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- シャンパンの街エペルネとオーヴィレール村
-
エリア:
- ヨーロッパ>フランス>ランス
- テーマ:グルメ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/05/10 00:26
- コメント(0)
大聖堂で有名なランスから車で四十分ほど、シャンパン製造の中心地エペルネの町がある。2011年5月2日、雨のシャルトルを朝9時に出発、三時間半ほどでエペルネの駅近くに到着。まずは、このレストランで軽くフォーミュールの昼食。
そして13時にモエ・エ・シャンドン社の見学へ。ここは「フランスで一番地価が高い」という説明もあったシャンパン通りにある。
ここは日本のグループもたくさん見学に来るので、事前にリクエストしておけば日本語で説明してくれるガイドさんもおられる。
入り口にはかの有名なドン・ペリニョンさんの像
こんな風に置かれているとドン・ペリニョンさんがモエ・エ・シャンドン社とゆかりある人物のように見えるが、そんな深い結びつきはない。彼が所属した元修道院の敷地が現在モエ社の所有になっているという理由である。

簡単なビデオを見た後、地下のカーヴへ案内される。そこは全長二十キロ以上に及ぶ古くからのセラーとなっており、けっこうなスピードで輸送カートが走ってくる。
それぞれにいつどこの畑から収穫されたものかを表す札がつけられているが、それは従業員にしか分からない、いわば符丁で書かれている。
ブレンドされ、二次醗酵してゆく過程でたまってゆく澱(おり)。これを取り出すには先端にためて、その部分を液体窒素で凍らせて抜き出す。実に手の混んだ造り方が長い年月で編み出されてきたのだ。
見学の後、試飲。そしてもちろん売店がある。ご一緒した愛好家の方によると、値段は日本でもこのぐらいの値段なら充分手に入るという程度であるそうな。
ロビーにあったナポレオンがモエを訪れる版画が目に留まった。
ナポレオンは9歳でシャンパーニュ地方の王立陸軍幼年学校に入学、ここでモエ社の三代目にあたるジャン・レミー・モエとで会っている。モエはナポレオンより十一才年長だったが、その後生涯の友人となった。
ナポレオンとの交流はモエ社の発展にもちろん寄与した。その敗北によってロシア軍がモエのシャンパンを大量に略奪していった事さえも、後年ロシアに愛好者を増やすという「シャンパンの勝利」につながった。
**
エペルネの街から少し離れ、ワイン畑の中「オーヴィレール」という標識にしたがって走る。
ひっそりとした村にはたくさんの小規模なシャンパンメーカーがある。
葡萄の木をまたいで動く専用の車をたくさん見かける。
一様に見えるブドウ畑だが、こうしたモエ社の印のある畑もあれば、そのほかの小規模農家の畑も混在している。シャンパン用の葡萄を作ると認定されれば、その土地の価値は十倍にも跳ね上がるときいた。

村の端に高い塀で囲まれた閉ざされた敷地がある。この塀の向こうが、かのドン・ペリニョンが過ごしたベネディクト派修道院。現在はモエ社が迎賓館の様に使用している。某日本の有名人の結婚パーティも行われたそうであります。

修道院の壁に沿って曲がり階段を登ると、さっき見えていた修道院の教会にたどり着く。
この修道院は七世紀末にメロビング朝の王キルデリク二世の義理兄弟だった聖ニヴァルドによって創設されたとされる。
四世紀にキリスト教を公認したコンスタンチヌス帝の母へレナゆかりの聖遺物が入れられていた箱が鎮座しているが、中身はフランス革命の時に略奪されてしまったそうだ。

ルイ十四世と全く同年に生まれ、死んだドン・ペリニョン。彼は、三十歳の時にこの修道院の会計係として赴任。荒れ果てていた葡萄畑を復活させて最上のワインをつくりだした。
現地での解説看板によれば、ドン・ペリニョンにはワイン作りに五つの功績があるそうな。?別々の畑から最上のヴィンテージをつくる?早朝に葡萄を摘み、すみやかにやさしく絞る?厚いガラスを使ったボトルを利用して醗酵の泡をコントロールする?コルクで栓をする?カーヴで一定の温度を保ち何年もかけて熟成させる。
当時は「失敗」とされたワインの二次醗酵による泡をコントロールする事を考え始めたのは彼だったのか。しかし、それが「シャンパン」と呼ばれるものに発展するのはまだ後世の事。当時ドン・ペリニョンがつくっていたのはあくまで最上のブレンドワインだったというのがおおよそ正しい事実の様である。※白水社刊「シャンパン歴史物語」参照し、現地でのドン・ペリニョンについての解説を読んでの推察であります。
彼の墓は正面祭壇のすぐ前に位置しているので、すぐに分かる。この場所は修道院長クラスの人物でなければ葬られない場所であるが、それだけの貢献をしたとの敬意を持って葬られたのであろう。

そして13時にモエ・エ・シャンドン社の見学へ。ここは「フランスで一番地価が高い」という説明もあったシャンパン通りにある。

ここは日本のグループもたくさん見学に来るので、事前にリクエストしておけば日本語で説明してくれるガイドさんもおられる。
入り口にはかの有名なドン・ペリニョンさんの像

こんな風に置かれているとドン・ペリニョンさんがモエ・エ・シャンドン社とゆかりある人物のように見えるが、そんな深い結びつきはない。彼が所属した元修道院の敷地が現在モエ社の所有になっているという理由である。

簡単なビデオを見た後、地下のカーヴへ案内される。そこは全長二十キロ以上に及ぶ古くからのセラーとなっており、けっこうなスピードで輸送カートが走ってくる。
それぞれにいつどこの畑から収穫されたものかを表す札がつけられているが、それは従業員にしか分からない、いわば符丁で書かれている。
ブレンドされ、二次醗酵してゆく過程でたまってゆく澱(おり)。これを取り出すには先端にためて、その部分を液体窒素で凍らせて抜き出す。実に手の混んだ造り方が長い年月で編み出されてきたのだ。

見学の後、試飲。そしてもちろん売店がある。ご一緒した愛好家の方によると、値段は日本でもこのぐらいの値段なら充分手に入るという程度であるそうな。
ロビーにあったナポレオンがモエを訪れる版画が目に留まった。
ナポレオンは9歳でシャンパーニュ地方の王立陸軍幼年学校に入学、ここでモエ社の三代目にあたるジャン・レミー・モエとで会っている。モエはナポレオンより十一才年長だったが、その後生涯の友人となった。ナポレオンとの交流はモエ社の発展にもちろん寄与した。その敗北によってロシア軍がモエのシャンパンを大量に略奪していった事さえも、後年ロシアに愛好者を増やすという「シャンパンの勝利」につながった。
**
エペルネの街から少し離れ、ワイン畑の中「オーヴィレール」という標識にしたがって走る。

ひっそりとした村にはたくさんの小規模なシャンパンメーカーがある。
葡萄の木をまたいで動く専用の車をたくさん見かける。
一様に見えるブドウ畑だが、こうしたモエ社の印のある畑もあれば、そのほかの小規模農家の畑も混在している。シャンパン用の葡萄を作ると認定されれば、その土地の価値は十倍にも跳ね上がるときいた。

村の端に高い塀で囲まれた閉ざされた敷地がある。この塀の向こうが、かのドン・ペリニョンが過ごしたベネディクト派修道院。現在はモエ社が迎賓館の様に使用している。某日本の有名人の結婚パーティも行われたそうであります。

修道院の壁に沿って曲がり階段を登ると、さっき見えていた修道院の教会にたどり着く。

この修道院は七世紀末にメロビング朝の王キルデリク二世の義理兄弟だった聖ニヴァルドによって創設されたとされる。
四世紀にキリスト教を公認したコンスタンチヌス帝の母へレナゆかりの聖遺物が入れられていた箱が鎮座しているが、中身はフランス革命の時に略奪されてしまったそうだ。

ルイ十四世と全く同年に生まれ、死んだドン・ペリニョン。彼は、三十歳の時にこの修道院の会計係として赴任。荒れ果てていた葡萄畑を復活させて最上のワインをつくりだした。
現地での解説看板によれば、ドン・ペリニョンにはワイン作りに五つの功績があるそうな。?別々の畑から最上のヴィンテージをつくる?早朝に葡萄を摘み、すみやかにやさしく絞る?厚いガラスを使ったボトルを利用して醗酵の泡をコントロールする?コルクで栓をする?カーヴで一定の温度を保ち何年もかけて熟成させる。
当時は「失敗」とされたワインの二次醗酵による泡をコントロールする事を考え始めたのは彼だったのか。しかし、それが「シャンパン」と呼ばれるものに発展するのはまだ後世の事。当時ドン・ペリニョンがつくっていたのはあくまで最上のブレンドワインだったというのがおおよそ正しい事実の様である。※白水社刊「シャンパン歴史物語」参照し、現地でのドン・ペリニョンについての解説を読んでの推察であります。
彼の墓は正面祭壇のすぐ前に位置しているので、すぐに分かる。この場所は修道院長クラスの人物でなければ葬られない場所であるが、それだけの貢献をしたとの敬意を持って葬られたのであろう。

- ランス大聖堂建立八百年〜驚異のライトアップ
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エリア:
- ヨーロッパ>フランス>ランス
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/05/05 15:26
- コメント(3)
歴代フランス王が聖別式を行ってきたランス大聖堂は2011年建立八百周年を迎える。これにあわせて行われるライトアップは、いつもの年にもまして驚異的な演出となっていた。5月6日の式典三日前の予行演習に出会ったのは幸運だった。
下は普通のライトアップ
これが突然青に

カラフルに

次々に色が変化してゆく

大聖堂内部が映し出されたり

あの有名な「微笑みの天使」が夜空に浮かび上がる

この天使も、もともとは全面的に色が塗られていた。それをライトアップで再現しているのがこれ。
中央の「聖母戴冠」の図も、もとはこの様に極彩色だったとは、こうして見せられてはじめてイメージする事ができる。
モノクロの画面も美しい。
モノクロの別バージョン


大聖堂を建設していている人影が全面にうごめいている。


下は普通のライトアップ

これが突然青に

カラフルに

次々に色が変化してゆく

大聖堂内部が映し出されたり

あの有名な「微笑みの天使」が夜空に浮かび上がる

この天使も、もともとは全面的に色が塗られていた。それをライトアップで再現しているのがこれ。
中央の「聖母戴冠」の図も、もとはこの様に極彩色だったとは、こうして見せられてはじめてイメージする事ができる。
モノクロの画面も美しい。
モノクロの別バージョン

大聖堂を建設していている人影が全面にうごめいている。



- モツィア島の青年像〜カルタゴの夢の跡
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア
- テーマ:ビーチ・島 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/03/26 10:13
- コメント(2)
きゅっと引き締まったのその青年の尻は、柔らかい布を通してもありありと見えてくる。なるほど、女性に人気があるはずである。
鼻が欠けてはいるがその自信に満ちた微笑は隠しようがない。
腕も両方欠けているが、腰に当てた残った指先からだけでも得意げな様子が伝わってくる。
足先は見えていなくても、誰かに向けてポーズを取った瞬間であるかと思える。

この像は1979年に発見された。
今では一面の草原となったモツィア島は、紀元前八世紀ごろからカルタゴ人が街をつくっており、その邸宅を飾っていたものかもしれない。
発掘したのはウィットカー財団。シチリアで育った英国人ジョゼッペ・ウィットカー氏の業績を継いでいる。
ウィトカー一族は西ヨークシャーの名家で、1806年に多くがシチリアへ移住し、マルサラ酒をつくるための広大な畑を持っていた。ジョゼッペ(英語名ならジョセフ)も少年時代からパレルモで育ったので、イギリス人でありながらシチリアを故郷と感じていたことだろう。
鳥類研究者としての方が有名なようだが、晩年古代史への夢に魅かれてモツィア島を丸ごと買いとった。一時間ほどで一周できてしまうこの小さな島を所有していたのは、たった六人の農夫だったのだ。
***
モツィア島はヴェネチアのように浅瀬に囲まれた自然の要塞である。
この写真の上部に伸びた島の北部からシチリア本島までのびる一キロ半の道。海の中に伸びたこの道はカルタゴ時代の紀元前6世紀ごろにつくられたとされる。※現在は水没して使用は出来ない

島へはこんな船で十分ほど。

船内でウィトカー氏のマルサラ酒をふるまってくれたりする。

島へ到着するとすぐに旧ウィットカー邸・現博物館。

そこに冒頭の「モツィアの青年像」も収蔵されている。1979年に発見されたからここに置かれる事になったが、もう少し早ければパレルモかローマあたりに置かれてしまっていたことだろう。あるいは大英博物館だったかもしれない。発見された場所でこの像に出会えるのはシアワセな事。モツィア島は遠いけれど、この青年像の為に行く価値がある。
博物館には、紀元前六世紀といわれるこんな面白い面もある。
もともとアジアからの影響強いフェニキア人、これはなんだか能面の様。
博物館の中で目を引くたくさんのこの墓碑。トフェット(「トフェ」または「トペト」と表記される事が多い)と呼ばれるこの場所からは黒こげの幼児の骨がたくさん見つかった。

カルタゴと敵対したギリシャ人やローマ人が残した記述から、カルタゴ人は幼児を神への生贄にしていたとの伝説がうまれた。19世紀にフランス人小説家フロベールが作品の中でそれを描き、西洋では「事実」として認識されているようだ。
しかし、実際には幼児死亡率の高かった時代に、死亡した子供を埋葬する場所だったという解釈の方が自然ではなかろうか。カルタゴは火葬が一般的だったし、遺跡からは子供の墓が見つかっていない。
**
博物館から歩き出すと、見渡す限りの背の高い草の上に、さらににょきにょきと草の幹が立ち上がり元気な花を咲かせている。この青空の下をこんな風に歩くだけでもはるばるモツィア島へ来た甲斐があるというものである。

港を守っていた城壁の跡が突然あらわれる。
「コトン」と呼ばれる南の港は、先に載せた島の写真でも下のほうに四角く確認する事が出来る。50m×35mのこの小さな港は、深さ約2メートルで底も舗装してある。

浅瀬に囲まれた島には、この港に入る事のできる小船で物資を搬入していたにちがいない。ここは最もカルタゴ時代の雰囲気を感じられる場所だった。

モザイクのある家が残っている。
この写真でもはっきり見える白と黒のモザイクは二階建ての家の中庭を飾っていたと推察される。ちかくに見える盛り土の下にもモザイクがあり、それを保護しているのだそうだ。それにしても、まだまだ島の5%程度しか発掘されていないのだから、これからまだあの「青年像」のような逸品が見つかるかもしれない。
そんな逸品が公開されるようになったなら、また今日のような晴れた春の日にモツィア島を訪れてみたいものである。

鼻が欠けてはいるがその自信に満ちた微笑は隠しようがない。

腕も両方欠けているが、腰に当てた残った指先からだけでも得意げな様子が伝わってくる。
足先は見えていなくても、誰かに向けてポーズを取った瞬間であるかと思える。
この像は1979年に発見された。
今では一面の草原となったモツィア島は、紀元前八世紀ごろからカルタゴ人が街をつくっており、その邸宅を飾っていたものかもしれない。
発掘したのはウィットカー財団。シチリアで育った英国人ジョゼッペ・ウィットカー氏の業績を継いでいる。
ウィトカー一族は西ヨークシャーの名家で、1806年に多くがシチリアへ移住し、マルサラ酒をつくるための広大な畑を持っていた。ジョゼッペ(英語名ならジョセフ)も少年時代からパレルモで育ったので、イギリス人でありながらシチリアを故郷と感じていたことだろう。
鳥類研究者としての方が有名なようだが、晩年古代史への夢に魅かれてモツィア島を丸ごと買いとった。一時間ほどで一周できてしまうこの小さな島を所有していたのは、たった六人の農夫だったのだ。
***
モツィア島はヴェネチアのように浅瀬に囲まれた自然の要塞である。
この写真の上部に伸びた島の北部からシチリア本島までのびる一キロ半の道。海の中に伸びたこの道はカルタゴ時代の紀元前6世紀ごろにつくられたとされる。※現在は水没して使用は出来ない

島へはこんな船で十分ほど。

船内でウィトカー氏のマルサラ酒をふるまってくれたりする。

島へ到着するとすぐに旧ウィットカー邸・現博物館。

そこに冒頭の「モツィアの青年像」も収蔵されている。1979年に発見されたからここに置かれる事になったが、もう少し早ければパレルモかローマあたりに置かれてしまっていたことだろう。あるいは大英博物館だったかもしれない。発見された場所でこの像に出会えるのはシアワセな事。モツィア島は遠いけれど、この青年像の為に行く価値がある。
博物館には、紀元前六世紀といわれるこんな面白い面もある。
もともとアジアからの影響強いフェニキア人、これはなんだか能面の様。博物館の中で目を引くたくさんのこの墓碑。トフェット(「トフェ」または「トペト」と表記される事が多い)と呼ばれるこの場所からは黒こげの幼児の骨がたくさん見つかった。

カルタゴと敵対したギリシャ人やローマ人が残した記述から、カルタゴ人は幼児を神への生贄にしていたとの伝説がうまれた。19世紀にフランス人小説家フロベールが作品の中でそれを描き、西洋では「事実」として認識されているようだ。
しかし、実際には幼児死亡率の高かった時代に、死亡した子供を埋葬する場所だったという解釈の方が自然ではなかろうか。カルタゴは火葬が一般的だったし、遺跡からは子供の墓が見つかっていない。
**
博物館から歩き出すと、見渡す限りの背の高い草の上に、さらににょきにょきと草の幹が立ち上がり元気な花を咲かせている。この青空の下をこんな風に歩くだけでもはるばるモツィア島へ来た甲斐があるというものである。

港を守っていた城壁の跡が突然あらわれる。
「コトン」と呼ばれる南の港は、先に載せた島の写真でも下のほうに四角く確認する事が出来る。50m×35mのこの小さな港は、深さ約2メートルで底も舗装してある。

浅瀬に囲まれた島には、この港に入る事のできる小船で物資を搬入していたにちがいない。ここは最もカルタゴ時代の雰囲気を感じられる場所だった。

モザイクのある家が残っている。

この写真でもはっきり見える白と黒のモザイクは二階建ての家の中庭を飾っていたと推察される。ちかくに見える盛り土の下にもモザイクがあり、それを保護しているのだそうだ。それにしても、まだまだ島の5%程度しか発掘されていないのだから、これからまだあの「青年像」のような逸品が見つかるかもしれない。
そんな逸品が公開されるようになったなら、また今日のような晴れた春の日にモツィア島を訪れてみたいものである。

- ノルマン王宮ルジェロ王の間は週に数回だけ見学可
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>パレルモ
- テーマ:歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/03/19 14:51
- コメント(0)
シチリア王国の栄華を今に伝える、パレルモのノルマン王宮。通常観光で訪れるこのパラティーナ礼拝堂も素晴らしい。
モザイクで覆われた
●主祭壇

●天井はアラブ文化からの鍾乳石デザイン

しかし、これらすべてが12世紀のオリジナルというわけではない。
●この紋章は1460年のシチリア王、アラゴンのヨハネス?世王のものである。

それぞれの時代に装飾が加えられたり、修復が行われているのだ。
このパラティーナ礼拝堂は、ノルマン王宮であった現シチリア州議事堂兼用となっている建物の二階に位置するが、三階のルジェロ王の間には議会のある日には行く事ができない。
2011年3月18日、たまたま開いている日にあたって、はじめて訪れる事ができたのだった。
●もっとも印象的だったのはこの豹のモザイク

●初代シチリア王であるルジェロの居室を飾っている。壁全体のデザインはササン朝ペルシャの影響をうけたものとされる。

●天井にはノルマン王朝のあとにやってくるドイツ系ホーエンシュタウフェン家の鷲がウサギをつかんでいる。つまりこれはオリジナルの百年以上後に付け加えられたものだとわかる。

●天井全体はこのような

●すぐ外には「風の間」とよばれる涼しげなアーチがある
ここはかつてパレルモの町を見張らせる場所で、噴水も置かれていたそうだ。
●天井にはかつての塔のなごりがあり、風の神のモザイクが見られる。

●常時公開されているわけではないせいか、まだ修復がいきとどいていないぼろぼろの壁の部屋もある。マリー・アントワネットの三つ年上の姉・マリア・カロリーネはナポリに嫁ぎ、ナポレオン時代にはパレルモのこの部屋に滞在していたそうだ。

●2002年の地震で発見されたノルマン王宮時代の壁

●シチリア州議会の行われる場所は「ヘラクレスの間」と呼ばれる。

●1130年というのはルジェロが初代シチリア王に即位した年。その家臣団が会議を行っていた場所が、現在のシチリア州議会場にされている。議員達いつもシチリアの歴史に見守られているというわけだ。
モザイクで覆われた
●主祭壇

●天井はアラブ文化からの鍾乳石デザイン

しかし、これらすべてが12世紀のオリジナルというわけではない。
●この紋章は1460年のシチリア王、アラゴンのヨハネス?世王のものである。

それぞれの時代に装飾が加えられたり、修復が行われているのだ。
このパラティーナ礼拝堂は、ノルマン王宮であった現シチリア州議事堂兼用となっている建物の二階に位置するが、三階のルジェロ王の間には議会のある日には行く事ができない。
2011年3月18日、たまたま開いている日にあたって、はじめて訪れる事ができたのだった。
●もっとも印象的だったのはこの豹のモザイク

●初代シチリア王であるルジェロの居室を飾っている。壁全体のデザインはササン朝ペルシャの影響をうけたものとされる。

●天井にはノルマン王朝のあとにやってくるドイツ系ホーエンシュタウフェン家の鷲がウサギをつかんでいる。つまりこれはオリジナルの百年以上後に付け加えられたものだとわかる。

●天井全体はこのような

●すぐ外には「風の間」とよばれる涼しげなアーチがある
ここはかつてパレルモの町を見張らせる場所で、噴水も置かれていたそうだ。●天井にはかつての塔のなごりがあり、風の神のモザイクが見られる。

●常時公開されているわけではないせいか、まだ修復がいきとどいていないぼろぼろの壁の部屋もある。マリー・アントワネットの三つ年上の姉・マリア・カロリーネはナポリに嫁ぎ、ナポレオン時代にはパレルモのこの部屋に滞在していたそうだ。

●2002年の地震で発見されたノルマン王宮時代の壁

●シチリア州議会の行われる場所は「ヘラクレスの間」と呼ばれる。

●1130年というのはルジェロが初代シチリア王に即位した年。その家臣団が会議を行っていた場所が、現在のシチリア州議会場にされている。議員達いつもシチリアの歴史に見守られているというわけだ。

- 「死にゆく町」チヴィタ・ディ・バーニョレッジョ
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア
- テーマ:歴史・文化・芸術 自然・植物
- 投稿日:2011/01/02 12:49
- コメント(3)
イタリアに丘の上の街はたくさんあるが、このチヴィタ・ディ・バーニョレッジョほど印象的な光景はそうない。
なにせ、崖ぎりぎりに家を建てたのではなく、台地が周囲からどんどん崩落していってこの光景を出現させたのだから。

崩落はきのう今日にはじまった事ではない。古代エトルリア時代に町が出来てから、現代まで絶え間なく続いてきた。町で売られているガイドブックによれば、これまでに三分の一の地面が崩落し消滅したと推察されている。
※以降の記事内容、図版はそのガイドブックから
以下は15世紀以降はっきりしている崩落箇所の図。

地図上、上の斜線は1466-1469に、右は1450-1695年にかけて、下は1661年に崩落したエリア。
ピンク色は1705年、水色は1829年、茶色は1869年に消滅。
実際に町に入ってみると、門を入るとすぐに崩落しているような家も見かける。
この町出身の最も有名な人物、13世紀の聖ボナベントゥラの家と言われるものも下のような状態になっている。

本当の彼の家はこの先にあって16世紀には巡礼地になっていたが、崩落して消滅してしまった。
さらに資料を読んでいくと、現在コンクリートの橋がかかっているあたりには、現在まったく痕跡さえ残さず崩落・消滅してしまった修道院・教会があったと分かった。下は1765年にその修道院が状況を説明する為にローマ法王庁に送った図面。

左側がチヴィタ地区、右側が現在主要な町になっているバーニョレッジョ。その中間にフランチェスコ修道院・教会があり、地面にたくさんの亀裂が走っている様子が危機的に描かれている。
下の写真のどこにもその痕跡はみつからない。聖ボナベントゥラも学んだという修道院は永遠に消滅してしまったのである。なんという激しい崩落だろう。

さらに、ローマへの絵図面と下の写真に写るチヴィタへの入り口の様子がどうも違うのが気になった。チヴィタへの入り口に教会が描かれているが、今はないのはなぜだ?

冒頭の「崩落地図」を見ると、いちばん左の1703年に崩落したピンク色の領域はかなり大きい。資料を読んでいくと、ここはかつて「ポンテ地区」と呼ばれるひとつの居住区となっていた。

そのポンテ地区への入り口にあたるこの聖母マリア門は十六世紀に建設されたのだが、名前の由来はかつてこの門の上にあった同名の礼拝堂からきていると分かった。
図版に描かれていた教会はこの礼拝堂で、1703年の崩落の後なくなってしまったと理解できる。
チヴィタ地区とバーニョレッジョ地区を結ぶ地域で消滅した場所がもうひとつある。現在のコンクリートの橋がはじまるあたりをメルカテッロ広場と呼ぶがかつてはここも大きな市の立つ広場で、市役所もここにあったのだという。今では数件の家があるだけで、全く想像できない。
現在のコンクリートの橋に至る以前にどんな橋がかけられていたのかを歴史的に追ってみる。
かつてチヴィタが町の中心であった時代、現在の中心であるバーニョレッジョ地区とは広い道でつながっていた。その途中に今は消滅したフランチェスコ修道院もあった。
度重なる崩落の後、チヴィタ地区はだんだんと孤立した場所になっていたが、19世紀の終わりまでは三車線で馬車が行き交うことが出来る道が通じていた。
1901年にその道が崩壊。
1920年に石造りの橋が建造されたが、1944年にドイツ軍により爆破。
戦後、二十年以上も木製の歩道橋が仮設されていただけだった。
1965年から現在のコンクリート製の橋が建設されたが、完成前にメルカッテッロ広場側の土台が崩落。橋をはじめる位置を少しずらして現在のものとなった。下の写真を見ると、真っ直ぐのはずだった橋のスタート地点がずらされているのがはっきりと分かる。

なにせ、崖ぎりぎりに家を建てたのではなく、台地が周囲からどんどん崩落していってこの光景を出現させたのだから。

崩落はきのう今日にはじまった事ではない。古代エトルリア時代に町が出来てから、現代まで絶え間なく続いてきた。町で売られているガイドブックによれば、これまでに三分の一の地面が崩落し消滅したと推察されている。
※以降の記事内容、図版はそのガイドブックから
以下は15世紀以降はっきりしている崩落箇所の図。

地図上、上の斜線は1466-1469に、右は1450-1695年にかけて、下は1661年に崩落したエリア。
ピンク色は1705年、水色は1829年、茶色は1869年に消滅。
実際に町に入ってみると、門を入るとすぐに崩落しているような家も見かける。
この町出身の最も有名な人物、13世紀の聖ボナベントゥラの家と言われるものも下のような状態になっている。

本当の彼の家はこの先にあって16世紀には巡礼地になっていたが、崩落して消滅してしまった。
さらに資料を読んでいくと、現在コンクリートの橋がかかっているあたりには、現在まったく痕跡さえ残さず崩落・消滅してしまった修道院・教会があったと分かった。下は1765年にその修道院が状況を説明する為にローマ法王庁に送った図面。

左側がチヴィタ地区、右側が現在主要な町になっているバーニョレッジョ。その中間にフランチェスコ修道院・教会があり、地面にたくさんの亀裂が走っている様子が危機的に描かれている。
下の写真のどこにもその痕跡はみつからない。聖ボナベントゥラも学んだという修道院は永遠に消滅してしまったのである。なんという激しい崩落だろう。

さらに、ローマへの絵図面と下の写真に写るチヴィタへの入り口の様子がどうも違うのが気になった。チヴィタへの入り口に教会が描かれているが、今はないのはなぜだ?

冒頭の「崩落地図」を見ると、いちばん左の1703年に崩落したピンク色の領域はかなり大きい。資料を読んでいくと、ここはかつて「ポンテ地区」と呼ばれるひとつの居住区となっていた。

そのポンテ地区への入り口にあたるこの聖母マリア門は十六世紀に建設されたのだが、名前の由来はかつてこの門の上にあった同名の礼拝堂からきていると分かった。
図版に描かれていた教会はこの礼拝堂で、1703年の崩落の後なくなってしまったと理解できる。
チヴィタ地区とバーニョレッジョ地区を結ぶ地域で消滅した場所がもうひとつある。現在のコンクリートの橋がはじまるあたりをメルカテッロ広場と呼ぶがかつてはここも大きな市の立つ広場で、市役所もここにあったのだという。今では数件の家があるだけで、全く想像できない。
現在のコンクリートの橋に至る以前にどんな橋がかけられていたのかを歴史的に追ってみる。
かつてチヴィタが町の中心であった時代、現在の中心であるバーニョレッジョ地区とは広い道でつながっていた。その途中に今は消滅したフランチェスコ修道院もあった。
度重なる崩落の後、チヴィタ地区はだんだんと孤立した場所になっていたが、19世紀の終わりまでは三車線で馬車が行き交うことが出来る道が通じていた。
1901年にその道が崩壊。
1920年に石造りの橋が建造されたが、1944年にドイツ軍により爆破。
戦後、二十年以上も木製の歩道橋が仮設されていただけだった。
1965年から現在のコンクリート製の橋が建設されたが、完成前にメルカッテッロ広場側の土台が崩落。橋をはじめる位置を少しずらして現在のものとなった。下の写真を見ると、真っ直ぐのはずだった橋のスタート地点がずらされているのがはっきりと分かる。

46 - 50件目まで(63件中)


