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- パウル・クレー・センターで昼食を
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エリア:
- ヨーロッパ>スイス>ベルン
- テーマ:グルメ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2012/10/29 13:52
- コメント(2)
ベルンからトラムで十分ぐらいの郊外に「パウル・クレー・センター」がある。モダンな美しい建物だが、今日の目的はそこに付属したレストラン。
建物入口の紅葉した楓に反応してしまうのは日本人だけではないでしょうね。波打った緑色のデザインがこのセンターのシンボルになっている。
ドアを入るとKOMA-Tsusin Swiss Autumn Tour 9daysと案内版があった。
今日のメニュー
ナプキンもこのセンターのシンボルがはいってしゃれている。
●アミューズは牛肉のタルタル(ユッケ風生肉)イタリアン・パセリ乗せ。
赤いのはバラのソース。下にひかれた黒い線は「ソイソース・カラメル」と説明された。「日本風なんですね」と反応すると、「皆さんは日本からなんですね」とにっこり。遠来の客をゆっくりもてなしてくれようとする雰囲気が嬉しい。
●前菜はFreiland Nusslisalatオミナエシのサラダ〜器にもびっくり
バイオ卵を65℃で半熟に、パルメザンチーズ、黒い○はビゴール産豚のベーコンをパリパリにしたもの。ビネガー風味のドレッシングがからめてある。これらを合わせての食感と味わいは絶妙。
●主菜はGreyerzer Poularde鶏肉だが、付け合せの野菜も充分主役。この色とりどりの美しさはさすが美術館のレストラン。
ニンジンが赤も黄色も甘い。丸いのはラディッシュ、トマト・ピューレ、セロリのムース、リコッタ・チーズのスフレ。鶏肉にはスペインのハムとセージが挟み込んであった。
●デザートの前菜〜メニューにはなかったチョコレート料理三種
右から、シャーベットをチョコでコーティングしてカルア・ミルクの泡をのせたもの、センターのシンボルが入ったカネロニ風コーヒー味、プラリネのコーヒー味。
●デザート主菜はTatinリンゴですね。
手前はサワークリーム。スポイトに入ったカラメルソースを好みでかける。
退出の時、ひとりひとりに黄色い箱に入ったお土産を手渡してくれた。
中身は小さなお菓子四種類。夕飯はこれをつまめば充分かしらん。
建物入口の紅葉した楓に反応してしまうのは日本人だけではないでしょうね。波打った緑色のデザインがこのセンターのシンボルになっている。
ドアを入るとKOMA-Tsusin Swiss Autumn Tour 9daysと案内版があった。
今日のメニュー
ナプキンもこのセンターのシンボルがはいってしゃれている。
●アミューズは牛肉のタルタル(ユッケ風生肉)イタリアン・パセリ乗せ。
赤いのはバラのソース。下にひかれた黒い線は「ソイソース・カラメル」と説明された。「日本風なんですね」と反応すると、「皆さんは日本からなんですね」とにっこり。遠来の客をゆっくりもてなしてくれようとする雰囲気が嬉しい。
●前菜はFreiland Nusslisalatオミナエシのサラダ〜器にもびっくり
バイオ卵を65℃で半熟に、パルメザンチーズ、黒い○はビゴール産豚のベーコンをパリパリにしたもの。ビネガー風味のドレッシングがからめてある。これらを合わせての食感と味わいは絶妙。
●主菜はGreyerzer Poularde鶏肉だが、付け合せの野菜も充分主役。この色とりどりの美しさはさすが美術館のレストラン。
ニンジンが赤も黄色も甘い。丸いのはラディッシュ、トマト・ピューレ、セロリのムース、リコッタ・チーズのスフレ。鶏肉にはスペインのハムとセージが挟み込んであった。
●デザートの前菜〜メニューにはなかったチョコレート料理三種
右から、シャーベットをチョコでコーティングしてカルア・ミルクの泡をのせたもの、センターのシンボルが入ったカネロニ風コーヒー味、プラリネのコーヒー味。
●デザート主菜はTatinリンゴですね。
手前はサワークリーム。スポイトに入ったカラメルソースを好みでかける。
退出の時、ひとりひとりに黄色い箱に入ったお土産を手渡してくれた。
中身は小さなお菓子四種類。夕飯はこれをつまめば充分かしらん。
- 旧ホーラ(コーラ)教会の素晴らしきモザイク画〜テオドラ・メトキテスは父と同じだったのか
-
エリア:
- 中近東>トルコ>イスタンブール
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2012/10/07 10:30
- コメント(1)
イスタンブルのエディルネ門近くにある旧ビザンチン(東ローマ帝国)時代のホーラ(コーラ)教会は、その美しいモザイク画で人々を集めている。
トルコに征服された後カーリエモスクとなりミナレットが加わった。モスク時代に内部の装飾はしっくいに塗り込められていたが、聖堂の外見はそのまま。共和国時代になりアヤソフィアと同様に無宗教の博物館として公開されるようになり往時のモザイク画を堪能できる。
質素な入口
現在の博物館としての入口は建物左側に回り込んだところになってしまったが、入ってすぐのナルテクス(前郎)はこのようになっている。
「ホーラ(コーラ)」という名前は「郊外」を意味すると、多くのガイドブックで説明されている。コンスタンチヌスの城壁の当時にこの場所は城壁の外でありたしかに「郊外」であったのだが・・・よく調べていくと別の語源のほうが正しいように思えてきた。
※以下の説については、現地のガイドブックと「コンスタンチノープルを歩く」尚樹啓太郎著・東海大学出版会を主に参考にしています。
「ホーラ」とはギリシャ語に由来し、もともと「土地・場所」という意味をもっている。神聖な聖母の胎内=という「本来入れる器のなどないものの宿る場所」を表している。
この説明を裏付けるようなモザイクを、入口を入ってすぐ上のモザイク画にみつけた。
マリアの胎内という場所(ホーラ)のキリストが描かれている。
この教会の本当の起源は分かっていない。最古の伝説としては298年にニコメディア(現イズミット)で殉教した聖バビラスの遺体が葬られた場所というのがある。ここが「郊外」であった413年(テオドシウス城壁建設)以前に起源を求めようとすると、ちょっと無理のある説明が必要になるようだ。
考古学的な研究によると、現存する一番古い部分は6世紀頃。イコノクラシス(イコン破壊運動)以前にも何か聖堂があったようだが、843年のイコン復活以前には荒廃していたと推察される。
それを復興させ、(1077〜81年頃とされる)第一の教会を建てたのはマリア・ドゥカエナ(コムネノス朝の始祖アレクシウス1世の義母)。これはおそらくしばらくして地震によって壊れた。
12世紀はじめ、第二の教会を建てたのはマリア・ドゥカエナの孫にあたるイサキオス・コムネノス(皇帝アレクシウスの三男)。彼の肖像は二番目のナルテクス(前郎)を入って右手に描かれた巨大なデイシス(マリアとキリストに奉納者が請願している図)
この中の左下に描かれている。
同じデイシスの中の右下に女性が描かれていて、てっきりこれが第一の教会をたてたマリア・ドゥカエナだとおもった
しかし、多くの資料はこれを「モンゴルの婦人」と呼ばれた皇帝の私生児マリアと解説している。1281年まで現在のイランを支配していたモンゴル・ハン・フラグに嫁していて、夫君の死後帰国したマリアになる。
別の資料では「メラニという修道女」としてあった。
このデイシスを作らせたのは、第三のホーラ教会を建設したテオドラ・メトキテスに違いない。現在見るこの素晴らしいモザイク群で飾り立てた人物だ。
彼自身の肖像モザイクが、第二ナルテクスから本堂へ入る入口の上に描かれている。
と、すれば。その近くに描かれた二人は、第一と第二の教会を建設させた人物であるのが妥当ではないだろうか?
つまり、デイシスの右手描かれたのは、第一教会の建設者マリア・ドゥカエナでは?でも、彼女は修道女姿で描かれるような晩年を過ごしてはいない・・・いろんな想像がひろがります。
モザイク肖像の人物・テオドラ・メトキテスは波乱の生涯を送っている。
父ヨルゴス(ゲオルギウス=英語のジョージ)・メトキテスも宮廷の人物だったが、失脚しニケアに遠ざけられていた。テオドロスは1290年か91年にそこで生まれ修道院に入っていたが、チャンスがめぐってきた。
アンドロニコス二世皇帝がニケアを訪問した際に認められ、若干20才で首都の宮廷に呼ばれたのである。
36才の時には首相の地位にまで上り詰め、五人の息子と一人の娘をもうけた。かつて失脚していた父はきっと感涙にむせんでいたことだろう。
1321年51才の時、このホーラ教会の庇護者となり、これらの素晴らしいモザイクを描かせた。自分自身がキリストに教会をささげるモザイクはこの時のものにちがいない。
しかし、運命は暗転する。
1328年皇帝の孫アンドロニコス三世による政変。テオドロスは58才にして財産を没収され、家を焼かれ首都を追放された。かつての父と同じ運命が彼をおそったのである。
※父ヨルゴスは同じ年に没している。息子の失脚を見ずにすんだのなら幸いである。
二年後、彼は一修道して首都に戻ることを許され、神に捧げたが故に没収も破壊もされなかったホーラ教会に住んだ。修道士セオレプトスとして1332年3月13日72歳で没し、この教会に葬られている。
下の写真、左手のアーチの中がそれとされている。
**
このような経緯で十四世紀はじめに制作されたモザイク群は、6世紀のアヤソフィアにも匹敵する素晴らしさだ。ペテロの顔の細部には目を奪われる。
パオロもまたしかり
本堂にもかつてはモザイク画があったのだろうけれど、今はほとんど残されていない。はがされたというよりも、後代の地震によるダメージがひどかったらしい。ドームは再建であるという。
「聖母被昇天」があるがこちらは技術的に少し劣って見える。
本堂で注目したいのは、アヤソフィアと同じ大理石を薄く切った壁の装飾。
建物後ろにまわると、千年を生き延びてきた聖堂が分厚い柱に支えられているのがわかる。
トルコに征服された後カーリエモスクとなりミナレットが加わった。モスク時代に内部の装飾はしっくいに塗り込められていたが、聖堂の外見はそのまま。共和国時代になりアヤソフィアと同様に無宗教の博物館として公開されるようになり往時のモザイク画を堪能できる。
質素な入口
現在の博物館としての入口は建物左側に回り込んだところになってしまったが、入ってすぐのナルテクス(前郎)はこのようになっている。
「ホーラ(コーラ)」という名前は「郊外」を意味すると、多くのガイドブックで説明されている。コンスタンチヌスの城壁の当時にこの場所は城壁の外でありたしかに「郊外」であったのだが・・・よく調べていくと別の語源のほうが正しいように思えてきた。
※以下の説については、現地のガイドブックと「コンスタンチノープルを歩く」尚樹啓太郎著・東海大学出版会を主に参考にしています。
「ホーラ」とはギリシャ語に由来し、もともと「土地・場所」という意味をもっている。神聖な聖母の胎内=という「本来入れる器のなどないものの宿る場所」を表している。
この説明を裏付けるようなモザイクを、入口を入ってすぐ上のモザイク画にみつけた。
マリアの胎内という場所(ホーラ)のキリストが描かれている。
この教会の本当の起源は分かっていない。最古の伝説としては298年にニコメディア(現イズミット)で殉教した聖バビラスの遺体が葬られた場所というのがある。ここが「郊外」であった413年(テオドシウス城壁建設)以前に起源を求めようとすると、ちょっと無理のある説明が必要になるようだ。
考古学的な研究によると、現存する一番古い部分は6世紀頃。イコノクラシス(イコン破壊運動)以前にも何か聖堂があったようだが、843年のイコン復活以前には荒廃していたと推察される。
それを復興させ、(1077〜81年頃とされる)第一の教会を建てたのはマリア・ドゥカエナ(コムネノス朝の始祖アレクシウス1世の義母)。これはおそらくしばらくして地震によって壊れた。
12世紀はじめ、第二の教会を建てたのはマリア・ドゥカエナの孫にあたるイサキオス・コムネノス(皇帝アレクシウスの三男)。彼の肖像は二番目のナルテクス(前郎)を入って右手に描かれた巨大なデイシス(マリアとキリストに奉納者が請願している図)
この中の左下に描かれている。
同じデイシスの中の右下に女性が描かれていて、てっきりこれが第一の教会をたてたマリア・ドゥカエナだとおもった
しかし、多くの資料はこれを「モンゴルの婦人」と呼ばれた皇帝の私生児マリアと解説している。1281年まで現在のイランを支配していたモンゴル・ハン・フラグに嫁していて、夫君の死後帰国したマリアになる。
別の資料では「メラニという修道女」としてあった。
このデイシスを作らせたのは、第三のホーラ教会を建設したテオドラ・メトキテスに違いない。現在見るこの素晴らしいモザイク群で飾り立てた人物だ。
彼自身の肖像モザイクが、第二ナルテクスから本堂へ入る入口の上に描かれている。
と、すれば。その近くに描かれた二人は、第一と第二の教会を建設させた人物であるのが妥当ではないだろうか?
つまり、デイシスの右手描かれたのは、第一教会の建設者マリア・ドゥカエナでは?でも、彼女は修道女姿で描かれるような晩年を過ごしてはいない・・・いろんな想像がひろがります。
モザイク肖像の人物・テオドラ・メトキテスは波乱の生涯を送っている。
父ヨルゴス(ゲオルギウス=英語のジョージ)・メトキテスも宮廷の人物だったが、失脚しニケアに遠ざけられていた。テオドロスは1290年か91年にそこで生まれ修道院に入っていたが、チャンスがめぐってきた。
アンドロニコス二世皇帝がニケアを訪問した際に認められ、若干20才で首都の宮廷に呼ばれたのである。
36才の時には首相の地位にまで上り詰め、五人の息子と一人の娘をもうけた。かつて失脚していた父はきっと感涙にむせんでいたことだろう。
1321年51才の時、このホーラ教会の庇護者となり、これらの素晴らしいモザイクを描かせた。自分自身がキリストに教会をささげるモザイクはこの時のものにちがいない。
しかし、運命は暗転する。
1328年皇帝の孫アンドロニコス三世による政変。テオドロスは58才にして財産を没収され、家を焼かれ首都を追放された。かつての父と同じ運命が彼をおそったのである。
※父ヨルゴスは同じ年に没している。息子の失脚を見ずにすんだのなら幸いである。
二年後、彼は一修道して首都に戻ることを許され、神に捧げたが故に没収も破壊もされなかったホーラ教会に住んだ。修道士セオレプトスとして1332年3月13日72歳で没し、この教会に葬られている。
下の写真、左手のアーチの中がそれとされている。
**
このような経緯で十四世紀はじめに制作されたモザイク群は、6世紀のアヤソフィアにも匹敵する素晴らしさだ。ペテロの顔の細部には目を奪われる。
パオロもまたしかり
本堂にもかつてはモザイク画があったのだろうけれど、今はほとんど残されていない。はがされたというよりも、後代の地震によるダメージがひどかったらしい。ドームは再建であるという。
「聖母被昇天」があるがこちらは技術的に少し劣って見える。
本堂で注目したいのは、アヤソフィアと同じ大理石を薄く切った壁の装飾。
建物後ろにまわると、千年を生き延びてきた聖堂が分厚い柱に支えられているのがわかる。
- トルコで一番長い石橋
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エリア:
- 中近東>トルコ
- テーマ:街中・建物・景色
- 投稿日:2012/10/02 09:40
- コメント(0)
トルコとギリシャとの国境をなすメルチ川の支流、エルギン川に十五世紀前半(1427〜1443年)にかけられた石橋が今も現役である。
174のアーチによって支えられた1329mの橋だったが、現在は二つのアーチが減らされ(護岸工事などによる?)1238m55cmとなっている(現地の案内板による)。
古い時代にはアラビア語でジスリ(橋)・エルギネ(エルギン川の)と呼ばれていた。
おもしろいライオン?とチューリップの彫刻があった。イスラムは人物や動物を表現しないのが通常だが、古い時代にはオスマン・トルコ時代でもこういった動物は描かれていたそうだ。これは建設当初の彫刻なのかもしれない。
ここへ至る道はいちめんのひまわり畑。9月半ばということで刈り取られてしまっていたが、これが咲き誇る時期にはスペイン南部にも負けない黄色い花の海だったことだろう。橋のたもとにもひまわり油を生産する工場があった。
この時代、イスタンブルはまだ東ローマ帝国=ビザンチン帝国のもの。オスマン・トルコの首都は現在のギリシャ国境すれすれのエディルネだった。
当然、首都への交通は重要。特に港との物資輸送は生命線でもある。マルマラ海に面した当時の主要港テキルダから首都エディルネまでの輸送路を遮る川を渡るための橋を建設したのである。
そして、橋のあるところに街が出現する。西岸には今でもウズンキョプルの街がある。オスマン・トルコは後年にもたくさんの石橋を建設したが、現在に至ってもこれが一番長い橋。
建設当時には想定されなかった重量の車がどんどん渡ってゆく。
十五世紀の橋がこれだけの強度を持っているのは、やはり有効な改修が何度も行われたからだ。十五世紀の後半メフメット2世が早くも一回目の改修。
十七世紀前半オスマン二世、十九世紀マフムット二世、アブドゥルハミット。
最後は共和国になってからの1964年から1971年にかけて、おそらく一番大規模な改修だっただろう。この時橋の幅をそれぞれ71cmずつ・合計1m42cm広げて巾6m80〜90cmとなった(解説版による)。
**
ガイドさんによれば近辺の住民にはロマ族(いわゆるジプシー)が多いそうだ。すれちがった彼らはたしかに少し違った風貌をしていた。
道路標識には「YUNANISTAN=ギリシャ」という表示が見える。
これについては下記にもう少し詳しく書きました。
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=20120927
174のアーチによって支えられた1329mの橋だったが、現在は二つのアーチが減らされ(護岸工事などによる?)1238m55cmとなっている(現地の案内板による)。
古い時代にはアラビア語でジスリ(橋)・エルギネ(エルギン川の)と呼ばれていた。
おもしろいライオン?とチューリップの彫刻があった。イスラムは人物や動物を表現しないのが通常だが、古い時代にはオスマン・トルコ時代でもこういった動物は描かれていたそうだ。これは建設当初の彫刻なのかもしれない。
ここへ至る道はいちめんのひまわり畑。9月半ばということで刈り取られてしまっていたが、これが咲き誇る時期にはスペイン南部にも負けない黄色い花の海だったことだろう。橋のたもとにもひまわり油を生産する工場があった。
この時代、イスタンブルはまだ東ローマ帝国=ビザンチン帝国のもの。オスマン・トルコの首都は現在のギリシャ国境すれすれのエディルネだった。
当然、首都への交通は重要。特に港との物資輸送は生命線でもある。マルマラ海に面した当時の主要港テキルダから首都エディルネまでの輸送路を遮る川を渡るための橋を建設したのである。
そして、橋のあるところに街が出現する。西岸には今でもウズンキョプルの街がある。オスマン・トルコは後年にもたくさんの石橋を建設したが、現在に至ってもこれが一番長い橋。
建設当時には想定されなかった重量の車がどんどん渡ってゆく。
十五世紀の橋がこれだけの強度を持っているのは、やはり有効な改修が何度も行われたからだ。十五世紀の後半メフメット2世が早くも一回目の改修。
十七世紀前半オスマン二世、十九世紀マフムット二世、アブドゥルハミット。
最後は共和国になってからの1964年から1971年にかけて、おそらく一番大規模な改修だっただろう。この時橋の幅をそれぞれ71cmずつ・合計1m42cm広げて巾6m80〜90cmとなった(解説版による)。
**
ガイドさんによれば近辺の住民にはロマ族(いわゆるジプシー)が多いそうだ。すれちがった彼らはたしかに少し違った風貌をしていた。
道路標識には「YUNANISTAN=ギリシャ」という表示が見える。
これについては下記にもう少し詳しく書きました。
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=20120927
- エディルネの古いモスク
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エリア:
- 中近東>トルコ
- テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2012/09/28 11:55
- コメント(0)
トルコの西の端、オスマン・トルコ二番目の首都だったエディルネには、2011年世界遺産に認定された16世紀のセリミエモスクがある。いかにも美しく洗練されたスタイル。
建築家シナンの像もある。
ここでご紹介するのは、それより百年以上前の15世紀はじめに建設されたエスキ・モスク。外観を比べると洗練度ではまったくかなわない。
しかし、内部は一見の価値がある。
入口にはこの時代のモスクに特徴的なアラビア文字のカリギュラフィー(いわば習字)。入口右手に「アッラー」、左手に「ムハンマド(マホメット)」
窓が少ないからライトがついていなければ大分暗い空間だろう。
これらの文字装飾は同じ時期に描かれたのではなく、それぞれ別の機会に書き足されていったのだそうだ。書体も様々だ。
一角にイマム(イスラム教の説教者・導師)の座る高い椅子があり、その上にアラビア文字のトルコ語で説明書きがある。
これは、ムラート2世がアンカラより招聘した徳のあるイマム、ハッジ・バイラン・ヴェリが説教した台。彼に敬意を評してほかのイマムはここを使わない。彼にはこんなエピソードがある。
★1432年にある日、ムラート2世はなかなか陥落しないコンスタンティノープルについて、バイラン・ヴェリに問うた。
「コンスタンチィノープルはいつ落とせましょうか?」
バイラン・ヴェリは答えた。
「あなたにそれはできますまい。私もまた生きてそれを見ることはできはせぬ。それができるのは、この子じゃ。」
かたわらにはムラート2世の三男メフメットがいた。
「わしの弟子のアクシェムヒディンもまた、それを見ることになるだろう。」弟子はメフメットの教師に任命された。
メッカの方向を示すミヒラブと説教段ミンバルの間の壁に、黒い石がはめこんである。
これについてはこちらに書きました。
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=20120924
★このモスクの建設がはじまった時のスルタンはバヤズィット1世。モスクの名前は皇位継承者の長男スレイマンの名前にちなんで「スレイマニエ・モスク」と命名されていた。
しかし、1402年アンカラの戦いでバヤズィットがチムールに捕らえられ、サマルカンドに護送される途上で死去すると、四人の兄弟のあいだで皇位継承争いがはじまった。
モスクの建設は中断。1414年に完成させたのは次男のメフメット1世。コンスタンティノープルを陥落させたメフメット2世の祖父にあたる人物である。
モスクの名前は変えられ、今は単にエスキ(古い)ジャミー(モスク)とだけ呼ばれている。
建築家シナンの像もある。
ここでご紹介するのは、それより百年以上前の15世紀はじめに建設されたエスキ・モスク。外観を比べると洗練度ではまったくかなわない。
しかし、内部は一見の価値がある。
入口にはこの時代のモスクに特徴的なアラビア文字のカリギュラフィー(いわば習字)。入口右手に「アッラー」、左手に「ムハンマド(マホメット)」
窓が少ないからライトがついていなければ大分暗い空間だろう。
これらの文字装飾は同じ時期に描かれたのではなく、それぞれ別の機会に書き足されていったのだそうだ。書体も様々だ。
一角にイマム(イスラム教の説教者・導師)の座る高い椅子があり、その上にアラビア文字のトルコ語で説明書きがある。
これは、ムラート2世がアンカラより招聘した徳のあるイマム、ハッジ・バイラン・ヴェリが説教した台。彼に敬意を評してほかのイマムはここを使わない。彼にはこんなエピソードがある。
★1432年にある日、ムラート2世はなかなか陥落しないコンスタンティノープルについて、バイラン・ヴェリに問うた。
「コンスタンチィノープルはいつ落とせましょうか?」
バイラン・ヴェリは答えた。
「あなたにそれはできますまい。私もまた生きてそれを見ることはできはせぬ。それができるのは、この子じゃ。」
かたわらにはムラート2世の三男メフメットがいた。
「わしの弟子のアクシェムヒディンもまた、それを見ることになるだろう。」弟子はメフメットの教師に任命された。
メッカの方向を示すミヒラブと説教段ミンバルの間の壁に、黒い石がはめこんである。
これについてはこちらに書きました。
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=20120924
★このモスクの建設がはじまった時のスルタンはバヤズィット1世。モスクの名前は皇位継承者の長男スレイマンの名前にちなんで「スレイマニエ・モスク」と命名されていた。
しかし、1402年アンカラの戦いでバヤズィットがチムールに捕らえられ、サマルカンドに護送される途上で死去すると、四人の兄弟のあいだで皇位継承争いがはじまった。
モスクの建設は中断。1414年に完成させたのは次男のメフメット1世。コンスタンティノープルを陥落させたメフメット2世の祖父にあたる人物である。
モスクの名前は変えられ、今は単にエスキ(古い)ジャミー(モスク)とだけ呼ばれている。
- ミレレオンは街に埋もれて
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エリア:
- 中近東>トルコ>イスタンブール
- テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2012/09/27 10:37
- コメント(0)
イスタンブル旧市街のボドルム・モスクはロシア系の革問屋が軒を並べるなかにひっそりうもれていた。
もとはビザンチン時代の教会。ミレレオンと呼ばれていた女性修道院である。
5世紀に遡る場所だが、現在見られるのは10世紀の教会だった建物。
ロマノス1世レカペノスは、歴代東ローマ皇帝のそれまでの墓所ではなく、ここを廟にした。帝国の海軍長官でしかなかった彼はいわば簒奪者。皇太后をゾエを幽閉し、14歳だった少年皇帝コンスタンティヌス七世ポルフィロゲネトス(皇后の紫の部屋で産まれた正当な後継者という意味)と娘のヘレネを結婚させる事でその地位を得ていたからである。
そばにはかつて宮殿があり、そのロトンダは直径41.8mの屋根で覆われていたそうだが、今、その場所は定かではない。
この教会に初めて葬られたのはロマノス帝の妻テオドラ(西暦922没)と早世した長男クリストファノス(西暦931年没)。建物の地下部分がその廟であっただろうと言われている。
西暦944年ロマノス帝は暗愚として後継に使命しなかった次男と三男によりクーデターを起こされ失脚・追放。しかし後継指名されていたコンスタンティヌス7世が民衆に支持されて、二人に代わり皇帝についた。
西暦948年、元帝の義父ロマヌスは一修道士として没し、この修道院に埋葬されたとされる。
現在、内部はきれいに整備された新しいモスクである。
メッカの方向を示すミヒラブは例によって正面の少し右へずれている。そこへ向かってまっすぐ座れるように、絨毯が斜め方向の線がつけられている。
一日五回の祈りの時間は日の長さと共に変化するので、自動的に計算して表示する電光掲示版がある。
★小松がこのモスク=旧ミレレオン修道院を訪れるきっかけは1990年に入手した一冊の本「コンスタンティノープルを歩く」尚樹啓太郎著・東海大学出版会。
1980年代中頃に著者がこちらへ来られた時の事を書いておられる。
「外観はかなり荒れていた。外壁や屋根に草の種が落ち、緑の生命がやどっていた。門は固く閉ざされていた。門をがたがた押したりしていると、どこかにいたらしい一人の男が近づいてきた。」
その男は管理人で、家族と共にここに住んでいた、と続く。内部にバラックの小屋をつくっていたのである。
本に載せられていた写真と、目の前のきれいなモスクとのあまりの差にびっくり。しかし、それ以上の驚きが待っていた。
ボドルム・モスクというのが現在の名前なのだが、「ボドルム」とは「地下」を意味する。
この言葉通り、20mほど離れたところにはかつての墓地・後に地下貯水槽だった大きな地下室がある。前出の本では「覗いてみると穴には塵がいっぱい詰まっていた」と書かれていた場所になる。
どこだろう?
ガイドのアヴニさんは店に入っていこうとする。
と、中に地下へ続く階段があった。
いよいよ地下の遺構があるのか…と思ったら
何十本もの古代の柱に支えられた地下空間は、塵ならぬ、ぎっしりと皮の問屋が埋めていた。柱には削られていない十字架があった。
モスクとなった時代にもこの地下の十字架は削られなかったのだろう。
ぐるぐるまわって、もっとなにか残されていると思ったら、
外へ出てきてしまった。
二十年の歳月は、建物を整備し、地下墓地を皮の商店街に変えてしまっていた!
もとはビザンチン時代の教会。ミレレオンと呼ばれていた女性修道院である。
5世紀に遡る場所だが、現在見られるのは10世紀の教会だった建物。
ロマノス1世レカペノスは、歴代東ローマ皇帝のそれまでの墓所ではなく、ここを廟にした。帝国の海軍長官でしかなかった彼はいわば簒奪者。皇太后をゾエを幽閉し、14歳だった少年皇帝コンスタンティヌス七世ポルフィロゲネトス(皇后の紫の部屋で産まれた正当な後継者という意味)と娘のヘレネを結婚させる事でその地位を得ていたからである。
そばにはかつて宮殿があり、そのロトンダは直径41.8mの屋根で覆われていたそうだが、今、その場所は定かではない。
この教会に初めて葬られたのはロマノス帝の妻テオドラ(西暦922没)と早世した長男クリストファノス(西暦931年没)。建物の地下部分がその廟であっただろうと言われている。
西暦944年ロマノス帝は暗愚として後継に使命しなかった次男と三男によりクーデターを起こされ失脚・追放。しかし後継指名されていたコンスタンティヌス7世が民衆に支持されて、二人に代わり皇帝についた。
西暦948年、元帝の義父ロマヌスは一修道士として没し、この修道院に埋葬されたとされる。
現在、内部はきれいに整備された新しいモスクである。
メッカの方向を示すミヒラブは例によって正面の少し右へずれている。そこへ向かってまっすぐ座れるように、絨毯が斜め方向の線がつけられている。
一日五回の祈りの時間は日の長さと共に変化するので、自動的に計算して表示する電光掲示版がある。
★小松がこのモスク=旧ミレレオン修道院を訪れるきっかけは1990年に入手した一冊の本「コンスタンティノープルを歩く」尚樹啓太郎著・東海大学出版会。
1980年代中頃に著者がこちらへ来られた時の事を書いておられる。
「外観はかなり荒れていた。外壁や屋根に草の種が落ち、緑の生命がやどっていた。門は固く閉ざされていた。門をがたがた押したりしていると、どこかにいたらしい一人の男が近づいてきた。」
その男は管理人で、家族と共にここに住んでいた、と続く。内部にバラックの小屋をつくっていたのである。
本に載せられていた写真と、目の前のきれいなモスクとのあまりの差にびっくり。しかし、それ以上の驚きが待っていた。
ボドルム・モスクというのが現在の名前なのだが、「ボドルム」とは「地下」を意味する。
この言葉通り、20mほど離れたところにはかつての墓地・後に地下貯水槽だった大きな地下室がある。前出の本では「覗いてみると穴には塵がいっぱい詰まっていた」と書かれていた場所になる。
どこだろう?
ガイドのアヴニさんは店に入っていこうとする。
と、中に地下へ続く階段があった。
いよいよ地下の遺構があるのか…と思ったら
何十本もの古代の柱に支えられた地下空間は、塵ならぬ、ぎっしりと皮の問屋が埋めていた。柱には削られていない十字架があった。
モスクとなった時代にもこの地下の十字架は削られなかったのだろう。
ぐるぐるまわって、もっとなにか残されていると思ったら、
外へ出てきてしまった。
二十年の歳月は、建物を整備し、地下墓地を皮の商店街に変えてしまっていた!
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