記事一覧
11 - 15件目まで(21件中)
トルコ北東部、黒海沿いの大都市サムスンの古代名はアミソス。1995年の道路工事の際に発見されたポントス王国時代の墳墓から優れた金の副葬品が見つかった。それは「アミソスの宝」と呼ばれ、サムスンの小さな考古学博物館に展示されている。
●博物館はまったくそれと分からない小さな平屋

内部に入って料金を払うと(2013年4月現在3トルコリラでした)、すぐに全部の部屋が見渡せてしまう程度のひろさ。いちばん奥にそこだけ違う色のライトで「アミソスの宝」がそれと分かるように展示されている。

古代の邸宅からモザイクの床。アキレウスと彼を案じる母テティスの図

「アミソスの宝」でいちばん目立つのはこの冠

黄金の葉っぱを組み合わせてある。
墳墓は5×5×2.5m。五つの部屋のうち三つが埋葬に使われており、男性一体女性二体だった。

金貨が鋳造された年代から紀元前一世紀のミトリダテス六世の時代の人物と推察される。しかし、墳墓自体はそれより二百年程度前の時代に利用されている形跡があるという。誰かの墓を再利用したのかも。

高位の人物でなければ、これだけの副葬品は持てなかっただろう。
女性二人は彼の奥方と娘だとされる。女性用らしい装飾品多数。
細部を見ると技術の高さが分かる
ニケ女神
海の精ネーレイデスが海馬ヒッポカンポスに乗っている図がたくさんつなげられた大ぶりのネックレスの拡大

このブレスレットのデザイン感覚は現代でもそのまま通用するだろう

観光都市でもないサムソンの小さな考古学博物館には、ほとんど日本人などやってこない。それでも、ちゃんと目を凝らせば、歴史ある街にはちゃんと見どころがある。
※ここだけ黄色の光が当てられていて、本来の色が分かりにくい。金製品をより誇らしく見せようとしているのだろうが、自然光のもとで見られるようにしてほしいものです。
●博物館はまったくそれと分からない小さな平屋

内部に入って料金を払うと(2013年4月現在3トルコリラでした)、すぐに全部の部屋が見渡せてしまう程度のひろさ。いちばん奥にそこだけ違う色のライトで「アミソスの宝」がそれと分かるように展示されている。

古代の邸宅からモザイクの床。アキレウスと彼を案じる母テティスの図

「アミソスの宝」でいちばん目立つのはこの冠

黄金の葉っぱを組み合わせてある。
墳墓は5×5×2.5m。五つの部屋のうち三つが埋葬に使われており、男性一体女性二体だった。

金貨が鋳造された年代から紀元前一世紀のミトリダテス六世の時代の人物と推察される。しかし、墳墓自体はそれより二百年程度前の時代に利用されている形跡があるという。誰かの墓を再利用したのかも。

高位の人物でなければ、これだけの副葬品は持てなかっただろう。
女性二人は彼の奥方と娘だとされる。女性用らしい装飾品多数。
細部を見ると技術の高さが分かる
ニケ女神
海の精ネーレイデスが海馬ヒッポカンポスに乗っている図がたくさんつなげられた大ぶりのネックレスの拡大
このブレスレットのデザイン感覚は現代でもそのまま通用するだろう

観光都市でもないサムソンの小さな考古学博物館には、ほとんど日本人などやってこない。それでも、ちゃんと目を凝らせば、歴史ある街にはちゃんと見どころがある。
※ここだけ黄色の光が当てられていて、本来の色が分かりにくい。金製品をより誇らしく見せようとしているのだろうが、自然光のもとで見られるようにしてほしいものです。

- ムスティエ・サン・マリー〜「フランスの美しい村」
-
エリア:
- ヨーロッパ>フランス>フランスその他の都市
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/03/08 14:59
- コメント(2)
フランスのグランドキャニオンと言われるヴェルドン渓谷のすぐ北に、「フランスの美しい村」のひとつ、ムスティエ・サン・マリーがある。

近くにはローマ遺跡のある街もあるが、この町の確かな起源は西暦454年にマキシムス司教がやってきて小さな庵と礼拝堂をつくった事にあるとされる。
旧市街中心の広場から見上げると、険しい山が深く切れ込んだところに滝が流れ落ちていて、その傍らに当時の遺構の残るというノートルダム・ド・ボーボワール教会が見えている。

谷を渡して220mの長さの鎖が渡され、そこに金色の星が吊り下げられているのが見えるだろうか。

この鎖にまつわる伝説★
十字軍に行ったこの町出身の騎士が聖地で異教徒に囚われた。「無事に故郷へ帰れたなら聖母マリアに星を捧げる」と誓いを立て、それが実行されたというもの。これは19世紀末のプロバンス作家ミストラルが書いて知られるようになったのだが。
星を拡大してみよう

大きさは1メートル17センチ。現在のモノは1954年に前のものが老朽化したのを機につくりなおされた。はじめのはじめがいつだったのかは、分からない。
だが、街の紋章になっているのだから、相当に古い時代からあるものなのだろう。

街全体の絵地図、一番上に星が画かれている。

車が止められるところからしばらく歩いて旧市街へ

村の真ん中を流れ落ちてくる川を渡り、中心の広場へ。

公共洗濯場はきっと百年ぐらい前までは現役だっただろう

この鐘楼は12世紀のものとされるが、1970年代の改修の際に8世紀の部分がみつかったと現地の本に解説されていた。

5世紀に隠者の住んだ後に修道院が出来、この町の名前の由来はそれに由来する。しかし中世の時代に何度も異民族の侵入で破壊されたので、正確な歴史はわからない。
●今日のお昼ごはん。カモのテリーヌ

三種類のファルシ

昼食の後、はるか上に見えたノートルダム・ド・ボーボワール教会へ登って行こう。今日の青空ならきっと美しい景色が見晴らせるだろう。
谷の川を渡る古い橋

曲がりながら続いていく道

かなり急

教会への入り口がみえた

入口横には古い時代の居住跡と見える穴もあった

ポータル入口の木製彫刻は15世紀末のものだとか

美しいロマネスクのアーチが迎えてくれる

近くにはローマ遺跡のある街もあるが、この町の確かな起源は西暦454年にマキシムス司教がやってきて小さな庵と礼拝堂をつくった事にあるとされる。
旧市街中心の広場から見上げると、険しい山が深く切れ込んだところに滝が流れ落ちていて、その傍らに当時の遺構の残るというノートルダム・ド・ボーボワール教会が見えている。

谷を渡して220mの長さの鎖が渡され、そこに金色の星が吊り下げられているのが見えるだろうか。

この鎖にまつわる伝説★
十字軍に行ったこの町出身の騎士が聖地で異教徒に囚われた。「無事に故郷へ帰れたなら聖母マリアに星を捧げる」と誓いを立て、それが実行されたというもの。これは19世紀末のプロバンス作家ミストラルが書いて知られるようになったのだが。
星を拡大してみよう

大きさは1メートル17センチ。現在のモノは1954年に前のものが老朽化したのを機につくりなおされた。はじめのはじめがいつだったのかは、分からない。
だが、街の紋章になっているのだから、相当に古い時代からあるものなのだろう。

街全体の絵地図、一番上に星が画かれている。

車が止められるところからしばらく歩いて旧市街へ

村の真ん中を流れ落ちてくる川を渡り、中心の広場へ。

公共洗濯場はきっと百年ぐらい前までは現役だっただろう

この鐘楼は12世紀のものとされるが、1970年代の改修の際に8世紀の部分がみつかったと現地の本に解説されていた。

5世紀に隠者の住んだ後に修道院が出来、この町の名前の由来はそれに由来する。しかし中世の時代に何度も異民族の侵入で破壊されたので、正確な歴史はわからない。
●今日のお昼ごはん。カモのテリーヌ

三種類のファルシ

昼食の後、はるか上に見えたノートルダム・ド・ボーボワール教会へ登って行こう。今日の青空ならきっと美しい景色が見晴らせるだろう。
谷の川を渡る古い橋

曲がりながら続いていく道

かなり急

教会への入り口がみえた

入口横には古い時代の居住跡と見える穴もあった

ポータル入口の木製彫刻は15世紀末のものだとか

美しいロマネスクのアーチが迎えてくれる

- アグリジェントのアーモンド祭
-
エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>アグリジェント
- テーマ:観光地 お祭り・イベント
- 投稿日:2013/02/13 00:44
- コメント(0)
二月の第二週、シチリアの南岸アグリジェントではすでにアーモンドの花が盛りだった。アーモンド祭りは今年で68回を迎える。

同時に「国際フォークロア・フェスティバル」は58回目。
今日は旧市街でパレードが開催され、世界中からのパフォーマンスが見られた。
まずは露払いの軍楽隊

地元の一番手のグループ

「アグリジェントには四つもフォークロア・グループがあるんだ」と、地元ガイドさん。このグループは太鼓の皮に描かれた聖カロージェロの名前が冠されている。

十字軍兵士登場!
サービス精神旺盛(笑)


次の地元のグループは中世風の装い

みぃんなおしゃれして晴れ着

カターニャ近くから参加のグループが旗のパフォーマンス

狭い中世の通りだからベランダからよく見えます

インドから

フランスから

エジプトから

中南米からの参加


韓国から※他にアジアからの参加は見当たらなかった

地元グループが大騒ぎしながらやってくる

案内してくれたガイドさん曰く「このグループで踊ってたんだよ、日本にも行って帝国ホテルに泊まったんだ二十年前」
この旧市街にはドイツからグランド・ツアーにやってきたゲーテも泊まっていた。その記念プレートがぼろぼろになった由緒ある建物に設置してある。

今は朝食とベッドだけの簡易ホテルになっているそうだ。

祭り行列の最後には、シチリアらしい装飾された馬車の隊列。


同時に「国際フォークロア・フェスティバル」は58回目。
今日は旧市街でパレードが開催され、世界中からのパフォーマンスが見られた。
まずは露払いの軍楽隊

地元の一番手のグループ

「アグリジェントには四つもフォークロア・グループがあるんだ」と、地元ガイドさん。このグループは太鼓の皮に描かれた聖カロージェロの名前が冠されている。

十字軍兵士登場!
サービス精神旺盛(笑)


次の地元のグループは中世風の装い

みぃんなおしゃれして晴れ着

カターニャ近くから参加のグループが旗のパフォーマンス

狭い中世の通りだからベランダからよく見えます

インドから

フランスから

エジプトから

中南米からの参加


韓国から※他にアジアからの参加は見当たらなかった

地元グループが大騒ぎしながらやってくる

案内してくれたガイドさん曰く「このグループで踊ってたんだよ、日本にも行って帝国ホテルに泊まったんだ二十年前」
この旧市街にはドイツからグランド・ツアーにやってきたゲーテも泊まっていた。その記念プレートがぼろぼろになった由緒ある建物に設置してある。

今は朝食とベッドだけの簡易ホテルになっているそうだ。

祭り行列の最後には、シチリアらしい装飾された馬車の隊列。


- 旧ホーラ(コーラ)教会の素晴らしきモザイク画〜テオドラ・メトキテスは父と同じだったのか
-
エリア:
- 中近東>トルコ>イスタンブール
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2012/10/07 10:30
- コメント(1)
イスタンブルのエディルネ門近くにある旧ビザンチン(東ローマ帝国)時代のホーラ(コーラ)教会は、その美しいモザイク画で人々を集めている。

トルコに征服された後カーリエモスクとなりミナレットが加わった。モスク時代に内部の装飾はしっくいに塗り込められていたが、聖堂の外見はそのまま。共和国時代になりアヤソフィアと同様に無宗教の博物館として公開されるようになり往時のモザイク画を堪能できる。
質素な入口

現在の博物館としての入口は建物左側に回り込んだところになってしまったが、入ってすぐのナルテクス(前郎)はこのようになっている。

「ホーラ(コーラ)」という名前は「郊外」を意味すると、多くのガイドブックで説明されている。コンスタンチヌスの城壁の当時にこの場所は城壁の外でありたしかに「郊外」であったのだが・・・よく調べていくと別の語源のほうが正しいように思えてきた。
※以下の説については、現地のガイドブックと「コンスタンチノープルを歩く」尚樹啓太郎著・東海大学出版会を主に参考にしています。
「ホーラ」とはギリシャ語に由来し、もともと「土地・場所」という意味をもっている。神聖な聖母の胎内=という「本来入れる器のなどないものの宿る場所」を表している。
この説明を裏付けるようなモザイクを、入口を入ってすぐ上のモザイク画にみつけた。

マリアの胎内という場所(ホーラ)のキリストが描かれている。
この教会の本当の起源は分かっていない。最古の伝説としては298年にニコメディア(現イズミット)で殉教した聖バビラスの遺体が葬られた場所というのがある。ここが「郊外」であった413年(テオドシウス城壁建設)以前に起源を求めようとすると、ちょっと無理のある説明が必要になるようだ。
考古学的な研究によると、現存する一番古い部分は6世紀頃。イコノクラシス(イコン破壊運動)以前にも何か聖堂があったようだが、843年のイコン復活以前には荒廃していたと推察される。
それを復興させ、(1077〜81年頃とされる)第一の教会を建てたのはマリア・ドゥカエナ(コムネノス朝の始祖アレクシウス1世の義母)。これはおそらくしばらくして地震によって壊れた。
12世紀はじめ、第二の教会を建てたのはマリア・ドゥカエナの孫にあたるイサキオス・コムネノス(皇帝アレクシウスの三男)。彼の肖像は二番目のナルテクス(前郎)を入って右手に描かれた巨大なデイシス(マリアとキリストに奉納者が請願している図)
この中の左下に描かれている。

同じデイシスの中の右下に女性が描かれていて、てっきりこれが第一の教会をたてたマリア・ドゥカエナだとおもった

しかし、多くの資料はこれを「モンゴルの婦人」と呼ばれた皇帝の私生児マリアと解説している。1281年まで現在のイランを支配していたモンゴル・ハン・フラグに嫁していて、夫君の死後帰国したマリアになる。
別の資料では「メラニという修道女」としてあった。
このデイシスを作らせたのは、第三のホーラ教会を建設したテオドラ・メトキテスに違いない。現在見るこの素晴らしいモザイク群で飾り立てた人物だ。
彼自身の肖像モザイクが、第二ナルテクスから本堂へ入る入口の上に描かれている。

と、すれば。その近くに描かれた二人は、第一と第二の教会を建設させた人物であるのが妥当ではないだろうか?
つまり、デイシスの右手描かれたのは、第一教会の建設者マリア・ドゥカエナでは?でも、彼女は修道女姿で描かれるような晩年を過ごしてはいない・・・いろんな想像がひろがります。
モザイク肖像の人物・テオドラ・メトキテスは波乱の生涯を送っている。
父ヨルゴス(ゲオルギウス=英語のジョージ)・メトキテスも宮廷の人物だったが、失脚しニケアに遠ざけられていた。テオドロスは1290年か91年にそこで生まれ修道院に入っていたが、チャンスがめぐってきた。
アンドロニコス二世皇帝がニケアを訪問した際に認められ、若干20才で首都の宮廷に呼ばれたのである。
36才の時には首相の地位にまで上り詰め、五人の息子と一人の娘をもうけた。かつて失脚していた父はきっと感涙にむせんでいたことだろう。
1321年51才の時、このホーラ教会の庇護者となり、これらの素晴らしいモザイクを描かせた。自分自身がキリストに教会をささげるモザイクはこの時のものにちがいない。

しかし、運命は暗転する。
1328年皇帝の孫アンドロニコス三世による政変。テオドロスは58才にして財産を没収され、家を焼かれ首都を追放された。かつての父と同じ運命が彼をおそったのである。
※父ヨルゴスは同じ年に没している。息子の失脚を見ずにすんだのなら幸いである。
二年後、彼は一修道して首都に戻ることを許され、神に捧げたが故に没収も破壊もされなかったホーラ教会に住んだ。修道士セオレプトスとして1332年3月13日72歳で没し、この教会に葬られている。
下の写真、左手のアーチの中がそれとされている。

**
このような経緯で十四世紀はじめに制作されたモザイク群は、6世紀のアヤソフィアにも匹敵する素晴らしさだ。ペテロの顔の細部には目を奪われる。


パオロもまたしかり

本堂にもかつてはモザイク画があったのだろうけれど、今はほとんど残されていない。はがされたというよりも、後代の地震によるダメージがひどかったらしい。ドームは再建であるという。

「聖母被昇天」があるがこちらは技術的に少し劣って見える。

本堂で注目したいのは、アヤソフィアと同じ大理石を薄く切った壁の装飾。

建物後ろにまわると、千年を生き延びてきた聖堂が分厚い柱に支えられているのがわかる。

トルコに征服された後カーリエモスクとなりミナレットが加わった。モスク時代に内部の装飾はしっくいに塗り込められていたが、聖堂の外見はそのまま。共和国時代になりアヤソフィアと同様に無宗教の博物館として公開されるようになり往時のモザイク画を堪能できる。
質素な入口

現在の博物館としての入口は建物左側に回り込んだところになってしまったが、入ってすぐのナルテクス(前郎)はこのようになっている。

「ホーラ(コーラ)」という名前は「郊外」を意味すると、多くのガイドブックで説明されている。コンスタンチヌスの城壁の当時にこの場所は城壁の外でありたしかに「郊外」であったのだが・・・よく調べていくと別の語源のほうが正しいように思えてきた。
※以下の説については、現地のガイドブックと「コンスタンチノープルを歩く」尚樹啓太郎著・東海大学出版会を主に参考にしています。
「ホーラ」とはギリシャ語に由来し、もともと「土地・場所」という意味をもっている。神聖な聖母の胎内=という「本来入れる器のなどないものの宿る場所」を表している。
この説明を裏付けるようなモザイクを、入口を入ってすぐ上のモザイク画にみつけた。

マリアの胎内という場所(ホーラ)のキリストが描かれている。
この教会の本当の起源は分かっていない。最古の伝説としては298年にニコメディア(現イズミット)で殉教した聖バビラスの遺体が葬られた場所というのがある。ここが「郊外」であった413年(テオドシウス城壁建設)以前に起源を求めようとすると、ちょっと無理のある説明が必要になるようだ。
考古学的な研究によると、現存する一番古い部分は6世紀頃。イコノクラシス(イコン破壊運動)以前にも何か聖堂があったようだが、843年のイコン復活以前には荒廃していたと推察される。
それを復興させ、(1077〜81年頃とされる)第一の教会を建てたのはマリア・ドゥカエナ(コムネノス朝の始祖アレクシウス1世の義母)。これはおそらくしばらくして地震によって壊れた。
12世紀はじめ、第二の教会を建てたのはマリア・ドゥカエナの孫にあたるイサキオス・コムネノス(皇帝アレクシウスの三男)。彼の肖像は二番目のナルテクス(前郎)を入って右手に描かれた巨大なデイシス(マリアとキリストに奉納者が請願している図)

この中の左下に描かれている。

同じデイシスの中の右下に女性が描かれていて、てっきりこれが第一の教会をたてたマリア・ドゥカエナだとおもった

しかし、多くの資料はこれを「モンゴルの婦人」と呼ばれた皇帝の私生児マリアと解説している。1281年まで現在のイランを支配していたモンゴル・ハン・フラグに嫁していて、夫君の死後帰国したマリアになる。
別の資料では「メラニという修道女」としてあった。
このデイシスを作らせたのは、第三のホーラ教会を建設したテオドラ・メトキテスに違いない。現在見るこの素晴らしいモザイク群で飾り立てた人物だ。
彼自身の肖像モザイクが、第二ナルテクスから本堂へ入る入口の上に描かれている。

と、すれば。その近くに描かれた二人は、第一と第二の教会を建設させた人物であるのが妥当ではないだろうか?
つまり、デイシスの右手描かれたのは、第一教会の建設者マリア・ドゥカエナでは?でも、彼女は修道女姿で描かれるような晩年を過ごしてはいない・・・いろんな想像がひろがります。
モザイク肖像の人物・テオドラ・メトキテスは波乱の生涯を送っている。
父ヨルゴス(ゲオルギウス=英語のジョージ)・メトキテスも宮廷の人物だったが、失脚しニケアに遠ざけられていた。テオドロスは1290年か91年にそこで生まれ修道院に入っていたが、チャンスがめぐってきた。
アンドロニコス二世皇帝がニケアを訪問した際に認められ、若干20才で首都の宮廷に呼ばれたのである。
36才の時には首相の地位にまで上り詰め、五人の息子と一人の娘をもうけた。かつて失脚していた父はきっと感涙にむせんでいたことだろう。
1321年51才の時、このホーラ教会の庇護者となり、これらの素晴らしいモザイクを描かせた。自分自身がキリストに教会をささげるモザイクはこの時のものにちがいない。

しかし、運命は暗転する。
1328年皇帝の孫アンドロニコス三世による政変。テオドロスは58才にして財産を没収され、家を焼かれ首都を追放された。かつての父と同じ運命が彼をおそったのである。
※父ヨルゴスは同じ年に没している。息子の失脚を見ずにすんだのなら幸いである。
二年後、彼は一修道して首都に戻ることを許され、神に捧げたが故に没収も破壊もされなかったホーラ教会に住んだ。修道士セオレプトスとして1332年3月13日72歳で没し、この教会に葬られている。
下の写真、左手のアーチの中がそれとされている。

**
このような経緯で十四世紀はじめに制作されたモザイク群は、6世紀のアヤソフィアにも匹敵する素晴らしさだ。ペテロの顔の細部には目を奪われる。


パオロもまたしかり

本堂にもかつてはモザイク画があったのだろうけれど、今はほとんど残されていない。はがされたというよりも、後代の地震によるダメージがひどかったらしい。ドームは再建であるという。

「聖母被昇天」があるがこちらは技術的に少し劣って見える。

本堂で注目したいのは、アヤソフィアと同じ大理石を薄く切った壁の装飾。

建物後ろにまわると、千年を生き延びてきた聖堂が分厚い柱に支えられているのがわかる。

- ロンダに残るアラブ時代の井戸
-
エリア:
- ヨーロッパ>スペイン>ロンダ
- テーマ:観光地 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2012/03/28 11:48
- コメント(0)
切り立った崖が旧市街を囲むロンダは18世紀につくられたこの新橋で有名。

しかし、こういう街で一番問題になってきたのは水をどう確保するかという事だ。
古代ローマからロンダに住む人々は苦労してきたが、14世紀に住んだアラブ人達は遙か下の川まで至る井戸を掘って対応していた。井戸といっても、人間がそこまで降りて行って水を汲む大規模なものである。
その井戸があることは、以前から聞き知っていたが、2012年3月、初めて訪れることができた。
そこは、「La Casa del Rey Moro=ムーア人の王の家」と名付けられた古い邸宅の庭の一角に位置している。新橋からもその庭は見ることが出来る。崖に樹木が見えるところがそうだ。

ここへ至る旧市街の道も美しい。ロンダのほんとうに美しい部分は新橋のむこうにあるのである。

標識を追っていく。この白い壁の向こうがその邸宅だ。

入場料を払って入ると、先ほど新橋から見えていた庭園に出る。
ここは1912年に当時の持ち主であった公爵夫人がフランス人の著名な造園家にオーダーしてデザインされたものだそうだ。彼はセビリアのマリア・ルイサ公園も設計しているという。
小さいが確かに美しく、崖から見下ろす絶景を楽しめる庭になっている。
この一角から、川まで続く階段がはじまる。

約六十メートル下の水面までぐるぐると降りてゆく。

完全に地中を掘り抜いたものではなく、崖に隠れがくれにつくられており、支えるアーチの壁から光は充分に入ってくる。

途中にいくつか部屋があり、かつては別のルートへ行く道もあったようだ。

これらの部屋のうちのひとつは「武器庫」と呼ばれており、実際に水源を守るための兵が武器と共に駐屯していたと想像される。

かつては革袋に水を入れた「人間の鎖」がこの階段をひっきりなしに往復し、街に水を供給していたということだ。
突然、美しい水面に到達する。
はるか上の青空に崖の上の家々が白く輝いている。

この場所は確かにロンダのアキレス腱だったに違いない。
1485年にキリスト教軍はロンダを攻めるためにこの井戸から攻め入った。街には入れなくても、水源を失ったアラブ人たちは降伏の道しかなかった。
水面から見上げると、階段を覆っている壁は古い人工のものだとわかる。

家々ははるか上。

今回ここへ来られたのは、ローカルガイドのハビエル君が労を厭わず、小松のリクエストに応えてくれたから。どうもありがとう!※この写真の彼です。

ロンダの街にはまだまだ小松の知らない・訪れていない面白場所がありそうだ。そのうち《手造の旅》で、優秀なガイドさんと共にゆっくり訪れてみたい。

しかし、こういう街で一番問題になってきたのは水をどう確保するかという事だ。
古代ローマからロンダに住む人々は苦労してきたが、14世紀に住んだアラブ人達は遙か下の川まで至る井戸を掘って対応していた。井戸といっても、人間がそこまで降りて行って水を汲む大規模なものである。
その井戸があることは、以前から聞き知っていたが、2012年3月、初めて訪れることができた。
そこは、「La Casa del Rey Moro=ムーア人の王の家」と名付けられた古い邸宅の庭の一角に位置している。新橋からもその庭は見ることが出来る。崖に樹木が見えるところがそうだ。

ここへ至る旧市街の道も美しい。ロンダのほんとうに美しい部分は新橋のむこうにあるのである。

標識を追っていく。この白い壁の向こうがその邸宅だ。

入場料を払って入ると、先ほど新橋から見えていた庭園に出る。
ここは1912年に当時の持ち主であった公爵夫人がフランス人の著名な造園家にオーダーしてデザインされたものだそうだ。彼はセビリアのマリア・ルイサ公園も設計しているという。
小さいが確かに美しく、崖から見下ろす絶景を楽しめる庭になっている。
この一角から、川まで続く階段がはじまる。

約六十メートル下の水面までぐるぐると降りてゆく。

完全に地中を掘り抜いたものではなく、崖に隠れがくれにつくられており、支えるアーチの壁から光は充分に入ってくる。

途中にいくつか部屋があり、かつては別のルートへ行く道もあったようだ。

これらの部屋のうちのひとつは「武器庫」と呼ばれており、実際に水源を守るための兵が武器と共に駐屯していたと想像される。

かつては革袋に水を入れた「人間の鎖」がこの階段をひっきりなしに往復し、街に水を供給していたということだ。

突然、美しい水面に到達する。

はるか上の青空に崖の上の家々が白く輝いている。

この場所は確かにロンダのアキレス腱だったに違いない。
1485年にキリスト教軍はロンダを攻めるためにこの井戸から攻め入った。街には入れなくても、水源を失ったアラブ人たちは降伏の道しかなかった。
水面から見上げると、階段を覆っている壁は古い人工のものだとわかる。

家々ははるか上。

今回ここへ来られたのは、ローカルガイドのハビエル君が労を厭わず、小松のリクエストに応えてくれたから。どうもありがとう!※この写真の彼です。

ロンダの街にはまだまだ小松の知らない・訪れていない面白場所がありそうだ。そのうち《手造の旅》で、優秀なガイドさんと共にゆっくり訪れてみたい。
11 - 15件目まで(21件中)



