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- 【フィレンツェ市のシンボルは実は百合じゃない!?】 ミケランジェロ広場近くのアイリス庭園に行って見ました♪
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:観光地 鑑賞・観戦 自然・植物
- 投稿日:2021/07/02 00:00
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少し前になりますが、5月の2日から20日までミケランジェロ広場近くのアイリス庭園(あやめ庭園)が無料で開放されていました。
私はあやめと言ったら紫色だと思っていたのですが、実は沢山の色、種類があるんですね。
この庭は1954年に生まれた団体、イタリアアイリス協会によって運営されていて、この種の物では世界で唯一だそうです。
ここでアイリスの色々な種類を作り出す為にアイリスの国際コンクールも開かれています。
場所はフィレンツェ市によって提供されました。
1957年にアイリスの庭が出来ると、アイリスは外国の栽培者から寄付され、アメリカのニュージャージーのPresby Memorial Iris Gardensからも多くのコレクションが贈られています。
また庭の下の方には池があり、ここには日本やルイジアナのアイリスも植えられています。
さて、皆さんご存知のように、フィレンツェ市のシンボルは11世紀から百合になっています。
しかし実は正確には百合ではなくて、アイリスでトスカーナの田舎に沢山見られるアヤメ科の花になります。
その起源ははっきりしていませんが、起源前59年にローマ人によりフィレンツェの街がつくられたという出来事と関係があるのではないかと思われています。
丁度この時期が春で、花の女神フローラを称えるお祭りがあり、このアイリスの花がちょうど咲き乱れる時期だったから。とも言われています。
しかしいつの間にかアイリスから百合に変わってしまったようですが、百合は純潔のシンボルでもあるので、「マリアの花」である。
マリアの信仰の表れではないかとも言われています。
最初は色が逆で赤地に白い百合の花でしたが、1251年くらいを境に現在の白地に赤い百合の色に変わります。
この頃フィレンツェはギベリン派とグエルフ派という2つの政党の間で戦っていましたが、ギベリン派が負けてしまい、フィレンツェの街を追放されてしまいます。
負けたにも拘わらずギベリン派の人達は自分達のシンボルとしてこの赤地に白い百合の花のシンボルを使い続けました。
そこで、勝ったグエルフ派の人達が敵と区別する為に色を逆にしたと言われています。
丁度この頃、街の新しい通貨を作ることになります。
その名もFiorino。
このフィオリーノにもこの百合が刻まれています。
そこからずっとこの紋章は変わらずに今日に至ります。
もしこの時期にフィレンツェを訪れる機会がありましたら、是非ミケランジェロ広場に行ったついでにこちらのアイリス庭園も行ってみてくださいね。
- 速報!ジーロ デ イタリア(Giro d’Italia)最終日、優勝者決定!
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>ミラノ
- テーマ:お祭り・イベント 鑑賞・観戦 散歩・自転車
- 投稿日:2021/06/01 00:00
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こんにちは!ミラノ発信者、ワキです。
今年104回めを数える自転車ロードレース、ジーロ デ イタリアが最終日を迎えました。
5月8日 トリノから始まり、全走行3410,9kmを21ステージ(tappa)で構成、30日(日曜日)は最終ステージミラノでした。
全ステージの合計タイムが一番短い選手が優勝、行程中の首位選手だけが着ることができるピンクのシャツ マリアローザ(Maglia Rosa)は、バイカーの名誉のシンボルで1931年から続いています。この色はイタリアのスポーツ紙 ガゼッタ デロ スポーツ(Gazetta dello sports)に由来しています。
21ステージはセナゴ(Senago)の町からミラノのドゥオーモ広場がゴールの30,3km。
優勝者は既にマリアローザで走行の
エガン アーリー ベルナル ゴメス(Egan Arley Bernal Gómez)、1997年1月生まれの24歳、コロンビア出身。2019年にはツール ド フランス(tour de france)で南米出身者初の優勝を果たした天才バイカー。
ベルナル!という声援の多さや、ミラノでコロンビアの旗をこんなにたくさん見るのは珍しい光景。恐らく20年近く前のF1のモントーヤ(Montoya)以来でしょうか。
表彰台(Podio)のベルナルは2位のイタリア人選手 ダミアーノ カルーゾ(Damiano Caruso)にエールを送る等、紳士的で心も広い。
若い彼らの心はもうツール ド フランスとオリンピックに向いているようでしたが。。。
因みにベルナルのチームはスカイテレビがスポンサーのスカイチームから始まったイギリスのイネオス グレナディオス(Ineos Grenadiers)、2010年からの先鋭チームで、ベルナルの自転車はイタリア製のピナレッロ( Pinarello)。
レースで勝てる自転車はピナレッロかビアンキ(Bianchi)と、どちらもイタリア製です。あとトレック(Trek)というアメリカ製のものも使われてきてはいますが、やはり主流はイタリアのものです。
イタリア人曰く、ツール ド フランスは世界最大のレースで、ジロ デ イタリアは世界最高のレースらしい。
快晴の下、セキュリティ強化で表彰台のシャンパンファイトまで近づくことは出来ませんでしたが、ミラネーゼの日曜の午後のイタリアをあげてのイベントに少しずつ復興に近づいている感がありました。
では、次回もお楽しみに!
編集:shota.k
- 【2021年・ブログ観光】フィレンツェ観光で見るべき細密画!サン・マルコ美術館とウッフィツィ美術館編
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:鑑賞・観戦 その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2021/03/01 00:00
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ボンジョルノ!フィレンツェのガイドの伊藤裕紀子です。
今日は細密画について書きたいと思います。
細密画はミニチュアールとか、彩画とも呼ばれます。イタリア語ではミニアトゥーラですね。
古代・中世に手書きで複製された本や文章に収録された挿絵のことです。
活版の印刷技術が無かった中世では修道僧たちが手書きで写本し、そして挿絵も制作していました。
フィレンツェではサン・マルコ美術館2階の図書館に展示されている楽譜に書かれた細密画を鑑賞することができます。
「ドメニコ修道会の僧侶たちを守るマリア様」
このように聖書のエピソードや人物が描かれています。
じつはこのマリア様の図には「S」の文字が隠されています。
このページ最初の節の歌詞がSで始まるからなんですね。
このように絵の中に文字が織り込まれていたり、文字自体が装飾されていたりします。
こちらの写真だと楽譜だというのがわかっていただけると思います。
これが印刷ではなく、手書きなのですから大変な労力で制作されていたことがわかります。
当時の写本は大変に高価なものでした。
ところでウッフィツィ美術館には、下のような変わった絵画作品があります。
題名は「細密画本」で、16世紀の作品です。もとはメディチ家のランペッジの別荘に置かれていました。
まるで騙し絵のように細密画の本のページがペラペラと捲られている様子を表現しています。リアルな感じに描かれていますね。
とても珍しいテーマの絵画作品のテーマ、一体、どのような目的で描かれたのでしょう?
じつは本棚の扉の装飾として使用されていたそうです。
ヨーロッパの宮廷にはこのテーマの絵のレプリカが数多く存在するそうです。
15世紀中頃のイタリアではこの「細密画本」のテーマを嵌め木細工でつくって、戸棚の扉などに利用することも流行りました。
また家具に絵画作品(板絵)を使用する例は、長持ち(衣装や調度品を入れる蓋付きの長方形の大きな箱)にもよく見られます。
長持ちの絵画作品はフィレンツェでは特にバルジェッロ美術館に展示されていますよ。
- 【フィレンツェ観光】ウッフィツイ美術館「冷たい美人の肖像画・ルクレツィア・パンチャーティキ」
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:観光地 鑑賞・観戦 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2021/01/29 00:00
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今日はこの美術館の中でも冷たい美人の肖像画をご案内したいと思います。
こちらはブロンズィーノが描いた、ルクレツィア・パンチャーティキの肖像画です。
ちょっと舌を噛みそうな名前ですね。
ブロンズィーノは当時の貴族で、またメディチ家のお抱え肖像画家でもありました。
彼は人物像とその人物の感情を注意深く観察し描くのが特徴です。
このパンチャーティキ家は彼の重要なパトロンでした。
左側には彼女の夫であるバルトロメオ.・パンチャーティキの肖像画もあります。
1541年頃、バルトロメオがフィレンツェのアカデミーウミディの会員になったのを記念して描かれのではないかと言われいます。
1704年に彼の子孫によって、ウッフィツィ美術館に譲渡されています。
このルクレツィアは、実はコジモ一世が大公のなる前に愛人だったそうです。
しかしコジモ一世にはトスカーナのすべての国を治める野心があった為、政略的なことも考えた上で、この美術館の次の部屋に肖像画があるエレオノーラ・ダ・ トレドと結婚してしまいます。
ちなみに彼女も美人です。
その後、夫となるバルトロメオに出会います。
バルトロメオはピストイアの旧家出身で長年リオンにも住み、フィレンツェ大使の任務も努めていました。
ルクレツィアは木工細工の椅子に座っていて、素晴らしい赤色の洋服を着ています。
袖は上が膨らんでいて、下は濃い赤色でリボンがついていますが、これは当時の流行です。
特に袖の下の方はリボン緩めて取り外しができて、機会に合わせて違う袖を付けることが出来ました。
当時の他の肖像画にもよくでてくるファッションです。
襟は四角で、金糸の入った透明な生地で飾られています。
背景が黒い為、彼女の姿がはっきり見え、彼女の白い顔が浮かび上がるように見えます。
宝石も綺麗で、髪には真珠のついた髪止めをしていて、左手の長い指は椅子の上をしっかり握り、宝石のついた指輪をしています。
右手には小さい本をもっていますが、これは彼女の知性を表しています。
ベルトにも沢山の宝石が描かれており、首には真珠のネックレスも描かれています。
もう一つシンプルな金の鎖のネックレスをしていますが、そこには小さなプレートが描かれており、フランス語で"amour dure sans fin" (終わりのない愛)という文字が刻まれています。
おそらくこれは、夫婦が幸せに過ごしていたことを示しているのでは無いかと言われています。
500年たった今でも、幸せな愛情を持ち続けているかのように、2枚の肖像画が近くに飾れています。
とても美しい表情ですが、美しすぎて私達は彼女の貴族性の中に入れないという感じですね。
見ている人からずいぶんかけ離れて、私達の住んでいる世界と貴族達の世界との隔絶みたいのが感じられます。
私達の方を真っ直ぐ、冷たく、感情なしに見つめています。
彼女の肖像画は理想の傑作でありますが、美しいけれどとても冷たさがあので、ヴァザーリは
「ブロンズィーノが、彼と彼の妻を自然に描き、まるで生きているようだが、魂に欠ける。」
と言っています。
ルクレツィアは美しいが悲しみに沈み、遠くを見ているようで、やはりそれはコジモ一世との関係を絶たなければならなかったからなのでは、とつい思ってしまいます。
ちなみに絵を描いたブロンズイーノですが、1574年に君主が交代すると彼に対する年金支給が停止され、ついに宮廷の首席画家の地位は名実ともにヴァザーリのものとなります。
ただ彼の親しみやすく穏やかな人柄は多くの人に愛され、若い画家達を熱心に指導したこともあって、彼の葬式にはフィレンツェの芸術家で参加しないものはいなかったと伝えられています。
- 【イタリア旅行】フィレンツェ・ウッフィツィ美術館の「メディチのヴィーナス」を見る!
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:観光地 鑑賞・観戦 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2021/01/12 00:00
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皆さん、こんにちは!
フィレンツェガイドの福島です。
先日イノシシ、マルシアなどの彫刻をご案内しましたが、今日はウッフィツィ美術館で一番有名なメディチのビーナスをご紹介します。
この彫刻がある部屋はトリブーナ。8角形の部屋で、メディチ家のフランチェスコ一世がブォンタレンティに注文して、1581年から1583年の間に作らせた部屋です。
ここには絵画や彫刻だけでなく、自然の中から集められた変わったものや特別なもの、メダル、小彫刻、宝石、カメオなどが飾られていました。
しかし現在は、以前とはだいぶ変えられてしまいました。
残念ながら2014年に修復が終わってからは、内側に入れなくなり、3つの扉から中を覗き込むことが出来るだけになってしまいました。
それでも綺麗な装飾が残っています。一番の見どころは天井の内側で、インド洋からもって来た真珠貝が5780枚埋め込まれています。
ぜひのぞきこんで下さいね!
その一番奥にメディチのヴィーナスがあります。
これはローマのトライアヌスの温泉跡で発見され、その後メディチ家のフェルディナンドに譲渡されます。
1677年にこの美術館に持って来られ、このトリブーナに置かれました。
当時からとても人気があり、ヨーロッパやイタリア全土からこの彫刻を見る為だけに沢山の人がやってきたと言われています。
今まで表現されたヴィーナスの中で、最も美しいと言われていたほどです。
基部には作者である、クレオメネス・アポドロスの息子(Kleomenes figlio di Apollodoros)
の名前が書いてあります。
彼は紀元前1世紀にアテネで活躍していた彫刻家であったため、ここからこの彫刻が作られたのが大体紀元前1世紀の終わりだということがわかっています。
ヴィーナスは水浴びを終え出てきますが、誰かに見られているのに気づき、前かがみになり腕で胸と股間を隠そうとしています。
それにより、恥じらいのヴィーナスとも呼ばれています。
足元には木の幹とイルカ、そして2人の天使が彫られています。
これらはこの彫刻の飾りでもありますが、彫刻自体を支える役目も果たしています。
最近の修復によりオリジナルの色が分かり、髪の毛には金箔が貼られ金色、唇には赤色、基部にはラピスラズリの青色が使われていました。
耳たぶには穴が2つ開いていて、多分イヤリングをしていただろうと思われます。
1700年代に見た人がこの金髪について語っているので、その時代まではこれらの色彩が残っていたと考えられており、本当に生きている女性のようだったと伝えられています。
しかし残念ながら、トスカーナ公国がナポレオンに支配されていた時、ナポレオンがこの彫刻を気に入り、1802年にパリへ持って行ってしまいます。
1800年、トスカーナ公国にフランス軍が入ってきた時、フィレンツェ美術館の責任者であるトマソ・プッチーニが、ウッフィツィ美術館とピッティ美術館にあった作品をフランス軍から守る為、75個の箱に入れてリボルノからパレルモまで船で運んだと言われていいます。
プッチーニはパレルモでこれらの作品を厳重に監督します。
しかし、「これらの作品はフィレンツェに戻すべきだ。」と言うことになり、船に乗せて運ぼうとしたところ、フランス軍がやって来てこのヴィーナスが入っている箱を盗み、マルセイユに持って行きました。
その後パリのナポレオン博物館に持っていかれしまったのです。
そしてこのメディチのヴィーナスはフランスでとても称賛されます。
フィレンツェの人達はその代わりにカノーバにイタリアのビーナスを作らせ、このトリブーナに飾っていましたが、1816年のナポレオンの失脚の後、メディチのヴィーナスが戻り、カノーバのイタリアのビーナスはパラティーナ美術館に移されました。
フランス人たちは、メディチのヴィーナスを自分達のヴィーナスと考えていたので、なくなってしまった後に新しいヴィーナスの像を買うことにします。
ギリシャのミロス島で発見されたミロのヴィーナスを、トルコから買ってきて修復し、そしてルーブル美術館に展示しました。。
今ではルーブル美術館のシンボルとなっています。
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