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- ラオス ビエンチャン / 「コンビューレストラン&バー」オープン
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エリア:
- アジア>ラオス>ヴィエンチャン
- テーマ:グルメ
- 投稿日:2008/10/10 16:42
ルアンパバン通り、マリナーボーリング近くからメコン川へ抜ける小道を行ったところに、リバーサイドのお洒落なレストラン「コンビューレストラン&バー」がオープンいたしました。
オープンな雰囲気とモダンな設備は、地元のラオス人だけでなく在住外国人からも人気を博し、既に連日盛況の様子です。料理は、ラオ・タイ・西洋&創作料理が味わえます。
平均して味はよく、辛さも調節可能です。尚、辛さ度合いの「普通」は、外国人にはやや辛めのお味です。
是非、ご利用ください。
■ コンビューレストラン&バー (Kong View Restaurant & Bar)
住所: 183 Luangprabang Rd, Hom 1 Ban Nongpanay,Sikhottabong, Vientiane
オープンな雰囲気とモダンな設備は、地元のラオス人だけでなく在住外国人からも人気を博し、既に連日盛況の様子です。料理は、ラオ・タイ・西洋&創作料理が味わえます。
平均して味はよく、辛さも調節可能です。尚、辛さ度合いの「普通」は、外国人にはやや辛めのお味です。
是非、ご利用ください。
■ コンビューレストラン&バー (Kong View Restaurant & Bar)
住所: 183 Luangprabang Rd, Hom 1 Ban Nongpanay,Sikhottabong, Vientiane
- アルゼンチン / ラン航空「ブエノスアイレス〜カラファテ線」就航!
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エリア:
- 中南米>アルゼンチン>ブエノスアイレス
- 中南米>アルゼンチン>カラファテ
- 中南米>アルゼンチン>ウスアイア
- テーマ:鉄道・乗り物
- 投稿日:2008/10/10 14:20
アルゼンチンとチリの両国にまたがり、これからピークシーズンを迎えるパタゴニア観光の中でも人気のある「ロス・グラシアレス国立公園」観光のゲートウェイとなるカラファテ空港に「ラン航空」(LA)が期間限定で運航を開始いたしました。
是非、ご利用ください。
【 フライト・スケジュール 】
■ LA4440便 (火・金〜日曜 週4便運航)
ブエノスアイレス発(AEP) 05:50 → カラファテ着(FTE) 09:01
カラファテ発(FTE) 09:50 → ウシュアイア着(USH) 11:07
ウシュアイア発(USH) 11:55 → ブエノスアイレス着(AEP) 15:23
■ LA4438便 (月・水・木・土・日曜 週5便運航)
ブエノスアイレス発(AEP) 11:00 → ウシュアイア着(USH) 14:43
ウシュアイア発(USH) 15:34 → カラファテ着(FTE) 16:49
カラファテ発(FTE) 17:40 → ブエノスアイレス着(AEP) 20:32
※運航終了日: 2009年4月30日
是非、ご利用ください。
【 フライト・スケジュール 】
■ LA4440便 (火・金〜日曜 週4便運航)
ブエノスアイレス発(AEP) 05:50 → カラファテ着(FTE) 09:01
カラファテ発(FTE) 09:50 → ウシュアイア着(USH) 11:07
ウシュアイア発(USH) 11:55 → ブエノスアイレス着(AEP) 15:23
■ LA4438便 (月・水・木・土・日曜 週5便運航)
ブエノスアイレス発(AEP) 11:00 → ウシュアイア着(USH) 14:43
ウシュアイア発(USH) 15:34 → カラファテ着(FTE) 16:49
カラファテ発(FTE) 17:40 → ブエノスアイレス着(AEP) 20:32
※運航終了日: 2009年4月30日
- メキシコ / メキシコの鉄人が行く! 旅日記 〜 「タイルの家」の物語−その5
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エリア:
- 中南米>メキシコ>メキシコシティ
- テーマ:世界遺産
- 投稿日:2008/10/10 11:48
前回の話から続く、メキシコが誇る文化遺産「タイルの家」の話の第5話となります。
第4話はこちらから
前回は、なぜビベロ伯爵の報告書の中で武家の棟梁の称号である「征夷大将軍」徳川家康が「Emperador Taikosama」(皇帝・太閤様)になったのかを見てまいりましたが、報告書の中の「不思議」はこれで終りではありませんでした。
と言うのは、この文書は当時のスペイン王 フェリッペ三世(在位1598〜1621)宛てではなく、既に10年以上前に他界している父王 フェリッペ二世に宛てに書かれていたからです。
もし「二世」と「三世」が印刷の間違いでなければ、これは「死者への手紙」だったのです。
なぜ、この様な事をしたのでしょう。まさかビベロ伯爵が、本国の王位がフェリッペ二世からその子の三世へ移った事を知らなかったはずはありません。とするとビベロ伯爵は、現国王であるフェリッペ三世を明らかに無視していたのです。
そんな事が実際に可能なのでしょうか。これには何か深い訳があるに違いありません。
まずここで、ビベロ伯爵に黙殺されたフェリッペ三世のプロフィールを見てみましょう。
彼はスペイン王であり、かつ神聖ローマ帝国皇帝のカルロス五世の孫でありました。
カルロス皇帝の統治した神聖ローマ帝国は「日の没することなし」と豪語されたほど広大で、北はオランダから南はスペイン、イタリアまでの全ヨーロッパ、それに植民地であるラテンアメリカやフィリピンまでわたっておりました。
※※余談ですが、
メキシコには「カルロス五世」(Carlos V)というチョコレートがあり、そのパッケージには皇帝の雄姿がプリントされています。
皇帝カルロス五世は神聖ローマ帝国を弟に、スペイン、イタリア、オランダと植民地、ラテンアメリカ、フィリピンを息子のフェリッペ二世に譲っています。フェリッペ二世も中々の人物ではあったそうですが、その息子のフェリッペ三世は広大な領地を維持出来ず、実際にプロテスタント化したオランダを失っているのです。
彼はマドリード発行の「スペイン史」に「無形以上の存在であった」と評されるほど目立たない王でありました。
帝王学教育をしっかりと受けてはいたらしいのですが、本人は病弱でメランコリー、かつ信心深く、礼拝堂に引きこもってはお祈りに明け暮れる毎日を過ごしていたと言います。
父王のフェリッペ二世は、こんな息子の行く末を心配し、腹心の部下を補佐役に就け息を引き取りました。しかし父王のフェリッペ二世の死後、フェリッペ三世はこの補佐役を退け、自分のお気に入りのレルマ公爵を側近とし、かつ全権を彼に委ねたのでした。
「スペイン史」(マドリード発行)には、レルマ公爵は金銭欲と名誉欲に長け、スペイン国を腐敗へと導く事にかけては有能以上であったが、現実の政治には無能振りを発揮したと書かれています。
こんな側近 レルマ公爵のせいで本国の経済は悪化し、ラテンアメリカ植民地からの収入でやっと国政を賄うほどになっていたのです。そしてその収入の約半分がメキシコからのものでありました。
レルマ公爵の悪政はスペイン全土の反発を呼び、やがて失脚するのですが、同時にフェリッペ三世も失望のあまり他界してしまったのです。王様と言えども、やはり三代目ともなると何かと大変な様です。
一方、父王のフェリッペ二世はカトリック護将の使命感に燃え、イスラム教トルコ軍をレパント海戦で破り、又、プロテスタントの攻撃にも立ち向かって行った事で、とても人気のある王でありました。又、1584年とその翌年の2回にわたり、日本からやって来た「天正少年遣欧使節」と会ったのもこの父王であるフェリッペ二世でありました。
ビベロ伯爵の人生と出世は、この父王フェリッペ二世と共にあったのです。
報告書をあえて他界したフェリッペ二世に宛てたのは「レルマ公爵に操られる息子 フェリッペ三世を自分の王とは認めない」という強い気持ちの表れではないでしょうか。
フェリッペ三世の存在がいかに無形であったかは、二代将軍 徳川秀忠の航海許可公式文書がスペイン王 フェリッペ三世ではなくレルマ公爵に出されている事からも想像がつきます。
ビベロ伯爵が二代将軍 徳川秀忠に「公式文書は国王 フェリッペ三世宛てではなく、側近 レルマ公爵に出す様に進言したのでしょう。
もちろん、ビベロ伯爵の心中はさぞ複雑だったのでしょうが、その進言を受けた徳川秀忠はスペイン国をどう見たのでしょうか。気になるところです。。。
その6につづきます。どうぞお楽しみに!!!
(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)
第4話はこちらから
前回は、なぜビベロ伯爵の報告書の中で武家の棟梁の称号である「征夷大将軍」徳川家康が「Emperador Taikosama」(皇帝・太閤様)になったのかを見てまいりましたが、報告書の中の「不思議」はこれで終りではありませんでした。
と言うのは、この文書は当時のスペイン王 フェリッペ三世(在位1598〜1621)宛てではなく、既に10年以上前に他界している父王 フェリッペ二世に宛てに書かれていたからです。
もし「二世」と「三世」が印刷の間違いでなければ、これは「死者への手紙」だったのです。
なぜ、この様な事をしたのでしょう。まさかビベロ伯爵が、本国の王位がフェリッペ二世からその子の三世へ移った事を知らなかったはずはありません。とするとビベロ伯爵は、現国王であるフェリッペ三世を明らかに無視していたのです。
そんな事が実際に可能なのでしょうか。これには何か深い訳があるに違いありません。
まずここで、ビベロ伯爵に黙殺されたフェリッペ三世のプロフィールを見てみましょう。
彼はスペイン王であり、かつ神聖ローマ帝国皇帝のカルロス五世の孫でありました。
カルロス皇帝の統治した神聖ローマ帝国は「日の没することなし」と豪語されたほど広大で、北はオランダから南はスペイン、イタリアまでの全ヨーロッパ、それに植民地であるラテンアメリカやフィリピンまでわたっておりました。
※※余談ですが、
メキシコには「カルロス五世」(Carlos V)というチョコレートがあり、そのパッケージには皇帝の雄姿がプリントされています。
皇帝カルロス五世は神聖ローマ帝国を弟に、スペイン、イタリア、オランダと植民地、ラテンアメリカ、フィリピンを息子のフェリッペ二世に譲っています。フェリッペ二世も中々の人物ではあったそうですが、その息子のフェリッペ三世は広大な領地を維持出来ず、実際にプロテスタント化したオランダを失っているのです。
彼はマドリード発行の「スペイン史」に「無形以上の存在であった」と評されるほど目立たない王でありました。
帝王学教育をしっかりと受けてはいたらしいのですが、本人は病弱でメランコリー、かつ信心深く、礼拝堂に引きこもってはお祈りに明け暮れる毎日を過ごしていたと言います。
父王のフェリッペ二世は、こんな息子の行く末を心配し、腹心の部下を補佐役に就け息を引き取りました。しかし父王のフェリッペ二世の死後、フェリッペ三世はこの補佐役を退け、自分のお気に入りのレルマ公爵を側近とし、かつ全権を彼に委ねたのでした。
「スペイン史」(マドリード発行)には、レルマ公爵は金銭欲と名誉欲に長け、スペイン国を腐敗へと導く事にかけては有能以上であったが、現実の政治には無能振りを発揮したと書かれています。
こんな側近 レルマ公爵のせいで本国の経済は悪化し、ラテンアメリカ植民地からの収入でやっと国政を賄うほどになっていたのです。そしてその収入の約半分がメキシコからのものでありました。
レルマ公爵の悪政はスペイン全土の反発を呼び、やがて失脚するのですが、同時にフェリッペ三世も失望のあまり他界してしまったのです。王様と言えども、やはり三代目ともなると何かと大変な様です。
一方、父王のフェリッペ二世はカトリック護将の使命感に燃え、イスラム教トルコ軍をレパント海戦で破り、又、プロテスタントの攻撃にも立ち向かって行った事で、とても人気のある王でありました。又、1584年とその翌年の2回にわたり、日本からやって来た「天正少年遣欧使節」と会ったのもこの父王であるフェリッペ二世でありました。
ビベロ伯爵の人生と出世は、この父王フェリッペ二世と共にあったのです。
報告書をあえて他界したフェリッペ二世に宛てたのは「レルマ公爵に操られる息子 フェリッペ三世を自分の王とは認めない」という強い気持ちの表れではないでしょうか。
フェリッペ三世の存在がいかに無形であったかは、二代将軍 徳川秀忠の航海許可公式文書がスペイン王 フェリッペ三世ではなくレルマ公爵に出されている事からも想像がつきます。
ビベロ伯爵が二代将軍 徳川秀忠に「公式文書は国王 フェリッペ三世宛てではなく、側近 レルマ公爵に出す様に進言したのでしょう。
もちろん、ビベロ伯爵の心中はさぞ複雑だったのでしょうが、その進言を受けた徳川秀忠はスペイン国をどう見たのでしょうか。気になるところです。。。
その6につづきます。どうぞお楽しみに!!!
(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)
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