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写真はこちら:http://ameblo.jp/paris-marseille/entry-11026952043.html
ついに上海に到着しました!
妊娠3ヶ月は不安定だから旅行などは控えるようにと言われますが、妊娠が分かる前にブッキングしたことからキャンセルするのはあまりにも惜しく、結局、十分に注意して行くことになりました。べべが生まれたら、当分の間は遠出をすることは無理なので、この機会を逃すはずはありません。
中国東方航空(China Eastern)で上海紅橋(ホンチャオ)空港へ飛びました。関西空港から約2時間強、成田からは約3時間弱の飛行時間になります。
因みに、上海には二つ空港があり、もう一つは上海浦東(プートン)空港になります。ホンチャオ空港は主として国内線とアジアを中心とする近距離国際線に対応し、プートン空港は、長距離国際線に対応しています。拡大する中国の空のニーズに対応するべく、新たにプートン空港を建設したとのことでした。
中国東方航空の変貌振りには驚きました。SQやエミレイツのレベルには届かないものの、それでも、機内サービスといい、発着時間の正確さといい、格段の進歩を遂げていました。
今から15年程前に、北京に行く為に当航空を利用したことがありましたが、その時は、太っちょの見るからに逞しげなおばさんがCAを勤めており、苦虫を潰したような顔をしてのっしのっしと機内を我が物顔で歩き回って、機内食をぼいっ、ぼいっと投げるように配るのが当たり前でした。うるさくしたら中国語で怒鳴りつけられるのがオチ、歩いているのを呼び止めようものなら売られた喧嘩は受けて立とうの勢いで「何か用か!」と凄まれる始末。全くもって、顧客サービスもへったくれもありませんでした。
それが今では、花も滴る20代のうら若き乙女が優しい微笑みと供に温かく迎え入れてくれる航空会社となりました。目が合えばニッコリ笑顔、機内食サービスの際にも優しい心配りと温かい笑顔を決して忘れることはありません。アジア女性の微笑みは、最早、タイ女性だけのものではなくなったのです。
トレードマークとなる赤の制服も、当時は共産党の赤を髣髴させ、贅肉を束ねる巾着のように見えたのが、今では、躍動する中国のエネルギーを表現する赤、スラッとした色白美人が栄える制服として定着しています。
機内食も紙でできた弁当ボックスにビーフジャーキーと炭水化物となる何かが入っていた一昔前のものとは一変して、トレイで配られ、前菜からデザートまで一式提供されます。昔は、投げるように配るのがスタンダードだったようなので弁当ボックスになっていたのかもしれません。
東方航空への絶賛はこれぐらいにして、先へ進みましょう。
上海の空港ですが、10年ほど昔に完成したばかりで、最新のアメニティが搭載されている快適でモダーンな空港です。優先席なんていうデリカシーのある設備まで整えられており、しかもデザインが日本よりおっされ!
トイレなど、入ってびっくりです。ドアを開けると、ほのかな香水の香りが漂ってくるではありませんか!気のせいかと思って別のドアを開けても同じでした。いやはや、ここまで拘るかと思いましたが、さすがは共産党が全てを指導する中国、国家の威信にかけても世界で最も美しいトイレを実現するべく国家総動員をしたに違いありません。
空港から上海中心街に出るのに、電車やタクシーを使っても子一時間はかかります。成田と同じぐらいアクセスが悪いというのが難点ですが、拡大の一途にある上海市としては、市内に空港を設置するわけにもいかず、かの如く遠方に空港を設立することにしたといいます。
私は今回上海に来るのは初めてですので、昔との比較を述べることはできませんが、知り合いの話しでは、数年前と比較して様変わりしたとのことでした。しかし、昨年の上海万博までに主たる開発はほぼ完了しているので、今後において大きな変化はないだろうとのことでした。今後は、住宅の整備が進むだろうとのことでした。
開発が進み近代化するのは結構なことだとは思いますが、私のように歴史をこよなく愛する人間には、ちょっとばかり寂しい気持ちがしないでもありません。近代化がもたらす便利さにどっぷりつかっている自分のことを棚に上げて言うのもなんですけどね・・・・。
近代化は、その国特有の「国のにおい」を消し去ってしまうものでもあるからです。文化遺産などはそれなりに国で管理したり、世界遺産としての指定を受けて保護してはいるようですが、その国の文化とはこれらの偉大なる遺産に具現化されるものだけではありません。そこに住む人々の生活文化こそが、まさにその国をその国たらしめるものであり、昔ながらの路地や家並み、商店街の活気などが消えると供に消滅してしまうのです。
旅行が特別の意味を持って我々の心に残るのは、そこに住む人々の生活文化に触れるからではないかと思ったりします。同じ人間が異なる様式や美学でもって生活を営んでいるのを目の当たりにしたとき、我々は新鮮な驚きと好奇心を抱くものです。これこそ、まさに日常からの脱走であり、旅行の目的であるのではないかと思います。
上海は、幸運にも悠久とモダニティが同時に存在する大都会でした。
日光の反射で光り輝く近代ビルが立ち並ぶ地区から少し離れた場所に、古臭い二階建て建築が連なる商店街があったりします。上海の昔ながらの建築様式だとのことで、このような場所は市内の各地で散見されます。一部は政府が保護しているとのことですが、これらの多くはいずれ取り壊される運命にあるとのことでした。
以下は上海にある問屋街にあるお店の一つです。中国人は、「〜世界」とか「〜宇宙」とかいう名前が好きですよね。やはり中華思想が支配する国だけあって、自分や自分の店が世界や宇宙の中心であるという発想になるのでしょうか。日本人には思いも呼ばない発想です。でも、見習わなければなりません!
以下にある写真は、上海でも前衛芸術や商品を中心に販売する地域で見られる建物です。以下のような建物の1階がショップとして利用され、芸術作品から小物類各種がところ狭しと販売されています。ショップ内はほぼ全て撮影禁止でしたので、残念ながらこちらでお見せすることはできません。
一部外から密かに撮ることができましたが、あまりよく見えませんね・・(涙)。
また、元英国やフランス租借地で見られる建築には、華洋折衷となった建物も見られます。このような混淆は建築に限らず、洋服や小物類のデザインにおいても頻繁に見られるものでした。
時計台がトレードマークの元英国租借地、別名バンド地域は、華洋折衷のビルが立ち並び、夜景となるとその華やかさは上海随一となるのではないでしょうか。川を挟んで対面にある上海のランドマーク、テレビ塔と並んで、上海の夜景を代表するものです。因みに、「華麗なる一族」とかいうドラマの収録が行われた銀行もここにあります。
元フランス租借地は、今では「新天地」と呼ばれ、ヨーロッパのプロムナードを彷彿させる一角に様変わりしていました。ここには、上海ではあまりお見かけしないフランス人観光客も見られました。
日本租借地もありますが、殆どが壊されてしまって原型をわずかに残すのみとなっていました。「横浜橋」がまだ健在で、唯一当時の面影を残していると言いたいところですが、周囲が全て様変わりしているので、この橋だけで当時を偲ぶことは不可能です。他の租借地は美しく整備されているのに、日本人街だけこのような状態とは、日中関係の厳しさがこのあたりであからさまなのか・・・・と勘ぐりたくなりました。
日本のたこ焼き屋さんです。まだ行ったことがありませんが、帰る前には一度は寄って味見をしてみたいものです。20年ほど昔の途上国では、日本料理といっても「なんちゃって」ものが氾濫していました。しかし、上海ぐらいになれば、日本料理のレベルも本国相当まで到達していると信じています。
こちらは、上海ヒルズに入っているおすし屋さん!ローカル風味も取り入れ、柔軟なメニュー設定になっているようです。何しろ、カリフォルニア・ロールなどもあるわけですから、上海ロールがあってもおかしくありません。中華のおかずが上に乗った巻きも好評だとのことです。
この上海ヒルズには、日本のお店も数多く出展しており、なかにはABCクッキングまで入っているのには驚きでした。上海ネーズが夫や彼氏のハートを射止める、もしくはキープするべく楚々として料理に励んでいましたよ。
最後に、上海の各地で見られるお茶のチェーン店。中国人はコーヒーよりもお茶のほうを好むとのことで、コーヒーチェーンの代わりにお茶のチェーンが登場していました。忙しいけれども健康と美容のためにお茶を欠かすことができない上海人のニーズをスマートに満たしたお店といえます。
ついに上海に到着しました!
妊娠3ヶ月は不安定だから旅行などは控えるようにと言われますが、妊娠が分かる前にブッキングしたことからキャンセルするのはあまりにも惜しく、結局、十分に注意して行くことになりました。べべが生まれたら、当分の間は遠出をすることは無理なので、この機会を逃すはずはありません。
中国東方航空(China Eastern)で上海紅橋(ホンチャオ)空港へ飛びました。関西空港から約2時間強、成田からは約3時間弱の飛行時間になります。
因みに、上海には二つ空港があり、もう一つは上海浦東(プートン)空港になります。ホンチャオ空港は主として国内線とアジアを中心とする近距離国際線に対応し、プートン空港は、長距離国際線に対応しています。拡大する中国の空のニーズに対応するべく、新たにプートン空港を建設したとのことでした。
中国東方航空の変貌振りには驚きました。SQやエミレイツのレベルには届かないものの、それでも、機内サービスといい、発着時間の正確さといい、格段の進歩を遂げていました。
今から15年程前に、北京に行く為に当航空を利用したことがありましたが、その時は、太っちょの見るからに逞しげなおばさんがCAを勤めており、苦虫を潰したような顔をしてのっしのっしと機内を我が物顔で歩き回って、機内食をぼいっ、ぼいっと投げるように配るのが当たり前でした。うるさくしたら中国語で怒鳴りつけられるのがオチ、歩いているのを呼び止めようものなら売られた喧嘩は受けて立とうの勢いで「何か用か!」と凄まれる始末。全くもって、顧客サービスもへったくれもありませんでした。
それが今では、花も滴る20代のうら若き乙女が優しい微笑みと供に温かく迎え入れてくれる航空会社となりました。目が合えばニッコリ笑顔、機内食サービスの際にも優しい心配りと温かい笑顔を決して忘れることはありません。アジア女性の微笑みは、最早、タイ女性だけのものではなくなったのです。
トレードマークとなる赤の制服も、当時は共産党の赤を髣髴させ、贅肉を束ねる巾着のように見えたのが、今では、躍動する中国のエネルギーを表現する赤、スラッとした色白美人が栄える制服として定着しています。
機内食も紙でできた弁当ボックスにビーフジャーキーと炭水化物となる何かが入っていた一昔前のものとは一変して、トレイで配られ、前菜からデザートまで一式提供されます。昔は、投げるように配るのがスタンダードだったようなので弁当ボックスになっていたのかもしれません。
東方航空への絶賛はこれぐらいにして、先へ進みましょう。
上海の空港ですが、10年ほど昔に完成したばかりで、最新のアメニティが搭載されている快適でモダーンな空港です。優先席なんていうデリカシーのある設備まで整えられており、しかもデザインが日本よりおっされ!
トイレなど、入ってびっくりです。ドアを開けると、ほのかな香水の香りが漂ってくるではありませんか!気のせいかと思って別のドアを開けても同じでした。いやはや、ここまで拘るかと思いましたが、さすがは共産党が全てを指導する中国、国家の威信にかけても世界で最も美しいトイレを実現するべく国家総動員をしたに違いありません。
空港から上海中心街に出るのに、電車やタクシーを使っても子一時間はかかります。成田と同じぐらいアクセスが悪いというのが難点ですが、拡大の一途にある上海市としては、市内に空港を設置するわけにもいかず、かの如く遠方に空港を設立することにしたといいます。
私は今回上海に来るのは初めてですので、昔との比較を述べることはできませんが、知り合いの話しでは、数年前と比較して様変わりしたとのことでした。しかし、昨年の上海万博までに主たる開発はほぼ完了しているので、今後において大きな変化はないだろうとのことでした。今後は、住宅の整備が進むだろうとのことでした。
開発が進み近代化するのは結構なことだとは思いますが、私のように歴史をこよなく愛する人間には、ちょっとばかり寂しい気持ちがしないでもありません。近代化がもたらす便利さにどっぷりつかっている自分のことを棚に上げて言うのもなんですけどね・・・・。
近代化は、その国特有の「国のにおい」を消し去ってしまうものでもあるからです。文化遺産などはそれなりに国で管理したり、世界遺産としての指定を受けて保護してはいるようですが、その国の文化とはこれらの偉大なる遺産に具現化されるものだけではありません。そこに住む人々の生活文化こそが、まさにその国をその国たらしめるものであり、昔ながらの路地や家並み、商店街の活気などが消えると供に消滅してしまうのです。
旅行が特別の意味を持って我々の心に残るのは、そこに住む人々の生活文化に触れるからではないかと思ったりします。同じ人間が異なる様式や美学でもって生活を営んでいるのを目の当たりにしたとき、我々は新鮮な驚きと好奇心を抱くものです。これこそ、まさに日常からの脱走であり、旅行の目的であるのではないかと思います。
上海は、幸運にも悠久とモダニティが同時に存在する大都会でした。
日光の反射で光り輝く近代ビルが立ち並ぶ地区から少し離れた場所に、古臭い二階建て建築が連なる商店街があったりします。上海の昔ながらの建築様式だとのことで、このような場所は市内の各地で散見されます。一部は政府が保護しているとのことですが、これらの多くはいずれ取り壊される運命にあるとのことでした。
以下は上海にある問屋街にあるお店の一つです。中国人は、「〜世界」とか「〜宇宙」とかいう名前が好きですよね。やはり中華思想が支配する国だけあって、自分や自分の店が世界や宇宙の中心であるという発想になるのでしょうか。日本人には思いも呼ばない発想です。でも、見習わなければなりません!
以下にある写真は、上海でも前衛芸術や商品を中心に販売する地域で見られる建物です。以下のような建物の1階がショップとして利用され、芸術作品から小物類各種がところ狭しと販売されています。ショップ内はほぼ全て撮影禁止でしたので、残念ながらこちらでお見せすることはできません。
一部外から密かに撮ることができましたが、あまりよく見えませんね・・(涙)。
また、元英国やフランス租借地で見られる建築には、華洋折衷となった建物も見られます。このような混淆は建築に限らず、洋服や小物類のデザインにおいても頻繁に見られるものでした。
時計台がトレードマークの元英国租借地、別名バンド地域は、華洋折衷のビルが立ち並び、夜景となるとその華やかさは上海随一となるのではないでしょうか。川を挟んで対面にある上海のランドマーク、テレビ塔と並んで、上海の夜景を代表するものです。因みに、「華麗なる一族」とかいうドラマの収録が行われた銀行もここにあります。
元フランス租借地は、今では「新天地」と呼ばれ、ヨーロッパのプロムナードを彷彿させる一角に様変わりしていました。ここには、上海ではあまりお見かけしないフランス人観光客も見られました。
日本租借地もありますが、殆どが壊されてしまって原型をわずかに残すのみとなっていました。「横浜橋」がまだ健在で、唯一当時の面影を残していると言いたいところですが、周囲が全て様変わりしているので、この橋だけで当時を偲ぶことは不可能です。他の租借地は美しく整備されているのに、日本人街だけこのような状態とは、日中関係の厳しさがこのあたりであからさまなのか・・・・と勘ぐりたくなりました。
日本のたこ焼き屋さんです。まだ行ったことがありませんが、帰る前には一度は寄って味見をしてみたいものです。20年ほど昔の途上国では、日本料理といっても「なんちゃって」ものが氾濫していました。しかし、上海ぐらいになれば、日本料理のレベルも本国相当まで到達していると信じています。
こちらは、上海ヒルズに入っているおすし屋さん!ローカル風味も取り入れ、柔軟なメニュー設定になっているようです。何しろ、カリフォルニア・ロールなどもあるわけですから、上海ロールがあってもおかしくありません。中華のおかずが上に乗った巻きも好評だとのことです。
この上海ヒルズには、日本のお店も数多く出展しており、なかにはABCクッキングまで入っているのには驚きでした。上海ネーズが夫や彼氏のハートを射止める、もしくはキープするべく楚々として料理に励んでいましたよ。
最後に、上海の各地で見られるお茶のチェーン店。中国人はコーヒーよりもお茶のほうを好むとのことで、コーヒーチェーンの代わりにお茶のチェーンが登場していました。忙しいけれども健康と美容のためにお茶を欠かすことができない上海人のニーズをスマートに満たしたお店といえます。
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- 中国 上海 ショッピング グルメ 観光
写真はこちら:http://ameblo.jp/paris-marseille/entry-11028802133.html
最近、和式&中華式庭園に凝っています。ということで、中国を代表する庭園、「留園」に行って来ました。
まだ勉強不足の私には、和式と中華式の違いを厳密に見分け、理路整然と説明することは不可能です。ただ、これまでにも色々見てきたので、この点は和式の特徴とか、中華式特有の表現方法ではないか・・と感覚的には分かるようになったと自負しています。
大きな違いは、柳が入るか入らないかのような気がします。昨今の日本庭園で柳を見かけることはまずありません。もちろん、柳は日本の各所で見られるので、庭園造りのオプションのひとつとしてあるのでしょうが、中華式のように柳を大々的に活用して表現することはまずないといえるでしょう。
また、使う石の材質にも違いがあるように思われます。中国では、自然の無骨さをこれでもかと見せ付ける、ごつごつした荒削りの素材を好んで使う傾向にあるようです。身近にある石というよりも、仙人が棲むような高山の登頂まで行って命からがら入手してきた、というかんじのものです。
一方、日本では、身近にあるように見える石を好んで使うようです。万の神様を信じる神道の影響のせいか、遥か彼方の遠方まで行かずとも、神聖で立派な石は身近にもころがっている、といわんばかりです。
演出に利用する動物にも違いが見られます。中国では庭園のそこかしこに竜が舞っています。神の次に偉大な皇帝を象徴する動物が竜だったことからも、竜に対する中国人の思い入れには相当のものがあるようです。天空に気高く、力強く舞い上がる竜に対する憧れは、世界を、そして宇宙を支配したいとする中華思想の裏づけのようなきがします。
日本だと、竜も選択のひとつとしてあるのでしょうが、竜が支配的になることはまずないと思われます。竜の代わりと言ってはなんですが、よく見られるのが、蛙でしょう。「お金が帰る」「幸せが帰る」という意味も込めて、蛙を置くのが慣わしだとか。
その他は、これといって目立った違いはないような気がします。これは、あくまでも感覚的な観点からですが・・・。燈篭を設置したり、池に鯉を飼ったり、松の木の大木をモチーフにしたりと、大陸美学の影響を多大に受けてきた日本には、庭園においても中国との共通点が多く見られるのです。
このようななかで、今回、私の心を惹いたのが、「すかし模様」です。すかしを通して入り込む光をカメラで捉えてみると、驚くほど美しいのです!
すかしを造ったそもそもの理由は、庭園風景に変化をもたらすためだったと言われています。同じ風景を眺めるにしても、そのまま見るのか、すかしを通してみるのかでは、見え方が異なります。この違いを楽しむためにすかしが考案されたとのこと。いやはや、お金持ちは、どこの国でもミクロの違いを捕らえて楽しむのが得意なようです。
ここ「留園」でもすかしが至る所に設置されていました。意匠を凝らした各種異なるすかしがあちこちで見られ、当時の人々の庭園の眺望にかける思いが垣間見られました。
この庭園は、現在は省の管轄となっていますが、元々は当地の大金持ちの所有でした。昔は、良家の女子は嫁に行くまで家の外に出ることは稀で、家の中で大半の時間を過ごしたといいます。そんな娘の退屈しのぎに、春の庭、夏の庭、秋の庭などそれぞれ季節の特徴を生かした造園を手がけたということです。
3代でこの庭園の所有は途絶えたといいます。家は3代とよく言われますが、この家も、3代で途絶えてしまい、庭園も同時に手放されることになったようです。
こちらの写真に収められているのが、「幸運を呼ぶ階段」と呼ばれる石の階段で、上ると運勢が上がるといわれているものです。所有者も何度となくこの階段を上がったのでしょうが、3代で運勢は尽きたようです。
庭園のなかでは、各所でびわや琴など中国古来の楽器が奏でられており、目だけではなく耳も楽しませてくれます。この留園で、庭園とは、単に目で愛でるだけではなく、五感で楽しむものなのだということを強く感じました。
こんな庭園が我が家にあればな・・・と儚い夢を描いてしまいました・・・。
最近、和式&中華式庭園に凝っています。ということで、中国を代表する庭園、「留園」に行って来ました。
まだ勉強不足の私には、和式と中華式の違いを厳密に見分け、理路整然と説明することは不可能です。ただ、これまでにも色々見てきたので、この点は和式の特徴とか、中華式特有の表現方法ではないか・・と感覚的には分かるようになったと自負しています。
大きな違いは、柳が入るか入らないかのような気がします。昨今の日本庭園で柳を見かけることはまずありません。もちろん、柳は日本の各所で見られるので、庭園造りのオプションのひとつとしてあるのでしょうが、中華式のように柳を大々的に活用して表現することはまずないといえるでしょう。
また、使う石の材質にも違いがあるように思われます。中国では、自然の無骨さをこれでもかと見せ付ける、ごつごつした荒削りの素材を好んで使う傾向にあるようです。身近にある石というよりも、仙人が棲むような高山の登頂まで行って命からがら入手してきた、というかんじのものです。
一方、日本では、身近にあるように見える石を好んで使うようです。万の神様を信じる神道の影響のせいか、遥か彼方の遠方まで行かずとも、神聖で立派な石は身近にもころがっている、といわんばかりです。
演出に利用する動物にも違いが見られます。中国では庭園のそこかしこに竜が舞っています。神の次に偉大な皇帝を象徴する動物が竜だったことからも、竜に対する中国人の思い入れには相当のものがあるようです。天空に気高く、力強く舞い上がる竜に対する憧れは、世界を、そして宇宙を支配したいとする中華思想の裏づけのようなきがします。
日本だと、竜も選択のひとつとしてあるのでしょうが、竜が支配的になることはまずないと思われます。竜の代わりと言ってはなんですが、よく見られるのが、蛙でしょう。「お金が帰る」「幸せが帰る」という意味も込めて、蛙を置くのが慣わしだとか。
その他は、これといって目立った違いはないような気がします。これは、あくまでも感覚的な観点からですが・・・。燈篭を設置したり、池に鯉を飼ったり、松の木の大木をモチーフにしたりと、大陸美学の影響を多大に受けてきた日本には、庭園においても中国との共通点が多く見られるのです。
このようななかで、今回、私の心を惹いたのが、「すかし模様」です。すかしを通して入り込む光をカメラで捉えてみると、驚くほど美しいのです!
すかしを造ったそもそもの理由は、庭園風景に変化をもたらすためだったと言われています。同じ風景を眺めるにしても、そのまま見るのか、すかしを通してみるのかでは、見え方が異なります。この違いを楽しむためにすかしが考案されたとのこと。いやはや、お金持ちは、どこの国でもミクロの違いを捕らえて楽しむのが得意なようです。
ここ「留園」でもすかしが至る所に設置されていました。意匠を凝らした各種異なるすかしがあちこちで見られ、当時の人々の庭園の眺望にかける思いが垣間見られました。
この庭園は、現在は省の管轄となっていますが、元々は当地の大金持ちの所有でした。昔は、良家の女子は嫁に行くまで家の外に出ることは稀で、家の中で大半の時間を過ごしたといいます。そんな娘の退屈しのぎに、春の庭、夏の庭、秋の庭などそれぞれ季節の特徴を生かした造園を手がけたということです。
3代でこの庭園の所有は途絶えたといいます。家は3代とよく言われますが、この家も、3代で途絶えてしまい、庭園も同時に手放されることになったようです。
こちらの写真に収められているのが、「幸運を呼ぶ階段」と呼ばれる石の階段で、上ると運勢が上がるといわれているものです。所有者も何度となくこの階段を上がったのでしょうが、3代で運勢は尽きたようです。
庭園のなかでは、各所でびわや琴など中国古来の楽器が奏でられており、目だけではなく耳も楽しませてくれます。この留園で、庭園とは、単に目で愛でるだけではなく、五感で楽しむものなのだということを強く感じました。
こんな庭園が我が家にあればな・・・と儚い夢を描いてしまいました・・・。
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- クロアチア:ポレッチ探訪
-
エリア:
- ヨーロッパ>クロアチア>ポレッチ
- テーマ:観光地 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2012/02/14 21:42
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写真はこちらで:
http://ameblo.jp/paris-marseille/entry-10962617650.html
ポレチュはイストリア半島の一大リゾート地として有名ですが、ここのメインスポットは、世界遺産にも登録されているエウフラシス・バシリカです。
エウフラシス・バシリカは、ローマ時代から繁栄を続けるメインストリートから少しだけ離れた旧市街地の一角に佇んでいます。
先ほどローマ時代からと書きましたが、この街は、ローマ時代からの長い歴史を誇る街なのです。
ローマ人は紀元前2世紀に、イタリアのアクレイアとイストラ半島にあるプーラを結ぶ港町としてポレチュに注目したことから、古代ローマの都市計画に基づいて建設されました。
ポレチュには、キリスト教がまだ禁止されていた3世紀からすでにキリスト教のコミュニティがありました。
543年かれあ554年までポレチュの司教を務めたエウフラシスは、5世紀に建てられた教会を壊して、跡地にバシリカ式の聖堂を建設しました。内部を壮麗なモザイクで飾り、神に捧げたといいます。
入口から直ぐ入ったところに、四角い回廊で囲まれたパティオが残っています。回廊つきの中庭はヨーロッパでは修道院でよく見かけるものですが、教会正面の入口にあるのはとても珍しいといいます。
これは、「アトリウム」と呼ばれる回廊で、古代末期から初期中世のバシリカには必ずあったものだそうです。しかし、アトリウム、信者が増えて教会が手狭になるとを取り壊され、その敷地に本堂を建てることも多々あり、現在では、ここエラフラシス・バシリカ以外ではヨーロッパでも数えるほどしか残っていないようです。
さらに珍しいのは、このアトリウムを挟むように洗礼堂が残っていることで、8角形の窪みが建物の真ん中の床にあります。かつては、ここに水が張られて全身を水に浸す洗礼が行われたということです。洗礼盤ではなくバスタブのような洗礼場が床の窪みに設けられている教会は現在ではなかなか見ることができません。
エラフラシス・バシリカは、教会+アトリウム+洗礼堂という同時代の3つの神器が当時のままで残され、1500年前の初期キリスト教時代の面影を留める貴重な建造物だということです。
アトリウムの中から聖堂に入ると、内部は大理石の柱で区切られた箱型の三廊式で、典型的な初期キリスト教会のバシリカの造りになっています。
この教会のハイライトは、6世紀ビザンチン時代に製作されたモザイクです。天上ドームの中央には幼子キリストを抱いた聖母マリアが玉座に座り、その両脇に大天使、さらに脇には聖人が並んでいます。中央の聖母子から数えて左3人目、黒い衣の人物がこの教会を立てた司教エウフラシスで、手に教会の模型を抱えています。その左にはクラウディウスという名の司祭が立っています。周囲には輪のような冠を手にした聖職者が立っていますが、冠を手にしているのは殉教者であることが多いといいます。
ドーム下の壁には、左に大天使ガブリエルがマリアに受胎告知する場面、右にマリアの叔母のエリザベートに会いに行く場面が表現されています。
聖母マリア信仰は中世には一般的になりましたが、公に認められたのは431年のエフェソス宗教会議にてのことです。ゆえに、このモザイク画は、聖母マリアを後陣のメインにするモザイク画としてヨーロッパで現存するなかで最古のものである可能性が高いといわれています。
これ以降、ビザンチン世界で製作されるモザイクでは、マリアを中心に置く祭壇が広まっていきます。
このモザイクの前に立つと、聖母や聖人達が金箔の光の中に神々しく煌いて浮き上がり、神の世界から舞い降りてきたような印象を与えます。
ヴェネチアのサン・マルコ寺院やラヴェンナのサン・ヴィッターレ教会にも美しいモザイクがあります。ヴェネチアのものは、11世紀に製作されたものも一部ありますが、殆どが13-5世紀に製作されたもので、17世紀のものもあるとのことです。
ポレチュのものは、それより500年から1000年以上も前に作られたものばかりで、6世紀に製作されたラヴェンナのものと同時代になります。ラヴェンナはアドリア海を挟んでポレチュの対岸に位置する街であり、当時は陸路以上に海上交通が主要交通手段であったことから、文化面における交流も盛んであったのでしょう。
モザイクは、ローマ人が泉や浴場の床など水を使う場所にはモザイクで飾ったのに対して、ビザンチン時代には神聖な教会の壁や天井を飾るために用いられるようになったといいます。毎日足で踏みつけられる床とは違い、壁や天井のモザイクは崩れやすくとも美しい素材を使うことができました。
そこで多く使われるようになったのがガラスです。色ガラスの使用により、更に色彩豊かな世界が生み出されていきました。画期的だったのは、1-2センチ四方に切った透明なガラスとガラスの間に金箔をサンドイッチのように挟んだ金入りの徹せらを人物の背景に使うようになったことです。
この手法により、キリストや聖人は背景の金の輝きの前で神々しく浮き上がり、神の世界は壮厳なまでの輝きを増しました。教会から差し込む僅かな光がガラスにあたり、反射して微妙な色彩の演出をします。聖なる世界がそこに表現されるのです。
8世紀から9世紀前半まで続いた聖像破壊の動きにより、ビザンチンの本家本元であるコンスタンチノープルにはビザンチン・モザイクはほとんど残っていません。しかし、そこから遠く離れたラヴェンナやポレチュでで、その華麗なる美の遺産が生き残ってたのです。
http://ameblo.jp/paris-marseille/entry-10962617650.html
ポレチュはイストリア半島の一大リゾート地として有名ですが、ここのメインスポットは、世界遺産にも登録されているエウフラシス・バシリカです。
エウフラシス・バシリカは、ローマ時代から繁栄を続けるメインストリートから少しだけ離れた旧市街地の一角に佇んでいます。
先ほどローマ時代からと書きましたが、この街は、ローマ時代からの長い歴史を誇る街なのです。
ローマ人は紀元前2世紀に、イタリアのアクレイアとイストラ半島にあるプーラを結ぶ港町としてポレチュに注目したことから、古代ローマの都市計画に基づいて建設されました。
ポレチュには、キリスト教がまだ禁止されていた3世紀からすでにキリスト教のコミュニティがありました。
543年かれあ554年までポレチュの司教を務めたエウフラシスは、5世紀に建てられた教会を壊して、跡地にバシリカ式の聖堂を建設しました。内部を壮麗なモザイクで飾り、神に捧げたといいます。
入口から直ぐ入ったところに、四角い回廊で囲まれたパティオが残っています。回廊つきの中庭はヨーロッパでは修道院でよく見かけるものですが、教会正面の入口にあるのはとても珍しいといいます。
これは、「アトリウム」と呼ばれる回廊で、古代末期から初期中世のバシリカには必ずあったものだそうです。しかし、アトリウム、信者が増えて教会が手狭になるとを取り壊され、その敷地に本堂を建てることも多々あり、現在では、ここエラフラシス・バシリカ以外ではヨーロッパでも数えるほどしか残っていないようです。
さらに珍しいのは、このアトリウムを挟むように洗礼堂が残っていることで、8角形の窪みが建物の真ん中の床にあります。かつては、ここに水が張られて全身を水に浸す洗礼が行われたということです。洗礼盤ではなくバスタブのような洗礼場が床の窪みに設けられている教会は現在ではなかなか見ることができません。
エラフラシス・バシリカは、教会+アトリウム+洗礼堂という同時代の3つの神器が当時のままで残され、1500年前の初期キリスト教時代の面影を留める貴重な建造物だということです。
アトリウムの中から聖堂に入ると、内部は大理石の柱で区切られた箱型の三廊式で、典型的な初期キリスト教会のバシリカの造りになっています。
この教会のハイライトは、6世紀ビザンチン時代に製作されたモザイクです。天上ドームの中央には幼子キリストを抱いた聖母マリアが玉座に座り、その両脇に大天使、さらに脇には聖人が並んでいます。中央の聖母子から数えて左3人目、黒い衣の人物がこの教会を立てた司教エウフラシスで、手に教会の模型を抱えています。その左にはクラウディウスという名の司祭が立っています。周囲には輪のような冠を手にした聖職者が立っていますが、冠を手にしているのは殉教者であることが多いといいます。
ドーム下の壁には、左に大天使ガブリエルがマリアに受胎告知する場面、右にマリアの叔母のエリザベートに会いに行く場面が表現されています。
聖母マリア信仰は中世には一般的になりましたが、公に認められたのは431年のエフェソス宗教会議にてのことです。ゆえに、このモザイク画は、聖母マリアを後陣のメインにするモザイク画としてヨーロッパで現存するなかで最古のものである可能性が高いといわれています。
これ以降、ビザンチン世界で製作されるモザイクでは、マリアを中心に置く祭壇が広まっていきます。
このモザイクの前に立つと、聖母や聖人達が金箔の光の中に神々しく煌いて浮き上がり、神の世界から舞い降りてきたような印象を与えます。
ヴェネチアのサン・マルコ寺院やラヴェンナのサン・ヴィッターレ教会にも美しいモザイクがあります。ヴェネチアのものは、11世紀に製作されたものも一部ありますが、殆どが13-5世紀に製作されたもので、17世紀のものもあるとのことです。
ポレチュのものは、それより500年から1000年以上も前に作られたものばかりで、6世紀に製作されたラヴェンナのものと同時代になります。ラヴェンナはアドリア海を挟んでポレチュの対岸に位置する街であり、当時は陸路以上に海上交通が主要交通手段であったことから、文化面における交流も盛んであったのでしょう。
モザイクは、ローマ人が泉や浴場の床など水を使う場所にはモザイクで飾ったのに対して、ビザンチン時代には神聖な教会の壁や天井を飾るために用いられるようになったといいます。毎日足で踏みつけられる床とは違い、壁や天井のモザイクは崩れやすくとも美しい素材を使うことができました。
そこで多く使われるようになったのがガラスです。色ガラスの使用により、更に色彩豊かな世界が生み出されていきました。画期的だったのは、1-2センチ四方に切った透明なガラスとガラスの間に金箔をサンドイッチのように挟んだ金入りの徹せらを人物の背景に使うようになったことです。
この手法により、キリストや聖人は背景の金の輝きの前で神々しく浮き上がり、神の世界は壮厳なまでの輝きを増しました。教会から差し込む僅かな光がガラスにあたり、反射して微妙な色彩の演出をします。聖なる世界がそこに表現されるのです。
8世紀から9世紀前半まで続いた聖像破壊の動きにより、ビザンチンの本家本元であるコンスタンチノープルにはビザンチン・モザイクはほとんど残っていません。しかし、そこから遠く離れたラヴェンナやポレチュでで、その華麗なる美の遺産が生き残ってたのです。

- クロアチアきっての高級リゾート:オパティア
-
エリア:
- ヨーロッパ>クロアチア>オパティア
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 ホテル・宿泊
- 投稿日:2012/02/13 21:57
- コメント(0)
写真はこちら:http://ameblo.jp/paris-marseille/entry-10963776405.html
クロアチアきっての高級リゾート地オパティアは、「クロアチアの貴婦人」とも呼ばれ、ヨーロッパを中心に世界各地の人々を惹きつけて止みません。
オパティアとはクロアチア語で「僧院」という意味らしく、この地の始まりは、15世紀に建てられたベネディクト会の修道院のまわりに集まってできた海辺の集落だったとのこと。
オパティアに流れるゆったりとした時間に身を任せ、ビーチ沿いに繰り広げられる華やかな夜の歓楽を満喫すれば、ここがひと昔前まで僧院を中心として発達した集落だったことが嘘のようです。
こんなにも俗世間に染まってしまって・・・と、人間の煩悩のなせる業を嘆く一方で、よくぞここまで潔く変貌を遂げたなと、これまた人間の意思の力に脱帽してしまう次第です。
現在では、19世紀に建てられた瀟洒なヴィラが海岸沿いに立ち並び、その多くはホテルとして使われています。
昔は、ウィーンからも近いことから、ハプスブルグの貴族達がこの温暖な海岸に別荘を建ててヴァカンスを楽しんだといいます。
19世紀から20世紀初頭にかけて、オーストリア皇帝のプランツ・ヨーゼフ、ドイツのヴィルヘルム2世、イタリアの作曲家のプッチーニ、オーストリア作曲家のマーラー、ロシアの作家チェーホフなど数多くの貴族や各界の著名人が訪れています。
ここで有名なホテルといえば、「ホテル・インペリアル」「「ヴィラ・マリア」「ヴィラ・アンジョリーナ」というところでしょうか。
私達が宿泊したのは「ホテル・ベルヴィユ」です。角部屋をもらえたのはよかったのですが、バルコニーへのドアを開けることはできたものの、もうひとつの窓を開けた状態にしておく方法は見つかりませんでした。窓を上に押し上げて解放した状態におくことができなかったのです。
苦肉の策として、部屋にあった椅子を窓に挟み、解放状態を確保することができました・・・・(汗)。翌朝、部屋に入ってきたメイドさんは窓に挟まれた椅子を見て、人が窓から飛び降り自殺をしたのではないかと焦ったはずです。
夜はカメラを持ち歩かなかったので、残念ながら写真を撮ることができませんでした・・ごめんなさい。言葉でお伝えするとすれば、以下になります。
南国の太陽に光り輝く昼間の姿とは全く異なり、間接照明の幻想的な光のなかで、浮き立つように輝く夜のオパティアの夜は格別だったということです。
さすがは、「クロアチアの貴婦人」と呼ばれるだけあり、単なる一律的な美しさを誇るだけではありません。
私の「貴婦人」の理解は若干斜に構えたものかもしれませんが、貴婦人とは、表面的な美しさに限らず、内面から溢れ出る知性と自由で開けた精神により、多彩かつ精緻な魅力を放つ高貴な女性のことをいうのだと思います。
しかるに、先ほど述べたように、朝と夜で異なる顔を持ち、多彩な輝きを発することで世界中の人々を魅了するオパティアは、貴婦人の美しさを湛える街だと思われるのです。
話は変わりますが、クロアチアはヌゥーディスト・ビーチのメッカとして知られています。オパティアが位置するイストラ半島にも名の知られたヌゥーディスト・ビーチが幾つか点在しており、オパティアからも船で行くことができます。もっとも今では、ヌゥーディストではなくて、ナチュラリスト・ビーチと呼ぶようですが。
実際に、イストラ半島には、ナチュラリストが3000人から5000人ほど滞在できるキャンプ場やヴァンガローなどの施設が十ヶ所、数百人用が3ヶ所、クルヴァネル湾には、ツレス島、クルク島、バグ島など八ヶ所にキャンプ場やビーチがあります。
日本人にはあまりなじみのないナチュラリスト・ビーチですが、一度だまされたと思って行ってみると面白いかもしれません。
生まれたままの肢体を惜しげもなく曝け出し、ノビノビと太陽と海の自然を満喫している人達の全てが「モデル・ボディ」の持ち主であるわけではありません。色といい、形といい、サイズといい各種様々ですが、全てに共通することは、生まれたままの姿でノビノビとヴァカンスを楽しんでいるということです。
我々の遠い祖先はみんな、裸同然でジャングルの中を駆け回っていたことを思い出してください。また、身近な例でも、小さな子供は裸で駆け回るのが大好きです。私の4歳になる甥っ子も、お風呂に入った後は、裸で飛び出して家の中を嬉々として駆け回り、一度得た最高に気持ちがよい「真っ裸」の状態を容易にあきらめようとはしません。
真っ裸でビーチを歩いてみたら、我々の祖先が感じたインスピレーションが蘇り、素晴らしい発想ができるかもしれません!
オパティアを立つ日は、陸路でトリエステまで行き、正午発のローマ便をキャッチする必要があったので、出発は早朝となりました。オパティアからトリエステまでは車で約3時間ほどかかり、クロアチアからスロベニア、スロベニアからイタリアと国境を2回通過しなりません。
朝早くでホテルのブレックファストが開いてなかったので、近くの開いているカフェに行き、コーヒーを注文しました。もちろん、コーヒーはなくて、エスプレッソしかなかったので、それをダブルでお願いしました。
朝早くでどこも開いておらず、掃除をしているおばさんに尋ねて漸く開いている店を見つけることができました。そこぐらいしか開いているカフェがないのか、朝6時ごろだったにも関わらず、お客さんが何人かいてエスプレッソをすすっていました。
ヴァカンスにきて早起きするとは・・・と一瞬驚きましたが、年配の風貌からみて、普段からゆっくりしたリズムで暮らしている人達のようで、6時にカフェでコーヒーをすすることも日課なのかもしれません。
トリエステの空港ではクロアチアワインの各種が展示されていました。モダンな展示の仕方に感銘を受け、シャッターをパチリ、パチリ。
この展示を見て、クロアチアのワインに賭ける熱い思いを理解することができました。実際に、クロアチアのワインは値段が安い割りには質が良いと評判で、ファンが軒並み増えているという話も聞きます。アドリア海に浮かぶ観光立国でありながら、それに甘んじることなく、産業の多角化を狙うクロアチアのアンビションを垣間見ることができたような気がします。
先の旧ユーゴ戦争終結から20年・・・戦争の傷跡が癒えることはありませんが、この国が新たな飛躍に向けて挑戦しているのが感じられました。
クロアチアの発展と輝かしい未来に乾杯!
クロアチアきっての高級リゾート地オパティアは、「クロアチアの貴婦人」とも呼ばれ、ヨーロッパを中心に世界各地の人々を惹きつけて止みません。
オパティアとはクロアチア語で「僧院」という意味らしく、この地の始まりは、15世紀に建てられたベネディクト会の修道院のまわりに集まってできた海辺の集落だったとのこと。
オパティアに流れるゆったりとした時間に身を任せ、ビーチ沿いに繰り広げられる華やかな夜の歓楽を満喫すれば、ここがひと昔前まで僧院を中心として発達した集落だったことが嘘のようです。
こんなにも俗世間に染まってしまって・・・と、人間の煩悩のなせる業を嘆く一方で、よくぞここまで潔く変貌を遂げたなと、これまた人間の意思の力に脱帽してしまう次第です。
現在では、19世紀に建てられた瀟洒なヴィラが海岸沿いに立ち並び、その多くはホテルとして使われています。
昔は、ウィーンからも近いことから、ハプスブルグの貴族達がこの温暖な海岸に別荘を建ててヴァカンスを楽しんだといいます。
19世紀から20世紀初頭にかけて、オーストリア皇帝のプランツ・ヨーゼフ、ドイツのヴィルヘルム2世、イタリアの作曲家のプッチーニ、オーストリア作曲家のマーラー、ロシアの作家チェーホフなど数多くの貴族や各界の著名人が訪れています。
ここで有名なホテルといえば、「ホテル・インペリアル」「「ヴィラ・マリア」「ヴィラ・アンジョリーナ」というところでしょうか。
私達が宿泊したのは「ホテル・ベルヴィユ」です。角部屋をもらえたのはよかったのですが、バルコニーへのドアを開けることはできたものの、もうひとつの窓を開けた状態にしておく方法は見つかりませんでした。窓を上に押し上げて解放した状態におくことができなかったのです。
苦肉の策として、部屋にあった椅子を窓に挟み、解放状態を確保することができました・・・・(汗)。翌朝、部屋に入ってきたメイドさんは窓に挟まれた椅子を見て、人が窓から飛び降り自殺をしたのではないかと焦ったはずです。
夜はカメラを持ち歩かなかったので、残念ながら写真を撮ることができませんでした・・ごめんなさい。言葉でお伝えするとすれば、以下になります。
南国の太陽に光り輝く昼間の姿とは全く異なり、間接照明の幻想的な光のなかで、浮き立つように輝く夜のオパティアの夜は格別だったということです。
さすがは、「クロアチアの貴婦人」と呼ばれるだけあり、単なる一律的な美しさを誇るだけではありません。
私の「貴婦人」の理解は若干斜に構えたものかもしれませんが、貴婦人とは、表面的な美しさに限らず、内面から溢れ出る知性と自由で開けた精神により、多彩かつ精緻な魅力を放つ高貴な女性のことをいうのだと思います。
しかるに、先ほど述べたように、朝と夜で異なる顔を持ち、多彩な輝きを発することで世界中の人々を魅了するオパティアは、貴婦人の美しさを湛える街だと思われるのです。
話は変わりますが、クロアチアはヌゥーディスト・ビーチのメッカとして知られています。オパティアが位置するイストラ半島にも名の知られたヌゥーディスト・ビーチが幾つか点在しており、オパティアからも船で行くことができます。もっとも今では、ヌゥーディストではなくて、ナチュラリスト・ビーチと呼ぶようですが。
実際に、イストラ半島には、ナチュラリストが3000人から5000人ほど滞在できるキャンプ場やヴァンガローなどの施設が十ヶ所、数百人用が3ヶ所、クルヴァネル湾には、ツレス島、クルク島、バグ島など八ヶ所にキャンプ場やビーチがあります。
日本人にはあまりなじみのないナチュラリスト・ビーチですが、一度だまされたと思って行ってみると面白いかもしれません。
生まれたままの肢体を惜しげもなく曝け出し、ノビノビと太陽と海の自然を満喫している人達の全てが「モデル・ボディ」の持ち主であるわけではありません。色といい、形といい、サイズといい各種様々ですが、全てに共通することは、生まれたままの姿でノビノビとヴァカンスを楽しんでいるということです。
我々の遠い祖先はみんな、裸同然でジャングルの中を駆け回っていたことを思い出してください。また、身近な例でも、小さな子供は裸で駆け回るのが大好きです。私の4歳になる甥っ子も、お風呂に入った後は、裸で飛び出して家の中を嬉々として駆け回り、一度得た最高に気持ちがよい「真っ裸」の状態を容易にあきらめようとはしません。
真っ裸でビーチを歩いてみたら、我々の祖先が感じたインスピレーションが蘇り、素晴らしい発想ができるかもしれません!
オパティアを立つ日は、陸路でトリエステまで行き、正午発のローマ便をキャッチする必要があったので、出発は早朝となりました。オパティアからトリエステまでは車で約3時間ほどかかり、クロアチアからスロベニア、スロベニアからイタリアと国境を2回通過しなりません。
朝早くでホテルのブレックファストが開いてなかったので、近くの開いているカフェに行き、コーヒーを注文しました。もちろん、コーヒーはなくて、エスプレッソしかなかったので、それをダブルでお願いしました。
朝早くでどこも開いておらず、掃除をしているおばさんに尋ねて漸く開いている店を見つけることができました。そこぐらいしか開いているカフェがないのか、朝6時ごろだったにも関わらず、お客さんが何人かいてエスプレッソをすすっていました。
ヴァカンスにきて早起きするとは・・・と一瞬驚きましたが、年配の風貌からみて、普段からゆっくりしたリズムで暮らしている人達のようで、6時にカフェでコーヒーをすすることも日課なのかもしれません。
トリエステの空港ではクロアチアワインの各種が展示されていました。モダンな展示の仕方に感銘を受け、シャッターをパチリ、パチリ。
この展示を見て、クロアチアのワインに賭ける熱い思いを理解することができました。実際に、クロアチアのワインは値段が安い割りには質が良いと評判で、ファンが軒並み増えているという話も聞きます。アドリア海に浮かぶ観光立国でありながら、それに甘んじることなく、産業の多角化を狙うクロアチアのアンビションを垣間見ることができたような気がします。
先の旧ユーゴ戦争終結から20年・・・戦争の傷跡が癒えることはありませんが、この国が新たな飛躍に向けて挑戦しているのが感じられました。
クロアチアの発展と輝かしい未来に乾杯!
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- クロアチア オパティア リゾート ビーチ

- TGVの旅:パリからマルセイユへ
-
エリア:
- ヨーロッパ>フランス>パリ
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2012/02/07 21:54
- コメント(1)
パリからマルセイユまでTGVでたったの3時間・・・・南仏が随分と近くなったな・・・。

以前、両親と一緒に南仏を旅する計画を立てていた時に、父がポロッと漏らした言葉だ。
日本の国土の優に2倍はあるヘキサゴンを横断するのに要する時間が3時間だなんて、私達の両親が若かった時代には考えられなかったことだ。

(パリ・リヨン駅)
あれから20-30年という月日が経つわけだが、パリと南仏だけに限らず、地球全体が本当に「狭く」なったとつくづく感じる。
今では外国に行っても、「異文化」を体験するということがメッキリ少なくなったような気がする。異国へ旅立つことで、自分が慣れ親しんだ生活や友達など全てをあとに残し、いわゆる人生の「断絶」「いちからのスタート」というものをドラスチックに経験することが無くなった。
理由は二つ考えられる。
ひとつは、グローバル化によって世界全体が大なり小なり「均一化」し、相当な僻地へ行かないかぎり日々の生活において大した違いがなくなったということ。
そしてもうひとつは、インターネットの発明、今ではソーシャル・メディアの普及により、異国に住む家族や世界中の友人・知人と常に繋がっていることができるからだろう。
私が子供の頃でもまだ「異文化」は世界各地に残っていた。
まず、私が覚えている限りでは、80年代では日本から欧州への直行便は飛んでいなかった。行きは必ずモスクワのシェレメチエボ空港で乗り継がなければならなかった。
共産主義ソビエトの窓口ともいえるシェレメチエボは、西側の反共教育にどっぷり漬かって育った子供が連想する「共産主義国家」の予想を裏切ることは無かった。
空港には、免税にする必要があるのかどうか定かではないマトリオーシカなどソ連のお土産を売る小さな免税店がひとつある以外は他に何も無く、旅行客も日航ジャンボ機から降りてきた日本人を除けば両手の指で数えられるぐらいの数しか見当たらない。
成田やケネディ、SDGなどの例から、子供心に首都空港は忙しいものだと相場が決まっていた。そのため、ここまで閑散とした首都空港にはいつも心地悪い違和感を抱いた。「ああ共産主義の国に生まれなくてよかった。やっぱり共産主義は良くないんだ」と強く思ったものだ。
また、閑散としているだけならともかく、侘しさに拍車をかけるように空港内は見渡す限り極端に薄暗く、お化け屋敷同然の薄気味悪さが漂っていた。
共産主義国家が得意とする5ヵ年計画だのが破綻して電力不足に陥ったのか、それとも人民に煌々と輝く電灯は必要ないと「中央」で下された決定なのか知らないが、あんなに薄暗い公共施設は見たことがなかった。
いずれにせよ、ソ連の威信を世界に向けて発信する窓口の割には、あまりにもお粗末な首都空港だったといえる。
その中で唯一景気がよかったのは、軍の存在だった。カラシニコフのような小銃を肩に持った兵士が空港全体に一定の間隔を置いて整然と立っていたのを今でも鮮明に覚えている。
ひたすら空虚な眼差しで空を見つめ、表情に欠けるその顔は、揃いも揃って男前であったにもかかわらず人間味が感じられなかった。国家統制によって人間の心まで統制され、画一化され、ロボットのように精密ではあるものの無機質になってしまったのか・・・・。共産主義の下で生きる人達は我々西側の人間とは確実に違う・・・とただ漠然とではあったものの強く思ったのを覚えている。
そして、我々旅行客がセキュリティを通り、たまたまメタル探知機が作動して音を出すと、その時になってはじめて彼らが動く人間であることが証明される。しかし、動きに個性は全くみられず、統制され機械化されたものであることはいうまでもない。
どのように証明されたかというと、近辺の兵士が一斉に探知機を作動させた旅行者へと銃を向けるのだ。一瞬の遅れもなく、また一糸乱れぬ整然さでもって。
私も一度この探知機を鳴らしたことがある。私の無害この上ないベルトに反応したらしかった。しかし、そんな事情にはお構いなく、その時も、近辺に立つ兵士が一斉に銃を向けてきた。
ドキッとしたのと同時に、ヒューマニティのかけらもない共産主義の一面を垣間見たと子供ながらに思った。たとえ子供であろうとも、人間の挙動よりも機械の性能のほうを信頼するというロボティックで反人間的な世界観というものを恐ろしいものだと感じた。
この時はモスクワ経由でローマへ行くところだった。ローマの空港でも同じくメタル探知機が作動した。しかし、対応は月とすっぽんのごとく異なるものであったことは言うまでも無い。
鳴ってから間もなくして、プクプクと太った人の良さそうなセキュリティ担当の女性がガムをかみながら近寄ってきて、「メタル?」と尋ねながら手に持った別の探知機で私のベルト辺りを触り、「OK」と笑顔で一言、行ってよいというサインを送ってくれただけだった。
この時は、心から「西側っていいな!」と思ったのを覚えている。このおおらかさ、人間に対する信頼、改めて自由主義は共産主義にない全てのクオリティを兼ね備えた体制だと子供ながらに確信し、それに対する信頼を新たにしたものだった。
と、このように、シェレメチエボやフューミチーノ(当時はダビンチ空港という名前だったと記憶しいてる)に限ったことではないが、昔は自分達の文化や価値観とは異なるもの、また似ているものが各地で体験でき、それを比較したり、評価したりする機会がふんだんにあったわけだ。
あれからかれこれ20年はなるだろうが、90年の始めあたりから日本と欧州の間を直行便が飛ぶようになり、途中でシェレメチエボを詣でることも無くなり、私達がモスクワに降り立つこともなくなった。
以来、どんなに変わっていることだろう・・・・と時々思いを馳せてみることがある。民営化が進んで以来まだ行ったことがないが、現代ロシアは激動を経て、今では当時の面影など全く無くなってしまったことだろう。それこそ、一見するだけでは、成田やCDGなどと何ら変わることがないかもしれない。いつか機会があれば是非とも行ってみたいものである。
話をフランスに戻すが、パリと南仏の差もTGVの登場によって激減したような気がする。確かに、パリのと南仏の間には人の気質や天候に差があることは明らかだが、それだからと言って「異文化」だと騒ぎ立てるようなものでは決してない。街の規模こそ異なれど、そこで営まれている個人の生活やビジネスなどはパリと全く変わることはない。

パリとマルセイユがTGVで3時間となったことも踏まえて、全く別世界に行く!という幻想をもてあそぶことは既に不可能なこととなった。サマセット・モームなどが描き出す南仏などそこにはもう存在しない。
便利になったぶん、なんども味気ない世の中になったものだ・・・と嘆かわしく思う。かといって、インターネットによって世界中のありとあらゆる情報にアクセスできる利便性やソーシャルメディアが可能にする「世界と繋がっている」感覚を手放すことはもはや不可能だ。

パリのリヨン駅で乗車し、3時間後の午後6時過ぎにはマルセイユのサン・シャルル駅に到着していた。なだらかに延々と続く穏やかな丘陵、その単調さを時々破るように登場する農場や小さな村などをボーっと眺めていると、アビニヨン、エクサン・プロヴァンス、そしてもうマルセイユに到着した。
マルセイユのサン・シャルル駅からは、遠方にマルセイユの守り神であるノートルダム・ド・ラ・ギャルドを望むことができる。

因みに、TGVは一等席と二等席から成っており、早めに予約を入れると(2日前ぐらいまで)かなりの割引が利く。一等席など半額の値段で購入することが可能になる。インターネットで早めの購入を試みてください!

以前、両親と一緒に南仏を旅する計画を立てていた時に、父がポロッと漏らした言葉だ。
日本の国土の優に2倍はあるヘキサゴンを横断するのに要する時間が3時間だなんて、私達の両親が若かった時代には考えられなかったことだ。

(パリ・リヨン駅)
あれから20-30年という月日が経つわけだが、パリと南仏だけに限らず、地球全体が本当に「狭く」なったとつくづく感じる。
今では外国に行っても、「異文化」を体験するということがメッキリ少なくなったような気がする。異国へ旅立つことで、自分が慣れ親しんだ生活や友達など全てをあとに残し、いわゆる人生の「断絶」「いちからのスタート」というものをドラスチックに経験することが無くなった。
理由は二つ考えられる。
ひとつは、グローバル化によって世界全体が大なり小なり「均一化」し、相当な僻地へ行かないかぎり日々の生活において大した違いがなくなったということ。
そしてもうひとつは、インターネットの発明、今ではソーシャル・メディアの普及により、異国に住む家族や世界中の友人・知人と常に繋がっていることができるからだろう。
私が子供の頃でもまだ「異文化」は世界各地に残っていた。
まず、私が覚えている限りでは、80年代では日本から欧州への直行便は飛んでいなかった。行きは必ずモスクワのシェレメチエボ空港で乗り継がなければならなかった。
共産主義ソビエトの窓口ともいえるシェレメチエボは、西側の反共教育にどっぷり漬かって育った子供が連想する「共産主義国家」の予想を裏切ることは無かった。
空港には、免税にする必要があるのかどうか定かではないマトリオーシカなどソ連のお土産を売る小さな免税店がひとつある以外は他に何も無く、旅行客も日航ジャンボ機から降りてきた日本人を除けば両手の指で数えられるぐらいの数しか見当たらない。
成田やケネディ、SDGなどの例から、子供心に首都空港は忙しいものだと相場が決まっていた。そのため、ここまで閑散とした首都空港にはいつも心地悪い違和感を抱いた。「ああ共産主義の国に生まれなくてよかった。やっぱり共産主義は良くないんだ」と強く思ったものだ。
また、閑散としているだけならともかく、侘しさに拍車をかけるように空港内は見渡す限り極端に薄暗く、お化け屋敷同然の薄気味悪さが漂っていた。
共産主義国家が得意とする5ヵ年計画だのが破綻して電力不足に陥ったのか、それとも人民に煌々と輝く電灯は必要ないと「中央」で下された決定なのか知らないが、あんなに薄暗い公共施設は見たことがなかった。
いずれにせよ、ソ連の威信を世界に向けて発信する窓口の割には、あまりにもお粗末な首都空港だったといえる。
その中で唯一景気がよかったのは、軍の存在だった。カラシニコフのような小銃を肩に持った兵士が空港全体に一定の間隔を置いて整然と立っていたのを今でも鮮明に覚えている。
ひたすら空虚な眼差しで空を見つめ、表情に欠けるその顔は、揃いも揃って男前であったにもかかわらず人間味が感じられなかった。国家統制によって人間の心まで統制され、画一化され、ロボットのように精密ではあるものの無機質になってしまったのか・・・・。共産主義の下で生きる人達は我々西側の人間とは確実に違う・・・とただ漠然とではあったものの強く思ったのを覚えている。
そして、我々旅行客がセキュリティを通り、たまたまメタル探知機が作動して音を出すと、その時になってはじめて彼らが動く人間であることが証明される。しかし、動きに個性は全くみられず、統制され機械化されたものであることはいうまでもない。
どのように証明されたかというと、近辺の兵士が一斉に探知機を作動させた旅行者へと銃を向けるのだ。一瞬の遅れもなく、また一糸乱れぬ整然さでもって。
私も一度この探知機を鳴らしたことがある。私の無害この上ないベルトに反応したらしかった。しかし、そんな事情にはお構いなく、その時も、近辺に立つ兵士が一斉に銃を向けてきた。
ドキッとしたのと同時に、ヒューマニティのかけらもない共産主義の一面を垣間見たと子供ながらに思った。たとえ子供であろうとも、人間の挙動よりも機械の性能のほうを信頼するというロボティックで反人間的な世界観というものを恐ろしいものだと感じた。
この時はモスクワ経由でローマへ行くところだった。ローマの空港でも同じくメタル探知機が作動した。しかし、対応は月とすっぽんのごとく異なるものであったことは言うまでも無い。
鳴ってから間もなくして、プクプクと太った人の良さそうなセキュリティ担当の女性がガムをかみながら近寄ってきて、「メタル?」と尋ねながら手に持った別の探知機で私のベルト辺りを触り、「OK」と笑顔で一言、行ってよいというサインを送ってくれただけだった。
この時は、心から「西側っていいな!」と思ったのを覚えている。このおおらかさ、人間に対する信頼、改めて自由主義は共産主義にない全てのクオリティを兼ね備えた体制だと子供ながらに確信し、それに対する信頼を新たにしたものだった。
と、このように、シェレメチエボやフューミチーノ(当時はダビンチ空港という名前だったと記憶しいてる)に限ったことではないが、昔は自分達の文化や価値観とは異なるもの、また似ているものが各地で体験でき、それを比較したり、評価したりする機会がふんだんにあったわけだ。
あれからかれこれ20年はなるだろうが、90年の始めあたりから日本と欧州の間を直行便が飛ぶようになり、途中でシェレメチエボを詣でることも無くなり、私達がモスクワに降り立つこともなくなった。
以来、どんなに変わっていることだろう・・・・と時々思いを馳せてみることがある。民営化が進んで以来まだ行ったことがないが、現代ロシアは激動を経て、今では当時の面影など全く無くなってしまったことだろう。それこそ、一見するだけでは、成田やCDGなどと何ら変わることがないかもしれない。いつか機会があれば是非とも行ってみたいものである。
話をフランスに戻すが、パリと南仏の差もTGVの登場によって激減したような気がする。確かに、パリのと南仏の間には人の気質や天候に差があることは明らかだが、それだからと言って「異文化」だと騒ぎ立てるようなものでは決してない。街の規模こそ異なれど、そこで営まれている個人の生活やビジネスなどはパリと全く変わることはない。

パリとマルセイユがTGVで3時間となったことも踏まえて、全く別世界に行く!という幻想をもてあそぶことは既に不可能なこととなった。サマセット・モームなどが描き出す南仏などそこにはもう存在しない。
便利になったぶん、なんども味気ない世の中になったものだ・・・と嘆かわしく思う。かといって、インターネットによって世界中のありとあらゆる情報にアクセスできる利便性やソーシャルメディアが可能にする「世界と繋がっている」感覚を手放すことはもはや不可能だ。

パリのリヨン駅で乗車し、3時間後の午後6時過ぎにはマルセイユのサン・シャルル駅に到着していた。なだらかに延々と続く穏やかな丘陵、その単調さを時々破るように登場する農場や小さな村などをボーっと眺めていると、アビニヨン、エクサン・プロヴァンス、そしてもうマルセイユに到着した。
マルセイユのサン・シャルル駅からは、遠方にマルセイユの守り神であるノートルダム・ド・ラ・ギャルドを望むことができる。

因みに、TGVは一等席と二等席から成っており、早めに予約を入れると(2日前ぐらいまで)かなりの割引が利く。一等席など半額の値段で購入することが可能になる。インターネットで早めの購入を試みてください!
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- TGV パリ マルセイユ フランス ヨーロッパの鉄道
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