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旅倶楽部「こま通信」

~旅するように生きていこう~

旅倶楽部「こま通信」
旅するように生きていこう!
プロフィール

ニックネーム:
こまつうしん
居住地:
埼玉県
性別:
男性
年代:
60代
会社名:
旅倶楽部 こま通信
会社英字名:
会社所在地:
埼玉県
業種:
旅行業
自己紹介:
旅倶楽部「こま通信」代表

これまで三千日以上を旅してきて、より良い旅の為に《手造の旅》をはじめました。メンバーからの要望によって、一生モノの旅をつくっていきます。

《手造の旅》のご希望がありましたらご連絡ください。
komatsusin2@gmail.com

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記事一覧

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pope16
ベネディクト法皇バルセロナ訪問
エリア:
  • ヨーロッパ>スペイン>バルセロナ
テーマ:お祭り・イベント 
投稿日:2010/11/08 12:27
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● 2010年11月7日、バルセロナの聖家族教会は本当の意味で「教会」となった。これまでは実質工事現場にすぎなかった場所を、ローマ法王ベネディクト16世が教会として献堂(神に捧げる)式を行ったからである。
カソリック大国スペインにおいてローマ法王が訪れるというのは大変なイベント。
聖堂はこの日九千人が参列したそうだが、屋外にも四万席以上の椅子が並べられ、たくさん設置されたスクリーン越しに世紀のミサに参加した。

この日、バルセロナ観光をしていた我々にとってこれはいつもの観光が出来ない事を意味する。 聖家族教会には入場どころか、近づく事さえできない。下はこの日の聖家族教会周辺の道路封鎖地図。観光に同行してくれた地元のガイドさんが作成してくれた。
交通規制ゾーン
入場できなくても、この世紀の日にバルセロナに居合わせるのであれば、雰囲気だけでも感じたい。そう思って、聖堂の塔が見られるサン・パウ病院(ここも世界遺産指定)までバスを近づけてみた。

すると、おお、スクリーンではいましもミサを行っているベネディクト法皇の姿が映っているではないか。中南米をはじめ各国からやってきた多くのカソリック信者達も熱心に見入っている。
pope16

午後三時前、やっと封鎖線が解かれた。地下鉄も無事停車するようになったので、聖家族教会駅で降りたてみた。教会周辺にはまだまだたくさんのカソリック団体が旗をなびかせ、歌をうたいながら歩いている。
そこで売られていた法皇ブロマイド、買いました。
はめ込み合成一ユーロ(笑)

法皇ブロマイド

半熟卵
114フォーブール
エリア:
  • ヨーロッパ>フランス>パリ
テーマ:グルメ 
投稿日:2010/10/24 12:16
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2009年9月に改装し、新しくなったブリストルホテルにあるカジュアル・レストラン、その名前は住所そのままの「114フォーブール」をちょっとご紹介いたします。

今年2010年には英国の業界雑誌「ホテル・マネージメント・インターナショナル」にてヨーロッパ・ホスピタリティ賞」を得たそうな。

前菜に下記の品、さて何だと思われます?
半熟卵
話題のメニュー卵。
メニューに「完熟」「半熟」とあって、半熟を注文。想像できないスタイルにて、アスパラときのこと共に、まさに好きにならずにいられない。

アーティチョークとトリュフのスープは
アーティチョークスープ
器もシックで美しい。

舌平目
舌ひらめのムニエル

羊、ここにもアーティチョーク。
羊肉

ワインは少々贅沢にマルゴーの2000年
マルゴー2000

教会のバロック天井
メルク修道院のバロック
エリア:
  • ヨーロッパ>オーストリア>メルク
テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2010/10/18 22:53
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ドナウ川ヴァッハウ渓谷クルーズの乗り場としても知られる、オーストリア屈指の大修道院がこのシュティフト・メルク。シュティフトとは大きな捧げ物を意味する。
メルクの教会外観
ドナウ川を見下ろす崖の上に18世紀から建つ教会。

多くのツアーは外からの写真で過ぎてゆくけれど、内部見学ツアーはなかなか見ごたえがある。女帝マリア・テレジアも何度も訪れた場所で、入り口の豪華な階段を登るとハプスブルグ家、その前の支配者バーベンベルグ家の肖像画が掲げてあるが、主としてはベネディクト派の僧院としての歴史展示である。

まずは聖ベネディクトがお出迎え。
ベネディクトの「聞け」
HOREとはベネディクト派教本のはじめの言葉。「聞け」という意味になる。
彼らのモットーは「学ぶ事」「祈る事」「耕す事」であった。
これは13世紀イタリアで制作された羊皮紙の会則本。
ベネディクト派教本
修道院いちばんのお宝は1040年に奉納された「聖十字架」の断片。
これにまつわる伝説についての祭壇画が残されている。
聖十字架伝説
盗難にあってしまった「聖十字架」がヴィーンで発見され、その帰属をめぐりメルクと争いになる。
ドナウ川に浮かべて流れていった方の所有にしようというヴィーン側の陰謀テイアン。しかし、十字架は流れに逆らってメルクに到着したという話。

再利用するお棺
1780年代に私用された「棺桶再利用」システムのつけられたお棺。埋葬されると遺体だけそこから土の中に置いて棺桶は再利用のさめに引き上げられたのである。

モーツァルトが亡くなったのもまさにこの「節約志向」の時代。それによって、彼の遺体もまた共同墓地へはいることになってしまった。
節約志向を命令した皇帝曰く「人間が死んだからといって木が死ぬ事はない」。

メルク村
途中、ドナウ川を見下ろすテラスに出られる。

このテラスを挟んでシンメトリーにつくられた長方形の大広間がひとつのみどころ。
ベネディクト派教則本
こちらはそのひとつで、修道院の心臓部とも言える図書室である。
8万冊の蔵書があるそうな。こられの書物の背表紙が同じデザインになっている事に常々不思議を感じていたが、これは所有者がそろえるのだそうだ。
現代の図書感覚とは全く違う。

そして、ユニークな螺旋階段を下りて本堂へ。
階段2
階段
教会の天上には聖ベネディクトの生涯が美しく描かれている。
教会のバロック天井

ゴシック柱
ザルツブルグの美しいゴシック教会
エリア:
  • ヨーロッパ>オーストリア>ザルツブルク
テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2010/10/16 20:59
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バロック装飾がめだつザルツブルグの教会の中で、この現フランチェスコ派の修道院教会だけは、美しいゴシックの天井と柱で他とは一味違う雰囲気を持っている。

下はホーエン・ザルツブルグ城から見たところ。
城から見たザルツブルグ
ひときわ目立つ丸い後陣は大聖堂。その左上に黒い三角にとがった屋根と塔を持っているのがこのフランチェスコ派の教会だ。

もっとも、ここがフランチェスコ派に任されたのは1635年からの事にすぎないのだけれど。

もともと八世紀にはこの場所に教会があり、11世紀頃かと想像されるロマネスク構造は入り口の方のアーチにそのスタイルを留めている。
教会内部
ロマネスクのアーチの向こうに、より高く明るいゴシックの後陣が見えてくる。

そして後陣入り口に立って見上げると、五本の柱に支えられた華麗なゴシック天井が見る人を圧倒する。
ゴシック柱
この後陣部分は1223年に火災の後立て直されたので、それ以前のロマネスクと違う構造になったというわけだ。

1139年には教区教会に昇格し、1490年代には両開きのもっと大きな祭壇が造られていたそうである。 理由は分からないが、残念ながらその祭壇は解体されて、その一部を利用して1561年制作の現在の中央祭壇となる。
中央祭壇

ひときわ目をひく中央のマリヤ像。
パッハーのマドンナ
これはミヒャエル・パッハーが1495〜98年までかけて制作した旧祭壇の為の像を再利用してここに設置されたもの。

まわりの教会が当時はやりのバロックに改装されていく中、この教会だけはゴシックとそれ以前のロマネスクの雰囲気を保ちながら現代まで受け継がれてきた。

ゴシックの柱には15世紀終わりごろのフレスコ画がまだはっきりと見られる。

フレスコ画

マイヤーリンク外観
皇太子ルドルフの妻は
エリア:
  • ヨーロッパ>オーストリア
テーマ:歴史・文化・芸術 
投稿日:2010/10/12 23:51
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ハプスブルグ「最後の皇帝」フランツ・ヨーゼフの一人息子ルドルフが、1889年1月30日に16歳の少女と心中したマイヤーリンクを訪ねた。
マイヤーリンク外観
秋のはじめ、気持ちよく晴れた青空と枯葉の中、その奇妙な建物があった。
狩猟の館だったこの建物は、皇太子とその心中相手が無残な姿で発見された部屋だけを教会にしてしまったのである。

この教会堂の次の部屋にいくと、そこからルドルフとフランツ・ヨーゼフ皇帝の確執などを説明する展示がはじまる。

その中で、いきなりぎょっとさせる棺桶がたてかけてある。
ヴェッツェラーの棺
これは、心中相手マリー・ヴェッツェラーの棺桶。

何ゆえここに実物があるのか?ガイドさんが説明してくれた。

ルドルフの死の一報をうけて、フランツ・ヨーゼフ皇帝は「あの女が息子を殺したに違いない」と思い込んだそうな。 皇太子の遺体が丁寧に移送される一方、マリーの遺体はしばらく放置されていた。誰も、皇帝の怒りをかいたくはない。

しかし、とにかく埋葬を、ということで、いちばん近くの墓地である歴史あるハイリゲン・クロイツ修道院へ運び埋葬された。それが、この棺桶。

埋葬された棺桶をこじ開けたのは第二次大戦の折、ヴィーンを「開放」したソ連軍の兵士だった。よく見ると確かに壊されているのが分かる。副葬品に宝石やなにかを狙ったらしい。

混乱の後、遺体は新しい棺桶に改葬され、この棺桶は修道院の片隅にほおって置かれていたのだが、近年観光客向けにここへ移されたという事である。

心中相手に選ばれたマリー・ヴェッツェラーは、実は「本命」ではなかった。皇太子ルドルフははじめ別の相手に心中をもちかけたのに断られていたのである。マリーはそこの事、知っていたのかしらん?

ルドルフをめぐる「かわいそうな彼女」は、実はもっと他にいた。ルドルフの本妻ベルギー皇女ステファニーである。ルドルフは1880年3月にブリュッセルで二日だけ彼女と過ごしてすぐに婚約。翌年5月19日にヴィーンのアウグスティーナ教会で結婚している。下の写真左が彼女。
ステファニー
※余談:帝国の天文学者はその年に発見した小惑星を220ステファニーと名付け、人類史上はじめて星が結婚プレゼントにされたのだそうだ。

右は皇太子が自殺を決意した後に彼女に向けて書いた遺書と呼べるもの。内容は「娘のことをよろしく」など、ありがちな事柄を書いているのだが、なんと、ステファニーのアルファベット綴りが間違っている!!

STEPHANIE が本当なのに、STEFANIE なのだ。

遺書で亭主に自分の名前を間違われるなんて、この事件でいちばん悲劇的なのは、このステファニーじゃなかろうか。面の皮でありまする。

・・・と思ってステファニーの事を少し調べてみると、いやいや、彼女は彼女で旅先でであったポーランドの貴族とよろしくやっていたらしい。当時の貴族社会では、ま、「あり」の夫婦関係だったのだろう。

ルドフルの死後、11年を経た1900年。
36歳の彼女はひとつ年上のハンガリー貴族と二度目の結婚。
現スロバキア領にある城で暮らすことになった。

1945年、第二次大戦末期、ソビエト軍がハンガリーを「開放」、八十歳を過ぎていた彼女とその夫は城を追われ、同年8月23日、彼女はパンノンハルマ(ハンガリーの世界遺産指定された修道院がある)にて生涯を終えた。

生前彼女が書いたという暴露本「I was to be Empress(私は皇后になるはずだった)」という本は、日本語で読めるのだろうか?

※ステファニーの生涯についてはは、主にWikipedia辞典を参考にしました。

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