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みゅうローマ発信 現地情報

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みゅうローマ
居住地:
ヨーロッパ>イタリア>ローマ
会社名:
みゅうローマ
会社英字名:
Myu Rome
会社所在地:
ヨーロッパ>イタリア>ローマ
会社電話番号:
+39-335-750-1984
業種:
旅行業
自己紹介:
イタリア国内の旅行関連手配をしています。オリジナル定期観光バス・みゅうバス、レストラン、通訳、ガイド、アシスタント、送迎サービスなどを手配しています。何なりとご相談下さい。

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イラリア
【イタリア・トスカーナ地方のルッカに迫る】かつて、100の教会があった町とは
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2021/04/28 00:00
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イタリアのトスカーナ州ルッカは、かつては、100の教会があった町です。その中でも大聖堂には、すばらしい歴史や美術品、伝説が詰まっています。

 

今回は、この大聖堂の中に眠っている美女、イラリア・デル・カレットさんについてお話したいと思います。

 

Foto by wikipedia

Monumento funebre a Ilaria del Carretto
Author:shakko
Licence:Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported (CC BY-SA 3.0)
Link:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Maison_natale_galilee_Pise.jpg

 

イラリアさんは、中世の時代にルッカの町を支配していたパオロ グイニージさんの二番目の奥さまです。

 

彼女は、パオロさんから、すぐにお世継ぎを産んでくれる健康な女性をもらいたいという理由で、当時としては多少婚期が遅れていたにもかかわらず選ばれたサヴォイアの名家出身の女性でした。

婚前に面識はない二人でしたが、イラリアさんが、ルッカに輿入れした時に、わざわざ町の外まで自ら迎えに行ったパオロさんは、彼女に一目ぼれをします。

 

そして結婚生活が始まると、美しいだけでなく、その教養の高さにも驚き、このすばらしい女性を深く愛するようになります。

 

パオロさん、当時はルッカの支配者といっても、馬に乗りながら、ルッカの支配していた領域を年中視察しなくてはならず、何ヶ月も家を空けることもあったらしいのですが、彼女はこの視察にも一緒についていったそうです。

 

当時としては大変まれなことだったそうです。

 

そして視察から戻り、無事に女の子を産みます。

 

そして翌年、男の子も産まれるのですが、産後に体調を崩し、1405年12月8日に亡くなってしまいます。

 

彼女の死を嘆き悲しんだパオロさんは、当時活躍していた彫刻家ヤコポ・デッラ・クエルチャに依頼して、1406年から2年かけてこの墓標を作らせたのです。

 

彫刻のイラリアさんは、まるで眠っているかのように安やかなお顔をしています。そして、髪飾りや、洋服もイタリアではなかなか手に入らなかったフランス風のおしゃれなものを身に着けています。

 

そして足元には、飼っていた子犬がいます。この子犬、じっとイラリアさんを見つめています。

 

私は職業上多くの彫刻を見てきましたが、その中でも一二を争うほど美しい可憐な女性です。

 

あなたもぜひこの美しいイラリアさんを見にルッカにいらしてください。

 

文 佐藤加代子

写真 WIKIPEDIA から


バッブイーノ通り
【街並み散策】ローマ散歩道 ピカソ編【ローマ】
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>ローマ
テーマ:観光地 世界遺産 散歩・自転車 
投稿日:2021/03/29 00:00
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ローマ公認ガイドの竹内です。

 

早速ですが、ローマには、魅力的な裏道がたくさんあります。

その一つが数々のハイブランドが並ぶバッブイーノ通りの裏道マルグッタ通りです。

 

バッブイーノ通りは、17世紀クレメンテ7世の時代に整備された通りでローマの北門・ポポロ門から3方向に伸びる通りの一つです。

この北門は教皇様の権力が増大した1500年代以降は教皇様との謁見に向かう際に利用することが多く、かの天正遣欧使節団もこの門から入場し教皇宮殿に向かったそうです。

 

当時は多くの貴族の宮殿が並び、現在マルグッタ通りがある場所には、お屋敷の倉庫や厩舎が並んでいました。

17世紀にバンボッチャンテイと呼ばれる画家のグループがこの界隈に住み始めたことをきっかけに、この通りは「芸術家の通り」と呼ばれるようになります。

バッブイーノ通り

彼らは、当時のローマに住んでいた庶民の姿を遺跡の残るローマの風景と共に生々と描き一世を風靡します。

この時からこの通りは芸術家の通りと呼ばれるようになり、1917年ピカソがローマに3カ月間滞在した際にもこの通りの53番地Bにアトリエを構えました。彼のアトリエがあった宮殿の入り口に隣接して50年前にこの素敵な工房ができました。 

2

さすが芸術家の通りですね!

個性的な書体で大理石の看板を制作しているのは、サンドロさんです。

オーダーメードも可能だそうです。詳しくは、彼のF Bのページをご覧ください。

https://www.facebook.com/La-Bottega-del-Marmoraro-769355589806398/?ref=page_internal

さん

 

それ以外にも面白いギャラリーや工房がひしめき合う魅力的な通りです。

 

さてピカソは、当時 ロシア・バレエ団のために『パラード』という作品の企画をジャン・コクトーと共に行っていて、そのバレエ団の公演を見るためにローマに滞在することになったそうです。

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台本は、詩人、小説家、脚本家、バレエ製作者となんでもこなす多才なジャン・コクトー。音楽は、異端児エリック・サテイ、そして衣装と舞台装飾をピカソが担当するというドリームチームによる制作でした。

このバレエ団のバレリーナのオルガが後にピカソの妻となります。

ピカソはローマに滞在時に、スペイン階段界隈を散歩し、カフェ・グレコに行き未来派の画家たちと芸術談義をするのを日課としていたようです。

スペイン階段には、美人が多くて有名なチョチャーリア地方の女性が、ローマ在住画家たちのモデルの仕事を得ようと屯していたそうです。

ピカソの描いたイタリア女性と呼ばれる作品は、その一人をモデルとして描いた作品でチョチャーラ地方の民族衣装や背景にサンピエトロ大聖堂が描かれています。

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ピカソとジャンコクトーが滞在していたのは、現在でも多くの有名人が宿泊することで有名なデ・ルシエホテルだったそうです。

https://www.roccofortehotels.com/hotels-and-resorts/hotel-de-russie/promotions/

ピカソのアトリエからも見えたピンチョの丘ののどかな景色が見えるシークレットガーデン内のレストランも有名です。

 

!さあ皆様もピカソの見たローマを体感してみませんか!

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ロックダウン前のミラノ
【ミラノ】ロックダウン直前のミラノの様子
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>ミラノ
テーマ:観光地 留学・長期滞在 歴史・文化・芸術 
投稿日:2021/03/24 00:00
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こんにちは、ミラノ在住のワキです。

 

現在ミラノはコロナウイルス感染対策のため、外出などの厳しい規制が行われています。

今回は、その規制が実施される前々日の今月13日(土曜日)にミラノの様子を撮影してきました。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

まず初めに向かったのはヴェネツィア門(Porta Venezia)近くにある公共公園(Parco Pubblici)。

ロックダウン強化前の最後のひとときを過ごすミラネーゼの様子です。

公園の名称は2002年にインドロ モンタネッリ(Indro Montanelli)公園と改称されました。

インドロ氏は20世紀のイタリアを代表するジャーナリストであり、1996年にアストゥリアス皇太子賞(Premio Principe de Asturias、スペイン王太子賞)受賞したことでも有名で、2001年に亡くなりました。

インドロ氏は毎朝この公園を散策したといわれています。

因みに公園すぐ近くにはPalazzo dell’Informazione(1942年ムッソリーニによる)という、新聞雑誌社等の有名な雑居ビルがありますが、こちらは次の機会に。

 

公園内にはプラネタリウム、ミラノ市立自然博物館や、1731年に芸術家Tiepoloが描いた天井画で有名な17世紀の建物・ドゥニャーニ邸(Palazzo Dugnani)というミラノ市管理の宮殿があります。この宮殿では結婚式や、ファッションイベント等でも利用されています。

公園は1784年から歴史がありますが、更にローマ時代まで遡ると、この場所にはサンディオ二ジ聖堂(Basilica di San Diongi)という聖堂が建立されていました。しかし、次第に聖堂は使われなくなり、1783年に廃止されています。

 

冬はスケート場が設置されることもあり、年間通してミラノ市民の憩いの場として利用されています。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

次に向かったのはサンバビラ広場(Piazza San Babila)。

ミラノで最も有名なファッションストリート、モンテナポレオーネ通り(Via Montenapoleone)の入口としても知られています。

実際、この広場は9つの通りに続く中心的な広場であり、名称は広場近くにあるサンバビラ聖堂(Basilica di San Babila)から来ています。

都会の喧騒の中につがいのカモを見つけました。

誰のしわざか分かりませんが、毎日この広場を訪れる方曰く、ずっとこの噴水にいるみたいです。

因みにこの噴水は1997年にルイジ カッチャ ドミニオー二(Luigi Caccia Dominioni)が手掛けたもので、水に恵まれたミラノのあるロンバルディア(Lombardia)州の山や湖や河川をイメージして設計されており、建設にかかった費用は、当時の金額でおよそ10億リラとも言われています。

広場から10分ほど歩くとドゥオーモ(Duomo ミラノ大聖堂)到着。

あいにく、コロナ禍の規制の為、観光入場は出来ませんが、ミサへの入場はできました。

顔見知りの係員と一年ぶりに挨拶。

MR(この係員)いわく、45年間の勤務を終えて4月1日から年金生活に入られるとの事。

本当にお疲れ様でした。



ガレリア博物館
【2021年・ブログ観光】フィレンツェのガリレオ博物館!名言「それでも地球は回っている」
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術 
投稿日:2021/03/11 00:00
コメント(0)

フィレンツェでもやっと美術館が開きだし、今日はガリレオ博物館、無料ガイドツアーに参加してきました。なんと入場料まで無料。太っ腹です。

 

一日3回、一回につき10名ほどの限定ツアーで、今のところこのツアーの時だけ博物館を開けています。


 

博物館にあるガリレオガリレオの胸像

 

ガリレオガリレイはピサに1564年に生まれ、1642年にフィレンツェの近郊アルチェトリという町で亡くなりました。お墓はサンタクローチェ教会にあります。

 

ピサ、パドヴァ大学で教鞭をとっていました。

当時は天動説が正説だったのですが、地動説を主張したため、それを理由にカトリック教会から有罪判決を受けてしまったのは有名ですね。

 

「それでも地球は回っている」と言って亡くなります。

 

この博物館にはフィレンツェを支配していたメディチ家とロレーヌ家のコレクションが主に展示されています。

 

 

アストロラーベ

これはアストロラーベと言って、16世紀の物ですが古代の天文学者や占星術者が用いた天体観測用の器具です。

ガリレオが天体の計算をする際にも用いたため、ガリレオのアストロラーベとも呼ばれています。

 

これで時間がわかったり、航海における重要な測定機器でもあったそうなので、ある種のアナログ計算機みたいなものですね。


 

アーミラリー地球儀

こちらはアーミラリー天球儀で、天球上の天体の動きを模した機器です。

1588〜93年にメディチ家のフェルディナンド1世の為に作ったもので、ところどころにメディチ家の紋章もあります。

真ん中は地球で、地球の周りの星の動きを説明しています。

材質は木で金箔が貼られています。

 

世界で一番大きなアーミラリー天球儀と言われています。


 

世界地図のコピー

こちらは1457年から59年の世界地図のコピー(本物はベニスのマルチアーナ図書館)ですが、上下が反対になっています。

 

真ん中の右側にイタリアが描かれていますが、逆さまになっているのがわかります。アジアは左側にあります。

 

凄く細かく描かれていて、この地図は当時のマルコポーロなどの旅行者の話をもとにして作ったそうです。


 

ガリレオの天体望遠鏡

そしてこの2つがオリジナルのガリレオの発明した望遠鏡です。材質は木と紙だそうで、そんなに重くないんだそうです。自分自身で2枚のレンズと筒を組み合わせて、20倍から30倍ほどの倍率を持つ望遠鏡を作りました。


 

レンズ

こちらはガリレオの作ったレンズで1610年にこのレンズで木星の周りをまわる4つの衛星を発見してメディチの星と命名しています。{周りの額は1677年作}このレンズはガリレオからメディチ家のコシモ2世に贈られましたが、間違って壊れてしまったそうです。ガリレオが亡くなるとこのレンズはメディチ家出身のレオポルド枢機卿が保管し、彼が亡くなった後Uffizi美術館の所有になりました。


 

ガリレオの中指

ちょっと見にくいかもしれませんが、そしてここにガリレオの右手の中指が。。。

 

彼を科学のヒーローまたは殉教者として表しているのでしょうか?

この指は1737年にピサからフィレンツェのサンタクローチェ教会に遺体を運ぶ際に切り取られたそうです。

 

それだけではなく、右手の親指と人差し指と歯まで展示されています。


 

当時の色々な天体望遠鏡

 

このガリレオ博物館はUffizi美術館のすぐ隣にあるので時間があったら是非寄ってみてくださいね。


男の横顔
2021年【ブログバーチャル観光】ミケランジェロの〇〇な説
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術 
投稿日:2021/02/21 00:00
コメント(0)

こんにちは。フィレンツェガイドの福島です。

 

今回は、ヴェッキオ宮殿の正面入り口右側、ニンナ通り(Via della Ninna)の 近くの壁の目立たない場所に彫り込まれた男の横顔についてお話したいと思います。

 

 

伝説では、これはミケランジェロが彫ったと言われています。

 

幾つか説はありますが、今回は2つ有名な説をご紹介します。

 

まず一つ目の説は、ミケランジェロは自分の仕事場に行くために、このニンナ通りをよく通っていたそうです。

 

そこにはいつもミケランジェロを質問攻めにしたり、つまらないリクエストで邪魔をしたり、お金を要求したりする彼を悩ませる男がいたそうで、いつもよけて通らなければなりませんでした。

 

ある日ミケランジェロはこのいつも邪魔をしてくる男の横顔を、ヴェッキオ宮殿の壁に彫り込んでやろうと思い彫刻刀を持参することにします。

 

ここでミケランジェロは才能を見せます。

 

彼の存在に嫌気がさしたミケランジェロは、彼の話を聞いているふりをしながら、背中に腕を回し後ろ向きでこの横顔を彫ったのです。

 

男はそれに気づいて「おお、私の鼻はこんなに大きくない」と文句をつけたそうですが、それに対してミケランジェロは「私の指には目はないんですよ」と言い返したそうです。

 

その日を境に、この男はミケランジェロを邪魔しなくなったと言われいます。



もう一つの説は「罪人の顔」と言われています。

 

 

ミケランジェロは借金で首が回らなくなった罪人が、偶然シニョリーア広場を通っているのを見かけます。

 

この罪人には、ミケランジェロ自信もお金を貸していたと思われます。

 

この罪人は木のけたに結び付けられており、広場のポルティコの下で(Loggia dei Lanzi)で処刑されるところでした。

 

処刑の方法は、2つの木のけたに手と頭を結び付け、首にはその罪を書いた札をぶら下げられた罪人が、市民にののしられたり体罰を与えられたりするものでした。

 

ミケランジェロは見張りの役の男に「どのくらいこの男は木に縛りつけられているのか?」と聞き、答えを聞くと「それは短すぎる」と言ったそうで、フィレンツェの人がずっと彼のことを忘れないよう不滅にする為にこの横顔を彫り込んだとも言われています。

 

どちらにしろちょっとユーモアがありますね。ヴェッキオ宮殿に行ったら是非この顔を探してみて下さい。


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