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51 - 55件目まで(100件中)

- ブータン料理は辛いか
-
エリア:
- アジア>ブータン
- テーマ:グルメ
- 投稿日:2012/01/29 08:01
- コメント(0)
「唐辛子は野菜です」
この国を代表する料理と言えるエマ・ダッツィ(唐辛子のチーズ煮込)は、もちろん辛い。

シー・カム・パー(脂肪・干した・スライスした)と紹介された郷土料理も唐辛子が効いていた。※別の呼び方もある料理のようです

マーケットではどの店も唐辛子をふんだんに売っている。

しかし、辛い料理が辛いのは日本でも同じ。辛くないものを食べようと思えば、特に我々ツーリストには充分なものが用意されている。
下はブータン料理店のバッフェでもりつけたもの。

上は赤米(日本でももともとはこのような米が主流だったのかもしれない)。その右側黄色く見えるのがもろこし系穀物、右側に先ほどのシーカムパー(豚の脂肪を乾燥させてスライスした高カロリー食品・赤唐辛子やイモと共に炒めてある)。
下のイモはマスタードとソテーされているがさほど辛くはない。じゃがいもはどれもとても美味しい。
最後に左に見える緑色のものが先のエマ・ダッツィ(唐辛子のチーズ煮込み)で、これは辛い。右上には川海苔のスープ。
旅行客向けの食事は充分に辛くなくおいしいと思えた。
★注意しなくてはならいのは、本来は辛くない料理である。たとえば、ネパールでもよくだされるモモという餃子。ネパールでは味噌ソースと食べるのが通例だが、こちらブータンでは生の唐辛子を刻んでコリアンダーと混ぜた「エゼ」と呼ばれる調味料と共に食べる。
これもまぁ「辛いかもなぁ」と加減しながら食べるから大丈夫だったが...
★★街歩きで出会った全く洋風のベーカリーで意表を突かれた。中へ入ってこの実に普通のショー・ウィンドウのお店。
マッシュルームのパンを選んだ。日本でも具入りのパンはよくある。
45ヌルタムは2012年1月現在75円程度。
温めなおしてお皿に載せてフォークと共に渡され、ナンの警戒心もなくがぶっと噛みついたのだが・・・三秒の後「辛!」はぁ〜っと息を出してびっくりして断面を見ると・・・赤い唐辛子がたくさん刻み込まれていた。
なるほど、ブータン人がどれだけ辛いものを好んでいるのか、よく分かりました。
**
首都ティンプーの市場「ザブジ・バザール」の風景を少しご紹介。

近在から新鮮な野菜を売りに来る人々が集まるここは近年二階建てになったそうな。「野菜」セクションなど、商品によって一応の区分がされているが、同じ店で色々な種類を売っていたりもする。なかには観光客目当てのような商品がぽつぽつあって、これからここにも観光客目当ての店が出てくるのかもしれないと思わされた。
米は「シリアル」セクションで売られていた。

ひと口に赤米というけれど、いくつかの種類があって色に濃淡がある。朝のおかゆで気に入ったので
少し買っていこうとおもってきいてみる。
「どっちの赤米がおいしいの?」店の子供たちは大人たちよりも英語が達者である。
すると「そのまま炊くならこっちの色の薄いのがいいけれど、濃い赤色のものを白米と混ぜるのもイイよ」とアドバイスしてくれた。
「じゃ、混ぜて一キロちょうだい」とオーダー。
するとそれぞれを一キロずつ入れようとしているので「いや、両方あわせて一キロにして」というと、「一番小さい分銅が一キロしかないの」と困った顔をする。
「じゃ、適当に混ぜて一キロで良いから」と言ってひと皿に盛り始めたのがこの写真。
計り終わって、ふいに緑の薄いポリ袋が私の手に空で渡された。どうしていいか分からずきょとんとしていると、口をひらいて米を受けろという。ああ、ここではこうやって米を渡す事になっているのか。計りの皿から、私の手のポリ袋にざざっと一キロ分の米が入れられた。
この国を代表する料理と言えるエマ・ダッツィ(唐辛子のチーズ煮込)は、もちろん辛い。

シー・カム・パー(脂肪・干した・スライスした)と紹介された郷土料理も唐辛子が効いていた。※別の呼び方もある料理のようです

マーケットではどの店も唐辛子をふんだんに売っている。

しかし、辛い料理が辛いのは日本でも同じ。辛くないものを食べようと思えば、特に我々ツーリストには充分なものが用意されている。
下はブータン料理店のバッフェでもりつけたもの。

上は赤米(日本でももともとはこのような米が主流だったのかもしれない)。その右側黄色く見えるのがもろこし系穀物、右側に先ほどのシーカムパー(豚の脂肪を乾燥させてスライスした高カロリー食品・赤唐辛子やイモと共に炒めてある)。
下のイモはマスタードとソテーされているがさほど辛くはない。じゃがいもはどれもとても美味しい。
最後に左に見える緑色のものが先のエマ・ダッツィ(唐辛子のチーズ煮込み)で、これは辛い。右上には川海苔のスープ。
旅行客向けの食事は充分に辛くなくおいしいと思えた。
★注意しなくてはならいのは、本来は辛くない料理である。たとえば、ネパールでもよくだされるモモという餃子。ネパールでは味噌ソースと食べるのが通例だが、こちらブータンでは生の唐辛子を刻んでコリアンダーと混ぜた「エゼ」と呼ばれる調味料と共に食べる。
これもまぁ「辛いかもなぁ」と加減しながら食べるから大丈夫だったが...★★街歩きで出会った全く洋風のベーカリーで意表を突かれた。中へ入ってこの実に普通のショー・ウィンドウのお店。

マッシュルームのパンを選んだ。日本でも具入りのパンはよくある。
45ヌルタムは2012年1月現在75円程度。温めなおしてお皿に載せてフォークと共に渡され、ナンの警戒心もなくがぶっと噛みついたのだが・・・三秒の後「辛!」はぁ〜っと息を出してびっくりして断面を見ると・・・赤い唐辛子がたくさん刻み込まれていた。

なるほど、ブータン人がどれだけ辛いものを好んでいるのか、よく分かりました。
**
首都ティンプーの市場「ザブジ・バザール」の風景を少しご紹介。

近在から新鮮な野菜を売りに来る人々が集まるここは近年二階建てになったそうな。「野菜」セクションなど、商品によって一応の区分がされているが、同じ店で色々な種類を売っていたりもする。なかには観光客目当てのような商品がぽつぽつあって、これからここにも観光客目当ての店が出てくるのかもしれないと思わされた。
米は「シリアル」セクションで売られていた。

ひと口に赤米というけれど、いくつかの種類があって色に濃淡がある。朝のおかゆで気に入ったので
少し買っていこうとおもってきいてみる。「どっちの赤米がおいしいの?」店の子供たちは大人たちよりも英語が達者である。
すると「そのまま炊くならこっちの色の薄いのがいいけれど、濃い赤色のものを白米と混ぜるのもイイよ」とアドバイスしてくれた。
「じゃ、混ぜて一キロちょうだい」とオーダー。
するとそれぞれを一キロずつ入れようとしているので「いや、両方あわせて一キロにして」というと、「一番小さい分銅が一キロしかないの」と困った顔をする。
「じゃ、適当に混ぜて一キロで良いから」と言ってひと皿に盛り始めたのがこの写真。
計り終わって、ふいに緑の薄いポリ袋が私の手に空で渡された。どうしていいか分からずきょとんとしていると、口をひらいて米を受けろという。ああ、ここではこうやって米を渡す事になっているのか。計りの皿から、私の手のポリ袋にざざっと一キロ分の米が入れられた。

- バーゼル「舌の王様」
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エリア:
- ヨーロッパ>スイス>バーゼル
- テーマ:歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/12/28 10:29
- コメント(1)
バーゼルを流れるライン川沿いに「舌の王様」と呼ばれる変わった面像がある。
バーゼルはライン川をはさんで「都市バーゼル」と「地方バーゼル」の二つの準州に分かれている。この「あっかんべ」は「都市バーゼル」側にあり、「地方バーゼル」側を侮蔑する意味で設置されたとされている。
しかし、なぜ同じバーゼルの町でそんな仲たがいが生じてしまったのか、ずっと疑問に思っていた。この面像のある店に行って、もう少しだけその理由がみえてきた。
面像のある建物の一階はその名も「舌の王様」という名前のレストランになっている。メニューの表紙がこれ。

この店はいろんなところに「舌の王様」が登場する。

グラスまで

コースターもこの二種類のビール用に

左のものは「フィッシャー」と書かれているが、アルザスのビール会社とおなじものなのだろうか?
クリスマス時期だけのビールをいただきました。

店に「舌の王様」の由来が読みにくい文字で掲げられていた。
後日、何とか翻訳していただいたところを要約すると・・・
「その昔、クラインバーゼル(「地方バーゼル」の事、後出の地図でもわかるように、当時の旧市街ライン川の対岸は小さかったのでこう呼ばれた)の人々はオーストリアの支配下にあり、グロースバーゼル(=「都市バーゼル」に対する奇襲攻撃を計画していた。」
「しかしながらその計画は、夜警がライン塔の時計を1時間早めるという策略によって無に帰せしめれた。(このあたり具体的にどのような策略がなされたのかは書かれていない)」
「その後、グロースバーセルの人々が、古いライン塔にある大きな時計の隣にレーレ王のマスク、王冠、ひげを取り付けた。(看板の左上に小さく載せられている図版のもの)」
「このマスクはひげを生やしたしかめっ面をしていて、クライン・バーゼルを見やり、定期的な時計の拍子に合わせ、赤い舌を付き出し、目玉ををぐるぐるまわしていた。(店の前に現在取り付けられている電動の別の面像が動いていたのは、これを表していたのか!やっとわかった)」
「レーレ王のマスクは1640年に作られた。15秒ごとに目玉が動く。赤い舌は10cmも伸びる。」
「ライン塔のレーレ王」は外国の若い手工業者から非常に興味を持たれた。
それはバーゼルの若手季節手工業者のシンボルともなった。季節労働職人はみなレーレ王のマスクについて説明することにより、バーゼルを訪れたことを証明できるのであった。(★かつてドイツの職人は遍歴修行をするならわしがあり、その際に各土地に本当に行ったことを証明するために、それぞれの町に『知るべきこと』があったときいている。「舌の王様」もまたそういったもののひとつだったのかもしれない」
「レーレ王は都市域を越えて広く知られるようになり、この有名な「嘲笑フィギュア」はときには詩人の書くポエムの中にも登場した。
1798年からのバーゼル革命時(つまりフランス革命の余波)、レーレ王のマスクもライン塔を去らなければならなかった。しかし3年後には再び元の位置に戻された。
1839年にライン塔が壊されたとき、レーレ王のマスクは再度都市から姿を消したが、オリジナルのレーレ王マスクは今日、歴史博物館の中に展示されている。(これ、実物を見てみたいですが、今回2011年12月の訪問時には果たせなかった)」
「そしてレストラン『レーレ王』は現在、元ライン塔の反対側にある。(元のライン塔の場所がどこだったのか、次回確認しようと思います)」

バーゼルはライン川をはさんで「都市バーゼル」と「地方バーゼル」の二つの準州に分かれている。この「あっかんべ」は「都市バーゼル」側にあり、「地方バーゼル」側を侮蔑する意味で設置されたとされている。
しかし、なぜ同じバーゼルの町でそんな仲たがいが生じてしまったのか、ずっと疑問に思っていた。この面像のある店に行って、もう少しだけその理由がみえてきた。
面像のある建物の一階はその名も「舌の王様」という名前のレストランになっている。メニューの表紙がこれ。

この店はいろんなところに「舌の王様」が登場する。

グラスまで

コースターもこの二種類のビール用に

左のものは「フィッシャー」と書かれているが、アルザスのビール会社とおなじものなのだろうか?
クリスマス時期だけのビールをいただきました。

店に「舌の王様」の由来が読みにくい文字で掲げられていた。
後日、何とか翻訳していただいたところを要約すると・・・「その昔、クラインバーゼル(「地方バーゼル」の事、後出の地図でもわかるように、当時の旧市街ライン川の対岸は小さかったのでこう呼ばれた)の人々はオーストリアの支配下にあり、グロースバーゼル(=「都市バーゼル」に対する奇襲攻撃を計画していた。」
「しかしながらその計画は、夜警がライン塔の時計を1時間早めるという策略によって無に帰せしめれた。(このあたり具体的にどのような策略がなされたのかは書かれていない)」
「その後、グロースバーセルの人々が、古いライン塔にある大きな時計の隣にレーレ王のマスク、王冠、ひげを取り付けた。(看板の左上に小さく載せられている図版のもの)」
「このマスクはひげを生やしたしかめっ面をしていて、クライン・バーゼルを見やり、定期的な時計の拍子に合わせ、赤い舌を付き出し、目玉ををぐるぐるまわしていた。(店の前に現在取り付けられている電動の別の面像が動いていたのは、これを表していたのか!やっとわかった)」
「レーレ王のマスクは1640年に作られた。15秒ごとに目玉が動く。赤い舌は10cmも伸びる。」
「ライン塔のレーレ王」は外国の若い手工業者から非常に興味を持たれた。
それはバーゼルの若手季節手工業者のシンボルともなった。季節労働職人はみなレーレ王のマスクについて説明することにより、バーゼルを訪れたことを証明できるのであった。(★かつてドイツの職人は遍歴修行をするならわしがあり、その際に各土地に本当に行ったことを証明するために、それぞれの町に『知るべきこと』があったときいている。「舌の王様」もまたそういったもののひとつだったのかもしれない」
「レーレ王は都市域を越えて広く知られるようになり、この有名な「嘲笑フィギュア」はときには詩人の書くポエムの中にも登場した。
1798年からのバーゼル革命時(つまりフランス革命の余波)、レーレ王のマスクもライン塔を去らなければならなかった。しかし3年後には再び元の位置に戻された。
1839年にライン塔が壊されたとき、レーレ王のマスクは再度都市から姿を消したが、オリジナルのレーレ王マスクは今日、歴史博物館の中に展示されている。(これ、実物を見てみたいですが、今回2011年12月の訪問時には果たせなかった)」
「そしてレストラン『レーレ王』は現在、元ライン塔の反対側にある。(元のライン塔の場所がどこだったのか、次回確認しようと思います)」

- ストラスブール大聖堂を担ぐひと
-
エリア:
- ヨーロッパ>フランス>ストラスブール
- テーマ:観光地 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/12/23 14:58
- コメント(0)
アルザスの首都、ストラスブールには、かつてヨーロッパ一高かった時もあるほどの歴史ある大聖堂がある。
何度目かに訪れた時、いつもはドイツ人の案内をしているというガイドさんが、はじめて見せてくれたのが、この「大聖堂を担ぐ人」。ちょっとわかりにくい場所にあるし、それを示す案内板なども全くない。
「ほら、ここ!この人が支えているから大聖堂は倒れないんですよ」と英語で言うと、「あ、おもしろぉい!」とみんな写真を撮っている。
しかし、これ、大聖堂がもともと建設された時からあったものなのか?それにしては人間の表現が新しくて流麗すぎるのじゃない? さらに詳しい内容をきいてみると、やはり19世紀にここに加えられたものであった。
19世紀に大聖堂の各所が老朽化して修復が必要になって、大規模な改修工事をした際、ドイツの職人の伝統的習慣に沿って、このまじないの小像をはめ込んだのだそうだ。

そうか、普仏戦争でフランスが敗れた1871年から、第一次大戦でドイツが敗れる1918年まで、ここストラスブールはドイツ領だったのであります。

何度目かに訪れた時、いつもはドイツ人の案内をしているというガイドさんが、はじめて見せてくれたのが、この「大聖堂を担ぐ人」。ちょっとわかりにくい場所にあるし、それを示す案内板なども全くない。
「ほら、ここ!この人が支えているから大聖堂は倒れないんですよ」と英語で言うと、「あ、おもしろぉい!」とみんな写真を撮っている。
しかし、これ、大聖堂がもともと建設された時からあったものなのか?それにしては人間の表現が新しくて流麗すぎるのじゃない? さらに詳しい内容をきいてみると、やはり19世紀にここに加えられたものであった。
19世紀に大聖堂の各所が老朽化して修復が必要になって、大規模な改修工事をした際、ドイツの職人の伝統的習慣に沿って、このまじないの小像をはめ込んだのだそうだ。

そうか、普仏戦争でフランスが敗れた1871年から、第一次大戦でドイツが敗れる1918年まで、ここストラスブールはドイツ領だったのであります。

- 1585年創立、ホークスヘッド村のグラマー・スクール
-
エリア:
- ヨーロッパ>イギリス>湖水地方
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/10/12 21:54
- コメント(0)
「ピーターラビット」の作者ビアトリクス・ポッターが住んだヒルトップへいくバスが出発する村。パッケージツアーもよく訪れる村だが、ここにある十六世紀につくられた学校博物館に入場するグループはほとんどない。
一度入場料を払って入ってみたら、けっこう面白い解説が聞けたので、それ以降時間が合えば案内することにしている。数回目にここの創立者についての解説を読んで、彼、エドウィン・サンディスの人生に興味を持った。
小さな村を見下ろすように教会が建てられている。

このふもとに教会が管理する学校があった。白い二階建てがそれである。

一階部分、ひとつの教室。十六世紀には中央の机はなかった。教室の両方の壁を三つに区切り、各十二名ずつ、計六クラス、合計なんと七十名! 八歳から十五歳までの子供達が同時に勉強していた。

ラテン語、ギリシャ語、数学、英語、当時は子供が使えるノートなどなかったので、基本は声を出して覚える授業。近くの下宿に住んで月曜から土曜までみっちり学ぶ。さらに日曜には必ず教会へ。ミサに三度遅れると退学であった。
食事も含めて共同生活。飲み物は子供でも一日三パイントのビールを飲まされていた。水が不衛生だった時代だということなのだろう。

これら黒板ノートが使用されていたのは最近の19世紀になってからの事。
18世紀後半の詩人ウィリアム・ワーズワースが通った学校としても知られているが、彼の時代にこの黒板ノートはあったのだろうか?
壁に歴代校長の名前を書いたボードがかかっていた。名前の最後にCAMと書いてあるのはケンブリッジ大学卒、OXはオックスフォードである。左の上に創立者としてエドウィン・サンディスの名前が読める。1585年に創立されている。

二階はかつて年長の生徒達の教室であった。今は歴史的な資料が展示されている。

ここで創立者エドウィン・サンディスの生涯について書かれた説明に出会った。

★エドウィン・サンディスは1519年にホークスヘッド近くの小さな村で生まれた。13世紀のスコットランド王ウィリアムの末裔と名のっていたようだが、実際には失われた名家だったようだ。※サンディス家は今もちかくの村にまだ続いている。
1539年にケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジを卒業。さらに教会学神学を学ぶ最高学位コースへ進む。ヘンリー八世が亡くなった1547年にはケンブリッジ大学のキャサリン・カレッジで教鞭をとっている。
1553年には副校長という地位にまでなっていたが、その年、エドワード六世が亡くなり、彼の人生に大きな転機が訪れる。
新女王メアリーは母(スペインのカソリック女王イサベラの娘キャサリン・オブ・アラゴン)の血を継ぐ熱烈なカソリック。父ヘンリー八世が母キャサリンと離婚するために始めた英国国教会を終わらせようとするのは明らかだった。
教会秩序を根本からひっくりかえすこの危機に、メアリーの即位を阻止しようとして前王の血縁者レイディ・ジェーン・グレイが担ぎ出される。エドウィン・サンディスもこのクーデターの動きに同調した。
ところがこの謀計は失敗。ジェーン・グレイはたった九日間だけ王冠を得た後、ロンドン塔で処刑! エドウィン・サンディスもまたロンドン塔へ幽閉されてしまう。いつ処刑されてもおかしくないところだったが、外部の手引きで脱獄に成功し、幸い家族を伴って大陸へ亡命する事ができた。
アントワープ、アウグスブルグ、ストラスブール、プラハ、チューリヒ・・・十年に及ぶ亡命生活。はじめの妻とも息子ともそこで死別。だが、幸い彼自身は1558年メアリー女王の死によって帰国することが出来た。
エリザベス一世女王の御世となり、再び彼は宗教界のキャリアを積み始める。ウォルチェスター司教、ロンドン司教、そしてヨーク大司教の地位にまで至った彼は若い妻と再婚。 1561年に彼と同じ名前の息子が産まれる。1577年、58歳の年にもうひとりの息子ジョージも得た。
1585年、六十五才。長く帰ってはいなかっただろう故郷に錦を飾るというのだろうか、生まれ故郷の村を管轄するここホークスヘッドに、グラマースクールを創立した。無料で教育が受けられるように、学校運営の為の資産も共に寄贈している。三年後1588年にヨーク大司教として死去。
二人の息子達は、エリザベス一世の治世にひらかれた新大陸のヴァージニア植民地の開発にも深くかかわっていくことになる。左が父と同名の息子(次男)エドウィン、右は14歳年下の(三男)ジョージ。
一度入場料を払って入ってみたら、けっこう面白い解説が聞けたので、それ以降時間が合えば案内することにしている。数回目にここの創立者についての解説を読んで、彼、エドウィン・サンディスの人生に興味を持った。
小さな村を見下ろすように教会が建てられている。

このふもとに教会が管理する学校があった。白い二階建てがそれである。

一階部分、ひとつの教室。十六世紀には中央の机はなかった。教室の両方の壁を三つに区切り、各十二名ずつ、計六クラス、合計なんと七十名! 八歳から十五歳までの子供達が同時に勉強していた。

ラテン語、ギリシャ語、数学、英語、当時は子供が使えるノートなどなかったので、基本は声を出して覚える授業。近くの下宿に住んで月曜から土曜までみっちり学ぶ。さらに日曜には必ず教会へ。ミサに三度遅れると退学であった。
食事も含めて共同生活。飲み物は子供でも一日三パイントのビールを飲まされていた。水が不衛生だった時代だということなのだろう。

これら黒板ノートが使用されていたのは最近の19世紀になってからの事。
18世紀後半の詩人ウィリアム・ワーズワースが通った学校としても知られているが、彼の時代にこの黒板ノートはあったのだろうか?
壁に歴代校長の名前を書いたボードがかかっていた。名前の最後にCAMと書いてあるのはケンブリッジ大学卒、OXはオックスフォードである。左の上に創立者としてエドウィン・サンディスの名前が読める。1585年に創立されている。

二階はかつて年長の生徒達の教室であった。今は歴史的な資料が展示されている。

ここで創立者エドウィン・サンディスの生涯について書かれた説明に出会った。

★エドウィン・サンディスは1519年にホークスヘッド近くの小さな村で生まれた。13世紀のスコットランド王ウィリアムの末裔と名のっていたようだが、実際には失われた名家だったようだ。※サンディス家は今もちかくの村にまだ続いている。
1539年にケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジを卒業。さらに教会学神学を学ぶ最高学位コースへ進む。ヘンリー八世が亡くなった1547年にはケンブリッジ大学のキャサリン・カレッジで教鞭をとっている。
1553年には副校長という地位にまでなっていたが、その年、エドワード六世が亡くなり、彼の人生に大きな転機が訪れる。
新女王メアリーは母(スペインのカソリック女王イサベラの娘キャサリン・オブ・アラゴン)の血を継ぐ熱烈なカソリック。父ヘンリー八世が母キャサリンと離婚するために始めた英国国教会を終わらせようとするのは明らかだった。
教会秩序を根本からひっくりかえすこの危機に、メアリーの即位を阻止しようとして前王の血縁者レイディ・ジェーン・グレイが担ぎ出される。エドウィン・サンディスもこのクーデターの動きに同調した。
ところがこの謀計は失敗。ジェーン・グレイはたった九日間だけ王冠を得た後、ロンドン塔で処刑! エドウィン・サンディスもまたロンドン塔へ幽閉されてしまう。いつ処刑されてもおかしくないところだったが、外部の手引きで脱獄に成功し、幸い家族を伴って大陸へ亡命する事ができた。
アントワープ、アウグスブルグ、ストラスブール、プラハ、チューリヒ・・・十年に及ぶ亡命生活。はじめの妻とも息子ともそこで死別。だが、幸い彼自身は1558年メアリー女王の死によって帰国することが出来た。
エリザベス一世女王の御世となり、再び彼は宗教界のキャリアを積み始める。ウォルチェスター司教、ロンドン司教、そしてヨーク大司教の地位にまで至った彼は若い妻と再婚。 1561年に彼と同じ名前の息子が産まれる。1577年、58歳の年にもうひとりの息子ジョージも得た。
1585年、六十五才。長く帰ってはいなかっただろう故郷に錦を飾るというのだろうか、生まれ故郷の村を管轄するここホークスヘッドに、グラマースクールを創立した。無料で教育が受けられるように、学校運営の為の資産も共に寄贈している。三年後1588年にヨーク大司教として死去。
二人の息子達は、エリザベス一世の治世にひらかれた新大陸のヴァージニア植民地の開発にも深くかかわっていくことになる。左が父と同名の息子(次男)エドウィン、右は14歳年下の(三男)ジョージ。
紀元後二世紀にローマ五賢帝のひとりハドリアヌスがイングランドの北の境界線に築かせた長城がある。ロンドンから北へ430キロ。スコットランド国境のすぐ南にあるカーライルはローマ起源の町。そこからさらにバスで一時間程度かかる。

全長110キロ強。東はニューキャッスルまで及び、グレートブリテン島をは挟んだ二つの海をつなぐように建設されてた。
近くには羊放牧用の柵もたくさんみられるので、バスで走りながら城壁の話をしていると、「あ、あれですか?」と皆さん指差したり(笑)。
確かに同じような石を用いた石壁なのでぱっと見は似ているが、ならべてみるとその違いははっきりしている。下の写真で手前は現代の羊放牧用の柵。上の写真、およびこの写真後方に見える四角い石積んだ厚いものが紀元後二世紀ローマ時代。

この城壁はもともと高さ六メートルの高さがあったそうだが、現在はその基礎の部分だけが残る。四角い石材は建築に便利なのでどんどん持ち去られてしまったのだ。
比較的よくのこっているこのバードオズワルド砦付近が見学地として推奨され、バス駐車場も完備されている。


現在見られる古代のものはこのような建物基礎の部分でしかない。
敷地内には1840年にこの遺跡に興味を持ち、考古学者に発掘させたヘンリー・ノーマンという人物が住んだ家がある。彼はファームハウスに塔や壁を増築して、あたかも中世の屋敷のように改造した。

案内板には日本語も表記もあるので分かりやすい。なるほど、ここは穀物貯蔵庫だったのか。
それにしても、どうして「六メートルの高さがあった」というようなことが分かるのだろう?ローマ帝国の築いた類似の壁はいろいろあるのだろうが、塔の形状までもはっきり再現することができるのだろうか?
二日後に行ったバースのローマ浴場博物館の展示品を見ていた時、温泉から見つかったという下の銅製カップの解説を聴いて納得した。

このカップはローマの兵士が常に携帯していた銅製の個人用のカップで、行軍の際に水を飲んだり配給を受け取ったりする為の必需品だったそうだ。
横から見ると、なるほどハドリアヌスの城壁と思われる姿がはっきりと描かれている。同様のものが三点あるのだとか。※どこの博物館にあるか、などは言及されていなかった。

バースの浴場は当時アクア・スリスと呼ばれ、スリス・ミネルヴァ女神の為の神殿と温泉が湧き出す池があった。このカップは兵士が奉納の為に投げ込んだと推察されている。
人間が神に捧げる方法は、時代も洋の東西も問わないらしい。

全長110キロ強。東はニューキャッスルまで及び、グレートブリテン島をは挟んだ二つの海をつなぐように建設されてた。
近くには羊放牧用の柵もたくさんみられるので、バスで走りながら城壁の話をしていると、「あ、あれですか?」と皆さん指差したり(笑)。
確かに同じような石を用いた石壁なのでぱっと見は似ているが、ならべてみるとその違いははっきりしている。下の写真で手前は現代の羊放牧用の柵。上の写真、およびこの写真後方に見える四角い石積んだ厚いものが紀元後二世紀ローマ時代。

この城壁はもともと高さ六メートルの高さがあったそうだが、現在はその基礎の部分だけが残る。四角い石材は建築に便利なのでどんどん持ち去られてしまったのだ。
比較的よくのこっているこのバードオズワルド砦付近が見学地として推奨され、バス駐車場も完備されている。


現在見られる古代のものはこのような建物基礎の部分でしかない。
敷地内には1840年にこの遺跡に興味を持ち、考古学者に発掘させたヘンリー・ノーマンという人物が住んだ家がある。彼はファームハウスに塔や壁を増築して、あたかも中世の屋敷のように改造した。

案内板には日本語も表記もあるので分かりやすい。なるほど、ここは穀物貯蔵庫だったのか。
それにしても、どうして「六メートルの高さがあった」というようなことが分かるのだろう?ローマ帝国の築いた類似の壁はいろいろあるのだろうが、塔の形状までもはっきり再現することができるのだろうか?
二日後に行ったバースのローマ浴場博物館の展示品を見ていた時、温泉から見つかったという下の銅製カップの解説を聴いて納得した。

このカップはローマの兵士が常に携帯していた銅製の個人用のカップで、行軍の際に水を飲んだり配給を受け取ったりする為の必需品だったそうだ。
横から見ると、なるほどハドリアヌスの城壁と思われる姿がはっきりと描かれている。同様のものが三点あるのだとか。※どこの博物館にあるか、などは言及されていなかった。

バースの浴場は当時アクア・スリスと呼ばれ、スリス・ミネルヴァ女神の為の神殿と温泉が湧き出す池があった。このカップは兵士が奉納の為に投げ込んだと推察されている。
人間が神に捧げる方法は、時代も洋の東西も問わないらしい。
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