が住んでいた。同じ清教徒であるロシアのツァーも訪れた事がある。
何度も装飾しなおされているため、フレスコ画も上塗りされた。この部分をみると、それがよくわかるだろう。
古いフレスコ画の表面がでこぼこになるように傷を付け、そのうえに漆喰を塗ったのだ。なので、場所によりさまざまな時代のフレスコ画が入り混じっている。この旧約聖書の「鯨に飲み込まれたヨナ」はわりに新しい時代に見える。

ライオンに食べられて殉教したとされる紀元後一世紀の聖イグナチウス

なんとも表現がおもしろい。15世紀頃か?
落書きもたくさんある。ギリシャ語のもので1803と書かれているものがあったが、本当にその時代のものなのだろうか?

大天使ガブリエル

19世紀に暖炉がたくさんつくられたそうだが、これもその跡

★このように、オスマン・トルコの時代に入っても、修道院は庇護され無事に活動していた。破壊された教会を見て、すぐに「イスラム教徒が破壊した」と思い込むのは早計だ。
第一大戦でトルコが敗れると数年の間ロシアがこの地域を占領していた。彼らもまた正教徒であり、この修道院を破壊はしなかった。
1919年から後のアタチュルクが新制トルコへの革命をスタート。地中海に面したイズミール周辺から、イギリスに後押しされたギリシャが侵攻。1922年までトルコ国内で激しい戦争が続く。
イギリスは、ギリシャ系住民の多かったこのトラブゾン周辺を「ギリシャ・ポントス共和国」としてトルコから切り離そうとしたが失敗。ギリシャ⇔トルコ間の住民交換の時代、三万人以上のギリシャ系住民が街を離れていった。
スメラ修道院が本当の危機に陥ったのはこの時である。何百年ものあいだイスラムの支配者の元であっても、ギリシャ系住民が住み続けている間は問題なかった。一般住民がいなくなった時、本当の危機が訪れた。
1923年8月末、修道士たちはもっとも大事な「聖ルカが画いた聖母マリアのイコン」を、一キロほど離れたバルバラ教会の地下に隠し、「トルコ人の手に落ちるよりは」と、あろうことか修道院を爆破したのだそうだ※この事は英語の解説書では、いくら調べても書かれていなかった。今回同行してくれたトルコ人ガイドさんがトルコ語で読んだ解説にだけあったそうだ。そう言われてあらためて見直すと、屋根が吹き飛んだと思われる場所もあり、「三か所で爆弾を爆発させた」というのも事実に思える。
●共和国トルコが成立した後も、ギリシャの逃れた人々はこのイコンの事を忘れなかった。ギリシャ北部に「パナギア・スメラ」という同じ名前の村をつくって住んでいた。
1931年、この小村を訪れた当時のギリシャ首相エレフシウス・ベニゼロスは、その事実を知り、後にトルコの第二代大統領となるイスメット・イノニュにイコンをギリシャに持ってくる交渉する。
同年10月25日、正装に身を包んだギリシャ正教司教アンブロジウスはトラブゾンに降り立つ。トルコ兵に守られ、スメラ修道院跡とバルバラ教会へ向かう。埋められていたイコンは無事そのまま発見され、その他の聖遺物と共にギリシャへ移送された。トルコ政府は司教に一か月の滞在許可を与えていたが、一行はたった四日、最短の滞在でトルコを後にした。
現在このイコンはギリシャ北部、マケドニア国境に近い山の中に1951年に建設された同名の教会に安置されている。そこはもともとのスメラと似た場所だという事で選ばれたそうである。

- 悲恋伝説の水路〜フェルハットとシリン
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エリア:
- 中近東>トルコ>トルコその他の都市
- テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/05/07 08:16
- コメント(0)
トルコ北東部、黒海から一時間半ほど内陸に入った美しいアマスィア(アマシア)の街。郊外には、悲恋伝説と共に古い水路が残されている。
街から五キロほどのところで二人の像が岩山にあるのが見えた。
かなり巨大だ。
巨像の立つ岩山のふもとへ歩いていくと、岩山をくりぬいた古代の水路が延々と続いている。

ところどころ水がたまっているが、大きさは人がちょうど中を歩ける程度である。

この水路にまつわる悲恋伝説
★フェルハットとシリン★***
この話はいくつかヴァージョンがあるようだが、トルコ版のひとつを要約して紹介いたします。
アゼルバイジャン女王の妹シリンは、トルコから水道を掘りに来た職人フェルハットと恋に落ちる。
身分のちがいに加えて遠距離恋愛などできない時代、別れは必然だったが、アゼルバイジャンの王国が崩壊してシリンがトルコの古都アマスィアへ身を寄せることになり、二人は再会。※アマスィアはオスマントルコ時代に歴代の王子が教育のために送り込まれる街だった。
フェルハットはシリンとの間を認めてもらうよう、スルタンに願い出るが、スルタンの息子がシリンに横恋慕していたので、難題を出される。
井戸掘り職人のフェルハットが、岩山を穿つ水路をつくりアマスィアへ水をひくことが出来たら認めてやろう、というのである。
フェルハットは山に穴をあけるというこの難事業を推進。※今でもトルコでは「フェルハットの様に愛している」というと、出来ない事をも可能にするという決意表明になるそうな。
不可能と思われた水路がほぼ完成に近づいた時、スルタンは「シリンが死んだ」とウソを伝える。フェルハットは絶望のあまりつるはしで自分を打って自殺。それを知ったシリンもあとを追う。
***
この水路は確かに山を穿ち20キロの長さがある。しかし、これは古代ローマの建設によるものとされ、伝説の悲恋物語は史実ではない。
それでも、この話はトルコだけでなくペルシャ系のイランなどでも、悲恋物語として人気があるそうな。国も時代も設定も様々ないろいろなヴァージョンが見つかります。
2013年4月のトルコ航空機内誌では数ページのアマスィアの特集が載せられていた。近年だんだんと観光客も増えているそうで、それに合わせて見学できる場所も整備されていっている。
この場所も今年6月(あと二か月)に、展示館を開設して世界中から恋人たちを集めたいと考えているとの事。なるほどこのスペースにその建物が出現するのでしょう。

遺跡だらけのトルコにおいては、ローマ時代の水路というだけではなかなか人を集められないかと考えた一策かしらん。繁盛すると良いのですが。
***
こちらはアマスィアを流れるイシェルマック川のほとりに以前からあるフェルハットとシリンの像
街から五キロほどのところで二人の像が岩山にあるのが見えた。
かなり巨大だ。巨像の立つ岩山のふもとへ歩いていくと、岩山をくりぬいた古代の水路が延々と続いている。

ところどころ水がたまっているが、大きさは人がちょうど中を歩ける程度である。

この水路にまつわる悲恋伝説
★フェルハットとシリン★***
この話はいくつかヴァージョンがあるようだが、トルコ版のひとつを要約して紹介いたします。
アゼルバイジャン女王の妹シリンは、トルコから水道を掘りに来た職人フェルハットと恋に落ちる。
身分のちがいに加えて遠距離恋愛などできない時代、別れは必然だったが、アゼルバイジャンの王国が崩壊してシリンがトルコの古都アマスィアへ身を寄せることになり、二人は再会。※アマスィアはオスマントルコ時代に歴代の王子が教育のために送り込まれる街だった。
フェルハットはシリンとの間を認めてもらうよう、スルタンに願い出るが、スルタンの息子がシリンに横恋慕していたので、難題を出される。
井戸掘り職人のフェルハットが、岩山を穿つ水路をつくりアマスィアへ水をひくことが出来たら認めてやろう、というのである。
フェルハットは山に穴をあけるというこの難事業を推進。※今でもトルコでは「フェルハットの様に愛している」というと、出来ない事をも可能にするという決意表明になるそうな。
不可能と思われた水路がほぼ完成に近づいた時、スルタンは「シリンが死んだ」とウソを伝える。フェルハットは絶望のあまりつるはしで自分を打って自殺。それを知ったシリンもあとを追う。
***
この水路は確かに山を穿ち20キロの長さがある。しかし、これは古代ローマの建設によるものとされ、伝説の悲恋物語は史実ではない。
それでも、この話はトルコだけでなくペルシャ系のイランなどでも、悲恋物語として人気があるそうな。国も時代も設定も様々ないろいろなヴァージョンが見つかります。
2013年4月のトルコ航空機内誌では数ページのアマスィアの特集が載せられていた。近年だんだんと観光客も増えているそうで、それに合わせて見学できる場所も整備されていっている。
この場所も今年6月(あと二か月)に、展示館を開設して世界中から恋人たちを集めたいと考えているとの事。なるほどこのスペースにその建物が出現するのでしょう。

遺跡だらけのトルコにおいては、ローマ時代の水路というだけではなかなか人を集められないかと考えた一策かしらん。繁盛すると良いのですが。
***
こちらはアマスィアを流れるイシェルマック川のほとりに以前からあるフェルハットとシリンの像
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