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- フランチェスコ大聖堂のテラスより
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>アッシジ
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/09/21 01:04
- コメント(0)
アッシジの聖フランチェスコ大聖堂の奥、修道院部分のテラス回廊。
通常の大人数ではなかなか入れてもらう事が出来ない場所だが、今回ご一緒したお二人のたってのご希望により神父さんにお願いできた。

観光客のざわめきから隔絶された、ウンブリアの平原を見張らせる静かな空間。

アジア人の顔をした修道士の方があったので話しかけてみると、中国語がかえってきた。
アッシジの町の全体を遠くから見ると、その左端に圧倒的な大きさを見せているフランチェスコ大聖堂。 下の写真で見える長いテラスのいちばん左部分に入れていただいたという事。

ここは、一般の方でもそれ相応の理由を申告できれば、何ヶ月かは修道僧生活をさせていただけるのだそうだ。

少し教会側に戻り、大聖堂すぐ下にある修道院の回廊部分。

回廊から見上げる、大聖堂の「上の教会」の後陣部分。

☆上の教会の出口をでたところにある「T=タウ」の文字と「PAX=平和」の植え込み。この「タウ」の文字はフランチェスコ会のシンボルだけれど、それが何故シンボルとなっているのか、地元の詳しいガイドさんからはじめて説明してもらう事ができた。

ここで「タウ」はギリシャ・アルファベットでは、ない。
ヘブライ文字としての「タウ」である。
同じに見えるこの二つ「タウ」はギリシャ語では十九番目のアルファベットだが、ヘブライ語では最後の文字となる。
『我先に救いを求めるのが人というものだが、私は神に救われる最後の人間でよい』そういうフランチェスコの謙譲の気持ちを象徴しているのだ。
**
この日の小松の動き
終日徒歩でのアッシジ観光を企画。
朝9時、アッシジのコムーネ広場すぐ近くのホテルよりスタート。
聖ルフィーノ大聖堂を見学。
フランチェスコが洗礼をうけた洗礼盤があるが、これはフランチェスコの時代にはマジョーレ教会にあったものである。
町の上の方にある円形劇場跡へ。
この遺構を利用しその上に造られたフランチェスコ派の修道院だった建物を改装してNUN SPA MUSEUMというのが出来ている。それが、今回紹介した施設。この名前をきいただけでは実際どんな施設なのか想像がつかない。
ベテランの地元ガイド氏が中の遺跡を案内しようと交渉してくれてはじめて内部の様子がわかった。
ここはホテルやレストランも併設されていて(SPAが併設されている、と言うのが適切なのかもしれませんが)、こちらも見学する事ができた。
それで、同日夕方のこの「入浴」を決めたのである。
レストランで出された食事も秀逸で、これもまた別の日に紹介したい。
再び下へ降りて、聖キアラ聖堂見学。ここはフランチェスコが生きていた頃には聖ジョルジョ教会という別の小さな教会があった。フランチェスコが死後すぐに葬られた場所だが、その面影はどこにあるのだろう。
さらに町の下のほうへ降りていく。
フランチェスコの最初の弟子ベルナルド・クィンタヴァッレの家の前を通り、サン・ピエトロ教会へ至る。
この教会はフランチェスコを助けたベネディクト会に今も属している。建物は13世紀のまま現代に残された貴重なもの。
内部には以前は入った事があったが、今回地元ガイド氏に教えられてはじめて知ったことがある。主祭壇の真上に丸い穴が開いているのだ。これは採光のためだろうけれど、実におもしろい。ちょっと古代の雰囲気・あのパンテオンを思い出してしまうのは小松だけだろうか。
近くで軽くピッツァの昼食。
いよいよサンフランチェスコ大聖堂へ入る。
上の教会のジォットとその弟子作のフランチェスコの生涯を描いたフレスコ画が有名だが、小松はむしろ下の教会のフレスコ画の方に面白さを感じる。
特にシモーネ・マルティーニの描いた聖マルタンの生涯が面白い。
ガイド氏はそこを通り過ぎようとしたので、「行きましょう」とひきとどめる。たくさんある見所からどれを選ぶかは、ガイドによって違うのである。
下の聖堂の奥まで来た時、ガイド氏が修道士に話をしてくれて僧坊のある回廊へ入れてもらうことが出来た。団体では絶対入れてくれない。
観光客のざわめきから隔絶された静かな空間。暗い聖堂からウンブリアの平原を見渡せる明るい回廊へ出た時、こここそがフランチェスコ大聖堂の精神性を感じさせてくれる場所だと思えた。
しばらくの後、再び大聖堂へ戻り、今度は上の教会へ入る。ジォットの作品群は何度も見ているが、やはり時代を動かしていった職人だった事が分かる。
上の教会を出てホテルへ戻ったのは16時前。
今日の夕方のスパの為に水着を買いに行ったり。
18時にオープンするSPAの後、20時スタートのレストランへ。
お客は我々だけだったので、「まだ新しいから閑古鳥なのかなぁ」と思っていたら、21時半をまわったぐらいにはすべての席が埋まっていた。
料理は最高。
値段もリーズナブル。
お客は観光客のように見える人はおらず、地元のビジネスユーズという雰囲気であった。
夕食がおわったのは22時半。
日本人にはこの時間はきびしいかもしれないが、是非また行ってみたいレストランである。
通常の大人数ではなかなか入れてもらう事が出来ない場所だが、今回ご一緒したお二人のたってのご希望により神父さんにお願いできた。

観光客のざわめきから隔絶された、ウンブリアの平原を見張らせる静かな空間。

アジア人の顔をした修道士の方があったので話しかけてみると、中国語がかえってきた。
アッシジの町の全体を遠くから見ると、その左端に圧倒的な大きさを見せているフランチェスコ大聖堂。 下の写真で見える長いテラスのいちばん左部分に入れていただいたという事。

ここは、一般の方でもそれ相応の理由を申告できれば、何ヶ月かは修道僧生活をさせていただけるのだそうだ。

少し教会側に戻り、大聖堂すぐ下にある修道院の回廊部分。

回廊から見上げる、大聖堂の「上の教会」の後陣部分。

☆上の教会の出口をでたところにある「T=タウ」の文字と「PAX=平和」の植え込み。この「タウ」の文字はフランチェスコ会のシンボルだけれど、それが何故シンボルとなっているのか、地元の詳しいガイドさんからはじめて説明してもらう事ができた。

ここで「タウ」はギリシャ・アルファベットでは、ない。
ヘブライ文字としての「タウ」である。
同じに見えるこの二つ「タウ」はギリシャ語では十九番目のアルファベットだが、ヘブライ語では最後の文字となる。
『我先に救いを求めるのが人というものだが、私は神に救われる最後の人間でよい』そういうフランチェスコの謙譲の気持ちを象徴しているのだ。
**
この日の小松の動き
終日徒歩でのアッシジ観光を企画。
朝9時、アッシジのコムーネ広場すぐ近くのホテルよりスタート。
聖ルフィーノ大聖堂を見学。
フランチェスコが洗礼をうけた洗礼盤があるが、これはフランチェスコの時代にはマジョーレ教会にあったものである。
町の上の方にある円形劇場跡へ。
この遺構を利用しその上に造られたフランチェスコ派の修道院だった建物を改装してNUN SPA MUSEUMというのが出来ている。それが、今回紹介した施設。この名前をきいただけでは実際どんな施設なのか想像がつかない。
ベテランの地元ガイド氏が中の遺跡を案内しようと交渉してくれてはじめて内部の様子がわかった。
ここはホテルやレストランも併設されていて(SPAが併設されている、と言うのが適切なのかもしれませんが)、こちらも見学する事ができた。
それで、同日夕方のこの「入浴」を決めたのである。
レストランで出された食事も秀逸で、これもまた別の日に紹介したい。
再び下へ降りて、聖キアラ聖堂見学。ここはフランチェスコが生きていた頃には聖ジョルジョ教会という別の小さな教会があった。フランチェスコが死後すぐに葬られた場所だが、その面影はどこにあるのだろう。
さらに町の下のほうへ降りていく。
フランチェスコの最初の弟子ベルナルド・クィンタヴァッレの家の前を通り、サン・ピエトロ教会へ至る。
この教会はフランチェスコを助けたベネディクト会に今も属している。建物は13世紀のまま現代に残された貴重なもの。
内部には以前は入った事があったが、今回地元ガイド氏に教えられてはじめて知ったことがある。主祭壇の真上に丸い穴が開いているのだ。これは採光のためだろうけれど、実におもしろい。ちょっと古代の雰囲気・あのパンテオンを思い出してしまうのは小松だけだろうか。
近くで軽くピッツァの昼食。
いよいよサンフランチェスコ大聖堂へ入る。
上の教会のジォットとその弟子作のフランチェスコの生涯を描いたフレスコ画が有名だが、小松はむしろ下の教会のフレスコ画の方に面白さを感じる。
特にシモーネ・マルティーニの描いた聖マルタンの生涯が面白い。
ガイド氏はそこを通り過ぎようとしたので、「行きましょう」とひきとどめる。たくさんある見所からどれを選ぶかは、ガイドによって違うのである。
下の聖堂の奥まで来た時、ガイド氏が修道士に話をしてくれて僧坊のある回廊へ入れてもらうことが出来た。団体では絶対入れてくれない。
観光客のざわめきから隔絶された静かな空間。暗い聖堂からウンブリアの平原を見渡せる明るい回廊へ出た時、こここそがフランチェスコ大聖堂の精神性を感じさせてくれる場所だと思えた。
しばらくの後、再び大聖堂へ戻り、今度は上の教会へ入る。ジォットの作品群は何度も見ているが、やはり時代を動かしていった職人だった事が分かる。
上の教会を出てホテルへ戻ったのは16時前。
今日の夕方のスパの為に水着を買いに行ったり。
18時にオープンするSPAの後、20時スタートのレストランへ。
お客は我々だけだったので、「まだ新しいから閑古鳥なのかなぁ」と思っていたら、21時半をまわったぐらいにはすべての席が埋まっていた。
料理は最高。
値段もリーズナブル。
お客は観光客のように見える人はおらず、地元のビジネスユーズという雰囲気であった。
夕食がおわったのは22時半。
日本人にはこの時間はきびしいかもしれないが、是非また行ってみたいレストランである。

- ウンブリアのテラス=モンテファルコと美しいフレスコ画
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア
- テーマ:街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/09/20 23:35
- コメント(0)
イタリア中部ウンブリア州のテラスと呼ばれる丘の上の街、モンテ・ファルコ。その中心広場は丘の頂上に冠のようにまるくつくられたこの広場である。

13世紀に建設された市庁舎を中心にしたサイド。

その逆側。建物の切れ目から丘の向こうに広がる空間が見える。
アッシジも見える。

モンテ・ファルコ=鷹の山、という名前は1249年にここを征服したフェデリコ二世が鷹狩りをした事に由来する。
それ以前、おそらく古代からと思われる旧名はCoccorone=コッコローネ。これはローマの元老議員Marco Curione=マルコ・キュリオーネからきているという説。またはギリシャ語のOros=英語でOrographic=山岳が語源とされる。
この町でいちばん見学しておくべきと思われる場所は、旧フランチェスコ教会だろう。現在すばらしフレスコ画群を楽しめる美術館になっている。

これは1452年にベンノッツォ・ゴッツォリより制作された後陣の天井部分。1997年の地震被害はさほどでもなかったが、先立つ1832年の地震、落雷、長年の雨漏りにより近年までひどい保存状態だったそうだ。
下の写真で左下端に写っている地元ガイド氏曰く「四十年程前に来た時は屋根が落ちて廃屋状態だった。扉が閉まっていたので近くの家をまわってカギの持ち主を探し、開けてもらったんだ」と話してくれた。こんな風に修復されていったのは1990年代の事なのである。
※このフレスコ画はペルジーノの作品です。

ベンノッツォ・ゴッツォリは、後陣いっぱいに描いたフレスコ画の端に自分の名前を書きこんだ。全文の要約は「聖人たちよ、フィレンツェ人ベノティウス(自分の事)がこの礼拝堂を描くのに力をお貸し下さい。これらを見た人々が私を思い起こしてくれますように」というもの。
ベンノッツォ・ゴッツォリは1447年にモンテファルコを訪れた法王ニコラス5世の推薦により、この町へ招聘された。1450年にフラ・アントニオの要請によりサン・フォルトゥナート教会に画き、その二年後にこちらを手がけた。その時ベンノッツォはおよそ32歳頃と想定される。

逆サイドにはこのフレスコ画を注文した僧ヤコポの言葉がある。「モンテファルコのヤコポの小さな願いとして」と読める?※ラテン語表記、正確な読み取りに習熟したいです。

ベンノッツォにこのフレスコ画を注文した僧・ヤコポが下の絵に登場している。ひざまづく人物のうしろから二人目がそれ。

これはフランチェスコがモンテ・ファルコの町を祝福する図。後ろに大きく描かれた町がモンテ・ファルコ。その左に小さく描かれているのはスポレート。
ベンノッツォがこのフランチェスコ教会の二年前に描いたフレスコ画が見たくて、町のすぐ外に位置するサン・フォルトゥナート教会を訪れた。
教会の壁に描かれた聖母子などは見ることが出来たが、回廊の部屋の扉は閉まっていた。破れた窓から中を覗くとそこにも下のような鮮やかなフレスコ画が見えた。
「アッシジのティベリオが描いたものだよ」と前出の老ガイド氏。

二人の天使に手をひかれたフランチェスコが見える。
何気なく撮影しておいたこの写真だが、二日後にこれと全く同じものにアッシジで出会う事になるとは、思ってもみなかった。
それが、下の絵、細部を比べてみていただきたい。

アッシジの町を降りた、S.M.アンジェリ教会内、フランチェスコが煩悩に克つため自らを鞭打っていたと伝えられる場所につくられた部屋にある。
両者はフランチェスコが手に花を持っているかいないかなど違いはあるものの、同じ下絵をつかって描かれた事は疑いの余地はない。
これを見て、はっきり分かった事。
この時代の絵描きとはアーティストであるよりもアルチザンであった。唯一無二のゲージツ作品を描くというよりも、常に高度な水準の商品を注文主に供給する事が最大の目的だったのである。
それが作品であろうと商品であろうと、美しいフレスコ画であることに何の違いがあるだろうか。

13世紀に建設された市庁舎を中心にしたサイド。

その逆側。建物の切れ目から丘の向こうに広がる空間が見える。
アッシジも見える。

モンテ・ファルコ=鷹の山、という名前は1249年にここを征服したフェデリコ二世が鷹狩りをした事に由来する。
それ以前、おそらく古代からと思われる旧名はCoccorone=コッコローネ。これはローマの元老議員Marco Curione=マルコ・キュリオーネからきているという説。またはギリシャ語のOros=英語でOrographic=山岳が語源とされる。
この町でいちばん見学しておくべきと思われる場所は、旧フランチェスコ教会だろう。現在すばらしフレスコ画群を楽しめる美術館になっている。

これは1452年にベンノッツォ・ゴッツォリより制作された後陣の天井部分。1997年の地震被害はさほどでもなかったが、先立つ1832年の地震、落雷、長年の雨漏りにより近年までひどい保存状態だったそうだ。
下の写真で左下端に写っている地元ガイド氏曰く「四十年程前に来た時は屋根が落ちて廃屋状態だった。扉が閉まっていたので近くの家をまわってカギの持ち主を探し、開けてもらったんだ」と話してくれた。こんな風に修復されていったのは1990年代の事なのである。
※このフレスコ画はペルジーノの作品です。

ベンノッツォ・ゴッツォリは、後陣いっぱいに描いたフレスコ画の端に自分の名前を書きこんだ。全文の要約は「聖人たちよ、フィレンツェ人ベノティウス(自分の事)がこの礼拝堂を描くのに力をお貸し下さい。これらを見た人々が私を思い起こしてくれますように」というもの。
ベンノッツォ・ゴッツォリは1447年にモンテファルコを訪れた法王ニコラス5世の推薦により、この町へ招聘された。1450年にフラ・アントニオの要請によりサン・フォルトゥナート教会に画き、その二年後にこちらを手がけた。その時ベンノッツォはおよそ32歳頃と想定される。

逆サイドにはこのフレスコ画を注文した僧ヤコポの言葉がある。「モンテファルコのヤコポの小さな願いとして」と読める?※ラテン語表記、正確な読み取りに習熟したいです。

ベンノッツォにこのフレスコ画を注文した僧・ヤコポが下の絵に登場している。ひざまづく人物のうしろから二人目がそれ。

これはフランチェスコがモンテ・ファルコの町を祝福する図。後ろに大きく描かれた町がモンテ・ファルコ。その左に小さく描かれているのはスポレート。
ベンノッツォがこのフランチェスコ教会の二年前に描いたフレスコ画が見たくて、町のすぐ外に位置するサン・フォルトゥナート教会を訪れた。
教会の壁に描かれた聖母子などは見ることが出来たが、回廊の部屋の扉は閉まっていた。破れた窓から中を覗くとそこにも下のような鮮やかなフレスコ画が見えた。
「アッシジのティベリオが描いたものだよ」と前出の老ガイド氏。

二人の天使に手をひかれたフランチェスコが見える。
何気なく撮影しておいたこの写真だが、二日後にこれと全く同じものにアッシジで出会う事になるとは、思ってもみなかった。
それが、下の絵、細部を比べてみていただきたい。

アッシジの町を降りた、S.M.アンジェリ教会内、フランチェスコが煩悩に克つため自らを鞭打っていたと伝えられる場所につくられた部屋にある。
両者はフランチェスコが手に花を持っているかいないかなど違いはあるものの、同じ下絵をつかって描かれた事は疑いの余地はない。
これを見て、はっきり分かった事。
この時代の絵描きとはアーティストであるよりもアルチザンであった。唯一無二のゲージツ作品を描くというよりも、常に高度な水準の商品を注文主に供給する事が最大の目的だったのである。
それが作品であろうと商品であろうと、美しいフレスコ画であることに何の違いがあるだろうか。

- スポレートに残る古代ローマ
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア
- テーマ:歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/09/20 13:40
- コメント(0)
中部イタリア、スポレートの町を歩くと突然こんな凱旋門が現れる。
紀元後一世紀に建てられたドゥルーススの門。
もともと建てられた古代の地面は、現在の地面から一メートル以上も下になっているのが分かる。

すぐ左の建物は、現在は教会になっているがもともとは古代の神殿だった建物で、柱や壁の一部はそのまま利用されている。
ここまでははじめて見たときにもすぐに分かる事だった。今回、二度目でもう少し深い部分を知ることができた。それはこの門があるのが、もともとどのような場所だったのかという事。
下の写真は、現在のマーケット広場から見たドゥルースス門。

道を20メートルほど歩いたところに建っているわけだが、もともとは門の場所まで古代の公共広場=フォロが広がっていた。
古代ローマの町は、南北の道=カルドと東西の道=デクマヌスが中央を貫くかたちで設計されている。
この凱旋門は、フォロから(地図上で左右に貫かれている)カルドへの入り口に建てられていたのだった。
それが分かったのは下の地図を見たから。

ちょっと見づらいけれど、灰色で示された建物が現代の家並。
濃いオレンジの横長四角が古代のフォロ。現代のマーケット広場はそのごく一部に過ぎない事がわかる。
さらに、鮮やかなオレンジ色はフォロを囲んでいた神殿などの重要建築。
この地図、ぐうぜんに入った「カサ・ロマーナ」=ローマ人の家博物館で目にしたものだ。道路工事で予定のルートをまっすぐいけなくて曲がったところで、これもなかなかの見もの、紀元後一世紀の「カサ・ロマーナ」に出会えた。

古代の家は真ん中にこんなアトリウムと呼ばれる吹き抜けの空間がある。真ん中に水が流れ、井戸まである。(※後によく資料を読んでみると、この井戸の入り口部分は古代のものではないく、別のところから持ち込まれたものであるとのことだった)
この場所を囲んで寝室やリビングルーム、食堂が配置されている。
この家が裕福な人物の所有だったのは、それぞれの床がこんな美しいモザイクで飾られている事ですぐに分かる。

☆以下、博物館の説明より
この場所は1885年にジョゼッペ・ソルディーニ氏によって発見され、はじめは私財を投じて発掘が行われていた。後にイギリス大使や有志の援助が得られて1914年までに現在みられるようなかたちがわかってきたが、さらに発掘は進められている。
もともとはカリギュラ帝恩顧の家だったが、後にヴァスパシアヌス帝の母の所有となり(彼女は近くの町ナルニの出身)、中世初期まではそのまま使われていたが、火災で焼け落ちたらしい。
**
この日の小松の行動は
19日AMS経由でローマへ到着。小松自身のスーツケースがロスト。
20日朝、空港でスーツケースの到着を待ってから09:30ローマの空港を出発。
約一時間半のドライブで(セダンだったので早い)スポレートへ到着。
スポレートは最近バス用の駐車場が完備され、近くに出来た長いエスカレーターで大聖堂の近くへさっと行く事ができるようになった。
12時少し前に大聖堂に入る。
ここは幸いお昼休みがない。
マーケット広場へ歩いていく途中で工事に遭い、仕方なく曲がった角に「ローマの家」=紀元後一世紀、を発見。入場する。これがなかなか掘り出し物、まさに(笑)。
マーケット広場で名物の豚の丸ごとハムを挟んだサンドイッチとサグランティーノ赤ワインで昼食。
その近くのドゥルーススの門は見事である。
スポレートのランドマークである「塔の門」を往復して、元の道を戻り再びエスカレーターで下まで降りる。
モンテファルコーネまで約40分のドライブ。
モンテファルコーネの門のひとつで下車し、坂を上っていく途中でサン・フランチェスコ教会=現美術館へ入場。すばらしいフレスコ画群。
その後丘の頂上の広場を経由して、サンタ・キアラ教会へ。ここはアッシジのキアラとは別の聖女の遺体がミイラになって祭られており、多くの巡礼を集めている。今日も二つの巡礼グループに出会った。
キアラ教会前からセダンに乗車。
すぐ町の外にあるサン・フォルトゥナート修道院・教会へ。
ここもベンノッツォ・ゴッツォリとティベリオ・ダ・アッシジの描いた15世紀のフレスコ画がある。
アッシジへ向かう。
町へ入る前に、フランチェスコがライ病患者の治療にあたったというリボトルト教会へ。この教会の中には、13世紀当時の石積みのたてものがそのまま残されていて驚かされる。
アンジェリ教会の中のポルツィウィンコラ礼拝堂が立派に変えられてしまったのとは対照的だ。
18時、コムーネ広場に隣接するホテル、ディ・プリオリにチェックイン。
紀元後一世紀に建てられたドゥルーススの門。
もともと建てられた古代の地面は、現在の地面から一メートル以上も下になっているのが分かる。

すぐ左の建物は、現在は教会になっているがもともとは古代の神殿だった建物で、柱や壁の一部はそのまま利用されている。
ここまでははじめて見たときにもすぐに分かる事だった。今回、二度目でもう少し深い部分を知ることができた。それはこの門があるのが、もともとどのような場所だったのかという事。
下の写真は、現在のマーケット広場から見たドゥルースス門。

道を20メートルほど歩いたところに建っているわけだが、もともとは門の場所まで古代の公共広場=フォロが広がっていた。
古代ローマの町は、南北の道=カルドと東西の道=デクマヌスが中央を貫くかたちで設計されている。
この凱旋門は、フォロから(地図上で左右に貫かれている)カルドへの入り口に建てられていたのだった。
それが分かったのは下の地図を見たから。

ちょっと見づらいけれど、灰色で示された建物が現代の家並。
濃いオレンジの横長四角が古代のフォロ。現代のマーケット広場はそのごく一部に過ぎない事がわかる。
さらに、鮮やかなオレンジ色はフォロを囲んでいた神殿などの重要建築。
この地図、ぐうぜんに入った「カサ・ロマーナ」=ローマ人の家博物館で目にしたものだ。道路工事で予定のルートをまっすぐいけなくて曲がったところで、これもなかなかの見もの、紀元後一世紀の「カサ・ロマーナ」に出会えた。

古代の家は真ん中にこんなアトリウムと呼ばれる吹き抜けの空間がある。真ん中に水が流れ、井戸まである。(※後によく資料を読んでみると、この井戸の入り口部分は古代のものではないく、別のところから持ち込まれたものであるとのことだった)
この場所を囲んで寝室やリビングルーム、食堂が配置されている。
この家が裕福な人物の所有だったのは、それぞれの床がこんな美しいモザイクで飾られている事ですぐに分かる。

☆以下、博物館の説明より
この場所は1885年にジョゼッペ・ソルディーニ氏によって発見され、はじめは私財を投じて発掘が行われていた。後にイギリス大使や有志の援助が得られて1914年までに現在みられるようなかたちがわかってきたが、さらに発掘は進められている。
もともとはカリギュラ帝恩顧の家だったが、後にヴァスパシアヌス帝の母の所有となり(彼女は近くの町ナルニの出身)、中世初期まではそのまま使われていたが、火災で焼け落ちたらしい。
**
この日の小松の行動は
19日AMS経由でローマへ到着。小松自身のスーツケースがロスト。
20日朝、空港でスーツケースの到着を待ってから09:30ローマの空港を出発。
約一時間半のドライブで(セダンだったので早い)スポレートへ到着。
スポレートは最近バス用の駐車場が完備され、近くに出来た長いエスカレーターで大聖堂の近くへさっと行く事ができるようになった。
12時少し前に大聖堂に入る。
ここは幸いお昼休みがない。
マーケット広場へ歩いていく途中で工事に遭い、仕方なく曲がった角に「ローマの家」=紀元後一世紀、を発見。入場する。これがなかなか掘り出し物、まさに(笑)。
マーケット広場で名物の豚の丸ごとハムを挟んだサンドイッチとサグランティーノ赤ワインで昼食。
その近くのドゥルーススの門は見事である。
スポレートのランドマークである「塔の門」を往復して、元の道を戻り再びエスカレーターで下まで降りる。
モンテファルコーネまで約40分のドライブ。
モンテファルコーネの門のひとつで下車し、坂を上っていく途中でサン・フランチェスコ教会=現美術館へ入場。すばらしいフレスコ画群。
その後丘の頂上の広場を経由して、サンタ・キアラ教会へ。ここはアッシジのキアラとは別の聖女の遺体がミイラになって祭られており、多くの巡礼を集めている。今日も二つの巡礼グループに出会った。
キアラ教会前からセダンに乗車。
すぐ町の外にあるサン・フォルトゥナート修道院・教会へ。
ここもベンノッツォ・ゴッツォリとティベリオ・ダ・アッシジの描いた15世紀のフレスコ画がある。
アッシジへ向かう。
町へ入る前に、フランチェスコがライ病患者の治療にあたったというリボトルト教会へ。この教会の中には、13世紀当時の石積みのたてものがそのまま残されていて驚かされる。
アンジェリ教会の中のポルツィウィンコラ礼拝堂が立派に変えられてしまったのとは対照的だ。
18時、コムーネ広場に隣接するホテル、ディ・プリオリにチェックイン。
61 - 63件目まで(63件中)


