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- 雪の丘から橇でダウンヒルしよう!
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エリア:
- ヨーロッパ>フィンランド>サーリセルカ
- テーマ:観光地 ハイキング・登山 鉄道・乗り物
- 投稿日:2011/02/10 15:28
- コメント(4)
オーロラを待つばかりでなく、昼間もいろんな楽しみ方が出来る北極圏の町サーリセルカ(フィンランド)。
カウニスパーの丘から1.2キロの世界最長ともいわれる橇用のコースはいかが?
朝のトナカイ橇体験を終えてた皆さんと。プラスチックの橇を持って整列!

カウニスパーの丘へ行くには、サーリセルカの町からスキーバスを利用するのが便利。町のいろいろな場所をめぐるスキーバスは、5年ほど前まで無料だったが、数年前有料一回2ユーロになり、今年はまたあがっていた。終日利用券のみで料金は4ユーロ。運転手さんに直接払い。

バスは雪の丘をぐんぐんのぼってゆく。

頂上にはカフェと評判の良いレストランも。

スキー用のゲレンデは町から少し離れた方向へ向かっておりていく。こちらを橇ですべるのはだめ。

橇用のゲレンデはこの看板の方へ。

橇はプラスチックのごく簡単なつくり。どこかで借りるのではなく、ゲレンデやホテル入り口などに置いてあるものを(ほっぽり出してあるものを)自分で調達して用意する。ご覧の様にごく単純な造り。

コースの終わりは上からは全く見えない。

足や手を地面につけてスピードや滑る方向をコントロールするのだが、スピードが出ている時にはすごい雪煙が上がる。

当然、雪の粉つぶてがもろに顔面を襲うことになるのでご注意あれ。

このコースに入るのには、入場料も誰のチェックもない。つまり、自分の責任で安全に滑る事が最も重要だ。「私はここは無理」と判断された方は、急な箇所はちゃんと下りて歩いておられた。こういう判断が出来るのが大人です。

すばらしい青空の下、樹氷で覆われた雪原を歩くだけでも充分に楽しめる場所であります。
カウニスパーの丘から1.2キロの世界最長ともいわれる橇用のコースはいかが?
朝のトナカイ橇体験を終えてた皆さんと。プラスチックの橇を持って整列!

カウニスパーの丘へ行くには、サーリセルカの町からスキーバスを利用するのが便利。町のいろいろな場所をめぐるスキーバスは、5年ほど前まで無料だったが、数年前有料一回2ユーロになり、今年はまたあがっていた。終日利用券のみで料金は4ユーロ。運転手さんに直接払い。

バスは雪の丘をぐんぐんのぼってゆく。

頂上にはカフェと評判の良いレストランも。

スキー用のゲレンデは町から少し離れた方向へ向かっておりていく。こちらを橇ですべるのはだめ。

橇用のゲレンデはこの看板の方へ。

橇はプラスチックのごく簡単なつくり。どこかで借りるのではなく、ゲレンデやホテル入り口などに置いてあるものを(ほっぽり出してあるものを)自分で調達して用意する。ご覧の様にごく単純な造り。

コースの終わりは上からは全く見えない。

足や手を地面につけてスピードや滑る方向をコントロールするのだが、スピードが出ている時にはすごい雪煙が上がる。

当然、雪の粉つぶてがもろに顔面を襲うことになるのでご注意あれ。

このコースに入るのには、入場料も誰のチェックもない。つまり、自分の責任で安全に滑る事が最も重要だ。「私はここは無理」と判断された方は、急な箇所はちゃんと下りて歩いておられた。こういう判断が出来るのが大人です。

すばらしい青空の下、樹氷で覆われた雪原を歩くだけでも充分に楽しめる場所であります。

- 「死にゆく町」チヴィタ・ディ・バーニョレッジョ
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア
- テーマ:歴史・文化・芸術 自然・植物
- 投稿日:2011/01/02 12:49
- コメント(3)
イタリアに丘の上の街はたくさんあるが、このチヴィタ・ディ・バーニョレッジョほど印象的な光景はそうない。
なにせ、崖ぎりぎりに家を建てたのではなく、台地が周囲からどんどん崩落していってこの光景を出現させたのだから。

崩落はきのう今日にはじまった事ではない。古代エトルリア時代に町が出来てから、現代まで絶え間なく続いてきた。町で売られているガイドブックによれば、これまでに三分の一の地面が崩落し消滅したと推察されている。
※以降の記事内容、図版はそのガイドブックから
以下は15世紀以降はっきりしている崩落箇所の図。

地図上、上の斜線は1466-1469に、右は1450-1695年にかけて、下は1661年に崩落したエリア。
ピンク色は1705年、水色は1829年、茶色は1869年に消滅。
実際に町に入ってみると、門を入るとすぐに崩落しているような家も見かける。
この町出身の最も有名な人物、13世紀の聖ボナベントゥラの家と言われるものも下のような状態になっている。

本当の彼の家はこの先にあって16世紀には巡礼地になっていたが、崩落して消滅してしまった。
さらに資料を読んでいくと、現在コンクリートの橋がかかっているあたりには、現在まったく痕跡さえ残さず崩落・消滅してしまった修道院・教会があったと分かった。下は1765年にその修道院が状況を説明する為にローマ法王庁に送った図面。

左側がチヴィタ地区、右側が現在主要な町になっているバーニョレッジョ。その中間にフランチェスコ修道院・教会があり、地面にたくさんの亀裂が走っている様子が危機的に描かれている。
下の写真のどこにもその痕跡はみつからない。聖ボナベントゥラも学んだという修道院は永遠に消滅してしまったのである。なんという激しい崩落だろう。

さらに、ローマへの絵図面と下の写真に写るチヴィタへの入り口の様子がどうも違うのが気になった。チヴィタへの入り口に教会が描かれているが、今はないのはなぜだ?

冒頭の「崩落地図」を見ると、いちばん左の1703年に崩落したピンク色の領域はかなり大きい。資料を読んでいくと、ここはかつて「ポンテ地区」と呼ばれるひとつの居住区となっていた。

そのポンテ地区への入り口にあたるこの聖母マリア門は十六世紀に建設されたのだが、名前の由来はかつてこの門の上にあった同名の礼拝堂からきていると分かった。
図版に描かれていた教会はこの礼拝堂で、1703年の崩落の後なくなってしまったと理解できる。
チヴィタ地区とバーニョレッジョ地区を結ぶ地域で消滅した場所がもうひとつある。現在のコンクリートの橋がはじまるあたりをメルカテッロ広場と呼ぶがかつてはここも大きな市の立つ広場で、市役所もここにあったのだという。今では数件の家があるだけで、全く想像できない。
現在のコンクリートの橋に至る以前にどんな橋がかけられていたのかを歴史的に追ってみる。
かつてチヴィタが町の中心であった時代、現在の中心であるバーニョレッジョ地区とは広い道でつながっていた。その途中に今は消滅したフランチェスコ修道院もあった。
度重なる崩落の後、チヴィタ地区はだんだんと孤立した場所になっていたが、19世紀の終わりまでは三車線で馬車が行き交うことが出来る道が通じていた。
1901年にその道が崩壊。
1920年に石造りの橋が建造されたが、1944年にドイツ軍により爆破。
戦後、二十年以上も木製の歩道橋が仮設されていただけだった。
1965年から現在のコンクリート製の橋が建設されたが、完成前にメルカッテッロ広場側の土台が崩落。橋をはじめる位置を少しずらして現在のものとなった。下の写真を見ると、真っ直ぐのはずだった橋のスタート地点がずらされているのがはっきりと分かる。

なにせ、崖ぎりぎりに家を建てたのではなく、台地が周囲からどんどん崩落していってこの光景を出現させたのだから。

崩落はきのう今日にはじまった事ではない。古代エトルリア時代に町が出来てから、現代まで絶え間なく続いてきた。町で売られているガイドブックによれば、これまでに三分の一の地面が崩落し消滅したと推察されている。
※以降の記事内容、図版はそのガイドブックから
以下は15世紀以降はっきりしている崩落箇所の図。

地図上、上の斜線は1466-1469に、右は1450-1695年にかけて、下は1661年に崩落したエリア。
ピンク色は1705年、水色は1829年、茶色は1869年に消滅。
実際に町に入ってみると、門を入るとすぐに崩落しているような家も見かける。
この町出身の最も有名な人物、13世紀の聖ボナベントゥラの家と言われるものも下のような状態になっている。

本当の彼の家はこの先にあって16世紀には巡礼地になっていたが、崩落して消滅してしまった。
さらに資料を読んでいくと、現在コンクリートの橋がかかっているあたりには、現在まったく痕跡さえ残さず崩落・消滅してしまった修道院・教会があったと分かった。下は1765年にその修道院が状況を説明する為にローマ法王庁に送った図面。

左側がチヴィタ地区、右側が現在主要な町になっているバーニョレッジョ。その中間にフランチェスコ修道院・教会があり、地面にたくさんの亀裂が走っている様子が危機的に描かれている。
下の写真のどこにもその痕跡はみつからない。聖ボナベントゥラも学んだという修道院は永遠に消滅してしまったのである。なんという激しい崩落だろう。

さらに、ローマへの絵図面と下の写真に写るチヴィタへの入り口の様子がどうも違うのが気になった。チヴィタへの入り口に教会が描かれているが、今はないのはなぜだ?

冒頭の「崩落地図」を見ると、いちばん左の1703年に崩落したピンク色の領域はかなり大きい。資料を読んでいくと、ここはかつて「ポンテ地区」と呼ばれるひとつの居住区となっていた。

そのポンテ地区への入り口にあたるこの聖母マリア門は十六世紀に建設されたのだが、名前の由来はかつてこの門の上にあった同名の礼拝堂からきていると分かった。
図版に描かれていた教会はこの礼拝堂で、1703年の崩落の後なくなってしまったと理解できる。
チヴィタ地区とバーニョレッジョ地区を結ぶ地域で消滅した場所がもうひとつある。現在のコンクリートの橋がはじまるあたりをメルカテッロ広場と呼ぶがかつてはここも大きな市の立つ広場で、市役所もここにあったのだという。今では数件の家があるだけで、全く想像できない。
現在のコンクリートの橋に至る以前にどんな橋がかけられていたのかを歴史的に追ってみる。
かつてチヴィタが町の中心であった時代、現在の中心であるバーニョレッジョ地区とは広い道でつながっていた。その途中に今は消滅したフランチェスコ修道院もあった。
度重なる崩落の後、チヴィタ地区はだんだんと孤立した場所になっていたが、19世紀の終わりまでは三車線で馬車が行き交うことが出来る道が通じていた。
1901年にその道が崩壊。
1920年に石造りの橋が建造されたが、1944年にドイツ軍により爆破。
戦後、二十年以上も木製の歩道橋が仮設されていただけだった。
1965年から現在のコンクリート製の橋が建設されたが、完成前にメルカッテッロ広場側の土台が崩落。橋をはじめる位置を少しずらして現在のものとなった。下の写真を見ると、真っ直ぐのはずだった橋のスタート地点がずらされているのがはっきりと分かる。


- ドゥワリカホテル「クリシュナルパン」にて本格ネパール料理
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エリア:
- アジア>ネパール
- テーマ:街中・建物・景色 ホテル・宿泊 グルメ
- 投稿日:2010/12/12 17:34
- コメント(0)
カトマンズ市内の喧騒は、このレストランのあるドゥワリカホテルの門をくぐったとたんにぴたりと止む。まさに、別世界が待っている。

これらの建物は伝統的なネワール様式で、特にそこにはめこまれた木彫りは設立者のドゥワリカ・ダス・シュレスタ氏が1970年代から収集していたものだった。当時これらのものは朽ちはててゆくのを放置されていた。

最も古いものは13世紀というこれらの木彫。しかし、ただ集めたものを建物にはめ込むだけでこれだけのものは完成しない。現代のコンクリートの建物に木彫をはめ込むわけにはいかない。
ドゥワリカ氏はこれら木彫がはめ込まれていたかつての建物を再現しようとした。何百年も前の建築に使われていたレンガはすでに生産されなくなっていたので、わざわざ手造りで再現させたものだそうだ。
この雰囲気ある中庭を歩いていくと「クリシュナルパン」レストランが見えてくる。
靴を脱いで板の間にあがり、座椅子のように腰掛ける。アジア風の食卓で落ち着いた雰囲気。
テーブルにはそのゲストそれぞれの名前と品書きを入れたメニューカードが置かれている。

食器の中に見慣れない葉っぱのかたちの小皿があった。食べ物がくると、クリシュナ神の為に少量だけ取り分けて捧げおく。これを店の名前「クリシュナルパン」と呼ぶのだ。

前菜
左はレンズマメをハーブとあわせたもの。下はお米なのだが、クリスピーな食感で周囲の「おかず」とあわせて楽しむ。右はマイルドなカレー味

アチャール(漬物)
左はプラム、確かに梅干のような味わいもかんじられる。
右はコロハ、薬の原料になるのがわかる味

タルカリ(野菜)スープ

大豆を主体にした甘くないお汁粉のようなスープは他のところでも飲んだことがあったが、こちらは各種スパイスで上手に味付けしてある。
チャタマリ(ツァタマリ)

ネパール風ライス・クレープと説明してあったが、それでは想像つきますまい味。中身は鶏肉の身をマヨネーズ風味にしてあった。
モモ(餃子)は特製のたれ(トマト、玉ねぎ、ヨーグルト、しょうが・にんにく、ターメリック、チリパウダーなど入り)にて

おなじみダールバートももちろん

ビールはゴルカ

これにデザートのさつまいもプリンがでてきて全6コース。ここではいちばん簡単なコース。最大は全22コースまであった。
最後にお土産の手造りレンガを手渡してくれる。

この絵柄はひとつひとつ違う。
ネワールの文化を守ろうとしたドゥワリカ氏が復興させた手造りレンガである。ドゥワリカ氏は1992年に他界したが、今はその娘が後を継ぎ、このホテルとレストランを仕切っている。
入り口には、かつての皇子ディペンドラが来店した際に、彼女と写っている写真が掲げられていた。※king王と書かれているが、2001年の「あの王宮の事件」の後、瀕死のまま王弟ギャネンドラに即位させられた、とされているからである。

これらの建物は伝統的なネワール様式で、特にそこにはめこまれた木彫りは設立者のドゥワリカ・ダス・シュレスタ氏が1970年代から収集していたものだった。当時これらのものは朽ちはててゆくのを放置されていた。

最も古いものは13世紀というこれらの木彫。しかし、ただ集めたものを建物にはめ込むだけでこれだけのものは完成しない。現代のコンクリートの建物に木彫をはめ込むわけにはいかない。
ドゥワリカ氏はこれら木彫がはめ込まれていたかつての建物を再現しようとした。何百年も前の建築に使われていたレンガはすでに生産されなくなっていたので、わざわざ手造りで再現させたものだそうだ。
この雰囲気ある中庭を歩いていくと「クリシュナルパン」レストランが見えてくる。

靴を脱いで板の間にあがり、座椅子のように腰掛ける。アジア風の食卓で落ち着いた雰囲気。
テーブルにはそのゲストそれぞれの名前と品書きを入れたメニューカードが置かれている。

食器の中に見慣れない葉っぱのかたちの小皿があった。食べ物がくると、クリシュナ神の為に少量だけ取り分けて捧げおく。これを店の名前「クリシュナルパン」と呼ぶのだ。

前菜
左はレンズマメをハーブとあわせたもの。下はお米なのだが、クリスピーな食感で周囲の「おかず」とあわせて楽しむ。右はマイルドなカレー味

アチャール(漬物)
左はプラム、確かに梅干のような味わいもかんじられる。
右はコロハ、薬の原料になるのがわかる味

タルカリ(野菜)スープ

大豆を主体にした甘くないお汁粉のようなスープは他のところでも飲んだことがあったが、こちらは各種スパイスで上手に味付けしてある。
チャタマリ(ツァタマリ)

ネパール風ライス・クレープと説明してあったが、それでは想像つきますまい味。中身は鶏肉の身をマヨネーズ風味にしてあった。
モモ(餃子)は特製のたれ(トマト、玉ねぎ、ヨーグルト、しょうが・にんにく、ターメリック、チリパウダーなど入り)にて

おなじみダールバートももちろん

ビールはゴルカ

これにデザートのさつまいもプリンがでてきて全6コース。ここではいちばん簡単なコース。最大は全22コースまであった。
最後にお土産の手造りレンガを手渡してくれる。

この絵柄はひとつひとつ違う。
ネワールの文化を守ろうとしたドゥワリカ氏が復興させた手造りレンガである。ドゥワリカ氏は1992年に他界したが、今はその娘が後を継ぎ、このホテルとレストランを仕切っている。
入り口には、かつての皇子ディペンドラが来店した際に、彼女と写っている写真が掲げられていた。※king王と書かれているが、2001年の「あの王宮の事件」の後、瀕死のまま王弟ギャネンドラに即位させられた、とされているからである。

- パタンに八つの不思議が起こる時
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エリア:
- アジア>ネパール
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/12/10 10:26
- コメント(0)
カトマンズ盆地の美しい世界遺産都市のひとつパタン。その王宮には今でも伝説が生きている。
17世紀はじめの王がいつ帰ってきてもよいように、ベッドメイクが毎日行われているのだとか。右側の建物がその王宮。そこへ向かって建てられた石の柱がみつかるだろうか。

柱の上には合掌する17世紀の王の姿がある。

シッディ・ナラシンハ・マッラ王(在位1618〜1661年)
日本なら徳川家光の治世の頃、この王は信仰厚い良き王としてパタンを統治していた。カトマンズとは別の王朝としてこの王宮を建築スタートした。

黄金で飾られた窓から顔をだされていたそうな。
王宮に面して建築したクリシュナ・マンディール寺院は創建当時21の黄金の針が立っていたとか、今でも精緻な石の彫刻が見られる。

貧しき人人の為には当時で二千四百人を収容できる住宅を建設。母の為には今もパタン動物園の中にある池と邸宅を。
国民の信望を集めていた王はしかし、四十年以上の治世の後、自ら巡礼へ旅立つ決心をした。
彼がいつ戻っていいように、王宮では毎日ベッドメイクが続けられる、王朝がかわり、2008年には王制自体が廃止された今日に至っても…。
王は言い置いていた、パタンに八つの不思議が起こるときが来るだろう・・・
それは
?王の坐像の後ろにとまっている鳥がさえずる
?王の合掌した手が開き、そこに鳥が巣をつくる
?石の象が歩き出す

?こま犬が鳴く

?あずまやの軒下から黄金が降ってくる

?ヒティ(共用井戸)からミルクが出る
?(今は失われた)石の鉄砲が火を噴く

?ガルーダが金の卵を産む

そうして、私は自分が死んだ事を皆に知らせるだろう。
17世紀はじめの王がいつ帰ってきてもよいように、ベッドメイクが毎日行われているのだとか。右側の建物がその王宮。そこへ向かって建てられた石の柱がみつかるだろうか。

柱の上には合掌する17世紀の王の姿がある。

シッディ・ナラシンハ・マッラ王(在位1618〜1661年)
日本なら徳川家光の治世の頃、この王は信仰厚い良き王としてパタンを統治していた。カトマンズとは別の王朝としてこの王宮を建築スタートした。

黄金で飾られた窓から顔をだされていたそうな。
王宮に面して建築したクリシュナ・マンディール寺院は創建当時21の黄金の針が立っていたとか、今でも精緻な石の彫刻が見られる。

貧しき人人の為には当時で二千四百人を収容できる住宅を建設。母の為には今もパタン動物園の中にある池と邸宅を。
国民の信望を集めていた王はしかし、四十年以上の治世の後、自ら巡礼へ旅立つ決心をした。
彼がいつ戻っていいように、王宮では毎日ベッドメイクが続けられる、王朝がかわり、2008年には王制自体が廃止された今日に至っても…。
王は言い置いていた、パタンに八つの不思議が起こるときが来るだろう・・・
それは
?王の坐像の後ろにとまっている鳥がさえずる
?王の合掌した手が開き、そこに鳥が巣をつくる
?石の象が歩き出す

?こま犬が鳴く

?あずまやの軒下から黄金が降ってくる

?ヒティ(共用井戸)からミルクが出る
?(今は失われた)石の鉄砲が火を噴く

?ガルーダが金の卵を産む

そうして、私は自分が死んだ事を皆に知らせるだろう。

- ポカラのライチ・ガーデン
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エリア:
- アジア>ネパール>ポカラ
- テーマ:ビーチ・島 ホテル・宿泊 グルメ
- 投稿日:2010/12/06 09:47
- コメント(0)
安いペンションが並ぶペワ湖の通りから離れ、対岸にあるホテル・レストラン「ライチ・ガーデン」での昼食へ。湖の向こうに連なるヒマラヤを眺めながら午後のひと時を。

湖を渡るのにレストラン専用の渡し舟があるのだが、これがちょっとかわっている。人力・足こぎペダルボートだが、二人力にて十人を運ぶように作られているのだ。「ちょっとお手伝い」と座ってみる方もあったが、かなりたいへん。※向かって左のホテル・レストランのスタッフはいつものキツイお仕事に笑ってはおられますまい。

到着するとマリーゴールドの花をひとつ手渡して・・・

ティカ(額の真ん中に赤くしるしを入れる)をつけてお出迎え。テントの後ろになるが、対岸にアンナプルナ山群が見えている。

ウェルカム・ドリンクはなるほどライチ・ジュース
ビールは「ネパールアイス」を。ラベルはネパールらしくエベレストの図柄。

カボチャのスープはにんにくと香辛料入り

メインには川魚のグリル。泥臭さを上手にけしてありました

デザートと共にマサラ・ティー

もともとここに土地を持っていた地元の人がはじめたレストラン。敷地にたくさん生えているライチの木も中国南部原産というから、もとからあったものかもしれませぬ。

湖を渡るのにレストラン専用の渡し舟があるのだが、これがちょっとかわっている。人力・足こぎペダルボートだが、二人力にて十人を運ぶように作られているのだ。「ちょっとお手伝い」と座ってみる方もあったが、かなりたいへん。※向かって左のホテル・レストランのスタッフはいつものキツイお仕事に笑ってはおられますまい。

到着するとマリーゴールドの花をひとつ手渡して・・・

ティカ(額の真ん中に赤くしるしを入れる)をつけてお出迎え。テントの後ろになるが、対岸にアンナプルナ山群が見えている。

ウェルカム・ドリンクはなるほどライチ・ジュース
ビールは「ネパールアイス」を。ラベルはネパールらしくエベレストの図柄。

カボチャのスープはにんにくと香辛料入り

メインには川魚のグリル。泥臭さを上手にけしてありました

デザートと共にマサラ・ティー

もともとここに土地を持っていた地元の人がはじめたレストラン。敷地にたくさん生えているライチの木も中国南部原産というから、もとからあったものかもしれませぬ。
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