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イチローとジュンコの夫婦珍道中

~バックパッカー日記~

プロフィール

ニックネーム:
イチローとジュンコ
居住地:
東京都
自己紹介:
2000年9月 日本を旅立ったイチローとジュンコは、飛行機で、南アフリカ・ケープタウンに降り立った。
二人はそこから日本まで、飛行機を使わずに、陸路と船のみで帰る。
アフリカ大陸南端の喜望峰から日本まで、アフリカ、東西ヨーロッパ、中東、シルクロードとまるまる1年かけての、夫婦珍道中。
野宿もしました。ゴリラと挨拶もしました。サハラを越え、ヒマラヤを越え。。
大自然、世界遺産、カルチャーショック、紛争の傷跡、そして、多くの出会い。
2001年8月無事帰国した二人の旅を振り返って、番外編コラムを掲載します。

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心痛 (ユーゴスラビア)ベオグラード→ルーマニアへ
エリア:
  • ヨーロッパ>セルビア>ベオグラード
テーマ:街中・建物・景色 
投稿日:2001/05/23 15:10
 スロベニアからクロアチア、ボスニアヘルツェゴビナそして新ユーゴスラビアと、旧ユーゴの国々を旅して思うこと。

 複雑に入り組んだアドリア海沿岸の海岸線、その海岸線から内陸部に至るまでほとんど平地らしい平地がない地形。そのせいもあって、悠久よりこの地は落ち着いて統一されることはなかった。

 そしてオスマントルコ、オーストリア帝国、ナチスドイツと周囲の列強にほんろうされ続けた歴史。民族、宗教、、歴史を経て生じた様々な勢力、様々な利害。

 チトー大統領率いる旧ユーゴの時代にようやく諸国は落ち着き、共和国という形でひとつ国旗の下、お互い仲良くやっているかと思っていた。
 ところが、チトー大統領が他界しベルリンの壁が崩壊すると間もなく、それぞれの勢力が互いに独立と領土の確保、そして戦闘によって生じた遺恨を晴らすため、分裂し戦闘を繰返す。

 世は正に、現代まで続く戦国時代なのだ。

 現代にまで引きずられたせいで、そこに近代兵器が転がりこんだことが自体を悪化させている。
 当事国ではその武器は造られてはいない。大量の武器はいったいどこから流れ込んでくるのだろうか?

  現代にいたってもいまだに当事者以外の、様々な者たちの様々な思惑がはいり込み、事態を更に複雑化させているのだ。

 そしてここ新ユーゴの首都ベオグラードで我々の前にそびえる爆破ビルは、コソボ紛争時日本もその身内と言える西欧と米国によるNATO軍によって爆撃されたものだ。

 そして騒乱のたびに日本は、明石氏、緒方さんと国連を通じて要人を送り込み事態収拾に尽力したが、一部では国連の常任理事国入りをもくろんでのことだったのではないかともささやかれているそうだ。

 そのためかどうかはわからないが、もちろんこの地域には日本からたっぷりと援助金が捧げられており、そのお陰で我々日本人旅行者はビザなしで旅行ができるとの噂だ。
 その援助金が武器購入資金などよからぬことに流用されてはいないかと、危惧してしまう。

 どうやら、
 「我々も部外者ではない。」


【食事】

朝:パン
昼:パン、ピタ(菜の花、カッテージチーズのクレープ巻き)
夜:プレスカピザ(トルコ風チーズ無しのピザ)

【トラベルメモ】

1US$ ≒ 55YD(ユーゴスラビア・ディナール)
1US$ ≒ 2DM(ドイツ・マルク:東欧ではドイツマルクが歓迎されることが多い)
(1DM = 30YD)
・ベオグラード→ルーマニア・ブカレスト (夜行列車)14時間半(17:50発、翌8:30着) 1601yd

【宿】
上記夜行列車内泊。

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内戦の傷跡? (ボスニアヘルツェゴビナ)サラエボ→(ユーゴスラビア)ベオグラード
エリア:
  • ヨーロッパ>ボスニア・ヘルツェゴビナ>サラエボ
  • ヨーロッパ>セルビア>ベオグラード
テーマ:街中・建物・景色 
投稿日:2001/05/22 15:04
 「さ、これを持って。」
自宅のアパートの一室を家計の足しにと宿として間貸ししているおばさん、朝ベオグラードに発つ我々にサンドイッチを作って持たせてくれたのだ。もちろんおばさんの好意につき無料。

 実はおばさんとはほとんど言葉が通じないので、以下、おばさんの言葉は雰囲気です。おばさんのジェスチャーやほんの少しの英単語から、こちらが勝手に意味や気持ちをくみ取ったものです。

おばさんとは、ベオグラード行きが出るバスターミナルまで車で送ってもらう約束をしている。
いただいたサンドイッチが入ったビニール袋を手に下げ、おばさんの軽自動車に乗り込む。

しばらく大きな通りを走り、信号で止まった時、
「あれ、あれ。あれを見て!」

 おばさんが指差す方を見て唖然。そこにはボロボロに崩れ、破壊された巨大なビルディング。ビルというよりビルの跡かたのコンクリートの残骸だ。

 「ボム、ボム」
と、おばさんの片言の解説。

 ここは内戦時、爆撃によって破壊された新聞社のビルだったものだ。
 そのあまりにもすさまじい破壊されぶりは、まるでついさっき爆破されたかのようだ。

 それもそのはず。この爆破ビル、内戦の悲惨さを後にも伝えるように、わざわざ何の手も加えずに爆破されたままの姿で残されているのだ。

 信号が青に変わると、車は少し進み舗装路をそれ、細いダートの道へ入る。
 「おかしいな、バスターミナルとは違う方に進んでる気がするけど、近道なのかな?」

 すると間もなく、わん曲した路地の両脇に隙間を見つけるのが難しいほど銃痕で埋め尽くされた壁と、崩壊した家々がぎっしりと立ち並んでいる。壮絶な光景だ。

 「ムスリーム」
おばさん、運転しながら片手で道に沿って手刀を切り、その左側を指して重々しく言葉を発する。

 内戦時、サラエボではセルビア人勢力とモスリム(イスラム教徒)勢力が激しく対立し、撃ち合い、戦闘つまりは殺りくを繰り返した。その最前線だったところを我々は走っているらしい。

 「おばさん、これを見せたかったんだな。」
 おばさんの家に、モスクの壁掛けが飾ってあったのを思い出した。

 車は舗装された車道に戻り、バスターミナルに到着。ここでサラエボともおばさんともお別れだ。

 車を降りると、おばさんと抱擁し合って別れを告げる。
 一ヶ月前にだんなさんが亡くなってしまったとのことで、昨夜我々の前で泣き崩れてしまったやさしいおばさん。言葉は通じないが、
 「おばさん、元気出して、頑張って!!」
こう伝えたかったのだ。

 朝8時にサラエボを出たバスは、あまり整備されていない田舎道のような道を走り、ユーゴスラビアに入国。
 入国時、乗客は全員バスから降ろされ、一人ひとりおけに入った消毒液に手をつけさせられる。

 ここは地続きの国境。鳥だって虫だってノラ犬だって、目の前で自由に国境を行き来しているというのに、人間だけ、それも手のひらだけ消毒して何の意味があるというのだろうか?

 夕刻到着したユーゴスラビアの首都ベオグラード。
 繁華街の奥に控える高台の公園からは、そこにも大きな爆破ビルの姿が、おどろおどろと目に飛び込んできた。


【食事】

朝:サンドイッチ
昼:パン、クッキー
夜:スパゲティ

【トラベルメモ】

1US$ ≒ 2KM(ボスニアヘルツェゴビナ・兌換マルク:ドイツマルクと等価)
1US$ ≒ 55YD(ユーゴスラビア・ディナール)
1US$ ≒ 2DM(ドイツ・マルク:東欧ではドイツマルクが歓迎されることが多い)
(1DM = 30YD)
・サラエボ→ベオグラード (バス)9時間(8時発、17時着) 16KM + 荷物一つあたり1.3KM
・ユーゴスラビア入国  日本人旅行者はビザ不要

【宿】
(ベオグラード)Hotel POSHTA 40DM/トリプル一人当り
 →日本人旅行者1人と我々2人で三人部屋をシェア。
  駅とバスターミナルの近くの郵便局向かい。表示はキリル文字のみで「ПОШТА」。

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