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旅倶楽部「こま通信」

~旅するように生きていこう~

旅倶楽部「こま通信」
旅するように生きていこう!
プロフィール

ニックネーム:
こまつうしん
居住地:
埼玉県
性別:
男性
年代:
60代
会社名:
旅倶楽部 こま通信
会社英字名:
会社所在地:
埼玉県
業種:
旅行業
自己紹介:
旅倶楽部「こま通信」代表

これまで三千日以上を旅してきて、より良い旅の為に《手造の旅》をはじめました。メンバーからの要望によって、一生モノの旅をつくっていきます。

《手造の旅》のご希望がありましたらご連絡ください。
komatsusin2@gmail.com

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ドーム
ちいさなアヤソフィア
エリア:
  • 中近東>トルコ>イスタンブール
テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2012/09/20 11:58
コメント(2)
イスタンブールを訪れた誰もが見学するのがアヤソフィア。現在見られるものは西暦537年に献堂式が行われた。が、その十年前の527年にアヤソフィア建設のトレーニングをするかのように建設されていた聖堂がこれ。
外観現在は「キュチュク・アヤソフィア(小さなアヤソフィア)」と呼ばれてモスクとなっているが、教会だった時代の名前はアギオス・セルギオス・ケ・バッコス(聖なるセルギオスとバッコス)であった。シリアで殉教した聖人二人の名を冠してある。

この場所には即位前のユスティニアヌス帝が住んでいた。当時の皇帝=叔父のユスティヌスから謀反の疑いをかけられ、死罪の危機にあった時、この二人の聖人が叔父ユスティヌス帝の夢枕に立って甥の無罪を継げたという。この出来事から聖人二人への感謝を表して建設されたのである。

建設を請け負ったのは後にアヤソフィア建設を担うイシドロスとアンテミウス。かれらはアヤソフィアと同じ発想で教会をつくった。緑や白などさまざまな美しい柱とそれを飾る柱頭はまさにアヤソフィアと同じだ。
緑の柱
白い柱
柱頭部分を拡大すると、さらによく分かる。
柱頭
中央の削られた部分には教会だった当事十字架があったと想像される。現在ここはモスクとして使用されているのである。

教会の主祭壇はエルサレムの方角を向くが、モスクはメッカの方角を向く。ということで教会の主祭壇の位置より向かって右へずれてミヒラブがある。これもまたアヤソフィアと同じ歴史をたどった証明である。
正面からずれたミヒラブ2
アプスとずれて置かれたミヒラブ
モスクに改装されて、教会だった時代のものはすべて取り払われた?いや、それが文字はそのままになっているのである。八角形の内陣をぐるりと取り囲むフリーズのギリシャ文字がこれ。
ギリシャ文字ここにはユスティニアヌスの有名な妃・テオドラの名前もあるというのだが、それを見つける事は出来なかった。
柱頭部とギリシャ文字

二階席があるのもアヤソフィアと同じ構造。千五百年近い年月によって階段の石は磨り減っている。小松はつるっと転んでしまいました(笑)ご注意ください。
磨り減った階段

二階席が女性用として使われるようになったのは後の時代といわれる。六世紀当事にどういう利用者分けがされていたのかは定かでない。
二階
二階から見下ろす

壁の一部に明らかに何かをはぎとった後があった。
剥ぎ取られた跡
教会であった時代の文字は残されたが、図像はもちろん取り除かれた。もしかしたら、ここにはそういうモザイクがあったのかもしれない。
アヤソフィアの二階部分には黄金色に輝くモザイクがあるのだから。

窓から外を覗くと独立した小堂が見えた。
改修した建築家の墓これは、モスクに改修された時代に、今の入り口を建設したイスラム教徒の墓だという。
下の写真で右側のポーチがその改修部分。入り口
堂内の一部の床がガラスに覆われている。
もともとの床面1

教会だった時代の大理石のオリジナル床面が見える。
もともとの床面2
主祭壇近くには教会時代からのものと思われる花の模様が残されていた。
オリジナルのフリーズ部分
内部で全体を見上げる印象は、小アヤソフィアの雰囲気ありますでしょう。
ドーム

ゲイランゲルフィヨルドの上に残る農場跡
フィヨルドに住んだ人々
エリア:
  • ヨーロッパ>ノルウェー
テーマ:クルーズ 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2012/09/10 07:59
コメント(0)
ノルウェーのフィヨルドについて、2003年頃にまとめたものを少し新しくして載せます。フィヨルドの美しい景観の中に貧しかった頃のノルウェーの人々の暮らしが見えてきます。

**
海から120キロも内陸の入り江。ソグネフィヨルドを行く船上からは、素晴らしい景色を見ることができる。
フィヨルドをゆく船より
「わあ、こんなところに家がある!」
船上アナウンスがはいる「左手の崖の上には、スティーゲン農場が見えます。[スティーゲン]とは、[はしご]という意味ですが、実際にこの農場へ上がっていくためには、はしごが必要でした」
「はしご農場」の家
何故こんな不便な所にすき好んで住んでいるのだろう?農場?こんな所にそんな土地があるのだろうか?誰もがそう思う。「きっと、あんなところが好きで、ゆっくりくらしてるんだろうねぇ」という感想も聞えてきた。

いや、実はそんなお気楽な家ではない。これはノルウェー国民がたどってきた、苦難の歴史の置き土産なのだ。

この写真で見ていただきたいのは美しい滝ではない。上方右手に小さく見える家である。ここにはかつて果樹園があった。りんごが取れた。山羊がいた。馬がいた。そしてそれを飼う人がすんでいたのだ。
ゲイランゲルフィヨルドの上に残る農場跡
今は廃屋になっているが、かつての姿を再現したのが下図。
かつての農場を再現した図

昔、人口の増加を支えきれない零細なノルウェーの農業からは、たくさんの流民がうまれた。そういった人々の出て行った先は、多くはアメリカであった。

スエーデンからの独立前、1850年から1910年までの間に、ノルウェーからアメリカに移住した人の数は69万1821人と統計は語る。現在でも500万人しか人口のない国としては、驚異的な数の人々が祖国を離れたわけだ。

いや、アメリカに行ったのは、定期船の船賃を稼ぐ事が出来る比較的余裕がある農家である。そうでない人々は、いやでも国内で新たに生きる場を求めなくてはならない。
村を出て、工業化で都市生活者になれた人もいただろう。ノルウェーらしく船乗りになった者もあっただろう。

一方で、苦しくとも農業を続ける事を選んだ人もいた。山の多い寒冷なノルウェーで、新たに農業ができる場所を見つけるのは簡単な事ではない。
そこがフィヨルドの奥の崖の上でも、その人は生きるために自分自身の土地がを造り出さねばらななかったのだ。傾斜地にわずかな畑を作り、家畜を飼って、「住めば都」と感じただろうか?
下はゲイランゲルフィヨルドの家
傾斜地に建てられた農場

このフィヨルドとベルゲンをつなぐポスト・シップは、なんと1790年に就航。はじめは司教や、数少ない文字の書ける農民の為に、手紙を運んでいた。19世紀末には常駐ではないが、郵便局が開設された。陸路は雪で閉ざされてしまうため、凍らないフィヨルドの郵便船というのは唯一の生命線だったのだ。だから、現在でもこの船には「POST SHIP」と書かれた旗がひるがえっている。
今も「POST SHIP」

「はしご農場」の暮らしはもちろん楽ではない。子供は傾斜地を海まで転がり落ちてしまう危険があるので、いつも紐をつけて木につないでおいたという。
「はしご農場」の暮らし
雪の重みで家が潰されてしまっても、すぐに助けに来てくれる人はいない。自分たちでなんとかしなくてはならない。※この写真は埋まってしまった友人を助けるために雪を掘っている、と説明してあった。
雪で潰れた小屋から救出

行政はこんなフィヨルドの奥には何もしてくれなかった。それなのに税金だけは徴収しようとする。徴税人がやってくると彼らは「はしご」を外して知らん顔をしたそうである。※下はその様子を再現した人形
収税人がやってくると

こんな暮らしの中でも、いや、こんな暮らしだからこそ、教会には行った。こんな土地で住むからこそ、神に祈る気持ちは人一倍強かったのだろう。

せめて日曜日にはきれいな服で教会に行く。それは厳しい暮らしの中のささやかな喜びだっただろう。教会の近くには、Dalabudaと呼ばれる小屋があった。人々が作業着をを着替える為の場所である。 下はそのひとつを移築したもの。
着替え用の小屋
***
1869年(明治2年)フィヨルドに始めての観光客がやってきた。各国の王室が自分の船でやってくるのである。ドイツ王カイザー・ヴィルヘルム2世、エジプトのプリンスやタイの王までがやってきた。1920年には112隻もの船が観光のためにやってくるようになっていた。

2002年「ノルウェー・フィヨルド博物館」がゲイランゲルのホテル・ユニオンすぐ近くにオープンした。写真引用した展示や移築した小屋はここにある。オープニングにはソニア皇后も出席された。
フィヨルドミュージアム入口
建築自体も一見に値する。建物のかたちはフィヨルドに向かってなげられた、一本の銛をイメージしている。

ゲイランゲルの地名[GEIR]とは槍の先をあらわす言葉だとか。
下の写真はその後ろの部分。
フィヨルドミュージアム後
先端がこれ
フィヨルドミュージアム先端
前出のフィヨルドの歴史と生活を展示するコーナーと、下の写真のようなギャラリーから出来ている。外の美しい景色が見える、落ち着いた空間である。
フィヨルドミュージアム内部
8分間で美しいフィヨルドの映像を見られるシアターもある。

★★現在、ノルウェーは充分お金持ちになった。1969年に北海油田が発見され、世界第三位の石油輸出国である。中東の諸国と違い、その富をひとつの階級が独占するような事をせずに、国民の為に大事に管理をしている様に見える。高所得・高税率に高福祉。今のノルウェーは、フィヨルドの断崖を耕して生活するというようなスタイルが、根本的に受け入れられない世界になってしまった。高所得なノルウェー社会に生きる生活を、そんな零細農業では支えていけないのだ。 ガイランゲル・フィヨルドの崖の上にあるかつての農家は、1960年代には次々に放棄されて空家になっていった。今そこは、希な山岳観光客の訪れる場所になっている。

グアイタの塔からチェスタの塔を見る
サン・マリノ訪問
エリア:
  • ヨーロッパ>サンマリノ共和国>サンマリノ
テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2012/07/27 11:54
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イタリアの中にある小さな独立国サン・マリノは面積61平方キロメートル(マンハッタン島と同じぐらい、小豆島の半分)世界で五番目に小さい国だ。

ここが独立国として生き延びてきたのは、ティターノ山を砦としていたからに違いない。近づくにつれてその山の三つの頂きに城塞があるのが見えてきた。
サン・マリノ遠望
これらの城塞はすでに1300年代にあったことが記録されている。1500年頃の絵の中にその名も聖人マリノが街を抱いている。
聖人マリノの手にある町
下は1663年にアムステルダムで発行された本に載せられたサン・マリノ。上下で崖側と街側が描かれている。
17世紀のサンマリノ※これらの図はグァイタ塔の展示より
国の正式紋章もこれ。この写真は旧市街の切手とコインの博物館・お店のウィンドウより。紋章

もうすぐ国への入口。三つの砦が大きくみえてきた。一番右手グアイタ塔の下に旧市街がある。
サン・マリノへの道
国境はこの簡単な歩道橋のような橋だけ。そこにイタリア語で「古き自由の地へようこそ」と書かれてある。
「古き自由の地へようこそ」
じぐざぐの道をのぼっていくとアドリア海が見えてきた。ここは海からたった20キロしか離れていない。
アドリア海がみえる
バスの駐車場は旧市街城壁のすぐ外、13世紀ごろからあるフランチェスコ門を入ると急な小道が交差する旧市街だ。
フランチェスコ門を入ったところ
すぐについたティターノ広場には無料の歴史博物館。リベルタ(自由)広場はすぐそこ。
リベルタ広場
この宮殿が市長舎であり国の政庁舎でもある。
★サン・マリノは人口3万人。60人の代議員が一院制の国会を形成する。首長であるカピターニ・レジェンティ(国発行の日本語案内では「執政」と訳されていた)は半年ごとに交代する決まり。それによってひとりの手に権力が集中するのを避けている。カピターニがはじめて選出されたのは1243年。世界一古い共和国と言うだけのことはある。

弱肉強食の中世を、その地形と政治力とによって独立を保ち続けた。イタリア統一の年月においてはつかの間のローマ共和国を追われたガリバルディをかくまっている。後年これがサン・マリノの独立維持に貢献したのではないだろうか。
サン・マリノ共和国の衛兵サン・マリノ衛兵

旧市街の一つはガリバルディ広場と呼ばれ、彼の白い胸像が建てられている。
ガリバルディ広場

パスポートに正式な入国スタンプを押してほしい?
インフォメーションで料金5ユーロを払うと、下のようなスタンプを押してくれる。※正式パスポートでないものには押してくれませんでした。
サン・マリノ共和国の入国スタンプ

サン・マリノのコイン、ほしい?
イタリアが鋳造することの出来るユーロ枠からサン・マリノの分を分けてもらっているそうで、数はごく少ないから流通しているのは見たことがない。博物館の売店でセット売り98ユーロであった。
サン・マリノのユーロコインセット

この中の5セントに刻まれているのが、この旧市街の上にあるグアイタの塔。
サン・マリノユーロ5セントコイン

十分ほど坂を上っていくと、グアイタ塔の入口に到着。ここだけ単独の入場は料金三ユーロ。
グアイタの塔入口
入場券はカード式
グアイタ塔入場チケット
塔はさっきのコインに描かれていた形。
グアイタ塔頂上部
海抜750メートルから素晴らしい眺望を楽しめる。
グアイタの塔からチェスタの塔を見る
アドリア海側を見下ろす
グアイタ塔からチェスタの塔

この塔はしかし、20世紀に至るまで監獄として使われていた。その監房が公開されている。
監獄1
監獄のことを冗談で「無料ホテル」などというけれど、この監獄では収監料を本人から徴収していた。

「最も危険な罪人をロッカ(ここのこと)の地下に収監した」と国の歴史書にあるそうだ。中世には拷問はあたりまえだったが、サン・マリノでは1821年9月5日の国会でこれを禁止。さらに1848年3月16日には死刑も西洋諸国に先駆けて廃止している。

内部にはたくさんの絵が書かれているが、現代の修復の中でペンキが何度も塗られていって、それぞれの時代特定が難しくなってしまったとのこと。
監獄2
グアイタの塔は今見えている形になったのはそれほど昔ではない。どの部分がいつ造られたのかを現した図がこれ。ピンクが13世紀の部分になる。
グアイタ塔の歴史

街へ降りていくと、ギリシャ神殿のようなサン・マリノ教会がある。
ダルマチア(現クロアチア海岸部)から逃れてきた石工だったかれが暮らした石のベッドもこのとなりに残されているのである。
サン・マリノ教会

上階の歩行路
ビスカヤ橋
エリア:
  • ヨーロッパ>スペイン>ビルバオ
テーマ:鉄道・乗り物 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2012/05/29 23:56
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ビルバオ市内から15分ほど川沿いに海に向かう。グッゲンハイム美術館を中心にした新しいビルバオ※下記からその様子ご覧くださいhttp://blog.goo.ne.jp/komatsusin/d/20120518
そこからどんどん時代を遡って産業革命時代から20世紀初頭の港へ向かっていく、そんな雰囲気がする。
つまり古い港地区にこの橋は建てられているのだ。ビスカヤ橋全景
今よりもきっと多かっただろう船の往来を妨げないようにして川を渡るにはどうすれば良いのか?19世紀後半のひとつの解決策として考案されたアイデアが現代でも生きている。

1890年4月に着工され、1893年7月に公式オープン。当時は木製のゴンドラが往来しており、座席も一等と二等があった。階層社会が厳然としていた時代である。この頃の木製のゴンドラから、何度も代替して今は五代目、1998年から運行している。145メートルの川を二分で渡り、一度に普通車六台と六百人を運ぶことが出来る。
ゆきかう五代目ゴンドラ
設計者アルベルト・パラシオはあのエッフェル塔のギュスターブ・エッフェルの弟子。
アルベルト・パラシオ
2006年の世界遺産指定前にヨーロッパ文化遺産に認定されている。
ヨーロッパ文化遺産です
地上45メートルの上階を徒歩で歩くことができる。
上階の歩行路
眼下のゴンドラ。
ゴンドラを上からみる
海に向かって左側は丘に旧市街の広がるポルトカレーテ地区。中世から17世紀後半までここはビルバオとは別の市であり、競争相手であった。1691年、ついにビルバオの圧力で城壁が壊されてしまった。

反対側は平地の続くゲチョ地区
ゲチョ地区方向
こちらには19世紀以来各国の領事館や別荘が立ち並び新しい港と共に繁栄していった。
この海岸地帯で安全に住むために施された護岸工事の記念碑が海辺に建っている。
港湾地域護岸工事記念碑

上階の橋を渡っていて、人が入るための妙な箱があることに気づいた。コントロールルーム
説明書きによると、なんと1999年まではコントロール室として24時間365日ここに監視員が入っていたのだそうだ、びっくり!
当時の港湾法により、船の往来を最優先にするために監視をおかなくてはならなかったのだという。現在はコンピューター制御されていてお役御免。

この橋が観光地として宣伝されるようになってきたのは、まさにこのコントロールルームが不要となってからであった。

水源3
ロンダに残るアラブ時代の井戸
エリア:
  • ヨーロッパ>スペイン>ロンダ
テーマ:観光地 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2012/03/28 11:48
コメント(0)
切り立った崖が旧市街を囲むロンダは18世紀につくられたこの新橋で有名。
新橋
しかし、こういう街で一番問題になってきたのは水をどう確保するかという事だ。
古代ローマからロンダに住む人々は苦労してきたが、14世紀に住んだアラブ人達は遙か下の川まで至る井戸を掘って対応していた。井戸といっても、人間がそこまで降りて行って水を汲む大規模なものである。

その井戸があることは、以前から聞き知っていたが、2012年3月、初めて訪れることができた。

そこは、「La Casa del Rey Moro=ムーア人の王の家」と名付けられた古い邸宅の庭の一角に位置している。新橋からもその庭は見ることが出来る。崖に樹木が見えるところがそうだ。
庭の遠景

ここへ至る旧市街の道も美しい。ロンダのほんとうに美しい部分は新橋のむこうにあるのである。
「ムーア人の王の家」への道
標識を追っていく。この白い壁の向こうがその邸宅だ。
白壁の旧市街
入場料を払って入ると、先ほど新橋から見えていた庭園に出る。庭園1ここは1912年に当時の持ち主であった公爵夫人がフランス人の著名な造園家にオーダーしてデザインされたものだそうだ。彼はセビリアのマリア・ルイサ公園も設計しているという。庭園2
小さいが確かに美しく、崖から見下ろす絶景を楽しめる庭になっている。

この一角から、川まで続く階段がはじまる。
井戸の階段1
約六十メートル下の水面までぐるぐると降りてゆく。
井戸の階段2
完全に地中を掘り抜いたものではなく、崖に隠れがくれにつくられており、支えるアーチの壁から光は充分に入ってくる。
井戸の階段3
途中にいくつか部屋があり、かつては別のルートへ行く道もあったようだ。
井戸の階段4
これらの部屋のうちのひとつは「武器庫」と呼ばれており、実際に水源を守るための兵が武器と共に駐屯していたと想像される。
「武器の部屋」
かつては革袋に水を入れた「人間の鎖」がこの階段をひっきりなしに往復し、街に水を供給していたということだ。井戸の階段5
突然、美しい水面に到達する。水源2
はるか上の青空に崖の上の家々が白く輝いている。
水源3
この場所は確かにロンダのアキレス腱だったに違いない。
1485年にキリスト教軍はロンダを攻めるためにこの井戸から攻め入った。街には入れなくても、水源を失ったアラブ人たちは降伏の道しかなかった。

水面から見上げると、階段を覆っている壁は古い人工のものだとわかる。
人工の壁
家々ははるか上。
街を見上げる
今回ここへ来られたのは、ローカルガイドのハビエル君が労を厭わず、小松のリクエストに応えてくれたから。どうもありがとう!※この写真の彼です。
水源から階段への入口

ロンダの街にはまだまだ小松の知らない・訪れていない面白場所がありそうだ。そのうち《手造の旅》で、優秀なガイドさんと共にゆっくり訪れてみたい。
井戸入口

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