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- 【2021年・ブログ観光】ピサの元精神病院と一人のアーティスト
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:街中・建物・景色 その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2021/02/25 00:00
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先日ピサ県ヴォルテッラ市にあった元精神病院を見学してきました。

現在は廃墟になっている元精神病院
1888年創設の歴史ある精神病院で、最大時には、イタリア中から患者が集まり4000人以上が40の建物に分かれて住んでいました。
比較的症状が軽い人は、敷地内でパンを作ったり、洗濯したり、庭師などの技術も身につけています。
いくらかの給料がもらえ、町に食料を買いに行くこともできたそうです。
日曜には恒例の看護士対患者のサッカーも行われ、病院関係者の家族もお弁当を持ってここに来て、みんなで食べていたそうです。
ちょっとほっとしました。
博物館には、患者の着ていたシャツとか、電気ショック療法のための機械なども置かれています。
でも今回、注目をしたのは1人のアーティストです。

Foto da Manicomio di Volterra autorizzato
フェルナンド 若い頃の写真
フェルナンド・オレステ・ナンネッティは、父親を知らずに1927年ローマで生まれました。7歳の時に母にも捨てられてしまいました。
その後、孤児院に入り、10歳で精神に支障があると判断されました病院で重症の脊髄炎が見つかり長い入院生活を余儀なくされています。
1948年には、警官に反抗したという理由で裁判にもかけられますが、精神異常という判断で、訴訟は却下され、ローマの精神病院に入ります。
そして、1958年にヴォルテッラの精神病院に移ります。
ここに滞在中に、病院の壁にグラフィックデザインを刻み始め、これが芸術的にも、歴史の資料としても評価されています。
アーティスト名、NOF4としても知られています。
1973年にこの精神病院を退院して、ヴォルテッラの町に住み、1994年に生涯を終えました。

病院の外壁のグラフィック
彼は、病院の外壁に、制服の一部だったベルトのバックルを使いながら、文字や絵、数字を刻みます。
これは、大きな壁に書かれた日記、そして手紙なのです。手紙のあて先は、空想上の高貴な両親です。
彼のサインは、NOF4。
名字、名前の頭文字に数字の4を加えたもの。
4は、ここに入館した時に与えられた彼の個人番号だそうです。
時には、宇宙工学鉱山技師になったり、英雄の大佐になったり、核泥棒になったりしながら、左から右へ、右から左へ、自由自在に刻んでいきます。
長さは180メートル、高さは2メートルにも及びます。
そこには、ファンタジーあふれる話や、解読不可能なものもあるのですが、中にはこんな記述もあります。
「病院の中の人の10%がテレビから出ている磁気放射によって死に、40%の人が他人から病気を移されて、または他人に病気を移して死に、あとの50%の人は、他人に対する、または自分に対する憎しみや怒りによって死んでいく。」
どきっとさせられる言葉です。

近くの川の石を拾ってきて患者たちが造った庭の階段
1978年のバザーリア法により、精神病院が閉鎖されたあと、美術研究者が作品の重要さに気づき、写真を撮り保存しました。
1985年には本も出版され、彼にも報酬が届きましたが、受け取りを辞退しています。その後、彼の作品は映画に使われたり、ドキュメンタリー映画が製作されたりもしています。
現在では、大変稀で、重要なアウトサイダーアートとして評価されています。
グラフィック以外に彼の残した手紙やメモは、1700ページにも及びました。
死後、その大部分が紛失してしまっていますが、すべてがコピーされ保存されています。
建物に刻まれたグラフィックは、病院閉鎖後、徐々に崩れてしまい、2011年には53メートルのみが残りました。
2012年から壁をはがして、博物館に移しています。
こうして歴史的にも文化的にも貴重な資料を保存する方向に作業がすすめられています。
壁を保存するためにも、機会がある方は、ぜひ訪れて見てください。
見学 月、水、金 一日三回 予約要 イタリア語ガイド付き
見学時間 2時間半。金額 10ユーロ
*ここでのチケット代金は、壁の保存に使われます。

- 2021年【ブログバーチャル観光】ミケランジェロの〇〇な説
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2021/02/21 00:00
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こんにちは。フィレンツェガイドの福島です。
今回は、ヴェッキオ宮殿の正面入り口右側、ニンナ通り(Via della Ninna)の 近くの壁の目立たない場所に彫り込まれた男の横顔についてお話したいと思います。

伝説では、これはミケランジェロが彫ったと言われています。
幾つか説はありますが、今回は2つ有名な説をご紹介します。
まず一つ目の説は、ミケランジェロは自分の仕事場に行くために、このニンナ通りをよく通っていたそうです。
そこにはいつもミケランジェロを質問攻めにしたり、つまらないリクエストで邪魔をしたり、お金を要求したりする彼を悩ませる男がいたそうで、いつもよけて通らなければなりませんでした。
ある日ミケランジェロはこのいつも邪魔をしてくる男の横顔を、ヴェッキオ宮殿の壁に彫り込んでやろうと思い彫刻刀を持参することにします。
ここでミケランジェロは才能を見せます。
彼の存在に嫌気がさしたミケランジェロは、彼の話を聞いているふりをしながら、背中に腕を回し後ろ向きでこの横顔を彫ったのです。
男はそれに気づいて「おお、私の鼻はこんなに大きくない」と文句をつけたそうですが、それに対してミケランジェロは「私の指には目はないんですよ」と言い返したそうです。
その日を境に、この男はミケランジェロを邪魔しなくなったと言われいます。
もう一つの説は「罪人の顔」と言われています。
ミケランジェロは借金で首が回らなくなった罪人が、偶然シニョリーア広場を通っているのを見かけます。
この罪人には、ミケランジェロ自信もお金を貸していたと思われます。
この罪人は木のけたに結び付けられており、広場のポルティコの下で(Loggia dei Lanzi)で処刑されるところでした。
処刑の方法は、2つの木のけたに手と頭を結び付け、首にはその罪を書いた札をぶら下げられた罪人が、市民にののしられたり体罰を与えられたりするものでした。
ミケランジェロは見張りの役の男に「どのくらいこの男は木に縛りつけられているのか?」と聞き、答えを聞くと「それは短すぎる」と言ったそうで、フィレンツェの人がずっと彼のことを忘れないよう不滅にする為にこの横顔を彫り込んだとも言われています。
どちらにしろちょっとユーモアがありますね。ヴェッキオ宮殿に行ったら是非この顔を探してみて下さい。

- 【2021年・ブログバーチャル観光】フィレンツェ 洗礼堂の近くにある3本の柱
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2021/02/18 00:00
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洗礼堂の北側にサンザノビの柱と呼ばれている白い大理石の柱があります。

サンザノビはフィレンツェで最初の司教で、4世紀の半ばにフィレンツェで生まれました。
裕福で権力のあるのジロラミ家(Girolami)出身で、旧市街のランベルテスカ道りに家をもっていました。
ここには現在でもジロラミ家の片隅(Canto de’Girolami)と言う碑が残っていて、彼らに捧げられた通り、ジロラミ通り(Via de’Girolami)も残っているので重要な一族であったことがわかります。
サンザノビは幾つかの教会(例えばサンロレンツォ教会)を建て、さらにはフランス人の巡礼者の息子を生き返らせたなど、色々な奇跡も起こしました。
そして417年から429年の間に亡くなります。
伝説によると、聖人の遺体を420年にサンロレンツォ教会からサンタレパラータ教会(現在のドゥオーモができる前にあった小さな教会)に運んでいる時に、サンジョバンニ広場に一本の枯れたにれの木があり、遺体を入れたお棺がこの木に触れた突端に、木に葉がつきだしたと言われていいます。
この奇跡の話はアカデミアび美術館にあるリドルフォ・デル・ギルランダイオの絵にも描かれています。

その木はその後何百年もありましたが、イベントを記念して、最初の柱が御影石で作らました。
しかし、1333年の洪水で傷んだ為、現在残っている白い大理石の柱に作り替えられました。
しかし実際に彼の遺体が運ばれたのは9世紀くらいであったとも言われています。
現在、彼の遺体はサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会のロレンツォ・ギベルティが作った壺の中にあります。
もう2つの柱は、洗礼堂の天国の扉の両脇にある斑岩の紫色の柱です。

斑岩はとても貴重な石で、当時のフィレンツェではとても珍しい大理石でした。

↑拡大した写真。
フィレンツェとピサはずっと敵対関係でしたが、1117年にピサの町がフィレンツェの町にこの2本の柱を贈ります。
これはバレアレス諸島(スペインのマヨルカ島)にてサラセン人の海賊(イスラム教徒)と戦っていたピサ共和国をフィレンツェが助けて勝利を導いたお礼に贈ったものです。
この2本の柱はマヨルカ、ミノルカからの戦利品でとても光沢があったため、その反射で法で罰せられなかった人達の顔が見えるという特別な柱でした。
フィレンツェ人はこれを、まずアルノ川を船で運び、そこから壊さないよう注意してさらに運んだ末には、大きなお祭りを行う予定でした。
ところがフィレンツェ人が着いた柱を見ると実際には罰せられなかった罪人の顔が見えるわけでもなく、くすんだ色の何も反射しない柱だったのです。
何故ならばピサ人はいやいやこの光沢のある柱を贈ったので、フィレンツェに船で運ぶ前の日に、この柱の周りに大きな火を焚いてその輝きを消してしまい、反射しないように、何も見えなくなるようにしてしまったのです。
これは贈り物ではなくて詐欺である、と言うことでこの2つの都市の間に根深い憎しみが生まれてしまいました。
2世紀たってもフィレンツェ人の怒りは収まらず、1362年にフィレンツェ軍がピサの港を征服したときに、港の大きな2つの錨をフィレンツェに運び、この2つの柱にかけておきました。
ここからフィレンツェ人は、ピサ人をめくらで裏切り者だと言うようになったそうです。<

- フィレンツェ観光・ふと目につく悲しげな顔の装飾の真相!
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 世界遺産
- 投稿日:2020/12/23 00:00
- コメント(0)
フィレンンツェの街でまず目に入ってくるのが、大きくて綺麗なドゥオーモ、サンタマリア・デル・フィオーレ教会です。

この教会は1296年に作り始められた教会で、完成するまでに160年以上かかりました。
ただ正面とファサードだけは、途中で未完成まま作業が中止になってしまい、建築家アルノルフォ・ディ・カンビオが作ったその未完成の正面は、もう時代に合わないということで1587年に取り壊されてしまいます。
その後、何度か新たに作ろうとしたもののなかなか出来ず、結局1887年に完成し、それが現在の正面とファサードとなります。
ちなみにオリジナルの正面の彫刻などは、ドゥオーモ裏のドゥオーモ博物館にあるので、興味がある方はぜひ行ってみてください。
今日ご紹介するのは、そのファサードの右の扉にある、ブロンズで出来たある人物の小さな自画像の彫刻です。

実は私も1か月くらい前までその存在を知りませんでした。
ファサードには3つのブロンズでできたの扉があります。
最初は木の扉だったそうですが、両側の2枚の扉を作る為に1885年に第一回目の、1888年に第二回目のコンクールがありました。
そのコンクールでは、既に中央扉を作っていたパッサリア(Passaglia)が一番の人気で、彼が向かって左側の扉も作ることになります。
鐘楼の近くにあることから、鐘楼の扉と言われている右側の扉は、ジュセッペ・カッシオーリ(Giuseppe Cassioli)がコンクールで勝利し、作ることになります。
彼は、シエナではその才能を認められて有名でしたが、フィレンツェ人は彼が任命されたのをあまり納得していなかったと言われています。
カッシオーリはそれまでも色々なプロジェクトから外されていたため、この扉を作成するために情熱をもって望んだと言われてます。
彼自身で銅を溶解する許可まで得ていました。
作品はとてもダイナミックで独創的で、細かいところまでノミで彫ってあり、光沢もあったのでその技術はとても評価されました。
ただ一方で、納期に遅れていたことや経済的な問題が持ち上がり、1899年6月24日のサンジョバンニのお祭りの日に一般に公開されますが、評価とともに批判もあったとされています。
その後、作るにあたってとても苦悩したため、鬱になり落ち込んでしまいます。
彼がこの時期に味わった批判、苦悩、不運が実はこの小さい自画像に表れていて、精神的なプレッシャーと再三にわたる支払いや納期の催促に悩まされていたのがわかります。
当時のジャーナリストによると、ちょうど反対側にあったギベルティの天国の扉といつも比較されていたようです。
その時の自分の精神状態を表すように、右側の扉に作った人物の顔へ自分を表現しています。

首に蛇がネクタイのように巻き付いており、自分の首を絞めています。
これはどうも法律の圧力に耐えきれなかった自分自身を表しているようです。
現在この扉が入場入口になっていますので、入る時にちょっと探してみて下さいね。
ただ入口は変わることがありますので注意して下さい。
ちなみにドゥオ-モの入場は現在無料ですが、シーズン中は結構並んでいます。
混んでいる時は1時間待ちもありました。
実は、内側はクーポラのフレスコ画を除いてはシンプルなので、もし時間に余裕がない場合は、外観だけの観賞をお勧めします。
以前、お客様に「心霊スポットを案内してください」とリクエストを頂いたことがあります。
しかし私は霊感0なので、有名な幽霊話がある場所をご案内差し上げました。
それがサンティッシマ・アンヌンツィアータ広場に面したブディーニ・ガッタイ宮殿です。
16世紀にバッチョ・ダーニョロが設計し、アンマンナーティが完成させた宮殿です。アンマンナーティはミケランジェロの設計からインスピレーションを受け、ガッタイ宮殿の建築に役立てたと言われています。
この建物の三階、一番右の窓をご覧ください。よろい戸が半分折り曲げて開いています。
この内側の窓がいつも開けたままになっているんです。

この窓に関して二つの言い伝えが残っています。
【伝説1】
ある貴族の女性がこの窓から外を眺め、恋人が戦争から帰ってくるのを待っていたそうです。窓の横に椅子を置き、縫い物をしながら、くる日も来る日も…
しかし恋人は帰ってこず、女性はその部屋にこもって死ぬまで離れませんでした。
彼女の遺体が部屋から運び出された後に、親族がその窓を閉めようとすると大きな音がして、親族は窓を再び開けざるをえなかったそうです。
それから窓はいつも開けられ、よろい戸も半分開けられて、広場が見下ろせるようになっています。
【伝説2】
宮殿前の広場にはメディチ家の当主フェルディナンド1世の騎馬像があり、その視線がちょうどこの窓に向いています。
実はこの部屋にフェルディナンド1世の恋人が住んでいました。
女性には夫がいましたので、つまりはフェルディナンドと不倫関係だったのです。
夫は女性がこの窓を開くことを禁止していました。
たとえブロンズ製の騎馬像とはいえ、妻が恋人をうっとりと眺める姿を見たくなかったのでしょう。
伝説2から伝説1が生まれたとされますが…
この建物が16世紀に建設された時は2階建でした。3階は18世紀に増築されてできたので、伝説2もありえないのですね。
どうやら館の主人の奥さんの不倫騒動が、伝説2の由来なんだそうです。
とにかくも3階の窓がいつも開いているのは真実なので、宮殿前を通りかかる時にこんな話をしてみるのも面白いですね。
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