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旅倶楽部「こま通信」

~旅するように生きていこう~

旅倶楽部「こま通信」
旅するように生きていこう!
プロフィール

ニックネーム:
こまつうしん
居住地:
埼玉県
性別:
男性
年代:
60代
会社名:
旅倶楽部 こま通信
会社英字名:
会社所在地:
埼玉県
業種:
旅行業
自己紹介:
旅倶楽部「こま通信」代表

これまで三千日以上を旅してきて、より良い旅の為に《手造の旅》をはじめました。メンバーからの要望によって、一生モノの旅をつくっていきます。

《手造の旅》のご希望がありましたらご連絡ください。
komatsusin2@gmail.com

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ゴシック柱
ザルツブルグの美しいゴシック教会
エリア:
  • ヨーロッパ>オーストリア>ザルツブルク
テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2010/10/16 20:59
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バロック装飾がめだつザルツブルグの教会の中で、この現フランチェスコ派の修道院教会だけは、美しいゴシックの天井と柱で他とは一味違う雰囲気を持っている。

下はホーエン・ザルツブルグ城から見たところ。
城から見たザルツブルグ
ひときわ目立つ丸い後陣は大聖堂。その左上に黒い三角にとがった屋根と塔を持っているのがこのフランチェスコ派の教会だ。

もっとも、ここがフランチェスコ派に任されたのは1635年からの事にすぎないのだけれど。

もともと八世紀にはこの場所に教会があり、11世紀頃かと想像されるロマネスク構造は入り口の方のアーチにそのスタイルを留めている。
教会内部
ロマネスクのアーチの向こうに、より高く明るいゴシックの後陣が見えてくる。

そして後陣入り口に立って見上げると、五本の柱に支えられた華麗なゴシック天井が見る人を圧倒する。
ゴシック柱
この後陣部分は1223年に火災の後立て直されたので、それ以前のロマネスクと違う構造になったというわけだ。

1139年には教区教会に昇格し、1490年代には両開きのもっと大きな祭壇が造られていたそうである。 理由は分からないが、残念ながらその祭壇は解体されて、その一部を利用して1561年制作の現在の中央祭壇となる。
中央祭壇

ひときわ目をひく中央のマリヤ像。
パッハーのマドンナ
これはミヒャエル・パッハーが1495〜98年までかけて制作した旧祭壇の為の像を再利用してここに設置されたもの。

まわりの教会が当時はやりのバロックに改装されていく中、この教会だけはゴシックとそれ以前のロマネスクの雰囲気を保ちながら現代まで受け継がれてきた。

ゴシックの柱には15世紀終わりごろのフレスコ画がまだはっきりと見られる。

フレスコ画

マイヤーリンク外観
皇太子ルドルフの妻は
エリア:
  • ヨーロッパ>オーストリア
テーマ:歴史・文化・芸術 
投稿日:2010/10/12 23:51
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ハプスブルグ「最後の皇帝」フランツ・ヨーゼフの一人息子ルドルフが、1889年1月30日に16歳の少女と心中したマイヤーリンクを訪ねた。
マイヤーリンク外観
秋のはじめ、気持ちよく晴れた青空と枯葉の中、その奇妙な建物があった。
狩猟の館だったこの建物は、皇太子とその心中相手が無残な姿で発見された部屋だけを教会にしてしまったのである。

この教会堂の次の部屋にいくと、そこからルドルフとフランツ・ヨーゼフ皇帝の確執などを説明する展示がはじまる。

その中で、いきなりぎょっとさせる棺桶がたてかけてある。
ヴェッツェラーの棺
これは、心中相手マリー・ヴェッツェラーの棺桶。

何ゆえここに実物があるのか?ガイドさんが説明してくれた。

ルドルフの死の一報をうけて、フランツ・ヨーゼフ皇帝は「あの女が息子を殺したに違いない」と思い込んだそうな。 皇太子の遺体が丁寧に移送される一方、マリーの遺体はしばらく放置されていた。誰も、皇帝の怒りをかいたくはない。

しかし、とにかく埋葬を、ということで、いちばん近くの墓地である歴史あるハイリゲン・クロイツ修道院へ運び埋葬された。それが、この棺桶。

埋葬された棺桶をこじ開けたのは第二次大戦の折、ヴィーンを「開放」したソ連軍の兵士だった。よく見ると確かに壊されているのが分かる。副葬品に宝石やなにかを狙ったらしい。

混乱の後、遺体は新しい棺桶に改葬され、この棺桶は修道院の片隅にほおって置かれていたのだが、近年観光客向けにここへ移されたという事である。

心中相手に選ばれたマリー・ヴェッツェラーは、実は「本命」ではなかった。皇太子ルドルフははじめ別の相手に心中をもちかけたのに断られていたのである。マリーはそこの事、知っていたのかしらん?

ルドルフをめぐる「かわいそうな彼女」は、実はもっと他にいた。ルドルフの本妻ベルギー皇女ステファニーである。ルドルフは1880年3月にブリュッセルで二日だけ彼女と過ごしてすぐに婚約。翌年5月19日にヴィーンのアウグスティーナ教会で結婚している。下の写真左が彼女。
ステファニー
※余談:帝国の天文学者はその年に発見した小惑星を220ステファニーと名付け、人類史上はじめて星が結婚プレゼントにされたのだそうだ。

右は皇太子が自殺を決意した後に彼女に向けて書いた遺書と呼べるもの。内容は「娘のことをよろしく」など、ありがちな事柄を書いているのだが、なんと、ステファニーのアルファベット綴りが間違っている!!

STEPHANIE が本当なのに、STEFANIE なのだ。

遺書で亭主に自分の名前を間違われるなんて、この事件でいちばん悲劇的なのは、このステファニーじゃなかろうか。面の皮でありまする。

・・・と思ってステファニーの事を少し調べてみると、いやいや、彼女は彼女で旅先でであったポーランドの貴族とよろしくやっていたらしい。当時の貴族社会では、ま、「あり」の夫婦関係だったのだろう。

ルドフルの死後、11年を経た1900年。
36歳の彼女はひとつ年上のハンガリー貴族と二度目の結婚。
現スロバキア領にある城で暮らすことになった。

1945年、第二次大戦末期、ソビエト軍がハンガリーを「開放」、八十歳を過ぎていた彼女とその夫は城を追われ、同年8月23日、彼女はパンノンハルマ(ハンガリーの世界遺産指定された修道院がある)にて生涯を終えた。

生前彼女が書いたという暴露本「I was to be Empress(私は皇后になるはずだった)」という本は、日本語で読めるのだろうか?

※ステファニーの生涯についてはは、主にWikipedia辞典を参考にしました。

時計塔
グラーツの城山
エリア:
  • ヨーロッパ>オーストリア>グラーツ
テーマ:世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2010/10/11 23:31
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オーストリア第二の都市グラーツには旧市街を見下ろす城山がそびえている。
かつては山上を埋め尽くす下の絵のような要塞があった。
昔のグラーツ
この山上の要塞は1809年ナポレオンとオーストリアが手を結んだ際、後々フランスの脅威にならないように取り壊されてしまった。

現在は時計塔と鐘楼が残されているだけだ。
上記の絵にも小さく描かれている。

この時計塔は市民が懇願し買い取る事で残された。
時計塔
町の人々に少しでも時間が見えやすいように、文字盤が中心よりも旧市街にむかってずらして取り付けられているのが分かるだろうか。

もともと1265年には城壁で一番高い塔があった記録がある。
1560年に木製の小塔が付け加えられ、時計は1712年設置。
設置当初は時間を示す長針しかなかったのだそうだ。それで充分というライフスタイルの時代だったのだろう。

もうひとつ残されている塔は鐘楼。
グラーツの鐘楼
34メートル高の八角形。内部には1587年にグラーツで鋳造されたLIESLと呼ばれる巨大な鐘がとりつけられている。直径二メートル近く、重さは4632キロにもなるそうな。

グラーツ旧監獄
近くにはもともと城の地下室だった場所が、現代では劇場になっている。
近代まで監獄に使われており、かつての独房がBOX席であります。


高さ20メートルの壁を擁する要塞。厚さ6メートルの壁を持つ。
なんでしょう
この地下は牢として長く使われていて、入ったらまず出られない場所だった。

十六世紀、プロテスタント思想を問題視されて投獄された司祭が、奇跡的に解放されて出てきた後に座った石の椅子がこれ。
新教徒の最後の椅子
長い間「出られるように」とだけ思い続けていた彼は、次の瞬間、この椅子のうしろの崖から身を投げたのだそうだ。それ以来「願いの叶う椅子」とされている。究極の願いが叶った後、人はもう死ぬしかないのでしょうか。

**
シュロスベルグ=城山には、19世紀から簡単に登れるケーブルカーが設置されている。鐘楼のところへ到着する。
フニクラ


近年は時計塔の近くにも80セントで利用できるエレベーターが登場した。これ、とてもベンリです。岩の中を透明なエレベーターで下降中。
リフト

エレベーターで旧市街へ降りて、城山を見上げたところ。
城へのケーブルカー

***
城山から旧市街を見渡すと、ムーア川の岸辺に実におもしろい建物があるのがわかる。あの「なまこ」の化け物は何?
ナマコのような美術館

拡大
美術館外観
これは、現代美術館。
あえて旧市街の建物と違えたデザインになっているが、これはこれでなかなか面白い。また、訪問できる機会をつくろうと思います。

ジェットバス
アッシジに現代版ローマ式スパ登場
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア
テーマ:スパ・エステ 歴史・文化・芸術 温泉・露天風呂 
投稿日:2010/09/28 23:31
コメント(1)
2010年アッシジにローマ式浴場が登場!
この情報は午前中にローマ劇場を見学しにいった時に偶然知ったのだったが、その日の夕方には体験してみることにした。こういうのは時を逃すとチャンスはめぐってきませんから。

場所は、アッシジの町のだいぶ上の方、地図上にはっきりと円形劇場が確認できる、その場所にある。地図に残る劇場跡

この劇場跡、実際行って見るとこんなふうになっている。
円形劇場の跡
これはフィールドあたる部分。

下は客席を支えていた古代の柱。
劇場客席を支える柱

これと同じものが、そのモダンなスパの中にあるのだ。
ジェットバス
バブルバスでゆっくりの図。

ここがローマ式というのは、下記のような部屋に分かれているから。
NUNスパのローマ式システム図
古代のローマ浴場のように下記の部屋をまわるようにできている。
●カルダリウム(熱い蒸気の部屋)
●テピダリウム(熱い乾燥・または自分で蒸気を発生させる)
●フリギダリウム(冷たい部屋)

●カルダリウムではハーブの香りの蒸気が勢いよく吹き上げていた。
カルダリウム

○テビダリウムは蒸気で曇って撮影できず・・・
●フリギダリウムでは常にあたらしい氷が壁から流れ出ていた。
フリジダリオ

●マッサージ室(一例)
マッサージルーム
各種マッサージが予約制で受けられる。NUNスパという店名のついた基礎コースが50分で155ユーロと少々値段はいたしますが。

全体の雰囲気は下記のようになっている。
注意しなくてはならないのは、日本の温泉のような熱いお湯の浴槽はない、という事。
NUNスパの全体写真
それでも、こんなローマ式バスを、ホンモノのローマ遺跡の中で体験できる場所は今まで見たことがない。入浴料(というのでしょうか)45ユーロですが、きっとお風呂好き日本人にはウケルとおもいます。

井戸と家から穴
オルビエート地下ツアー
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア
テーマ:世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2010/09/22 18:10
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オルビエートに巨大な地下通路があるという話はきいていた。
しかし、それが実際どんな穴なのか?納得のいく解説を聞いたり読んだりした事がなかった。やっぱり自分で行ってみるしかない。

オルビエートに宿泊するツアーをつくり、一日に何度か行われるガイドツアーに参加した。集合場所はこの美しい大聖堂前のツーリスト・インフォメーション。
大聖堂

ここから二百メートルほど歩いて、崖に面した公園の一角にある入り口から地下に入る。 まず、説明版にて、オルビエート全体で一千以上の数の地下道が確認されているという事実に驚いた。下の写真は大聖堂付近で確認されている洞窟を赤い線で示した地図。
赤い線が地下道
そこらじゅう穴だらけだというのがよく分かる。

オルビエート地下ツアー
上は入ってすぐの広くなった場所。入り口から一階分降りた程度の場所。
実際穴はそれほど深くはない。オリーブを絞る古い装置もある。

これらの穴がいったい何の為に掘られたのか?いちばんの理由は水を得る為である。オルビエートは丘の上の街で、古代から水の供給に苦労してきた。

十六世紀には法王クレメンス七世が深さ62メートルにもなる「サン・パトリツィオの井戸」を掘らせている。
もちろん古代ローマ人も、それ以前のエトルリア人達も苦労し、考えた。

誰でも考えつくのは雨水をためる事。この地下には貯水槽がたくさんある。
下の写真はそのひとつ。
貯水槽
テラコッタの導管がここへ雨水を誘導していた跡がたくさんあった。

家から貯水槽へ降りてくる階段もあちこちにあった。
家からの階段3
この貯水槽の上に彫られたたくさんの穴が何か?分かるだろうか。

なんと、ここで鳩を飼って食料にしていたのだそうだ。
崖際の家だから出来た工夫である。


さらに、これらの水がより地下深くまで染み通って濾過されたところへ井戸が掘られている。
井戸と家から穴
井戸深さは25メートルほど。下にはまだ水がある。

写真で井戸の真上に開けられた穴が何か分かるだろうか?下が拡大写真。
家への階段2
これは、なんと、それぞれの家から直接井戸辺へ降りてくる岩に削られたはしごである。
家から直接長い長い紐にバケツをくっつけて水を汲むことも出来る。

※これってナポリの地下「ソッタネラータ・ナポリ」見学ツアーで見た光景と同じ。


さて、こんなに掘ったら上の建物が危なくないのか?と誰でも思う。
その答えが下の写真。
支え柱
トゥーフォと呼ばれる凝灰岩の台地は、掘りやすいがゆえに崩落の危険も大きいのでこうやって巨大な柱で支えているのである。
実際、市内の多くの穴は現在埋め戻されている。
また、この洞窟は現代に発見されたときにはゴミや瓦礫でいっぱいになっていて、すぐとなりに上部までいっぱいになった穴が見えていた。これなら「埋め戻す」よりも、掘らなければ大丈夫?

今回もぐったオルビエートの地下通路は、我々が巡った場所で最大地下四階程度。トルコ中部にあるカッパドキアの地下都市のような深さはない。
そして、それぞれが連結した「都市」としての役割を持っているわけではないようである。ゆえに「地下都市」と表現している本もあるが、表現として妥当ではないように思う。

冒頭の地下道地図を見ても、赤い地下道はそれぞれ独立して存在いるのが分かる。

オルビエートの地下通路は、カッパドキアのような地下都市ではなく、フランスのシャンパーニュにあるカーヴのような機能を持ったこともなく(第一次大戦時のランス周辺では都市ごと地下のワインカーヴへ避難したことがあった。ここオルビエートの洞窟も第二次大戦時には避難壕としてつかわれた場所はあったが、規模も運用も違いすぎる)、ジブラルラルやルクセンブルグのように大砲をすえつけて軍事的に利用した場所でもなかった。

それは、オルビエートに暮らす人々がエトルリアの昔から現代に至るまで共通した悩み=水の供給に必要な方法として考え出した知恵だったのである。

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