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- 【ミラノ】ロックダウン直前のミラノの様子
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>ミラノ
- テーマ:観光地 留学・長期滞在 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2021/03/24 00:00
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こんにちは、ミラノ在住のワキです。
現在ミラノはコロナウイルス感染対策のため、外出などの厳しい規制が行われています。
今回は、その規制が実施される前々日の今月13日(土曜日)にミラノの様子を撮影してきました。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
まず初めに向かったのはヴェネツィア門(Porta Venezia)近くにある公共公園(Parco Pubblici)。
ロックダウン強化前の最後のひとときを過ごすミラネーゼの様子です。
公園の名称は2002年にインドロ モンタネッリ(Indro Montanelli)公園と改称されました。
インドロ氏は20世紀のイタリアを代表するジャーナリストであり、1996年にアストゥリアス皇太子賞(Premio Principe de Asturias、スペイン王太子賞)受賞したことでも有名で、2001年に亡くなりました。
インドロ氏は毎朝この公園を散策したといわれています。
因みに公園すぐ近くにはPalazzo dell’Informazione(1942年ムッソリーニによる)という、新聞雑誌社等の有名な雑居ビルがありますが、こちらは次の機会に。
公園内にはプラネタリウム、ミラノ市立自然博物館や、1731年に芸術家Tiepoloが描いた天井画で有名な17世紀の建物・ドゥニャーニ邸(Palazzo Dugnani)というミラノ市管理の宮殿があります。この宮殿では結婚式や、ファッションイベント等でも利用されています。
公園は1784年から歴史がありますが、更にローマ時代まで遡ると、この場所にはサンディオ二ジ聖堂(Basilica di San Diongi)という聖堂が建立されていました。しかし、次第に聖堂は使われなくなり、1783年に廃止されています。
冬はスケート場が設置されることもあり、年間通してミラノ市民の憩いの場として利用されています。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
次に向かったのはサンバビラ広場(Piazza San Babila)。
ミラノで最も有名なファッションストリート、モンテナポレオーネ通り(Via Montenapoleone)の入口としても知られています。
実際、この広場は9つの通りに続く中心的な広場であり、名称は広場近くにあるサンバビラ聖堂(Basilica di San Babila)から来ています。
都会の喧騒の中につがいのカモを見つけました。
誰のしわざか分かりませんが、毎日この広場を訪れる方曰く、ずっとこの噴水にいるみたいです。
因みにこの噴水は1997年にルイジ カッチャ ドミニオー二(Luigi Caccia Dominioni)が手掛けたもので、水に恵まれたミラノのあるロンバルディア(Lombardia)州の山や湖や河川をイメージして設計されており、建設にかかった費用は、当時の金額でおよそ10億リラとも言われています。
広場から10分ほど歩くとドゥオーモ(Duomo ミラノ大聖堂)到着。
あいにく、コロナ禍の規制の為、観光入場は出来ませんが、ミサへの入場はできました。
顔見知りの係員と一年ぶりに挨拶。
MR(この係員)いわく、45年間の勤務を終えて4月1日から年金生活に入られるとの事。
本当にお疲れ様でした。

- 【2021年・ブログ観光】フィレンツェのガリレオ博物館!名言「それでも地球は回っている」
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2021/03/11 00:00
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フィレンツェでもやっと美術館が開きだし、今日はガリレオ博物館、無料ガイドツアーに参加してきました。なんと入場料まで無料。太っ腹です。
一日3回、一回につき10名ほどの限定ツアーで、今のところこのツアーの時だけ博物館を開けています。

博物館にあるガリレオガリレオの胸像
ガリレオガリレイはピサに1564年に生まれ、1642年にフィレンツェの近郊アルチェトリという町で亡くなりました。お墓はサンタクローチェ教会にあります。
ピサ、パドヴァ大学で教鞭をとっていました。
当時は天動説が正説だったのですが、地動説を主張したため、それを理由にカトリック教会から有罪判決を受けてしまったのは有名ですね。
「それでも地球は回っている」と言って亡くなります。
この博物館にはフィレンツェを支配していたメディチ家とロレーヌ家のコレクションが主に展示されています。

アストロラーベ
これはアストロラーベと言って、16世紀の物ですが古代の天文学者や占星術者が用いた天体観測用の器具です。
ガリレオが天体の計算をする際にも用いたため、ガリレオのアストロラーベとも呼ばれています。
これで時間がわかったり、航海における重要な測定機器でもあったそうなので、ある種のアナログ計算機みたいなものですね。

アーミラリー地球儀
こちらはアーミラリー天球儀で、天球上の天体の動きを模した機器です。
1588〜93年にメディチ家のフェルディナンド1世の為に作ったもので、ところどころにメディチ家の紋章もあります。
真ん中は地球で、地球の周りの星の動きを説明しています。
材質は木で金箔が貼られています。
世界で一番大きなアーミラリー天球儀と言われています。

世界地図のコピー
こちらは1457年から59年の世界地図のコピー(本物はベニスのマルチアーナ図書館)ですが、上下が反対になっています。
真ん中の右側にイタリアが描かれていますが、逆さまになっているのがわかります。アジアは左側にあります。
凄く細かく描かれていて、この地図は当時のマルコポーロなどの旅行者の話をもとにして作ったそうです。

ガリレオの天体望遠鏡
そしてこの2つがオリジナルのガリレオの発明した望遠鏡です。材質は木と紙だそうで、そんなに重くないんだそうです。自分自身で2枚のレンズと筒を組み合わせて、20倍から30倍ほどの倍率を持つ望遠鏡を作りました。

レンズ
こちらはガリレオの作ったレンズで1610年にこのレンズで木星の周りをまわる4つの衛星を発見してメディチの星と命名しています。{周りの額は1677年作}このレンズはガリレオからメディチ家のコシモ2世に贈られましたが、間違って壊れてしまったそうです。ガリレオが亡くなるとこのレンズはメディチ家出身のレオポルド枢機卿が保管し、彼が亡くなった後Uffizi美術館の所有になりました。

ガリレオの中指
ちょっと見にくいかもしれませんが、そしてここにガリレオの右手の中指が。。。
彼を科学のヒーローまたは殉教者として表しているのでしょうか?
この指は1737年にピサからフィレンツェのサンタクローチェ教会に遺体を運ぶ際に切り取られたそうです。
それだけではなく、右手の親指と人差し指と歯まで展示されています。

当時の色々な天体望遠鏡
このガリレオ博物館はUffizi美術館のすぐ隣にあるので時間があったら是非寄ってみてくださいね。

- 【2021年・ブログ観光】フィレンツェ観光で見るべき細密画!サン・マルコ美術館とウッフィツィ美術館編
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:鑑賞・観戦 その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2021/03/01 00:00
- コメント(0)
ボンジョルノ!フィレンツェのガイドの伊藤裕紀子です。
今日は細密画について書きたいと思います。
細密画はミニチュアールとか、彩画とも呼ばれます。イタリア語ではミニアトゥーラですね。
古代・中世に手書きで複製された本や文章に収録された挿絵のことです。
活版の印刷技術が無かった中世では修道僧たちが手書きで写本し、そして挿絵も制作していました。
フィレンツェではサン・マルコ美術館2階の図書館に展示されている楽譜に書かれた細密画を鑑賞することができます。
「ドメニコ修道会の僧侶たちを守るマリア様」

このように聖書のエピソードや人物が描かれています。
じつはこのマリア様の図には「S」の文字が隠されています。
このページ最初の節の歌詞がSで始まるからなんですね。
このように絵の中に文字が織り込まれていたり、文字自体が装飾されていたりします。

こちらの写真だと楽譜だというのがわかっていただけると思います。
これが印刷ではなく、手書きなのですから大変な労力で制作されていたことがわかります。
当時の写本は大変に高価なものでした。
ところでウッフィツィ美術館には、下のような変わった絵画作品があります。

題名は「細密画本」で、16世紀の作品です。もとはメディチ家のランペッジの別荘に置かれていました。
まるで騙し絵のように細密画の本のページがペラペラと捲られている様子を表現しています。リアルな感じに描かれていますね。
とても珍しいテーマの絵画作品のテーマ、一体、どのような目的で描かれたのでしょう?
じつは本棚の扉の装飾として使用されていたそうです。
ヨーロッパの宮廷にはこのテーマの絵のレプリカが数多く存在するそうです。
15世紀中頃のイタリアではこの「細密画本」のテーマを嵌め木細工でつくって、戸棚の扉などに利用することも流行りました。
また家具に絵画作品(板絵)を使用する例は、長持ち(衣装や調度品を入れる蓋付きの長方形の大きな箱)にもよく見られます。
長持ちの絵画作品はフィレンツェでは特にバルジェッロ美術館に展示されていますよ。

- 【2021年・ブログ観光】ピサの元精神病院と一人のアーティスト
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:街中・建物・景色 その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2021/02/25 00:00
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先日ピサ県ヴォルテッラ市にあった元精神病院を見学してきました。

現在は廃墟になっている元精神病院
1888年創設の歴史ある精神病院で、最大時には、イタリア中から患者が集まり4000人以上が40の建物に分かれて住んでいました。
比較的症状が軽い人は、敷地内でパンを作ったり、洗濯したり、庭師などの技術も身につけています。
いくらかの給料がもらえ、町に食料を買いに行くこともできたそうです。
日曜には恒例の看護士対患者のサッカーも行われ、病院関係者の家族もお弁当を持ってここに来て、みんなで食べていたそうです。
ちょっとほっとしました。
博物館には、患者の着ていたシャツとか、電気ショック療法のための機械なども置かれています。
でも今回、注目をしたのは1人のアーティストです。

Foto da Manicomio di Volterra autorizzato
フェルナンド 若い頃の写真
フェルナンド・オレステ・ナンネッティは、父親を知らずに1927年ローマで生まれました。7歳の時に母にも捨てられてしまいました。
その後、孤児院に入り、10歳で精神に支障があると判断されました病院で重症の脊髄炎が見つかり長い入院生活を余儀なくされています。
1948年には、警官に反抗したという理由で裁判にもかけられますが、精神異常という判断で、訴訟は却下され、ローマの精神病院に入ります。
そして、1958年にヴォルテッラの精神病院に移ります。
ここに滞在中に、病院の壁にグラフィックデザインを刻み始め、これが芸術的にも、歴史の資料としても評価されています。
アーティスト名、NOF4としても知られています。
1973年にこの精神病院を退院して、ヴォルテッラの町に住み、1994年に生涯を終えました。

病院の外壁のグラフィック
彼は、病院の外壁に、制服の一部だったベルトのバックルを使いながら、文字や絵、数字を刻みます。
これは、大きな壁に書かれた日記、そして手紙なのです。手紙のあて先は、空想上の高貴な両親です。
彼のサインは、NOF4。
名字、名前の頭文字に数字の4を加えたもの。
4は、ここに入館した時に与えられた彼の個人番号だそうです。
時には、宇宙工学鉱山技師になったり、英雄の大佐になったり、核泥棒になったりしながら、左から右へ、右から左へ、自由自在に刻んでいきます。
長さは180メートル、高さは2メートルにも及びます。
そこには、ファンタジーあふれる話や、解読不可能なものもあるのですが、中にはこんな記述もあります。
「病院の中の人の10%がテレビから出ている磁気放射によって死に、40%の人が他人から病気を移されて、または他人に病気を移して死に、あとの50%の人は、他人に対する、または自分に対する憎しみや怒りによって死んでいく。」
どきっとさせられる言葉です。

近くの川の石を拾ってきて患者たちが造った庭の階段
1978年のバザーリア法により、精神病院が閉鎖されたあと、美術研究者が作品の重要さに気づき、写真を撮り保存しました。
1985年には本も出版され、彼にも報酬が届きましたが、受け取りを辞退しています。その後、彼の作品は映画に使われたり、ドキュメンタリー映画が製作されたりもしています。
現在では、大変稀で、重要なアウトサイダーアートとして評価されています。
グラフィック以外に彼の残した手紙やメモは、1700ページにも及びました。
死後、その大部分が紛失してしまっていますが、すべてがコピーされ保存されています。
建物に刻まれたグラフィックは、病院閉鎖後、徐々に崩れてしまい、2011年には53メートルのみが残りました。
2012年から壁をはがして、博物館に移しています。
こうして歴史的にも文化的にも貴重な資料を保存する方向に作業がすすめられています。
壁を保存するためにも、機会がある方は、ぜひ訪れて見てください。
見学 月、水、金 一日三回 予約要 イタリア語ガイド付き
見学時間 2時間半。金額 10ユーロ
*ここでのチケット代金は、壁の保存に使われます。

- 2021年【ブログバーチャル観光】ミケランジェロの〇〇な説
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>フィレンツェ
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2021/02/21 00:00
- コメント(0)
こんにちは。フィレンツェガイドの福島です。
今回は、ヴェッキオ宮殿の正面入り口右側、ニンナ通り(Via della Ninna)の 近くの壁の目立たない場所に彫り込まれた男の横顔についてお話したいと思います。

伝説では、これはミケランジェロが彫ったと言われています。
幾つか説はありますが、今回は2つ有名な説をご紹介します。
まず一つ目の説は、ミケランジェロは自分の仕事場に行くために、このニンナ通りをよく通っていたそうです。
そこにはいつもミケランジェロを質問攻めにしたり、つまらないリクエストで邪魔をしたり、お金を要求したりする彼を悩ませる男がいたそうで、いつもよけて通らなければなりませんでした。
ある日ミケランジェロはこのいつも邪魔をしてくる男の横顔を、ヴェッキオ宮殿の壁に彫り込んでやろうと思い彫刻刀を持参することにします。
ここでミケランジェロは才能を見せます。
彼の存在に嫌気がさしたミケランジェロは、彼の話を聞いているふりをしながら、背中に腕を回し後ろ向きでこの横顔を彫ったのです。
男はそれに気づいて「おお、私の鼻はこんなに大きくない」と文句をつけたそうですが、それに対してミケランジェロは「私の指には目はないんですよ」と言い返したそうです。
その日を境に、この男はミケランジェロを邪魔しなくなったと言われいます。
もう一つの説は「罪人の顔」と言われています。
ミケランジェロは借金で首が回らなくなった罪人が、偶然シニョリーア広場を通っているのを見かけます。
この罪人には、ミケランジェロ自信もお金を貸していたと思われます。
この罪人は木のけたに結び付けられており、広場のポルティコの下で(Loggia dei Lanzi)で処刑されるところでした。
処刑の方法は、2つの木のけたに手と頭を結び付け、首にはその罪を書いた札をぶら下げられた罪人が、市民にののしられたり体罰を与えられたりするものでした。
ミケランジェロは見張りの役の男に「どのくらいこの男は木に縛りつけられているのか?」と聞き、答えを聞くと「それは短すぎる」と言ったそうで、フィレンツェの人がずっと彼のことを忘れないよう不滅にする為にこの横顔を彫り込んだとも言われています。
どちらにしろちょっとユーモアがありますね。ヴェッキオ宮殿に行ったら是非この顔を探してみて下さい。
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