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- バーゼル「舌の王様」
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エリア:
- ヨーロッパ>スイス>バーゼル
- テーマ:歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/12/28 10:29
- コメント(1)
バーゼルを流れるライン川沿いに「舌の王様」と呼ばれる変わった面像がある。
バーゼルはライン川をはさんで「都市バーゼル」と「地方バーゼル」の二つの準州に分かれている。この「あっかんべ」は「都市バーゼル」側にあり、「地方バーゼル」側を侮蔑する意味で設置されたとされている。
しかし、なぜ同じバーゼルの町でそんな仲たがいが生じてしまったのか、ずっと疑問に思っていた。この面像のある店に行って、もう少しだけその理由がみえてきた。
面像のある建物の一階はその名も「舌の王様」という名前のレストランになっている。メニューの表紙がこれ。

この店はいろんなところに「舌の王様」が登場する。

グラスまで

コースターもこの二種類のビール用に

左のものは「フィッシャー」と書かれているが、アルザスのビール会社とおなじものなのだろうか?
クリスマス時期だけのビールをいただきました。

店に「舌の王様」の由来が読みにくい文字で掲げられていた。
後日、何とか翻訳していただいたところを要約すると・・・
「その昔、クラインバーゼル(「地方バーゼル」の事、後出の地図でもわかるように、当時の旧市街ライン川の対岸は小さかったのでこう呼ばれた)の人々はオーストリアの支配下にあり、グロースバーゼル(=「都市バーゼル」に対する奇襲攻撃を計画していた。」
「しかしながらその計画は、夜警がライン塔の時計を1時間早めるという策略によって無に帰せしめれた。(このあたり具体的にどのような策略がなされたのかは書かれていない)」
「その後、グロースバーセルの人々が、古いライン塔にある大きな時計の隣にレーレ王のマスク、王冠、ひげを取り付けた。(看板の左上に小さく載せられている図版のもの)」
「このマスクはひげを生やしたしかめっ面をしていて、クライン・バーゼルを見やり、定期的な時計の拍子に合わせ、赤い舌を付き出し、目玉ををぐるぐるまわしていた。(店の前に現在取り付けられている電動の別の面像が動いていたのは、これを表していたのか!やっとわかった)」
「レーレ王のマスクは1640年に作られた。15秒ごとに目玉が動く。赤い舌は10cmも伸びる。」
「ライン塔のレーレ王」は外国の若い手工業者から非常に興味を持たれた。
それはバーゼルの若手季節手工業者のシンボルともなった。季節労働職人はみなレーレ王のマスクについて説明することにより、バーゼルを訪れたことを証明できるのであった。(★かつてドイツの職人は遍歴修行をするならわしがあり、その際に各土地に本当に行ったことを証明するために、それぞれの町に『知るべきこと』があったときいている。「舌の王様」もまたそういったもののひとつだったのかもしれない」
「レーレ王は都市域を越えて広く知られるようになり、この有名な「嘲笑フィギュア」はときには詩人の書くポエムの中にも登場した。
1798年からのバーゼル革命時(つまりフランス革命の余波)、レーレ王のマスクもライン塔を去らなければならなかった。しかし3年後には再び元の位置に戻された。
1839年にライン塔が壊されたとき、レーレ王のマスクは再度都市から姿を消したが、オリジナルのレーレ王マスクは今日、歴史博物館の中に展示されている。(これ、実物を見てみたいですが、今回2011年12月の訪問時には果たせなかった)」
「そしてレストラン『レーレ王』は現在、元ライン塔の反対側にある。(元のライン塔の場所がどこだったのか、次回確認しようと思います)」

バーゼルはライン川をはさんで「都市バーゼル」と「地方バーゼル」の二つの準州に分かれている。この「あっかんべ」は「都市バーゼル」側にあり、「地方バーゼル」側を侮蔑する意味で設置されたとされている。
しかし、なぜ同じバーゼルの町でそんな仲たがいが生じてしまったのか、ずっと疑問に思っていた。この面像のある店に行って、もう少しだけその理由がみえてきた。
面像のある建物の一階はその名も「舌の王様」という名前のレストランになっている。メニューの表紙がこれ。

この店はいろんなところに「舌の王様」が登場する。

グラスまで

コースターもこの二種類のビール用に

左のものは「フィッシャー」と書かれているが、アルザスのビール会社とおなじものなのだろうか?
クリスマス時期だけのビールをいただきました。

店に「舌の王様」の由来が読みにくい文字で掲げられていた。
後日、何とか翻訳していただいたところを要約すると・・・「その昔、クラインバーゼル(「地方バーゼル」の事、後出の地図でもわかるように、当時の旧市街ライン川の対岸は小さかったのでこう呼ばれた)の人々はオーストリアの支配下にあり、グロースバーゼル(=「都市バーゼル」に対する奇襲攻撃を計画していた。」
「しかしながらその計画は、夜警がライン塔の時計を1時間早めるという策略によって無に帰せしめれた。(このあたり具体的にどのような策略がなされたのかは書かれていない)」
「その後、グロースバーセルの人々が、古いライン塔にある大きな時計の隣にレーレ王のマスク、王冠、ひげを取り付けた。(看板の左上に小さく載せられている図版のもの)」
「このマスクはひげを生やしたしかめっ面をしていて、クライン・バーゼルを見やり、定期的な時計の拍子に合わせ、赤い舌を付き出し、目玉ををぐるぐるまわしていた。(店の前に現在取り付けられている電動の別の面像が動いていたのは、これを表していたのか!やっとわかった)」
「レーレ王のマスクは1640年に作られた。15秒ごとに目玉が動く。赤い舌は10cmも伸びる。」
「ライン塔のレーレ王」は外国の若い手工業者から非常に興味を持たれた。
それはバーゼルの若手季節手工業者のシンボルともなった。季節労働職人はみなレーレ王のマスクについて説明することにより、バーゼルを訪れたことを証明できるのであった。(★かつてドイツの職人は遍歴修行をするならわしがあり、その際に各土地に本当に行ったことを証明するために、それぞれの町に『知るべきこと』があったときいている。「舌の王様」もまたそういったもののひとつだったのかもしれない」
「レーレ王は都市域を越えて広く知られるようになり、この有名な「嘲笑フィギュア」はときには詩人の書くポエムの中にも登場した。
1798年からのバーゼル革命時(つまりフランス革命の余波)、レーレ王のマスクもライン塔を去らなければならなかった。しかし3年後には再び元の位置に戻された。
1839年にライン塔が壊されたとき、レーレ王のマスクは再度都市から姿を消したが、オリジナルのレーレ王マスクは今日、歴史博物館の中に展示されている。(これ、実物を見てみたいですが、今回2011年12月の訪問時には果たせなかった)」
「そしてレストラン『レーレ王』は現在、元ライン塔の反対側にある。(元のライン塔の場所がどこだったのか、次回確認しようと思います)」

- ストラスブール大聖堂を担ぐひと
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エリア:
- ヨーロッパ>フランス>ストラスブール
- テーマ:観光地 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/12/23 14:58
- コメント(0)
アルザスの首都、ストラスブールには、かつてヨーロッパ一高かった時もあるほどの歴史ある大聖堂がある。
何度目かに訪れた時、いつもはドイツ人の案内をしているというガイドさんが、はじめて見せてくれたのが、この「大聖堂を担ぐ人」。ちょっとわかりにくい場所にあるし、それを示す案内板なども全くない。
「ほら、ここ!この人が支えているから大聖堂は倒れないんですよ」と英語で言うと、「あ、おもしろぉい!」とみんな写真を撮っている。
しかし、これ、大聖堂がもともと建設された時からあったものなのか?それにしては人間の表現が新しくて流麗すぎるのじゃない? さらに詳しい内容をきいてみると、やはり19世紀にここに加えられたものであった。
19世紀に大聖堂の各所が老朽化して修復が必要になって、大規模な改修工事をした際、ドイツの職人の伝統的習慣に沿って、このまじないの小像をはめ込んだのだそうだ。

そうか、普仏戦争でフランスが敗れた1871年から、第一次大戦でドイツが敗れる1918年まで、ここストラスブールはドイツ領だったのであります。

何度目かに訪れた時、いつもはドイツ人の案内をしているというガイドさんが、はじめて見せてくれたのが、この「大聖堂を担ぐ人」。ちょっとわかりにくい場所にあるし、それを示す案内板なども全くない。
「ほら、ここ!この人が支えているから大聖堂は倒れないんですよ」と英語で言うと、「あ、おもしろぉい!」とみんな写真を撮っている。
しかし、これ、大聖堂がもともと建設された時からあったものなのか?それにしては人間の表現が新しくて流麗すぎるのじゃない? さらに詳しい内容をきいてみると、やはり19世紀にここに加えられたものであった。
19世紀に大聖堂の各所が老朽化して修復が必要になって、大規模な改修工事をした際、ドイツの職人の伝統的習慣に沿って、このまじないの小像をはめ込んだのだそうだ。

そうか、普仏戦争でフランスが敗れた1871年から、第一次大戦でドイツが敗れる1918年まで、ここストラスブールはドイツ領だったのであります。

- 1585年創立、ホークスヘッド村のグラマー・スクール
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エリア:
- ヨーロッパ>イギリス>湖水地方
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/10/12 21:54
- コメント(0)
「ピーターラビット」の作者ビアトリクス・ポッターが住んだヒルトップへいくバスが出発する村。パッケージツアーもよく訪れる村だが、ここにある十六世紀につくられた学校博物館に入場するグループはほとんどない。
一度入場料を払って入ってみたら、けっこう面白い解説が聞けたので、それ以降時間が合えば案内することにしている。数回目にここの創立者についての解説を読んで、彼、エドウィン・サンディスの人生に興味を持った。
小さな村を見下ろすように教会が建てられている。

このふもとに教会が管理する学校があった。白い二階建てがそれである。

一階部分、ひとつの教室。十六世紀には中央の机はなかった。教室の両方の壁を三つに区切り、各十二名ずつ、計六クラス、合計なんと七十名! 八歳から十五歳までの子供達が同時に勉強していた。

ラテン語、ギリシャ語、数学、英語、当時は子供が使えるノートなどなかったので、基本は声を出して覚える授業。近くの下宿に住んで月曜から土曜までみっちり学ぶ。さらに日曜には必ず教会へ。ミサに三度遅れると退学であった。
食事も含めて共同生活。飲み物は子供でも一日三パイントのビールを飲まされていた。水が不衛生だった時代だということなのだろう。

これら黒板ノートが使用されていたのは最近の19世紀になってからの事。
18世紀後半の詩人ウィリアム・ワーズワースが通った学校としても知られているが、彼の時代にこの黒板ノートはあったのだろうか?
壁に歴代校長の名前を書いたボードがかかっていた。名前の最後にCAMと書いてあるのはケンブリッジ大学卒、OXはオックスフォードである。左の上に創立者としてエドウィン・サンディスの名前が読める。1585年に創立されている。

二階はかつて年長の生徒達の教室であった。今は歴史的な資料が展示されている。

ここで創立者エドウィン・サンディスの生涯について書かれた説明に出会った。

★エドウィン・サンディスは1519年にホークスヘッド近くの小さな村で生まれた。13世紀のスコットランド王ウィリアムの末裔と名のっていたようだが、実際には失われた名家だったようだ。※サンディス家は今もちかくの村にまだ続いている。
1539年にケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジを卒業。さらに教会学神学を学ぶ最高学位コースへ進む。ヘンリー八世が亡くなった1547年にはケンブリッジ大学のキャサリン・カレッジで教鞭をとっている。
1553年には副校長という地位にまでなっていたが、その年、エドワード六世が亡くなり、彼の人生に大きな転機が訪れる。
新女王メアリーは母(スペインのカソリック女王イサベラの娘キャサリン・オブ・アラゴン)の血を継ぐ熱烈なカソリック。父ヘンリー八世が母キャサリンと離婚するために始めた英国国教会を終わらせようとするのは明らかだった。
教会秩序を根本からひっくりかえすこの危機に、メアリーの即位を阻止しようとして前王の血縁者レイディ・ジェーン・グレイが担ぎ出される。エドウィン・サンディスもこのクーデターの動きに同調した。
ところがこの謀計は失敗。ジェーン・グレイはたった九日間だけ王冠を得た後、ロンドン塔で処刑! エドウィン・サンディスもまたロンドン塔へ幽閉されてしまう。いつ処刑されてもおかしくないところだったが、外部の手引きで脱獄に成功し、幸い家族を伴って大陸へ亡命する事ができた。
アントワープ、アウグスブルグ、ストラスブール、プラハ、チューリヒ・・・十年に及ぶ亡命生活。はじめの妻とも息子ともそこで死別。だが、幸い彼自身は1558年メアリー女王の死によって帰国することが出来た。
エリザベス一世女王の御世となり、再び彼は宗教界のキャリアを積み始める。ウォルチェスター司教、ロンドン司教、そしてヨーク大司教の地位にまで至った彼は若い妻と再婚。 1561年に彼と同じ名前の息子が産まれる。1577年、58歳の年にもうひとりの息子ジョージも得た。
1585年、六十五才。長く帰ってはいなかっただろう故郷に錦を飾るというのだろうか、生まれ故郷の村を管轄するここホークスヘッドに、グラマースクールを創立した。無料で教育が受けられるように、学校運営の為の資産も共に寄贈している。三年後1588年にヨーク大司教として死去。
二人の息子達は、エリザベス一世の治世にひらかれた新大陸のヴァージニア植民地の開発にも深くかかわっていくことになる。左が父と同名の息子(次男)エドウィン、右は14歳年下の(三男)ジョージ。
一度入場料を払って入ってみたら、けっこう面白い解説が聞けたので、それ以降時間が合えば案内することにしている。数回目にここの創立者についての解説を読んで、彼、エドウィン・サンディスの人生に興味を持った。
小さな村を見下ろすように教会が建てられている。

このふもとに教会が管理する学校があった。白い二階建てがそれである。

一階部分、ひとつの教室。十六世紀には中央の机はなかった。教室の両方の壁を三つに区切り、各十二名ずつ、計六クラス、合計なんと七十名! 八歳から十五歳までの子供達が同時に勉強していた。

ラテン語、ギリシャ語、数学、英語、当時は子供が使えるノートなどなかったので、基本は声を出して覚える授業。近くの下宿に住んで月曜から土曜までみっちり学ぶ。さらに日曜には必ず教会へ。ミサに三度遅れると退学であった。
食事も含めて共同生活。飲み物は子供でも一日三パイントのビールを飲まされていた。水が不衛生だった時代だということなのだろう。

これら黒板ノートが使用されていたのは最近の19世紀になってからの事。
18世紀後半の詩人ウィリアム・ワーズワースが通った学校としても知られているが、彼の時代にこの黒板ノートはあったのだろうか?
壁に歴代校長の名前を書いたボードがかかっていた。名前の最後にCAMと書いてあるのはケンブリッジ大学卒、OXはオックスフォードである。左の上に創立者としてエドウィン・サンディスの名前が読める。1585年に創立されている。

二階はかつて年長の生徒達の教室であった。今は歴史的な資料が展示されている。

ここで創立者エドウィン・サンディスの生涯について書かれた説明に出会った。

★エドウィン・サンディスは1519年にホークスヘッド近くの小さな村で生まれた。13世紀のスコットランド王ウィリアムの末裔と名のっていたようだが、実際には失われた名家だったようだ。※サンディス家は今もちかくの村にまだ続いている。
1539年にケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジを卒業。さらに教会学神学を学ぶ最高学位コースへ進む。ヘンリー八世が亡くなった1547年にはケンブリッジ大学のキャサリン・カレッジで教鞭をとっている。
1553年には副校長という地位にまでなっていたが、その年、エドワード六世が亡くなり、彼の人生に大きな転機が訪れる。
新女王メアリーは母(スペインのカソリック女王イサベラの娘キャサリン・オブ・アラゴン)の血を継ぐ熱烈なカソリック。父ヘンリー八世が母キャサリンと離婚するために始めた英国国教会を終わらせようとするのは明らかだった。
教会秩序を根本からひっくりかえすこの危機に、メアリーの即位を阻止しようとして前王の血縁者レイディ・ジェーン・グレイが担ぎ出される。エドウィン・サンディスもこのクーデターの動きに同調した。
ところがこの謀計は失敗。ジェーン・グレイはたった九日間だけ王冠を得た後、ロンドン塔で処刑! エドウィン・サンディスもまたロンドン塔へ幽閉されてしまう。いつ処刑されてもおかしくないところだったが、外部の手引きで脱獄に成功し、幸い家族を伴って大陸へ亡命する事ができた。
アントワープ、アウグスブルグ、ストラスブール、プラハ、チューリヒ・・・十年に及ぶ亡命生活。はじめの妻とも息子ともそこで死別。だが、幸い彼自身は1558年メアリー女王の死によって帰国することが出来た。
エリザベス一世女王の御世となり、再び彼は宗教界のキャリアを積み始める。ウォルチェスター司教、ロンドン司教、そしてヨーク大司教の地位にまで至った彼は若い妻と再婚。 1561年に彼と同じ名前の息子が産まれる。1577年、58歳の年にもうひとりの息子ジョージも得た。
1585年、六十五才。長く帰ってはいなかっただろう故郷に錦を飾るというのだろうか、生まれ故郷の村を管轄するここホークスヘッドに、グラマースクールを創立した。無料で教育が受けられるように、学校運営の為の資産も共に寄贈している。三年後1588年にヨーク大司教として死去。
二人の息子達は、エリザベス一世の治世にひらかれた新大陸のヴァージニア植民地の開発にも深くかかわっていくことになる。左が父と同名の息子(次男)エドウィン、右は14歳年下の(三男)ジョージ。
紀元後二世紀にローマ五賢帝のひとりハドリアヌスがイングランドの北の境界線に築かせた長城がある。ロンドンから北へ430キロ。スコットランド国境のすぐ南にあるカーライルはローマ起源の町。そこからさらにバスで一時間程度かかる。

全長110キロ強。東はニューキャッスルまで及び、グレートブリテン島をは挟んだ二つの海をつなぐように建設されてた。
近くには羊放牧用の柵もたくさんみられるので、バスで走りながら城壁の話をしていると、「あ、あれですか?」と皆さん指差したり(笑)。
確かに同じような石を用いた石壁なのでぱっと見は似ているが、ならべてみるとその違いははっきりしている。下の写真で手前は現代の羊放牧用の柵。上の写真、およびこの写真後方に見える四角い石積んだ厚いものが紀元後二世紀ローマ時代。

この城壁はもともと高さ六メートルの高さがあったそうだが、現在はその基礎の部分だけが残る。四角い石材は建築に便利なのでどんどん持ち去られてしまったのだ。
比較的よくのこっているこのバードオズワルド砦付近が見学地として推奨され、バス駐車場も完備されている。


現在見られる古代のものはこのような建物基礎の部分でしかない。
敷地内には1840年にこの遺跡に興味を持ち、考古学者に発掘させたヘンリー・ノーマンという人物が住んだ家がある。彼はファームハウスに塔や壁を増築して、あたかも中世の屋敷のように改造した。

案内板には日本語も表記もあるので分かりやすい。なるほど、ここは穀物貯蔵庫だったのか。
それにしても、どうして「六メートルの高さがあった」というようなことが分かるのだろう?ローマ帝国の築いた類似の壁はいろいろあるのだろうが、塔の形状までもはっきり再現することができるのだろうか?
二日後に行ったバースのローマ浴場博物館の展示品を見ていた時、温泉から見つかったという下の銅製カップの解説を聴いて納得した。

このカップはローマの兵士が常に携帯していた銅製の個人用のカップで、行軍の際に水を飲んだり配給を受け取ったりする為の必需品だったそうだ。
横から見ると、なるほどハドリアヌスの城壁と思われる姿がはっきりと描かれている。同様のものが三点あるのだとか。※どこの博物館にあるか、などは言及されていなかった。

バースの浴場は当時アクア・スリスと呼ばれ、スリス・ミネルヴァ女神の為の神殿と温泉が湧き出す池があった。このカップは兵士が奉納の為に投げ込んだと推察されている。
人間が神に捧げる方法は、時代も洋の東西も問わないらしい。

全長110キロ強。東はニューキャッスルまで及び、グレートブリテン島をは挟んだ二つの海をつなぐように建設されてた。
近くには羊放牧用の柵もたくさんみられるので、バスで走りながら城壁の話をしていると、「あ、あれですか?」と皆さん指差したり(笑)。
確かに同じような石を用いた石壁なのでぱっと見は似ているが、ならべてみるとその違いははっきりしている。下の写真で手前は現代の羊放牧用の柵。上の写真、およびこの写真後方に見える四角い石積んだ厚いものが紀元後二世紀ローマ時代。

この城壁はもともと高さ六メートルの高さがあったそうだが、現在はその基礎の部分だけが残る。四角い石材は建築に便利なのでどんどん持ち去られてしまったのだ。
比較的よくのこっているこのバードオズワルド砦付近が見学地として推奨され、バス駐車場も完備されている。


現在見られる古代のものはこのような建物基礎の部分でしかない。
敷地内には1840年にこの遺跡に興味を持ち、考古学者に発掘させたヘンリー・ノーマンという人物が住んだ家がある。彼はファームハウスに塔や壁を増築して、あたかも中世の屋敷のように改造した。

案内板には日本語も表記もあるので分かりやすい。なるほど、ここは穀物貯蔵庫だったのか。
それにしても、どうして「六メートルの高さがあった」というようなことが分かるのだろう?ローマ帝国の築いた類似の壁はいろいろあるのだろうが、塔の形状までもはっきり再現することができるのだろうか?
二日後に行ったバースのローマ浴場博物館の展示品を見ていた時、温泉から見つかったという下の銅製カップの解説を聴いて納得した。

このカップはローマの兵士が常に携帯していた銅製の個人用のカップで、行軍の際に水を飲んだり配給を受け取ったりする為の必需品だったそうだ。
横から見ると、なるほどハドリアヌスの城壁と思われる姿がはっきりと描かれている。同様のものが三点あるのだとか。※どこの博物館にあるか、などは言及されていなかった。

バースの浴場は当時アクア・スリスと呼ばれ、スリス・ミネルヴァ女神の為の神殿と温泉が湧き出す池があった。このカップは兵士が奉納の為に投げ込んだと推察されている。
人間が神に捧げる方法は、時代も洋の東西も問わないらしい。

- ランス大聖堂とサン・レミ聖堂
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エリア:
- ヨーロッパ>フランス>ランス
- テーマ:観光地 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/05/11 01:22
- コメント(0)
フランス屈指のランス大聖堂。現在見られる三代目が着工されたのが1211年とされているので、今年はちょうどその八百周年にあたる年。

前回2007年に訪れた時にはまだ真っ黒だった聖堂が、今回はほぼ白く洗われていた。
正面左の扉の左側にあるランスの象徴「微笑みの天使」もこのようにきれいになり、羽にあった銃弾の跡もほぼきれいに修復されていた。
正面の彫刻の中には、実はもう一体の微笑む天使があるのだが、何故こちらの天使だけがランスの象徴のように言われるのか?
それは、爆撃の後、無残に首だけが落ちてしまっていたのを、丹念な修復の結果よみがえった事実に由来する。
★最初の聖堂は紀元5世紀のはじめに聖ニケーズが、ローマ浴場の跡を選んで造営した。現在の三分の一の長さもないバジリカ式のものだった。
浴場跡を利用したのは、その建物が堅牢だったので砦としても利用できると考えた為。
伝説は語る。紀元407年12月14日、異民族に包囲され住民が教会に逃げ込んだ。ニケーズは侵入しようとする敵を阻止しようとしたが、首を切られてしまう。ところが、ニケーズは切られた首を手に持ち、そのまま聖句をとなえながら首自身を祭壇へ捧げるという奇跡を起こした。
これを見た敵は恐れをなして退却し、街は救われた。その奇跡を記念した像やレリーフが各所に見られる。

★その約百年後、496年(別年号説あり)フランク族の王のひとりクロービスは、戦いに勝ったことに感謝。熱心なキリスト教者であった妻クロチルドの勧めもあり、三千人の部下と共にキリスト教に改宗。聖レミより洗礼をうけた。
聖レミ聖堂のファサード
下は聖レミ聖堂にある、クロービス洗礼の図である。

この時あまりに教会が人でいっぱいになり、王を聖別するための香油がなかなかレミ司教の手元に届かなかった。それを精霊の化身である鳩がくわえて運んでいくという奇跡が起きた。
これにより、フランス歴代の王はこの香油を使って聖別されてこそ戴冠できるとされていたのである。
聖レミ聖堂に安置されたレミの棺にはこの香油が入っており、歴代の王はそこから少し借用しては自分の聖別式に使う油と混ぜていたのだそうだ。フランス革命でこの墓も荒らされて紛失してしまったと思われていたが、戦後に「実は私が避難させていました」と名のる修道士があらわれ、現在はトー宮殿の方に保管されているそうである。
聖レミの眠る聖堂の起源は大聖堂よりも古く、10世紀ごろと想定されるロマネスク部分の厚い壁と、その後のゴシックらしいスタイルとがよく分かる。※聖レミ聖堂内部↓

ここも大聖堂同様、第一次大戦では屋根が落ちて悲惨な状態であった。
**
一方、大聖堂内のステンドグラスは必見である。
特に有名なのはシャガールのデザインしたこの作品。
しかし、ステンドグラス自体を制作する事は画家であるシャガールには出来るはずもない。そこには17世紀から続くステンドグラスの職人一族が手を貸している。
1974年に設置されたシャガールのステンドグラスを制作したのはシャルル・マルクという職人だった。
クロービス王の戴冠式

シャルル七世の戴冠、ジャンヌ・ダルクが右に立つ。

このステンドグラスのあった場所にはもともと別の古いステンドグラスがあったのだが、わざわざ移動させて、シャガールの作品を入れ込んだ。
制作職人シャルル・マルクの義理の父、ジャック・シモンは1640年から続くステンドグラス一族の10代目である。彼が1954年に制作したシャンパン製造のステンドグラスがすぐ近くにある。
いろいろな畑からとれたワインをブレンドして、シャンパンの元になるものをつくってゆくドン・ペリニョン※下写真の上半分
ワインに出来る澱を集める為の「動瓶」を手でやる僧侶。※現在では機械で自動でできるのだそうだ。※上写真の下半分
加える糖分はかつてカリブ海からのサトウキビから採られていた。※ナポレオン以降砂糖大根(ビーツ)を使う方法が発明された。※下写真の上右
コルクによって栓をするという方法も新たに考案された。※下写真の上左がコルクの木をはいでいる図
泡の圧力に負けない厚い丈夫な瓶を使用することで、シャンパン製造の技術が発展していった。※上写真の下半分
聖レミ聖堂には娘のブリジットが制作したモダンな美しいステンドグラスがある。
そして、ランス大聖堂で最も新しいステンドグラスが2011年の八百周年を記念して除幕を待っていた。全体が見られなくて残念、次回には見られるだろう。このデザインはドイツ人のアーチストの手になるもをつかい、フランスの職人ブノワ・マルク(シャルル・マルクの息子で第12代)が制作。ドイツとフランスの融和を現すための作品である。

ドイツとの国境に近いランスは、20世紀に何度も戦火に巻き込まれてきた土地でもある。
**
大聖堂内その他
★1901年制作の静かなジャンヌダルクの立像が目に留まった
★ラ・サールの像
1651年ランス生まれ。
上流階級に対するラテン語教育を「教育」と読んでいた時代に、一般にむけてフランス語での教育をはじめた。27歳で初めてのミサをこの場所で行ったのを記念して、後年この像が設置された。
★中世時代の大聖堂には床に巨大な迷路が描かれていたことが分かっている。真実に至る迷路をあらわす。
フランスの歴史文化財を現す標識マークにこの迷図マークが使われている。

前回2007年に訪れた時にはまだ真っ黒だった聖堂が、今回はほぼ白く洗われていた。

正面左の扉の左側にあるランスの象徴「微笑みの天使」もこのようにきれいになり、羽にあった銃弾の跡もほぼきれいに修復されていた。
正面の彫刻の中には、実はもう一体の微笑む天使があるのだが、何故こちらの天使だけがランスの象徴のように言われるのか?それは、爆撃の後、無残に首だけが落ちてしまっていたのを、丹念な修復の結果よみがえった事実に由来する。
★最初の聖堂は紀元5世紀のはじめに聖ニケーズが、ローマ浴場の跡を選んで造営した。現在の三分の一の長さもないバジリカ式のものだった。
浴場跡を利用したのは、その建物が堅牢だったので砦としても利用できると考えた為。
伝説は語る。紀元407年12月14日、異民族に包囲され住民が教会に逃げ込んだ。ニケーズは侵入しようとする敵を阻止しようとしたが、首を切られてしまう。ところが、ニケーズは切られた首を手に持ち、そのまま聖句をとなえながら首自身を祭壇へ捧げるという奇跡を起こした。
これを見た敵は恐れをなして退却し、街は救われた。その奇跡を記念した像やレリーフが各所に見られる。

★その約百年後、496年(別年号説あり)フランク族の王のひとりクロービスは、戦いに勝ったことに感謝。熱心なキリスト教者であった妻クロチルドの勧めもあり、三千人の部下と共にキリスト教に改宗。聖レミより洗礼をうけた。
聖レミ聖堂のファサード

下は聖レミ聖堂にある、クロービス洗礼の図である。

この時あまりに教会が人でいっぱいになり、王を聖別するための香油がなかなかレミ司教の手元に届かなかった。それを精霊の化身である鳩がくわえて運んでいくという奇跡が起きた。
これにより、フランス歴代の王はこの香油を使って聖別されてこそ戴冠できるとされていたのである。
聖レミ聖堂に安置されたレミの棺にはこの香油が入っており、歴代の王はそこから少し借用しては自分の聖別式に使う油と混ぜていたのだそうだ。フランス革命でこの墓も荒らされて紛失してしまったと思われていたが、戦後に「実は私が避難させていました」と名のる修道士があらわれ、現在はトー宮殿の方に保管されているそうである。

聖レミの眠る聖堂の起源は大聖堂よりも古く、10世紀ごろと想定されるロマネスク部分の厚い壁と、その後のゴシックらしいスタイルとがよく分かる。※聖レミ聖堂内部↓

ここも大聖堂同様、第一次大戦では屋根が落ちて悲惨な状態であった。

**
一方、大聖堂内のステンドグラスは必見である。
特に有名なのはシャガールのデザインしたこの作品。
しかし、ステンドグラス自体を制作する事は画家であるシャガールには出来るはずもない。そこには17世紀から続くステンドグラスの職人一族が手を貸している。1974年に設置されたシャガールのステンドグラスを制作したのはシャルル・マルクという職人だった。
クロービス王の戴冠式

シャルル七世の戴冠、ジャンヌ・ダルクが右に立つ。

このステンドグラスのあった場所にはもともと別の古いステンドグラスがあったのだが、わざわざ移動させて、シャガールの作品を入れ込んだ。
制作職人シャルル・マルクの義理の父、ジャック・シモンは1640年から続くステンドグラス一族の10代目である。彼が1954年に制作したシャンパン製造のステンドグラスがすぐ近くにある。
いろいろな畑からとれたワインをブレンドして、シャンパンの元になるものをつくってゆくドン・ペリニョン※下写真の上半分
ワインに出来る澱を集める為の「動瓶」を手でやる僧侶。※現在では機械で自動でできるのだそうだ。※上写真の下半分加える糖分はかつてカリブ海からのサトウキビから採られていた。※ナポレオン以降砂糖大根(ビーツ)を使う方法が発明された。※下写真の上右
コルクによって栓をするという方法も新たに考案された。※下写真の上左がコルクの木をはいでいる図
泡の圧力に負けない厚い丈夫な瓶を使用することで、シャンパン製造の技術が発展していった。※上写真の下半分聖レミ聖堂には娘のブリジットが制作したモダンな美しいステンドグラスがある。

そして、ランス大聖堂で最も新しいステンドグラスが2011年の八百周年を記念して除幕を待っていた。全体が見られなくて残念、次回には見られるだろう。このデザインはドイツ人のアーチストの手になるもをつかい、フランスの職人ブノワ・マルク(シャルル・マルクの息子で第12代)が制作。ドイツとフランスの融和を現すための作品である。

ドイツとの国境に近いランスは、20世紀に何度も戦火に巻き込まれてきた土地でもある。
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大聖堂内その他
★1901年制作の静かなジャンヌダルクの立像が目に留まった

★ラ・サールの像
1651年ランス生まれ。
上流階級に対するラテン語教育を「教育」と読んでいた時代に、一般にむけてフランス語での教育をはじめた。27歳で初めてのミサをこの場所で行ったのを記念して、後年この像が設置された。

★中世時代の大聖堂には床に巨大な迷路が描かれていたことが分かっている。真実に至る迷路をあらわす。
フランスの歴史文化財を現す標識マークにこの迷図マークが使われている。
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