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- ペルー ナスカ郊外 / 地下に新たな「ピラミッド群」の存在が明らかに
-
エリア:
- 中南米>ペルー>ナスカ
- テーマ:観光地 世界遺産
- 投稿日:2008/10/15 10:27
ペルー ナスカから約24kmの場所に位置するカワチ(Cahuachi)にて、この度、9,000ヘクタールもの広大な敷地の下(地下)に「ピラミッド群」が存在する事が、宇宙から撮影した衛星写真を解析した結果、明らかとなりました。
ピラミッド群が特定されたのはナスカ郊外のカワチ地方で、ここには以前からナスカ文化の中心地とされておりました。
ここカワチがピラミッドや神殿からなる宗教都市であった事は有名で、連なる大小の丘は、以前からピラミッドの基壇や祭壇の跡ではないかと見られておりました。
撮影によりピラミッドの存在が明らかになった場所は、現在土に覆われておりますが、既に現地ではペルー文化研究所とその他関係機関の専門家達が発掘の準備に入っているとの事です。
今後のピラミッド発掘調査結果に期待を膨らませる人は多いはず! 発掘後の姿を早く見たいですね。
下記の衛星写真をご覧ください。矢印が指されている所が、ピラミッドがあった場所です。何となくビラミッドの形が見えると思います。
ピラミッド群が特定されたのはナスカ郊外のカワチ地方で、ここには以前からナスカ文化の中心地とされておりました。
ここカワチがピラミッドや神殿からなる宗教都市であった事は有名で、連なる大小の丘は、以前からピラミッドの基壇や祭壇の跡ではないかと見られておりました。
撮影によりピラミッドの存在が明らかになった場所は、現在土に覆われておりますが、既に現地ではペルー文化研究所とその他関係機関の専門家達が発掘の準備に入っているとの事です。
今後のピラミッド発掘調査結果に期待を膨らませる人は多いはず! 発掘後の姿を早く見たいですね。
下記の衛星写真をご覧ください。矢印が指されている所が、ピラミッドがあった場所です。何となくビラミッドの形が見えると思います。

- メキシコ / メキシコの鉄人が行く! 旅日記 〜 「タイルの家」の物語−その5
-
エリア:
- 中南米>メキシコ>メキシコシティ
- テーマ:世界遺産
- 投稿日:2008/10/10 11:48
前回の話から続く、メキシコが誇る文化遺産「タイルの家」の話の第5話となります。
第4話はこちらから
前回は、なぜビベロ伯爵の報告書の中で武家の棟梁の称号である「征夷大将軍」徳川家康が「Emperador Taikosama」(皇帝・太閤様)になったのかを見てまいりましたが、報告書の中の「不思議」はこれで終りではありませんでした。
と言うのは、この文書は当時のスペイン王 フェリッペ三世(在位1598〜1621)宛てではなく、既に10年以上前に他界している父王 フェリッペ二世に宛てに書かれていたからです。
もし「二世」と「三世」が印刷の間違いでなければ、これは「死者への手紙」だったのです。
なぜ、この様な事をしたのでしょう。まさかビベロ伯爵が、本国の王位がフェリッペ二世からその子の三世へ移った事を知らなかったはずはありません。とするとビベロ伯爵は、現国王であるフェリッペ三世を明らかに無視していたのです。
そんな事が実際に可能なのでしょうか。これには何か深い訳があるに違いありません。
まずここで、ビベロ伯爵に黙殺されたフェリッペ三世のプロフィールを見てみましょう。
彼はスペイン王であり、かつ神聖ローマ帝国皇帝のカルロス五世の孫でありました。
カルロス皇帝の統治した神聖ローマ帝国は「日の没することなし」と豪語されたほど広大で、北はオランダから南はスペイン、イタリアまでの全ヨーロッパ、それに植民地であるラテンアメリカやフィリピンまでわたっておりました。
※※余談ですが、
メキシコには「カルロス五世」(Carlos V)というチョコレートがあり、そのパッケージには皇帝の雄姿がプリントされています。
皇帝カルロス五世は神聖ローマ帝国を弟に、スペイン、イタリア、オランダと植民地、ラテンアメリカ、フィリピンを息子のフェリッペ二世に譲っています。フェリッペ二世も中々の人物ではあったそうですが、その息子のフェリッペ三世は広大な領地を維持出来ず、実際にプロテスタント化したオランダを失っているのです。
彼はマドリード発行の「スペイン史」に「無形以上の存在であった」と評されるほど目立たない王でありました。
帝王学教育をしっかりと受けてはいたらしいのですが、本人は病弱でメランコリー、かつ信心深く、礼拝堂に引きこもってはお祈りに明け暮れる毎日を過ごしていたと言います。
父王のフェリッペ二世は、こんな息子の行く末を心配し、腹心の部下を補佐役に就け息を引き取りました。しかし父王のフェリッペ二世の死後、フェリッペ三世はこの補佐役を退け、自分のお気に入りのレルマ公爵を側近とし、かつ全権を彼に委ねたのでした。
「スペイン史」(マドリード発行)には、レルマ公爵は金銭欲と名誉欲に長け、スペイン国を腐敗へと導く事にかけては有能以上であったが、現実の政治には無能振りを発揮したと書かれています。
こんな側近 レルマ公爵のせいで本国の経済は悪化し、ラテンアメリカ植民地からの収入でやっと国政を賄うほどになっていたのです。そしてその収入の約半分がメキシコからのものでありました。
レルマ公爵の悪政はスペイン全土の反発を呼び、やがて失脚するのですが、同時にフェリッペ三世も失望のあまり他界してしまったのです。王様と言えども、やはり三代目ともなると何かと大変な様です。
一方、父王のフェリッペ二世はカトリック護将の使命感に燃え、イスラム教トルコ軍をレパント海戦で破り、又、プロテスタントの攻撃にも立ち向かって行った事で、とても人気のある王でありました。又、1584年とその翌年の2回にわたり、日本からやって来た「天正少年遣欧使節」と会ったのもこの父王であるフェリッペ二世でありました。
ビベロ伯爵の人生と出世は、この父王フェリッペ二世と共にあったのです。
報告書をあえて他界したフェリッペ二世に宛てたのは「レルマ公爵に操られる息子 フェリッペ三世を自分の王とは認めない」という強い気持ちの表れではないでしょうか。
フェリッペ三世の存在がいかに無形であったかは、二代将軍 徳川秀忠の航海許可公式文書がスペイン王 フェリッペ三世ではなくレルマ公爵に出されている事からも想像がつきます。
ビベロ伯爵が二代将軍 徳川秀忠に「公式文書は国王 フェリッペ三世宛てではなく、側近 レルマ公爵に出す様に進言したのでしょう。
もちろん、ビベロ伯爵の心中はさぞ複雑だったのでしょうが、その進言を受けた徳川秀忠はスペイン国をどう見たのでしょうか。気になるところです。。。
その6につづきます。どうぞお楽しみに!!!
(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)
第4話はこちらから
前回は、なぜビベロ伯爵の報告書の中で武家の棟梁の称号である「征夷大将軍」徳川家康が「Emperador Taikosama」(皇帝・太閤様)になったのかを見てまいりましたが、報告書の中の「不思議」はこれで終りではありませんでした。
と言うのは、この文書は当時のスペイン王 フェリッペ三世(在位1598〜1621)宛てではなく、既に10年以上前に他界している父王 フェリッペ二世に宛てに書かれていたからです。
もし「二世」と「三世」が印刷の間違いでなければ、これは「死者への手紙」だったのです。
なぜ、この様な事をしたのでしょう。まさかビベロ伯爵が、本国の王位がフェリッペ二世からその子の三世へ移った事を知らなかったはずはありません。とするとビベロ伯爵は、現国王であるフェリッペ三世を明らかに無視していたのです。
そんな事が実際に可能なのでしょうか。これには何か深い訳があるに違いありません。
まずここで、ビベロ伯爵に黙殺されたフェリッペ三世のプロフィールを見てみましょう。
彼はスペイン王であり、かつ神聖ローマ帝国皇帝のカルロス五世の孫でありました。
カルロス皇帝の統治した神聖ローマ帝国は「日の没することなし」と豪語されたほど広大で、北はオランダから南はスペイン、イタリアまでの全ヨーロッパ、それに植民地であるラテンアメリカやフィリピンまでわたっておりました。
※※余談ですが、
メキシコには「カルロス五世」(Carlos V)というチョコレートがあり、そのパッケージには皇帝の雄姿がプリントされています。
皇帝カルロス五世は神聖ローマ帝国を弟に、スペイン、イタリア、オランダと植民地、ラテンアメリカ、フィリピンを息子のフェリッペ二世に譲っています。フェリッペ二世も中々の人物ではあったそうですが、その息子のフェリッペ三世は広大な領地を維持出来ず、実際にプロテスタント化したオランダを失っているのです。
彼はマドリード発行の「スペイン史」に「無形以上の存在であった」と評されるほど目立たない王でありました。
帝王学教育をしっかりと受けてはいたらしいのですが、本人は病弱でメランコリー、かつ信心深く、礼拝堂に引きこもってはお祈りに明け暮れる毎日を過ごしていたと言います。
父王のフェリッペ二世は、こんな息子の行く末を心配し、腹心の部下を補佐役に就け息を引き取りました。しかし父王のフェリッペ二世の死後、フェリッペ三世はこの補佐役を退け、自分のお気に入りのレルマ公爵を側近とし、かつ全権を彼に委ねたのでした。
「スペイン史」(マドリード発行)には、レルマ公爵は金銭欲と名誉欲に長け、スペイン国を腐敗へと導く事にかけては有能以上であったが、現実の政治には無能振りを発揮したと書かれています。
こんな側近 レルマ公爵のせいで本国の経済は悪化し、ラテンアメリカ植民地からの収入でやっと国政を賄うほどになっていたのです。そしてその収入の約半分がメキシコからのものでありました。
レルマ公爵の悪政はスペイン全土の反発を呼び、やがて失脚するのですが、同時にフェリッペ三世も失望のあまり他界してしまったのです。王様と言えども、やはり三代目ともなると何かと大変な様です。
一方、父王のフェリッペ二世はカトリック護将の使命感に燃え、イスラム教トルコ軍をレパント海戦で破り、又、プロテスタントの攻撃にも立ち向かって行った事で、とても人気のある王でありました。又、1584年とその翌年の2回にわたり、日本からやって来た「天正少年遣欧使節」と会ったのもこの父王であるフェリッペ二世でありました。
ビベロ伯爵の人生と出世は、この父王フェリッペ二世と共にあったのです。
報告書をあえて他界したフェリッペ二世に宛てたのは「レルマ公爵に操られる息子 フェリッペ三世を自分の王とは認めない」という強い気持ちの表れではないでしょうか。
フェリッペ三世の存在がいかに無形であったかは、二代将軍 徳川秀忠の航海許可公式文書がスペイン王 フェリッペ三世ではなくレルマ公爵に出されている事からも想像がつきます。
ビベロ伯爵が二代将軍 徳川秀忠に「公式文書は国王 フェリッペ三世宛てではなく、側近 レルマ公爵に出す様に進言したのでしょう。
もちろん、ビベロ伯爵の心中はさぞ複雑だったのでしょうが、その進言を受けた徳川秀忠はスペイン国をどう見たのでしょうか。気になるところです。。。
その6につづきます。どうぞお楽しみに!!!
(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)

- ベトナム / ベトナム航空「ハノイ〜ドンホイ線」就航!
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エリア:
- アジア>ベトナム>ドンホイ
- アジア>ベトナム>ハノイ
- テーマ:鉄道・乗り物 世界遺産
- 投稿日:2008/09/11 13:47
ベトナム航空では、2008年9月01日より「ハノイ〜ドンホイ線」を週3便にて就航する事になりました。
この路線の就航により、ドンホイ(北中部クアンビン省)の町から西北約50kmに位置する世界遺産「フォンニャケーバン洞窟」へのアクセスが大変便利になります。
是非、ご利用下さい。
■ ハノイ〜ドンホイ線スケジュール、 (2008年9月01日〜)
* 便名: VN279便 ハノイ発(HAN) 08:30 → ドンホイ着(VDH) 10:00
* 便名: VN278便 ドンホイ発(VDH) 10:40 → ハノイ着(HAN) 12:20
※運航日: 両便とも月・水・金曜の週3便
※使用機材: 両便ともATR-72型機
※飛行時間: 両便とも約90分

この路線の就航により、ドンホイ(北中部クアンビン省)の町から西北約50kmに位置する世界遺産「フォンニャケーバン洞窟」へのアクセスが大変便利になります。
是非、ご利用下さい。
■ ハノイ〜ドンホイ線スケジュール、 (2008年9月01日〜)
* 便名: VN279便 ハノイ発(HAN) 08:30 → ドンホイ着(VDH) 10:00
* 便名: VN278便 ドンホイ発(VDH) 10:40 → ハノイ着(HAN) 12:20
※運航日: 両便とも月・水・金曜の週3便
※使用機材: 両便ともATR-72型機
※飛行時間: 両便とも約90分


- イタリア / 秋のイベントご紹介−その2
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>ローマ
- ヨーロッパ>イタリア>ナポリ
- ヨーロッパ>イタリア>パルマ
- テーマ:お祭り・イベント 鑑賞・観戦 世界遺産
- 投稿日:2008/09/09 10:59
9月といってもまだまだ夏の続くイタリアですが、この秋のシーズンにはアートイベントや食のフェスティバルなど数多くのイベントが開催されます。
これらのイベントにあわせ、是非イタリアにお越しください。
【ローマ】
■ベルカント・フェスティバル(BELCANTO FESTIVAL)
開催期間: 2008年9月12〜29日
開催場所: ローマ、音楽公園オーディトリアムにて(Auditorium Parco della Musica)
詳細: http://www.santacecilia.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
交響楽団「サンタ・チェチリア国立アカデミー」(Accademia Nazionale di Santa Cecilia)による、オペラ楽曲をフューチャーした特別プログラム。
ベッリーニのノルマ、デヴィーアや3人のテナーによるベルカントコンサート等が予定されています。
■「ラツィオの古代エトルリア」展 (ETRUSCHI. LE ANTICHE METROPOLI DEL LAZIO)
開催期間: 2008年10月16日〜2009年1月06日
開催場所: ローマ、パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーネにて(Palazzo delle Esposizioni)
詳細: http://www.palazzoesposizioni.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
古代ローマ以前に中部イタリアには、高度な文明をもつ「エトルリア人」が繁栄を謳歌していました。
同展覧会では、現在のラツィオ州周辺で栄えたヴェイオ(Veio)、チェルヴェテリ(Cerveteri)、ヴルチ(Vulci)、タルクイニア(Tarquinia)等、主要都市のエトルリアの発展の様子を芸術的観点ばかりでなく、信仰や生活様式・商業慣行等にも目を向けて検証して行きます。
この展覧会をご覧の後、世界遺産の「チェルヴェテリ」や「タルクイニアの古墳遺跡」、「エトルリア美術館」巡りもお勧めです。
【ナポリと近郊エリア】
■サン・カルロ歌劇場の歴史展 (IL TEATRO DI SAN CARLO DI NAPOLI)
開催期間: 2008年11月02日まで
開催場所: ナポリ・王宮にて(Napoli Palazzo Reale)
詳細: http://www.teatrosancarlo.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
イタリアでも格式ある歌劇場のひとつ、ナポリの「サン・カルロ劇場」。その輝かしい歴史の跡を展示する展覧会が、プレビシート広場に面した「王宮」にて無料でご覧いただけます。
サン・カルロ劇場のこれまでの様々な公演エピソードを伝えるオリジナルのスケッ
チ、衣装、デザイン画、絵画、本、写真等を通じ、往年のオペラ歌手達やバレエのスター達の栄光の姿を楽しんでいただくとともに、王宮中庭は近代アーティスト達の作品により劇場的な空間を演出しています。
■エルコラーノにバーチャル考古学博物館「MAV」誕生
開催場所: エルコラーノ(Ercolano)
詳細: http://www.capware.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
世界遺産にも登録されている古代ローマ時代の「エルコラーノ遺跡」のすぐそばに、新しい博物館「エルコラーノ・バーチャル考古学博物館」(MAV: Museo Archeologico Virtuale di Ercolano』が誕生いたしました。
レーザー、仮想現実、ホログラム、3Dスクリーン等の最新テクノロジーで、見学者を古代ローマ都市へ誘います。
ヴェズビオ火山の噴火による滅亡直前までの当時のエルコラーノの人々の生活風景も再現。音や人々の声はもちろん噴火時の温度や臭い等も体験出来ます。
【その他イタリア各地】
■カノッサのマティルデ展 (MATILDE DI CANOSSA)
開催期間: 2008年8月31日〜2009年1月11日
開催場所: マントヴァ、マンテーニャの家にて(Casa del Mantegna, Mantova)
詳細: http://www.mostramatildedicanossa.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
今年世界遺産に登録された町 マントヴァにある「マンテーニャの家」では、11世紀の史実「カノッサの屈辱」に関わった当時のトスカーナ女伯 マティルデ・ディカノッサの展覧会を開催中です。
「カノッサの屈辱」は、ローマ教皇 グレゴリウス7世に破門された神聖ローマ皇帝 ハインリヒ4世が、破門の解除を願いカノッサ城で許しを願ったという中世ヨーロッパの覇権争いの歴史上有名な事件で、法王派であったマティルデのカノッサ城で起こったのです。
展覧会では、マティルデがヴァティカンに寄贈したつづれ織りや、マティルデゆかりの装飾品、十字架等の品々が展示されています。
■パルマの生ハムフェスティバル (FESTIVAL DEL PROSCIUTTO DI PARMA)
開催期間: 2008年8月30日〜9月21日
開催場所: パルマの近郊各地にて
詳細: http://www.festivaldelprosciuttodiparma.com/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
パルマ近郊の丘陵地で生産されるパルマ産「生ハム」は、イタリアの味覚を代表する食材の一つ。ご当地パルマで開催されるフェスティバルのイベント「開かれた窓」(Finestre aperte)は、賛同するパルマの生ハム業者が、ガイド付き工場見学や無料試食会を催す企画です。
ランギラーノ村(Langhirano)にある「ハム・サラミ博物館」(Museo del prosciutto e dei salumi di Parma)も訪問すれば、パルマならでの食文化の奥深さを知る良い機会となるでしょう。
■ムジェッロ: ルネッサンス美術展 (MUGELLO CULLA DEL RINASCIMENTO)
開催期間: 2008年11月30日まで
開催場所: ムジェッロ地方 ボルゴ・サン・ロレンツォ、サン・ピエロ・ア・シエーヴェ、スカルペリア、ヴィッキオの4ヵ所
詳細: http://www.mugellorinascimento.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
ジョット、ベアト・アンジェリコ、ドナテッロ等の偉大なる芸術家とルネッサンス時代のメディチ家の栄華を4つの展覧会を通して回顧するイベント「ムジェッロ:ルネッサンスのゆりかご」が、11月30日まで開催されています。
写真左: マティルデ・ディカノッサの展覧会 (c) ENIT
写真右: ムジェッロ: ルネッサンス美術展 (c) ENIT
これらのイベントにあわせ、是非イタリアにお越しください。
【ローマ】
■ベルカント・フェスティバル(BELCANTO FESTIVAL)
開催期間: 2008年9月12〜29日
開催場所: ローマ、音楽公園オーディトリアムにて(Auditorium Parco della Musica)
詳細: http://www.santacecilia.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
交響楽団「サンタ・チェチリア国立アカデミー」(Accademia Nazionale di Santa Cecilia)による、オペラ楽曲をフューチャーした特別プログラム。
ベッリーニのノルマ、デヴィーアや3人のテナーによるベルカントコンサート等が予定されています。
■「ラツィオの古代エトルリア」展 (ETRUSCHI. LE ANTICHE METROPOLI DEL LAZIO)
開催期間: 2008年10月16日〜2009年1月06日
開催場所: ローマ、パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーネにて(Palazzo delle Esposizioni)
詳細: http://www.palazzoesposizioni.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
古代ローマ以前に中部イタリアには、高度な文明をもつ「エトルリア人」が繁栄を謳歌していました。
同展覧会では、現在のラツィオ州周辺で栄えたヴェイオ(Veio)、チェルヴェテリ(Cerveteri)、ヴルチ(Vulci)、タルクイニア(Tarquinia)等、主要都市のエトルリアの発展の様子を芸術的観点ばかりでなく、信仰や生活様式・商業慣行等にも目を向けて検証して行きます。
この展覧会をご覧の後、世界遺産の「チェルヴェテリ」や「タルクイニアの古墳遺跡」、「エトルリア美術館」巡りもお勧めです。
【ナポリと近郊エリア】
■サン・カルロ歌劇場の歴史展 (IL TEATRO DI SAN CARLO DI NAPOLI)
開催期間: 2008年11月02日まで
開催場所: ナポリ・王宮にて(Napoli Palazzo Reale)
詳細: http://www.teatrosancarlo.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
イタリアでも格式ある歌劇場のひとつ、ナポリの「サン・カルロ劇場」。その輝かしい歴史の跡を展示する展覧会が、プレビシート広場に面した「王宮」にて無料でご覧いただけます。
サン・カルロ劇場のこれまでの様々な公演エピソードを伝えるオリジナルのスケッ
チ、衣装、デザイン画、絵画、本、写真等を通じ、往年のオペラ歌手達やバレエのスター達の栄光の姿を楽しんでいただくとともに、王宮中庭は近代アーティスト達の作品により劇場的な空間を演出しています。
■エルコラーノにバーチャル考古学博物館「MAV」誕生
開催場所: エルコラーノ(Ercolano)
詳細: http://www.capware.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
世界遺産にも登録されている古代ローマ時代の「エルコラーノ遺跡」のすぐそばに、新しい博物館「エルコラーノ・バーチャル考古学博物館」(MAV: Museo Archeologico Virtuale di Ercolano』が誕生いたしました。
レーザー、仮想現実、ホログラム、3Dスクリーン等の最新テクノロジーで、見学者を古代ローマ都市へ誘います。
ヴェズビオ火山の噴火による滅亡直前までの当時のエルコラーノの人々の生活風景も再現。音や人々の声はもちろん噴火時の温度や臭い等も体験出来ます。
【その他イタリア各地】
■カノッサのマティルデ展 (MATILDE DI CANOSSA)
開催期間: 2008年8月31日〜2009年1月11日
開催場所: マントヴァ、マンテーニャの家にて(Casa del Mantegna, Mantova)
詳細: http://www.mostramatildedicanossa.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
今年世界遺産に登録された町 マントヴァにある「マンテーニャの家」では、11世紀の史実「カノッサの屈辱」に関わった当時のトスカーナ女伯 マティルデ・ディカノッサの展覧会を開催中です。
「カノッサの屈辱」は、ローマ教皇 グレゴリウス7世に破門された神聖ローマ皇帝 ハインリヒ4世が、破門の解除を願いカノッサ城で許しを願ったという中世ヨーロッパの覇権争いの歴史上有名な事件で、法王派であったマティルデのカノッサ城で起こったのです。
展覧会では、マティルデがヴァティカンに寄贈したつづれ織りや、マティルデゆかりの装飾品、十字架等の品々が展示されています。
■パルマの生ハムフェスティバル (FESTIVAL DEL PROSCIUTTO DI PARMA)
開催期間: 2008年8月30日〜9月21日
開催場所: パルマの近郊各地にて
詳細: http://www.festivaldelprosciuttodiparma.com/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
パルマ近郊の丘陵地で生産されるパルマ産「生ハム」は、イタリアの味覚を代表する食材の一つ。ご当地パルマで開催されるフェスティバルのイベント「開かれた窓」(Finestre aperte)は、賛同するパルマの生ハム業者が、ガイド付き工場見学や無料試食会を催す企画です。
ランギラーノ村(Langhirano)にある「ハム・サラミ博物館」(Museo del prosciutto e dei salumi di Parma)も訪問すれば、パルマならでの食文化の奥深さを知る良い機会となるでしょう。
■ムジェッロ: ルネッサンス美術展 (MUGELLO CULLA DEL RINASCIMENTO)
開催期間: 2008年11月30日まで
開催場所: ムジェッロ地方 ボルゴ・サン・ロレンツォ、サン・ピエロ・ア・シエーヴェ、スカルペリア、ヴィッキオの4ヵ所
詳細: http://www.mugellorinascimento.it/ (イタリア語、英語)
〔概要〕
ジョット、ベアト・アンジェリコ、ドナテッロ等の偉大なる芸術家とルネッサンス時代のメディチ家の栄華を4つの展覧会を通して回顧するイベント「ムジェッロ:ルネッサンスのゆりかご」が、11月30日まで開催されています。
写真左: マティルデ・ディカノッサの展覧会 (c) ENIT
写真右: ムジェッロ: ルネッサンス美術展 (c) ENIT

- メキシコ / メキシコの鉄人が行く! 旅日記 〜 「タイルの家」の物語−その4 〜
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エリア:
- 中南米>メキシコ>メキシコシティ
- テーマ:世界遺産
- 投稿日:2008/09/05 11:43
前回の話から続く、メキシコが誇る文化遺産「タイルの家」の話の第4話となります。
第3話はこちらから
前回、ビベロ伯爵がスペイン王に宛てた報告文に、徳川家康を「Emperador Taikosama」と記載していた事について、徳川家康がなぜ「太閤様」になってしまったのか自分なりに推測してみましたが、今回は「征夷大将軍」徳川家康が「Emperador」(皇帝又は天皇)になった訳を考えてみたいと思います。
まず思いつくのは、ビベロ伯爵が天皇の存在を知らされず、最高権力者である徳川家康をヨーロッパ式に「Emperador」という称号で呼んだのではないか、という考えです。ところが史実は違っていたのです。
ビベロ伯爵は2年近く日本に滞在していたのですが、その間、公式行事に来賓として招かれており、天皇と徳川家康の両者を同時に見ていたのです。当然、天皇の存在を知っており、又、徳川家康が常に天皇の一歩後ろにいた事も見逃していませんでした。
それを知りつつ、あえて武家の棟梁である征夷大将軍 徳川家康を「Emperador」と呼んだのはなぜなのでしょう。これはどうも、スペインのお国の事情らしいのです。
まず当時のスペイン史を紐解いてみましょう。
スペイン王の父王は「カルロス一世」であり、彼は同時に神聖ローマ皇帝「カルロス五世」でもありました。父王は死に際し、神聖ローマ皇帝の座を弟の「フェルナンド一世」に、スペイン王を息子の「フェリッペ二世」に譲っています。
皇帝は諸国の王をまとめその上に立つ者という意味があり、これから判断すると、国王より皇帝の方が上位となるのですが、皇帝には王の様に血縁者外から選ばれてなった者という別の意味もあります。
例えば、古代ローマ帝国の五賢帝(トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝等)には世襲は無く、実力で選ばれて皇帝の座についています。又、砲兵連隊より身を起こしたナポレオンはフランス王ではないけれど、最後はフランス「皇帝」になっています。
「王」が血による継承で「Emperador」が実力による選出だとしたら、徳川家康は「Emperador」という事になるのでしょう。クエルナバカの大聖堂壁画の「EMPERADOR TAICOSAMA」(皇帝・太閤様)は、正に豊臣秀吉にふさわしい呼び方だったのです。
その上、ビベロ伯爵には「王」を「皇帝」より上位にしておきたい理由があったのです。
まず彼が仕えているのはスペイン王であって、皇帝ではありませんでした。もし、日本の天皇を文字通り「Emperador」にし、徳川家康を「王」にしてしまったのでは、スペイン王が下位になってしまうと考えたのでしょう。
天皇に「王」という言葉をあて、徳川家康を「Emperador」にする事により、スペイン王が皇帝より上である事を伝えたかったのではないだろうか。
しかし、それでもまだ疑問は残ります。
徳川家康の正式敬称は「征夷大将軍」、つまり「Capitan general」です。なぜ、この正式名を使わなかったのでしょう。実は知らなかったからという訳ではなかったのです。
現に日本と取り交わした文書には「Shogun」と書かれています。しかし軍部の長を意味する「征夷大将軍」では、家康の偉大さをスペイン王に予測させるのは不可能と感じ、日本の書簡に対しては「Shogun」を、スペイン王向けの書簡には「Emperador」という使い分けをしたと思われるのです。
いつの時代でも敬称の付け方は難しいものですが、特に文化の異なる国の敬称付けは、こんな昔の時代から生やさしいものでは無かった様です。
ビベロ伯爵も、頭を痛めた末、徳川家康を「Emperador Taikosama」と呼んだのでしょうか。
その意図は、本人しか知る由もありません。
その5につづきます。 どうぞお楽しみに!!!
(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)
第3話はこちらから
前回、ビベロ伯爵がスペイン王に宛てた報告文に、徳川家康を「Emperador Taikosama」と記載していた事について、徳川家康がなぜ「太閤様」になってしまったのか自分なりに推測してみましたが、今回は「征夷大将軍」徳川家康が「Emperador」(皇帝又は天皇)になった訳を考えてみたいと思います。
まず思いつくのは、ビベロ伯爵が天皇の存在を知らされず、最高権力者である徳川家康をヨーロッパ式に「Emperador」という称号で呼んだのではないか、という考えです。ところが史実は違っていたのです。
ビベロ伯爵は2年近く日本に滞在していたのですが、その間、公式行事に来賓として招かれており、天皇と徳川家康の両者を同時に見ていたのです。当然、天皇の存在を知っており、又、徳川家康が常に天皇の一歩後ろにいた事も見逃していませんでした。
それを知りつつ、あえて武家の棟梁である征夷大将軍 徳川家康を「Emperador」と呼んだのはなぜなのでしょう。これはどうも、スペインのお国の事情らしいのです。
まず当時のスペイン史を紐解いてみましょう。
スペイン王の父王は「カルロス一世」であり、彼は同時に神聖ローマ皇帝「カルロス五世」でもありました。父王は死に際し、神聖ローマ皇帝の座を弟の「フェルナンド一世」に、スペイン王を息子の「フェリッペ二世」に譲っています。
皇帝は諸国の王をまとめその上に立つ者という意味があり、これから判断すると、国王より皇帝の方が上位となるのですが、皇帝には王の様に血縁者外から選ばれてなった者という別の意味もあります。
例えば、古代ローマ帝国の五賢帝(トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝等)には世襲は無く、実力で選ばれて皇帝の座についています。又、砲兵連隊より身を起こしたナポレオンはフランス王ではないけれど、最後はフランス「皇帝」になっています。
「王」が血による継承で「Emperador」が実力による選出だとしたら、徳川家康は「Emperador」という事になるのでしょう。クエルナバカの大聖堂壁画の「EMPERADOR TAICOSAMA」(皇帝・太閤様)は、正に豊臣秀吉にふさわしい呼び方だったのです。
その上、ビベロ伯爵には「王」を「皇帝」より上位にしておきたい理由があったのです。
まず彼が仕えているのはスペイン王であって、皇帝ではありませんでした。もし、日本の天皇を文字通り「Emperador」にし、徳川家康を「王」にしてしまったのでは、スペイン王が下位になってしまうと考えたのでしょう。
天皇に「王」という言葉をあて、徳川家康を「Emperador」にする事により、スペイン王が皇帝より上である事を伝えたかったのではないだろうか。
しかし、それでもまだ疑問は残ります。
徳川家康の正式敬称は「征夷大将軍」、つまり「Capitan general」です。なぜ、この正式名を使わなかったのでしょう。実は知らなかったからという訳ではなかったのです。
現に日本と取り交わした文書には「Shogun」と書かれています。しかし軍部の長を意味する「征夷大将軍」では、家康の偉大さをスペイン王に予測させるのは不可能と感じ、日本の書簡に対しては「Shogun」を、スペイン王向けの書簡には「Emperador」という使い分けをしたと思われるのです。
いつの時代でも敬称の付け方は難しいものですが、特に文化の異なる国の敬称付けは、こんな昔の時代から生やさしいものでは無かった様です。
ビベロ伯爵も、頭を痛めた末、徳川家康を「Emperador Taikosama」と呼んだのでしょうか。
その意図は、本人しか知る由もありません。
その5につづきます。 どうぞお楽しみに!!!
(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)
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