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- 幸福の国で幸せについて本気出して考えてみた 〜ツェチュ祭を訪ねるブータン周遊紀行〜
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エリア:
- アジア>ブータン>ティンプー
- アジア>ブータン>パロ
- アジア>ブータン>プナカ
- テーマ:街中・建物・景色 お祭り・イベント ホテル・宿泊
- 投稿日:2016/07/13 15:54

もはや観光名所になってしまった首都ティンプーの手信号

インドやパキスタンで見られる派手なデコトラ(デコレーショントラック)はブータンにも

ルンタ(お経が書かれた旗)が張り巡らされ、異世界への入口感がプンプンするブータンの橋
このたび、ブータン出張に行かせていただくことになった。
ブータンと言えば真っ先に出てくるワードが「幸せの国」。全世界に二百カ国近くある国の中で、いきなり「幸福」を売りにしてくる国はブータンだけだろう。なんだか怪しい新興宗教のようでうさんくささ満点だが、国全体でそう言っているということは何かちゃんとした根拠があるに違いない。よし、その幸せとはなんぞやを見に行ってやろうじゃないか。そしてあわよくば自分にも幸せのお裾分けがあれば・・・。
しかも今回の目的は「見るだけで悟りが開き、御利益がある」といわれるチベット仏教の祭ツェチュを見ることで、幸せの秘密を探る準備は完全に整っている。はたして煩悩だらけの私が行っても大丈夫なのだろうか、幸せを感じることはできるのだろうか。
ブータンがいろんな意味で他に類を見ない独特の国、ということはご存じの方も多いと思うが、まず入国からしてドラマチックだった。
今回はネパールのカトマンズから空路での入国。ヒマラヤの眺望を期待して進行方向左の窓側席に座ると、狙い通り雪を被った雄大な山々が見えてくる。機内アナウンスでは、これから着陸しますよ、などの放送と同じような普通のトーンで「左手にエベレストが見えます。。」との案内が流れてきた。なんてこった、高額なマウンテンフライトもハードなトレッキングもすることなく簡単に世界最高峰が見えてしまうとは。。
これが幸せの国のオープニングなんだろうか?

左がエベレスト(世界1位)、右がマカルー(世界5位)
そして分厚い雲を通り抜けてブータン上空へ。見えてくるのはのどかな農村風景で、でかい棚田に立派な農家。都市らしきものは全然見当たらないけど、確かに平和そうだ。谷に沿っていくようにしてパロ空港へ。


ターミナルはこれまた立派な伝統建築で、日本でも有名になったイケメン国王と美人王妃の写真がいきなり出迎えてくれる。明らかに今まで訪れた国の空港とは全然違う光景だった。正直、入国するだけでこんなにテンションが上がる国はないと思う。まるでさっき通り抜けた雲が異世界へのトンネルだったかのよう。
これはほんの序章で、この入国からブータン出国まで体験したことはとにかく他国ではありえないことばかり。これまで60カ国ほど旅行した経験があるが、ここまでユニークな国は間違いなく今までなかった。そんな「ありえない」を勝手にまとめてみると、、、
・国王
ブータンの街の建物はほとんど見事な伝統建築のみで、それだけでも十分異様でスゴイのだが、さらに異様でスゴイのが道路や軒先にでかでかと国王夫婦の写真が掲げられていること。先ほど書いたように空港にも大きな写真が旅行者を出迎えてくれるのだが、それはこの国では当たり前のことだったのだ。

首都ティンプーの繁華街

「王家がずっと続きますように」と書かれた看板を見ても、どれだけ国王が慕われているか伺える

首都ティンプーへの入口。立派なゲートと国王夫妻のラブラブ看板
一歩間違えれば北朝鮮状態にも見えるが、実際国王に対する国民の信頼は揺るぎないものがある。先代の国王は「幸福の国」の由来にもなっている国民総幸福量(GNH)という概念を提唱し、自ら国王の権限の縮小を目指して立憲君主制へと移行させ、自ら現地で指揮してインド系ゲリラを国内から追放した(特にこの出来事について熱っぽく語るブータン人に何回か出会った)。現国王も2011年に新婚旅行で来日して国会で感動的な演説を披露し、日本にブータンフィーバーを巻き起こしたのだから相当な人格者なのだろう。
・食べ物
日本人にはほぼなじみがないブータン料理。実際食べてみると、「とにかく辛い!」ことに尽きる。それは唐辛子を調味料ではなく野菜として扱っているから。どの料理も必ず唐辛子が大量に入っているし、そもそも唐辛子を炒めただけという日本では絶対成立しないような料理もある。

典型的なレストランでの料理

ティンプーの市場で、唐辛子を大量に買うお坊さん
といってもさすがに旅行者向けのホテルやレストランでは辛さを手加減してくれたり、パスタのように全く辛くない料理も用意してくれるが・・・。
一番ポピュラーな料理は唐辛子とのチーズ炒めもの「エマダツィ」で、一日三食これでも普通のことだという。あとは米や野菜、チーズに加え、干し肉を食べるのがブータンの特徴。料理も食材も日本どころか周辺国とも全く違うものばかりだけど、辛いことを除けば和定食のような、どこか素朴で懐かしい味がする。
またブムタン地方は高所のため米が取れない代わりにそばが栽培されており、日本のそばと似た「プタ」やそば粉のクレープ「クレ」がある。日本のとはまた違った味だけど、今度来たときはめんつゆとわさび持参でそば打ちでもやってみたい。

そば粉クレープ「クレ」をホームステイ先でいただく
また意外かもしれないがブータン人はお酒をよく飲む。市販されているビールや、家庭で作ることが多い焼酎アラなどは旅行者でも気軽に飲める。ブムタン地方では地ビール、地ワインをつくっており、お酒好きにはたまらない。昼からビールを飲んでいる現地人もおり、アルコールに寛容な地域だと感じた。まあ確かに日本人からしても昼からお酒を飲むなんてこれ以上の幸せはない。

ブムタン地方の地ビールレッドパンダと、山椒がきいてつまみにぴったりな腸詰めギュマ
ただ標高が高い場所が多いため酔いが回りやすいので、飲み過ぎにはくれぐれもご注意を・・・。
・国内移動
ブータンはヒマラヤの山岳国で平地がほとんどなく、必然的に国内移動が大変になる。日本のような国なら山岳地域でも高速道路を通したりトンネルを作りまくったりすることもできるが、経済規模も小さいためクネクネの峠道ばかり。鉄道も現在のところまったく通じていない。
ブータンで旅行者がよく訪れるパロ、ティンプー、プナカ、ブムタンといった街をほぼすべて通っているのが国道一号線で、いわばブータン版東名高速。ところがこれが日本の林道状態のありさまで、断崖絶壁の危険な道がガードレールなしの両側一車線というのはあたりまえで、ところどころ舗装すらされていない。現地の方は今工事中で一年後には良くなると言っていたが・・・。

そんなわけで移動するだけでもちょっとハードなブータン旅行だけど、頻繁に出会う絶景が疲れを吹き飛ばしてくれる。山岳国ながら農業が盛んなブータンではありえないほど高い山の上や深い谷底にも立派な農家や見事な棚田があり、どこを移動しても全く飽きない。日本でいうと四国の山奥や紀伊半島などに似ている感じ。移動中でも、ガイドさんに頼めば気軽に好きな所で停まってもらえて写真が撮れるのもいいところだ。

プナカへ向かう途中の見事な棚田
なお一応国内線フライトもあるが天候不良でよく欠航したり、そもそも乗客が少ないとその時点でフライトがキャンセルになることもあるのだそう。やはりどんな手段を使ってもブータン国内移動は一筋縄ではいかないのだ。
・スポーツ
ブータンの国技といえばアーチェリー。民族衣装でアーチェリーを楽しんでいる姿はどこか日本の弓道に通じるものがあるけど、ルールは全く違う。的までの距離はなんと140mもあり、オリンピックに参加したブータン人選手が「的が近すぎて当たらない」という名言(迷言?)を残したこともあるとか。また一日中どころか何日間も試合が続くこともあり、的に当たると祝いの歌と踊りを披露する。なんともブータンらしいゆるゆるスポーツ。

さらに手軽に行われているのがダーツで、よく道ばたでやっているのを見かける。これも的が遠い、当たると歌って踊る、とアーチェリーとよく似たブータン流スポーツ。ブータンでダーツバーを開いたら流行るかも。

全身正装のアーチェリーに対してこちらは適当な服装でもいいようだ

ゴーイングマイウェイなブータンスポーツ界だけれど、最近力を入れているのがサッカー。一時期世界最弱といわれていたが、ここ最近はその位置を脱し最近のワールドカップ予選では日本と同じステージで戦っていた。
せっかくなので国際試合が行われる首都ティンプーのチャンミリタンスタジアムへお邪魔してみる。

伝統建築なのはここも同じで、なんとも優雅なスタジアム。いつか日本代表がここで試合するときはぜひ行ってみたい!


あ、お坊さんもサッカーを見るんだ
・テレビ
1999年以前はテレビの視聴は禁止されていたとのことで、現在もチャンネル数は少なめ。今回の旅行ではホームステイ先で見る機会があったが、ニュース番組と歌番組しか見る機会がなかった。
ニュース番組では、トップニュースはもちろん国王の一日。

また英語教育に力を入れているブータンらしく、ニュースも公用語のゾンカ語と英語の両方を流しているのが特徴。
歌番組はプロの歌手やタレントがほぼいないためかのど自慢的な番組で、これもしっかり舞台背景が国王と第一子の男の子を抱いた王妃になっているのがなんともシュール。

ただどの番組も出演者全員が民族衣装を着ているため(法律により公的な場では民族衣装を着なければいけない)、どんな番組でも時代劇か笑点に見える・・・。
しかし、ブータンのチャンネルより圧倒的に多いのが隣国インドのチャンネル。インド映画やドラマは大人気で、なんとその影響で公用語のゾンカ語よりヒンディー語の方がよく通用するとのこと。独特の文化を持つブータンでも、やはりエンターテイメント大国インドの力は大きいようだ。
・観光地
ブータンは敬虔なチベット仏教徒が多く、世界で唯一チベット仏教を国教としている国。観光地も仏教関係の寺院などがほとんど。
特にブータンならではの見どころといえるのがゾン。ゾンとはひとことで言えば城塞兼県庁兼寺院といったもので、歴史的価値があるうえにほとんどが現役の行政施設、宗教施設として使われている。

川のたもとに堂々と建つプナカ・ゾン

緑の中にいきなり現れる、軍艦のようなトンサ・ゾンを望む
チベットから17世紀に亡命してきた僧がブータンの起源をつくったといわれ、ほとんどのゾンもその時に建てられた。どのゾンも遠目からでも圧倒されるほどとてつもない存在感を放っており、内部に入ると大胆かつ緻密なつくりや鮮明な仏画にこれまた圧倒される。
またブータン人はゾンに入るときに、ゴ(男性用)やキラ(女性用)といった民族衣装に加えカムニやラチューと呼ばれる肩掛けを身につけなければならない。これをいそいそと身につけるブータン人を見ると、外国人の私たちまで身が引き締まる思いがする。

パロ・ゾンの内部
ブータンの公用語はゾンカ語だがこれはゾンで使われる言葉という意味で、また県もゾンカクと呼ばれる。それほどゾンはブータン人にとって重要なものなのだ。
またブムタン地方は国内でも数多くの古刹、名刹が集まっている地域として有名で、寺院めぐりが楽しい。

参拝者が少なくひっそりとしたチャカル・ラカン

ロダク・カルチュ・ゴンパで法要にお邪魔させてもらう
ときおり村人が参拝に来る以外は誰もおらず静寂が支配する寺院や逆にいつも僧侶でにぎわっている寺院などいろいろで、祀られている仏像も様々。ブムタンは範囲が広いので、一日かけてゆっくりまわりたい。
・・・と、この国は目にするもの耳にするもの感じるものとにかくすべてが新鮮で衝撃!確かに他の国に比べるとブータン旅行は高くするけど、こんな経験ができるだけでも十分行く価値があるのでは??
●ブータンに来たならホームステイ!ご家庭に潜入して幸せの秘密を探る
そんなユニークな国ブータンでおすすめなのが、なんといってもホームステイ!もともと宿泊施設が少なかったブータンでは旅行者を家に泊めるのが当たり前で、外国人旅行者も気軽にホームステイができる。またホストファミリーにとってもお客さんを泊めることで話し相手ができ、外部のニュースが聞けるというメリットがあるようで、ホームステイ中ガイドさんやドライバーさんとホストファミリーとの会話は絶えることがなかった。
今回はプナカとブムタンでホームステイ。
プナカでのホームステイ先は、街から30分ほどかかる人里離れた場所。「よくぞこんな所に・・・」と言いたくなる山奥に立派な農家があった。

玄関に魔除けのポ・チェン(男根)が描かれるのがブータン民家のユニークなところ

ホームステイ先の子供たちと遊ぶ
農家の周りにはこれぞザ・ブータンの絶景といった見事な棚田が広がっており、そのてっぺんには小さな寺院がある。まずは家族の方とその棚田の中を散歩。

白い旗のようなものはお経が書かれたダルシン
そしてやっぱり楽しみなのが食事。ここの田畑で取れた自家製のご飯や野菜を出してくれる。こちらも自家製のブータン焼酎アラも振る舞ってくれた。


赤米で作られたためワインのような見た目だが味は完全に焼酎。すぐ目がまわる。。
朝食はご飯やゆで卵、そしてブータンならではの特製バター茶。

ブムタンでのホームステイ先は母屋とは別に宿泊者用の建物があり、ホテルのように快適だった。
けれどやっぱりそこはホームステイ、ホストファミリーがいろいろ気にかけてくれ、言葉があまり通じなくても優しさが身にしみる。
せっかくブムタンに来たのだからと名物そば料理を出してくれたり、毎日自家製アラをいただいていたらアル中と思われたのか別れ際にボトルに詰めてプレゼントしてくれたり。

日本のそばと似ているようで全然違うブータンそばプタ(右下)

ブータン人の生活に触れ、家族の一員になったようになれるホームステイ体験は、観光よりもずっと心に残るかも。
また一般家庭で体験したいのがなんといっても石焼き風呂ドツォ。ホームステイしなくても、ガイドさんに相談すれば近くの農家などで手配してくれるはず(別料金)。一見お堅そうでも、このようにうまく融通が利く所もブータン旅行のいい所だと思う。

●「見るだけでご利益がある」チベット仏教の祭ツェチュ
今回楽しみにしていたのがツェチュ。各地の悪霊を調伏してブータンにチベット仏教を伝えたとされる僧グル・リンポチェにちなむ祭で、メインのマスクダンスはグル・リンポチェの生涯に起こった出来事をたたえたもので、この出来事がいずれも月の10日であったことから、ツェチュとは「月の10日」を意味している。
ツェチュが行われる時期は場所によって様々でほぼ毎月どこかの地域でやっているが、今回幸運なことにブムタン地方で2日連続で別々のツェチュを見ることができた。ブータンにおいてとても重要で「見るだけでご利益がある」とされるお祭だから、これでご利益も倍になったはず!
まずはチュメ谷のニマルン・ツェチュへ。
会場は寺院で、舞台を取り囲んで観客が所狭しと並んでいる。これがツェチュの即席ステージ。
まず村の女性たちの歌から始まり、すぐにマスクダンスがスタート。僧侶が奏でる音楽に合わせて、色鮮やかなダンサーがダイナミックに踊りまくる!

ここにも大きな国王ファミリーの写真が・・・



ダンサーに混じってときどき出てくるのは風変わりな仮面をかぶったアツァラ。道化の役割を持ち、観客を笑わせる強烈なキャラを持っているがここのアツァラは気合いが入りまくり。外国人旅行者を舞台に引きずり込んでダンスさせるわ、子供や犬を追いかけ回すわで観客も大喝采だった。



棒で頭を叩かれると御利益があるとか。日本でもこんな祭があるような・・・
翌日はチョコル谷のクジェ・ツェチュへ。このツェチュのメインはトンドル(大仏画)のご開帳。開帳は未明に行われるようで、会場の寺院へ着いた頃には長い行列ができあがっていて皆トンドルを額へすりつけていた。トンドルを前に五体投地をする観客もいて、彼らがどれだけご開帳を待ち望んでいたのか身にしみて分かる。

ここではニマルン・ツェチュとまた違ったダンスが見られ、大満足。いずれも会場が小さいのですぐ目の前でマスクダンスが見られ、その迫力はすごいものがあった。



お昼頃トンドルが大切にしまわれる。また来年までさようなら
けれど、ツェチュで一番印象に残ったのは精一杯のおしゃれをして年に一度のお祭りを楽しんでいる観客たち。舞台からふと周囲に目を移すと民族衣装の鮮やかな色彩や、満足そうに踊りを見つめている観客の姿が目に入って、これを見るだけでもツェチュに来て良かった!と感じた。私たち旅行者にとっては重要なイベントであるこのツェチュだけど、彼らにとっても年に一度の最高の楽しみなのかもしれない。


そんな日本昔話に出てくる世界そのものをこの目で見れたこと自体がご利益なのかも。そして、これこそが彼らにとっての幸せなのかもしれないと思う。幸せは遠い所にあるのではなく案外そこら辺に転がっている、と聞いたことがあるけどブータン人はそれを探すのが上手な民族で、それが「幸福の国」の秘密かも・・・。
自然豊かな国土と賢明な国王、謙虚で信心深い国民に恵まれた、世界でここだけの奇跡の国ブータン。この国が幸せの国と呼ばれるのは必然なのかもしれない。そんな国を旅できること自体、これ以上ない幸せなのでは。

【スタッフおススメ度】
●プナカ ★★★★
標高が低く冬も冷え込まないことから「冬の首都」として栄えた街。プナカ・ゾンはブータンのゾンの中でも屈指のイケメン度を誇る
●ブムタン ★★★★★
歴史あるお寺が多いが、街らしい街がなくのんびりした雰囲気で立派な農家が多い。ここに来たなら名物そば料理はぜひ食べたい。京都と長野を足したような感じ?
●ティンプー ★★★★
首都だが人口はたった10万人、それでも地方から来ると大都会に見える。日本では見られない食材ばかり集まる市場見学がオススメ。
●パロ ★★★★★
国内唯一の国際空港があるが、中心部は伝統建築家屋が並び宿場町のような印象。郊外のパロ・ゾンから眺める街は絶景。
(2016年7月 伊藤)

- 英国式旅行 〜ナローボートで真のイギリスを見る〜
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エリア:
- ヨーロッパ>イギリス>コッツウォルズ
- ヨーロッパ>イギリス>ストラトフォードアポンエイヴォン
- テーマ:ホテル・宿泊 グルメ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2016/06/24 15:57

古くからの伝統を大切にする国イギリス。
そんなイギリスで、200年経った今でも変わらずに大切に守られているものがある。それはパブでのビールと、「ナローボート」だ。電車が発達する現在でも、まだ伝統を大切にしているイギリス。今回はその「ナローボート」に宿泊させて頂き、イギリスの歴史に浸ってきた。
「ナローボート」と聞いて、あ〜ナローボートね。と分かる人はいるだろうか。私は正直、行くまで全然ナローボートのことを知らなかった。ナローボートとは、その名のとおり、狭い(ナロー)ボート。
今から約200年前、産業革命の頃イギリスでは運河が作られ始めた。運河の設計と同時に、石炭や鉄道のレール、枕木などを運搬するために造られたのがナローボート。産業革命の中心であったバーミンガムを中心に、運河は網目のように張り巡らされ、ナローボートは運搬手段として大活躍してきた。ところが、蒸気機関車が開発されてからは、運河の交通はみるみると忘れ去られてしまう。やっぱり、ボートは列車の速さや運搬量にはとても敵わない。
でも、忘れてはいけないのがここは「古いものを大切にする国、イギリス」だということ。古いもの大好きなイギリス人達の手で、忘れかけられたナローボートをレジャーの目的で、かつてない素晴らしい旅のスタイルとして甦らせたのだ。

エイヴォン川
シェイクスピアの故郷、ストラトフォード・アポン・エイヴォンに1泊した私は、そこから電車で約10分のウィルムコート駅に向かった。周りは何もない、こじんまりした駅。到着すると、日本人のあつこさんと、イギリス人のアンディさんが出迎えてくれた。
そこから歩くこと1,2分で運河に到着。
そこには何艘ものナローボートが並び、その中から赤色のボートに案内された。「アット・イース」という名前が書かれている。

このボートは、あつこさんとアンディさん2人の手作り。以前のボートに住みながら、この新しいボートを1年半かけて作ったという。今は家も車も売り払い、ナローボートで暮らしている。ナローボートは、幅約2.1m×長さ約20mで、この中にダイニングルーム、キッチン、バスルーム、洗面台が2か所と、寝室が2か所ある。
早速船内を案内してもらう。ボートの内装は、私が想像していた簡素な船内とは裏腹に、とても温かく落ち着いたモダンな内装。あつこさんがデザインや設計を手掛けたということもあり、日本人好みな内装かもしれない。

寝室

洗面台

アメニティも完備

ダイニングルーム

キッチン
ボートにはこの狭い空間だけで生活していくための知恵があらゆる所に詰め込まれている。これぞ究極のミニマリスト。隙間を上手く活用し、無駄なスペースが全くない。特にキッチンには思わず見入ってしまった。最大で4名のお客様を乗せることがあるため、その分の食器が必要。食器の高さにあう食器棚を買ったのか、食器棚の幅にあう食器を見つけたのか、食器棚に無駄なスペースを作らず、ぴったりのサイズでたくさんの食器が収納されている。寝室も、スーツケースを広げられるだけの幅がきっちりと確保されており、ベッドの下にはスーツケースがすっぽり入るスペースが設けられている。
一通り船内を見学した後は、ボートでの注意事項を聞き、いざ出発。
アンディさんが舵を切り、あつこさんは紅茶を入れてくれた。ボートは時速4〜6kmの速さでゆっくりと進む。

アンディさん手作りクッキーと紅茶を頂く
両岸には小径が作られていて、そこをジョギングする人、犬の散歩をする人、サイクリングをする人が行き交っている。

運河の脇には小径続いている
この道は絶えることなくずっと続いている。ふと気付けば、ずっと右側にあった道が左側にある。どうしてだろう・・
それは、今のボートを動かしているエンジンが開発されるよりも昔、馬がこのボートを引っ張っていた。この道はかつてナローボートを引っ張る馬のための道だったのだ。
右にあった道が左に変わったのは、馬の筋力のバランスをとるため。ずっと右側から引っ張っていると、馬の筋肉が片方についてしまいまっすぐに歩けなくなる。そのため、時折道を左側に変え、馬への負担を減らしたらしい。運河をわたす橋には、馬が引っ張っていたロープが擦れた跡がいまだに残っている。
ナローボートの運転には特に資格は要らない。そのため、私も少しだけ舵取りにチャレンジさせてもらった。やってみると意外と簡単!行きたい方向と反対方向に舵を引けば良い。
しかし、運河には所々に番号がふられた橋が渡されており、その細いトンネルを船幅すれすれを通らなければいけない。

この先の細-いトンネルをくぐる

舵を切っているところから見ると、さらに難しいのが分かる
さすがにここは私では無理なので、アンディさんにバトンタッチ。乗っていると本当に船幅すれすれを通るので、スリル満点。
誰でも運転できるということで、家族でボートをレンタルしたり、結婚式前のパーティに若い男性陣がわいわいと騒いでいるボートもあったり、どうやらイギリスでは若者からお年寄りまで、幅広く人気があるみたい。いろんな人たちが乗るボートとすれ違い、その度にみんなが挨拶をしてくれるのが楽しい。
しばらくすると、細い橋が見えてきた。これは「水道橋」といって、道路や線路の上をボートで走れるようになっている。

水道橋

線路の上を走る

下を走る車から手を振ってくれる

下から見るとこんな感じ(これは短い水道橋)
さらに行くと、行き止まりが見えてきた。これは、「閘門」と言われる門。この門の向こう側は水位が異なっており、この閘門を設けることによって、水位を調節し、船が行き来できるようになっている。一度船から降り、手作業で開けて通る。
まず、門を通るためにボートを細い通路に通し、スタンバイ。



そして、手でぐるぐるとハンドルを回し、水中にある水路を開け、水を水位の高い方から低い方へと送る。

水中の水路を開ける
そして、反対側の門も閉め、水を貯めて水位を合わせる。

門は重たいので、全体重をかけて


水位がだんだん上がってくる

最初こんなに低かった水位が

ここまで上がる
水位が合うと、もう一つの門を開け、ようやく船を通すことができる。



ナローボートでの旅は「急ぐ」ということはできない。対向するボートが来た場合は、この門を対向ボートが通るまで待って、もう一度水位を合わせて通っていく。
何よりも、ゆっくりと歩く速さで動くボートから眺める景色は最高。鴨の親子が戯れている様子、野生のウサギがぴょんぴょん飛び跳ねている様子、草原で牧草を食べる牛や羊の様子。日本にいると体感できないゆっくりとした時間の流れに身を任せ、何も考えずにこの大自然の景色を眺めているととても心が癒される。
この日はウートン・ワーウェンという所で停泊。ここで、ボートに水を補給。シャワーや飲料水はボートの下部に積まれていて、停泊した際に補給する。


この停泊所近くのパブで夕食。

ナビゲーションイン
このナビゲーションインというパブ。運河沿いに同じ名前のパブが何軒もあるらしい。「Navigation」は「航行する」という意味。かつてこの運河を作っていた頃、作業員の休憩所のために建てられたのがこのナビゲーションイン。運河の工事が進むと、その先々に建てられていたため、運河沿いにはたくさん同じ名前のパブがまだ残っており、このパブに飾ってある写真や絵を見ると、運河ができる様子が年ごとに見ることができて面白いのだとか。
この辺りは明かりがないため、夜はボートから満点の星空を見ることができる。残念ながら、夕食を食べ終えた頃から雨が降り出し、星は見ることができなかった。。。
ボートで寝るって、船酔いは大丈夫?
2人が暮らすボートで寝るって、プライベートは大丈夫?
と心配される方もいるかもしれない。
船酔いに関しては、私も船酔いには弱いため、少し心配していた。が、ボートといっても全く揺れないので、船酔いの心配は不要だった。あつこさんもこれまで船酔いされた方はいないとおっしゃっていた。
また、客室と、あつこさん夫妻が寝る寝室はきちんと仕切られるようにドアがあり、夜はここを閉めて寝るので、きちんとした個室になりプライベートは保たれる。バスルームと洗面台も2か所あるので、自分の好きなタイミングでシャワーを浴びることができる。アメニティやドライヤーも用意されているので、不便を感じないどころか、想像を遥かに超えて快適に過ごすことができた。※ドライヤーは、電気はエンジンが動いている間しか使うことができないので、夜は20時まで、朝は7時以降しか使うことはできない。
朝は、あつこさんが朝食を作って下さった。

まさかボートでこんな豪勢な朝食を食べられるとは思ってもいなかった。何といっても日本人のあつこさんが作ってくれるので味は間違いない。フルーツも私が到着する数時間前に仕入れて下さったということで、とても新鮮。因みにお醤油も用意してくれている。
お腹いっぱいになったところで、ボートは再度ウィルムコート駅に向けて出発。
この日は少し雨が降っていたので、外は少し肌寒かった。船内で曇る窓ガラスをこすりつつ、あつこさんが入れてくれたコーヒーを飲みながら、ナローボートについての興味深いお話をひたすら聞いた。
かつて、ナローボートで生活していた人はたくさんいた。しかし、ナローボートで生まれた子供たちはきちんと学校にも行くことができず、字の読み書きができなかった。その子たちから生まれる子供たちももちろん字の読み書きができない。そのため、かなり苦しい生活をし、その当時のことは本などにも残っておらず、ナローボートで生活する人たちの間で、口頭で伝えられてきた情報しかないのだ。
そんな貴重なお話を聞くことができ、さらに実際に目に見ることができ、行くまで名前も知らなかったナローボートの虜になってしまったことは言うまでもない。
これからコッツォルズを訪れる際には、是非ナローボートも体験して頂きたい。ロンドンだけではもったいない!
ナローボートの旅を通し、イギリスの古き良き伝統と大自然に魅了され、初めてのイギリス訪問にして真のイギリスを見れた気がした。

お世話になりました!
ナローボート ★★★★★ 素晴らしい伝統と大自然に触れることができる。イギリスに行ったことのある人にも、初めての人にもおすすめ!
(2016年5月 池田郁依)

- その時歴史が動いた!!歴史のターニングポイントとなったゆかりの地を訪ねる旅 〜ブカレスト、ベリコ・タルノボ、ソフィア、ニシュ、ベオグラード〜
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エリア:
- ヨーロッパ>ブルガリア>ブルガリアその他の都市
- ヨーロッパ>セルビア>セルビア・モンテネグロその他の都市
- ヨーロッパ>ルーマニア>ブカレスト
- テーマ:ホテル・宿泊 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2016/06/24 15:16
今回ルーマニア、ブルガリア、セルビアを訪れる機会を得ました。美しすぎる古城、教会に残る素晴らしいフレスコ画の数々には感動しましたが、それ以上に、今回の出張では歴史のターニングポイントとなった数々のゆかりの地を訪れたことがとても感慨深く、貴重な訪問となりましたので、以下その点を中心にご紹介いたします。
ルーマニア革命の象徴「国民の館」


皆さんはルーマニアについてどんなイメージをお持ちだろうか。私は今回訪問するまで全くといっていいほどイメージがなく、知っていたことといえば、ビートたけしのギャグでお馴染みの体操選手「コマネチ」の出身国であることぐらいでした。しかしこの国を語る上で決して忘れてはいけない出来事があります。1989年のルーマニア革命です。好き放題の独裁政治を行い国民を苦しめていた、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻(当時)が最終的には公開処刑され、独裁者による共産主義国家ルーマニアが民主化された革命的出来事です。当時まだ中学生だった私は、なぜ彼らが処刑されなければならなかったのか、ことの詳細までは知りませんでしたが、当時はベルリンの壁崩壊等一連の東欧革命の真っただ中にある激動の時代で、TVで処刑されたチャウシェスク夫妻の遺体の映像を観て、独裁者の処刑という展開に強い衝撃を受けた記憶があります。
そのチャウシェスクが巨費を投じて造らせた宮殿が「国民の館」です。建造費用1,500億円、 地上10階、地下4階、部屋数3,000以上、エレベータ50基、クリスタルのシャンデリア3,000基、地下トンネル。これは米国防省のペンタゴンに次いでこの世で2番目に大きい建造物(延床面積616,540m²)だ。国民の館の正面に伸びる通りは、パリのシャンゼリゼ大通りを模したが、幅が6メートル広くなってしまったという逸話も。これと言った産業のないルーマニアという国の象徴としては、あまりにも巨大な建物である。よくこれだけ大きな建物をさしたる目的もなく造ったものだと感心してしまう。この建物のために費やした税金はあまりにも莫大で、それによってルーマニア経済はひっ迫し、国民が困窮を強いられたというのだから巨費を投じて造らせた宮殿が「国民の館」などという名前を付けられているのは、皮肉以外の何者でもない。「国民の館」と名前が付けられているが、これは「チャウシェスクの館」と言ってもいい。何しろチャウシェスクの自己顕示のためだけに、建設された館だから。


チャウシェスクへの不満が溜まった国民は、1989年に革命を起こします。チャウシェスクのいる建物の前に国民が集まり暴動を起こし、逃げ場を失ったチャウシェスクは、ヘリコプターでビルの屋上から脱出します。当時の人は「彼はジェームズボンドの様ように逃げた」と言っていたそうですがそれくらい印象に残る逃げ方です。ちなみに、ヘリコプターで逃げたものの後に捕まり、チャウシェスクの夫婦共ども処刑されています。当時の国民は権力の前でただひれ伏すだけでなく、ルーマニア革命の元にチャウシェスクを処刑に追い込んだのです。ルーマニア革命はCIA(アメリカの中央情報局)が扇動したとの噂もありますが、実際に革命に至ったのはルーマニアの国民です。そういう意味で「国民の館」はルーマニア革命の象徴的建物の1つといえます。
しかしそれも過去のことで、現在建物の内部は有料で一般公開されています。現在でも国会議事堂として機能していて、コンサートやパーティーなども行われている。あまりの広さ故に、あのマイケルジャクソンもここで演説をしています。見学を先導してくれた英語ガイドさんによると、国民の館に延びるシャンゼリゼ通り!マイケルジャクソンはこの広場に集まった人たちに向かって「ハロー・ブダペスト」と叫んだそうです(ここブダペストじゃなくてブカレストだよと突っ込みたくなりますね)。独裁時代の名残の建造物が観光資源とは、なんとも感慨深いものがあります。あまりに大きい国民の館を実際に目の当たりにしてみると、先人の苦労が伝わってきます。
様々な複雑な思いを胸にブカレスト郊外にあるチャウシェスク夫妻の墓参りもしてきました。一国の大統領であった人ですが、近隣にあるお墓と同じくらいの大きさ。けれど、合葬のお披露目の際にはルーマニア国旗の三色の花飾りが備えられ、三色旗のリボンで飾られていたそうです。大統領であったとはいえ、旧体制の独裁リーダーとして追放され、処刑された人。けれども、はなむけの飾りは、ルーマニア国家をあらわす赤・黄・青。国民の複雑な思いが感じられます。
1999年12月、革命10周年に当たって行なわれた世論調査によると6割を超えるルーマア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答えたとか(ウィキペディア参照)。 頻発するストライキでは、「我々はとりあえず自由を手に入れた。次は幸福を手にする番だ」というスローガンも見られたそうですが、未だその幸福を多くの国民が実感していないようです。
是非、東欧に行く機会がありましたらこの巨大な建物を訪れて独裁者を処刑に追い込んだ国民の想いと激動の歴史をを感じてみてください。


ブルガリア独立のきっかけとなったお伽の村コプリフシティツァ






ブルガリアの最も美しい村として国内外に知られている「コプリフシティツァ」は「美術館都市」と呼ばれ、国内からも人が集まる有名な観光地です。14世紀にオスマンの侵入で土地を追われた人達が、隠れ住んだ村で、18世紀頃から商業で街は潤い、スルタン(皇帝)からも軽減と武器の所有を許されていた。19世紀前半から半ばにかけて、商人達が競って様々な建築様式で建てられた家々が、今もそのまま残っている。そのうち6軒の屋敷が、「ハウスミュージアム」として保存・公開されている。いわば村の家並みがそのまま美術館だ。非常にカラフルな家が多く、“お伽の村”とも言われています。まるで中世で時間が止まったような町です。ガイドさんによると、19世紀、ここには羊飼いがたくさんいて、羊毛の貿易で栄えた。豪商が集まり、壮麗豪華な屋敷を建てたという。6軒の一つ、「オスレコフ・ハウス」でも、玄関の柱にレバノンから運んだ杉がぜいたくに使われている。瓦屋根に木枠の窓は東洋的だが、外壁には色鮮やかな絵や彫刻。それが不思議にマッチしている。
「家並みだけじゃありません。この村はブルガリア人にとって、特別の場所なんです」。
それはなぜか。この村がブルガリアの独立運動の口火を切った場所だからです。
オスマン帝国の支配下にあったブルガリアでは、18世紀後半になると民族解放運動の担い手たちが台頭するようになった。経済的な自立を背景に、西欧やロシアの思想の影響を受けた彼らは「独立」という目標を掲げ、具体的な行動を起こす。そして1876年4月、ここコプリフシティツァで発せられた1発の銃声を合図に、ついに「四月蜂起」が勃発したのだ。屈強なトルコ軍を銃で撃ちその血で“血判状を書き”近隣の町へ馬を駆け配りました。四月蜂起の首謀者ゲオルギ・ベンコフスキをはじめとした四月蜂起の首謀者達もこの町出身で、ブルガリア人にとっては英雄が出た憧れの美しい村なのだ。4月蜂起自体は3か月程度で鎮圧され失敗に終わり、屋敷の主だった首謀者達も逮捕されましたが、この蜂起を契機に、オスマン・トルコ政権からの独立運動は盛り上がりをみせ独立を勝ち取る道筋ができていくのです。「この村の人が勇気を出して立ち上がらなかったらブルガリアは独立できなかったかもしれない」とも言われます。よってこの村はブルガリア人にとって、特別の場所なんです。
それから百数十年。村の人々は英雄たちの屋敷を修復し、当時のままに残してきた。革命への思いがヨーグルトのように、脈々と受け継がれているからに違いない。
その英雄達の生家が「歴史資料博物館」として当時使用されていた家具・調度類・服・武器等が展示されています。
陽光が降り注ぐ山間ののどかな町並み。思い思いの意匠が凝らされた民族復興様式のカラフルな家々が立ち並ぶ石畳の道には、そんなのどかさとは裏腹にブルガリア人の「抵抗」の足跡に触れたような気がして今回の訪問は感慨深いものがありました。ブルガリアの歴史上重要な役割をはたしたこの村は、決して派手さはありませんが是非訪れてほしい場所の1つです。当時の詳細はイワン・ヴァーゾフの「軛の下で」を参照されたい。


コンスタンティヌス大帝生誕の地に佇む負の遺産ドクロの塔-スカルタワー



セルビア第3の都市ニシュは人口約25万人で、バルカン半島最古の町の一つ。ヨーロッパと中東を結ぶ交通の要衝で、ブルガリアのソフィア、マケドニアのスコピエ、セルビアのベオグラードを結ぶ結節点に位置しています。 コンスタンティノープルを創建した最初のキリスト教徒のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の生誕地としてあまりにも有名ですが、セルビア人軍勢が初めてオスマン帝国に対して蜂起した「チェガルの戦い」があった歴史的に重要な場所であることも忘れてはなりません。
交通の要所であったことから、ニシュは現代に至るまで様々な民族から繰り返し攻撃を受け占領されました。その中でオスマン・トルコの支配化の時代に、勇気を振り絞って反旗を翻したクーデター、それが「チェガルの戦い」です。1809年、トルコからの解放を目指した蜂起の中、チェガル丘で1万人のトルコ軍に対し3千人で戦いに挑みました。トルコ軍はオスマン・トルコの圧制に反旗を翻した反乱軍を容赦なく惨殺し、後世への見せしめのため、なんと反乱軍の頭蓋骨952個で塔を築かせました。その塔は「チェレ・クラ」と呼ばれ、ニシュの町はずれに今も残っています。反乱の見せしめとはいえ、ひどいことを考えるものです。昔の骸骨塔は屋外にむき出しのまま建っていました。よって犠牲者の親族が頭蓋骨を持ち帰ったり、風雨によって転がり落ちてしまうことも多かったそうです。そうしたことから現在空になった穴が多く、今、残っているのは56個だそうです。上部がかなり崩れ、崩壊しそうだったので塔は現在建物で覆われています。
建物の中へ入ると、髑髏がずらっと並んでいます。この塔の存在をガイドブックで知った衝撃は今でも忘れませんが、実物はもっと強烈でした。レプリカではなく、正真正銘本物のスカルです。手を合わせずにはいられません。しばし合掌。
よく見ると、刀傷が眉間に残る頭蓋骨もありました。その横にはピストルの弾が撃ち込まれた頭蓋骨も…。よく観察するとサイズが違うことに気が付きます。小さい頭蓋骨もあります。若い反乱兵もいたんでしょうね。かつて塔の最上部には反乱軍を率いた司令官ステバン・シンジェリッチの頭蓋骨が置かれていたとのこと。彼の頭蓋骨から剥がした頭皮は綿を詰め、イスタンブールに送られたそうです。
トルコ軍との戦いには負けはしましたが部下とともに戦って戦死した彼の勇気ある行動は、セルビア人の心にいまだに残る英雄的行為です。負の遺産ではありますが歴史の過酷さを伝えるこの記念碑は必見です。



悪魔の塔アボリジャバロとはなにか

セルビア南東部ラダン山の斜面にある、岩が搭状に202本連なって経っている景勝地です。アボリジャバロとはセルビア語で「悪魔の街」という意味で、尖塔上の奇岩が広がる様がまるで悪魔の住むところのようなところから、このような名前が付けられ、「世界の自然七不思議」の候補にもなりました。岩の高さは2mのものから15m、根元の直径は4〜6mほどの尖塔上の奇岩が202本ある。数千年前に火山の激しい噴火活動があり、火山灰などの柔らかい土が積もり、雨などの浸食により形成されたようです。「赤の煮え湯」「悪魔の水」と呼ばれる、2つのとても強い炭酸の湧き水も出ており、周辺には温泉もあります。新たなセルビアの観光地・世界遺産暫定リストとして登録が待たれます。同様の尖塔上の奇岩の景勝地として知られトルコのカッパドキアとはまた違った雰囲気を持っており、セルビアを訪れた際は是非訪れたい場所の1つです。



おすすめポイント
スカルタワー ★★★★
アボリジャバロ ★★★
コプリフシティツァ ★★★
国民の館 ★★★
(2016年5月 渡邊竜一)
ルーマニア革命の象徴「国民の館」

国民の館(ブカレスト)

国民の館(ブカレスト)
皆さんはルーマニアについてどんなイメージをお持ちだろうか。私は今回訪問するまで全くといっていいほどイメージがなく、知っていたことといえば、ビートたけしのギャグでお馴染みの体操選手「コマネチ」の出身国であることぐらいでした。しかしこの国を語る上で決して忘れてはいけない出来事があります。1989年のルーマニア革命です。好き放題の独裁政治を行い国民を苦しめていた、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻(当時)が最終的には公開処刑され、独裁者による共産主義国家ルーマニアが民主化された革命的出来事です。当時まだ中学生だった私は、なぜ彼らが処刑されなければならなかったのか、ことの詳細までは知りませんでしたが、当時はベルリンの壁崩壊等一連の東欧革命の真っただ中にある激動の時代で、TVで処刑されたチャウシェスク夫妻の遺体の映像を観て、独裁者の処刑という展開に強い衝撃を受けた記憶があります。
そのチャウシェスクが巨費を投じて造らせた宮殿が「国民の館」です。建造費用1,500億円、 地上10階、地下4階、部屋数3,000以上、エレベータ50基、クリスタルのシャンデリア3,000基、地下トンネル。これは米国防省のペンタゴンに次いでこの世で2番目に大きい建造物(延床面積616,540m²)だ。国民の館の正面に伸びる通りは、パリのシャンゼリゼ大通りを模したが、幅が6メートル広くなってしまったという逸話も。これと言った産業のないルーマニアという国の象徴としては、あまりにも巨大な建物である。よくこれだけ大きな建物をさしたる目的もなく造ったものだと感心してしまう。この建物のために費やした税金はあまりにも莫大で、それによってルーマニア経済はひっ迫し、国民が困窮を強いられたというのだから巨費を投じて造らせた宮殿が「国民の館」などという名前を付けられているのは、皮肉以外の何者でもない。「国民の館」と名前が付けられているが、これは「チャウシェスクの館」と言ってもいい。何しろチャウシェスクの自己顕示のためだけに、建設された館だから。

贅を尽くした国民の館(ブカレスト)

贅を尽くした国民の館(ブカレスト)
チャウシェスクへの不満が溜まった国民は、1989年に革命を起こします。チャウシェスクのいる建物の前に国民が集まり暴動を起こし、逃げ場を失ったチャウシェスクは、ヘリコプターでビルの屋上から脱出します。当時の人は「彼はジェームズボンドの様ように逃げた」と言っていたそうですがそれくらい印象に残る逃げ方です。ちなみに、ヘリコプターで逃げたものの後に捕まり、チャウシェスクの夫婦共ども処刑されています。当時の国民は権力の前でただひれ伏すだけでなく、ルーマニア革命の元にチャウシェスクを処刑に追い込んだのです。ルーマニア革命はCIA(アメリカの中央情報局)が扇動したとの噂もありますが、実際に革命に至ったのはルーマニアの国民です。そういう意味で「国民の館」はルーマニア革命の象徴的建物の1つといえます。
しかしそれも過去のことで、現在建物の内部は有料で一般公開されています。現在でも国会議事堂として機能していて、コンサートやパーティーなども行われている。あまりの広さ故に、あのマイケルジャクソンもここで演説をしています。見学を先導してくれた英語ガイドさんによると、国民の館に延びるシャンゼリゼ通り!マイケルジャクソンはこの広場に集まった人たちに向かって「ハロー・ブダペスト」と叫んだそうです(ここブダペストじゃなくてブカレストだよと突っ込みたくなりますね)。独裁時代の名残の建造物が観光資源とは、なんとも感慨深いものがあります。あまりに大きい国民の館を実際に目の当たりにしてみると、先人の苦労が伝わってきます。
様々な複雑な思いを胸にブカレスト郊外にあるチャウシェスク夫妻の墓参りもしてきました。一国の大統領であった人ですが、近隣にあるお墓と同じくらいの大きさ。けれど、合葬のお披露目の際にはルーマニア国旗の三色の花飾りが備えられ、三色旗のリボンで飾られていたそうです。大統領であったとはいえ、旧体制の独裁リーダーとして追放され、処刑された人。けれども、はなむけの飾りは、ルーマニア国家をあらわす赤・黄・青。国民の複雑な思いが感じられます。
1999年12月、革命10周年に当たって行なわれた世論調査によると6割を超えるルーマア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答えたとか(ウィキペディア参照)。 頻発するストライキでは、「我々はとりあえず自由を手に入れた。次は幸福を手にする番だ」というスローガンも見られたそうですが、未だその幸福を多くの国民が実感していないようです。
是非、東欧に行く機会がありましたらこの巨大な建物を訪れて独裁者を処刑に追い込んだ国民の想いと激動の歴史をを感じてみてください。

チャウシェスクの墓(ブカレスト郊外)

チャウシェスクの墓(ブカレスト郊外)
ブルガリア独立のきっかけとなったお伽の村コプリフシティツァ

カブレシュコフの家(コプリフシティツァ)

石畳が似合うコプリフシティツァの村(コプリフシティツァ)

カブレシュコフの家(コプリフシティツァ)

4月蜂起の様子を伝える絵(コプリフシティツァ)

4月蜂起の様子を伝える絵(コプリフシティツァ)

4月蜂起記念碑(コプリフシティツァ)
ブルガリアの最も美しい村として国内外に知られている「コプリフシティツァ」は「美術館都市」と呼ばれ、国内からも人が集まる有名な観光地です。14世紀にオスマンの侵入で土地を追われた人達が、隠れ住んだ村で、18世紀頃から商業で街は潤い、スルタン(皇帝)からも軽減と武器の所有を許されていた。19世紀前半から半ばにかけて、商人達が競って様々な建築様式で建てられた家々が、今もそのまま残っている。そのうち6軒の屋敷が、「ハウスミュージアム」として保存・公開されている。いわば村の家並みがそのまま美術館だ。非常にカラフルな家が多く、“お伽の村”とも言われています。まるで中世で時間が止まったような町です。ガイドさんによると、19世紀、ここには羊飼いがたくさんいて、羊毛の貿易で栄えた。豪商が集まり、壮麗豪華な屋敷を建てたという。6軒の一つ、「オスレコフ・ハウス」でも、玄関の柱にレバノンから運んだ杉がぜいたくに使われている。瓦屋根に木枠の窓は東洋的だが、外壁には色鮮やかな絵や彫刻。それが不思議にマッチしている。
「家並みだけじゃありません。この村はブルガリア人にとって、特別の場所なんです」。
それはなぜか。この村がブルガリアの独立運動の口火を切った場所だからです。
オスマン帝国の支配下にあったブルガリアでは、18世紀後半になると民族解放運動の担い手たちが台頭するようになった。経済的な自立を背景に、西欧やロシアの思想の影響を受けた彼らは「独立」という目標を掲げ、具体的な行動を起こす。そして1876年4月、ここコプリフシティツァで発せられた1発の銃声を合図に、ついに「四月蜂起」が勃発したのだ。屈強なトルコ軍を銃で撃ちその血で“血判状を書き”近隣の町へ馬を駆け配りました。四月蜂起の首謀者ゲオルギ・ベンコフスキをはじめとした四月蜂起の首謀者達もこの町出身で、ブルガリア人にとっては英雄が出た憧れの美しい村なのだ。4月蜂起自体は3か月程度で鎮圧され失敗に終わり、屋敷の主だった首謀者達も逮捕されましたが、この蜂起を契機に、オスマン・トルコ政権からの独立運動は盛り上がりをみせ独立を勝ち取る道筋ができていくのです。「この村の人が勇気を出して立ち上がらなかったらブルガリアは独立できなかったかもしれない」とも言われます。よってこの村はブルガリア人にとって、特別の場所なんです。
それから百数十年。村の人々は英雄たちの屋敷を修復し、当時のままに残してきた。革命への思いがヨーグルトのように、脈々と受け継がれているからに違いない。
その英雄達の生家が「歴史資料博物館」として当時使用されていた家具・調度類・服・武器等が展示されています。
陽光が降り注ぐ山間ののどかな町並み。思い思いの意匠が凝らされた民族復興様式のカラフルな家々が立ち並ぶ石畳の道には、そんなのどかさとは裏腹にブルガリア人の「抵抗」の足跡に触れたような気がして今回の訪問は感慨深いものがありました。ブルガリアの歴史上重要な役割をはたしたこの村は、決して派手さはありませんが是非訪れてほしい場所の1つです。当時の詳細はイワン・ヴァーゾフの「軛の下で」を参照されたい。

デベリャノフの家(コプリフシティツァ)

デベリャノフの家(コプリフシティツァ)
コンスタンティヌス大帝生誕の地に佇む負の遺産ドクロの塔-スカルタワー

セルビア蜂起のシンボルドクロの塔-スカルタワーにて(ニシュ近郊)

セルビア蜂起のシンボルドクロの塔-スカルタワー(ニシュ近郊)

セルビア蜂起のシンボルドクロの塔-スカルタワー(ニシュ近郊)
セルビア第3の都市ニシュは人口約25万人で、バルカン半島最古の町の一つ。ヨーロッパと中東を結ぶ交通の要衝で、ブルガリアのソフィア、マケドニアのスコピエ、セルビアのベオグラードを結ぶ結節点に位置しています。 コンスタンティノープルを創建した最初のキリスト教徒のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の生誕地としてあまりにも有名ですが、セルビア人軍勢が初めてオスマン帝国に対して蜂起した「チェガルの戦い」があった歴史的に重要な場所であることも忘れてはなりません。
交通の要所であったことから、ニシュは現代に至るまで様々な民族から繰り返し攻撃を受け占領されました。その中でオスマン・トルコの支配化の時代に、勇気を振り絞って反旗を翻したクーデター、それが「チェガルの戦い」です。1809年、トルコからの解放を目指した蜂起の中、チェガル丘で1万人のトルコ軍に対し3千人で戦いに挑みました。トルコ軍はオスマン・トルコの圧制に反旗を翻した反乱軍を容赦なく惨殺し、後世への見せしめのため、なんと反乱軍の頭蓋骨952個で塔を築かせました。その塔は「チェレ・クラ」と呼ばれ、ニシュの町はずれに今も残っています。反乱の見せしめとはいえ、ひどいことを考えるものです。昔の骸骨塔は屋外にむき出しのまま建っていました。よって犠牲者の親族が頭蓋骨を持ち帰ったり、風雨によって転がり落ちてしまうことも多かったそうです。そうしたことから現在空になった穴が多く、今、残っているのは56個だそうです。上部がかなり崩れ、崩壊しそうだったので塔は現在建物で覆われています。
建物の中へ入ると、髑髏がずらっと並んでいます。この塔の存在をガイドブックで知った衝撃は今でも忘れませんが、実物はもっと強烈でした。レプリカではなく、正真正銘本物のスカルです。手を合わせずにはいられません。しばし合掌。
よく見ると、刀傷が眉間に残る頭蓋骨もありました。その横にはピストルの弾が撃ち込まれた頭蓋骨も…。よく観察するとサイズが違うことに気が付きます。小さい頭蓋骨もあります。若い反乱兵もいたんでしょうね。かつて塔の最上部には反乱軍を率いた司令官ステバン・シンジェリッチの頭蓋骨が置かれていたとのこと。彼の頭蓋骨から剥がした頭皮は綿を詰め、イスタンブールに送られたそうです。
トルコ軍との戦いには負けはしましたが部下とともに戦って戦死した彼の勇気ある行動は、セルビア人の心にいまだに残る英雄的行為です。負の遺産ではありますが歴史の過酷さを伝えるこの記念碑は必見です。

司令官ステバン・シンジェリッチの頭蓋骨(ニシュ近郊)

スカルタワーを守る礼拝堂(ニシュ近郊)

コンスタンティヌス大帝生誕の地を記す記念碑と要塞跡にて(ニシュ)
悪魔の塔アボリジャバロとはなにか

悪魔の塔アボリジャバロ(アボリジャバロ)
セルビア南東部ラダン山の斜面にある、岩が搭状に202本連なって経っている景勝地です。アボリジャバロとはセルビア語で「悪魔の街」という意味で、尖塔上の奇岩が広がる様がまるで悪魔の住むところのようなところから、このような名前が付けられ、「世界の自然七不思議」の候補にもなりました。岩の高さは2mのものから15m、根元の直径は4〜6mほどの尖塔上の奇岩が202本ある。数千年前に火山の激しい噴火活動があり、火山灰などの柔らかい土が積もり、雨などの浸食により形成されたようです。「赤の煮え湯」「悪魔の水」と呼ばれる、2つのとても強い炭酸の湧き水も出ており、周辺には温泉もあります。新たなセルビアの観光地・世界遺産暫定リストとして登録が待たれます。同様の尖塔上の奇岩の景勝地として知られトルコのカッパドキアとはまた違った雰囲気を持っており、セルビアを訪れた際は是非訪れたい場所の1つです。

悪魔の塔アボリジャバロ(アボリジャバロ)

「悪魔の水」(アボリジャバロ)

「悪魔の水」(アボリジャバロ)
おすすめポイント
スカルタワー ★★★★
アボリジャバロ ★★★
コプリフシティツァ ★★★
国民の館 ★★★
(2016年5月 渡邊竜一)

- 青と緑のセイシェル×金色のアブダビ
-
エリア:
- 中近東>アラブ首長国連邦>アブダビ
- インド洋>セイシェル>マヘ島
- テーマ:ビーチ・島 ホテル・宿泊
- 投稿日:2016/01/05 15:39

「ほらセイシェルの夕陽が 今 海に沈んでくわ
世界のどんな場所で見るよりも 美しい夕焼けよ」
1980年代を代表するアイドル松田聖子が歌った「セイシェルの夕陽」。この歌により、聖子ちゃん世代の方には少し知名度があるらしい。
が、私の友達に「セイシェルに行ってくる」と言っても皆声を揃えて「どこ?」という反応。やはりまだまだ日本人には馴染みのないセイシェル。
今回は、そんな美しい夕陽を見に(?)、セイシェルを訪れてきた。
「インド洋の真珠」とも呼ばれているセイシェル。一体どんな国なのだろうか。
飛行機でまず到着するのはセイシェルで1番大きな島、マヘ島。飛行機から降りると、滑走路の向こう側には真っ青な海が広がっており、ざざーという波の音がすぐそこに聞こえる。滑走路の隣がもう海、という状況とその熱気に、異国の島国セイシェルへの期待と興奮が高まってくる。
セイシェルの首都ビクトリアはこのマヘ島にあり、人口の90%がこの島に住んでいる。セイシェルで一番大きな島だ。
中心の島と言っても素朴そのもので、陸地面積に占める森林の割合は88.5%と言われている程そこには手つかずの自然がたくさん残っている。ビクトリアではココナッツの木より大きな建物は存在せず、とてもゆったりとした時間が流れている。そんな大自然の中には素敵なリゾートもたくさんあり、世界中のハネムナーに人気のディスティネーションとなっている。(あのウィリアム王子とキャサリン妃もハネムーン先に選んだとか・・。)
マヘ島の中でも最も有名なのがボー・バロン・ビーチ。
ボーバロンのエリアにはたくさんのホテルが建っている。
バジェットを抑えたい方におすすめなのが「コーラルストランド スマートチョイス」。
ビクトリア市内まで車で約10分、空港まで20分。ボーバロンの中心にあり、ショッピング、ビーチ共に楽しめる便利な立地にある。

スタンダードルーム

ホテルのビーチ
メインレストランからは松田聖子も歌っていた夕陽を綺麗に眺めることができる。

メインレストラン
このエリアで、ラグジュアリーなホテルに泊まられたい方におすすめなのが、コーラルストランドの隣にある「サヴォイ リゾート&スパ」。2014年5月にオープンしたばかりの新しい5つ星ホテル。

コーラルストランドに宿泊の方はサヴォイのレストラン等の施設を割引価格で利用でき、反対にサヴォイの宿泊者はコーラルストランドの施設を割引価格で利用が可能。
インドネシアのデザイナーが手掛けたお部屋は落ち着いた色使いで、また広さすぎず狭すぎず、私は個人的にいろいろ見たホテルの中でも一番好きだったかもしれない。

サヴォイルーム

バスルーム
広い敷地内には、セイシェルで一番大きなプールもある。

そして今回宿泊させていただいたのが、「ケンピンスキーセイシェル」。

エントランス
現在セイシェルで唯一、日本人の総支配人がいるホテル。そのためか、きめ細やかなところまで気が配られていて、非常に過ごしやすかった。ヨーロッパの方はダブルベッドのお部屋を好まれるので、80%以上の宿泊者がヨーロッパ人(特にドイツ、フランス、スイス)であるセイシェルではツイン(ベッド2台)のお部屋のないホテルもある中、ケンピンスキーでは日本人の要望に応えられるようどのカテゴリーにもそれぞれツインベッドかつバスタブ付きのお部屋が用意されている。(全部屋ではなく数部屋のみなので、確約ではない)

シーサイドルーム

バスルーム

シーサイドルーム

ミニバー内の飲み物は無料

バスタブ付きのお部屋もある
シーサイドルームの場合はお部屋からそのままベ・ラザールビーチにアクセス可能。

ベ・ラザールビーチ
このビーチを歩いてフロント、レストランにもアクセスできる。やわらかい白砂がとても気持ち良い。また、敷地内にはプール、スパ、テニスコート、ジム、ダイビングセンター等、リゾート内で滞在を完結できる十分な設備が整っている。夕方にはカクテルアワーもあり、飽きることなくリゾートを満喫することができる。キッズクラブもあるので、お子様連れにも安心。実際ファミリーのお客さんがとても多かった。

スパ

ダイビングセンター

カクテルアワー
ケンピンスキーの前には大きな岩山があり、そこからはケンピンスキーを一望することができる。宿泊した際には絶対に足を運んで頂きたい。スタッフが用意してくれたココナッツジュースを飲みながら、心地よい風を浴び、最高な景色を眺める。時間を忘れてずっといつまでも眺めていられる景色だった。ここからの夕陽も最高。


最後におすすめしたいリゾートが、世界の「フォーシーズンズリゾート」。
マヘ島の南西、静かな丘の上に位置するフォーシーズンズ。丘の斜面に独立型のヴィラが点在しており、場所・眺めによってそれぞれカテゴリーが分かれている。
眺め以外は基本的に全室同じ内装で、広いウッドデッキやインド洋を見下ろすプライベートプールが備わっており、お部屋は182平米と広くとても開放的。

プライベート感たっぷり


ヒルトップオーシャンビュー
丘の頂に築かれたスパは、リラクゼーションスペースから素晴らしいインド洋の眺望が楽しめる(サンセットタイムがおすすめ)。

ヨガ・パビリオンが併設されており、海を見下ろしながら、ヨガを体験することも。

毎朝ここでヨガプログラムがある

こんな素晴らしい景色を眺めながらヨガができる
心身ともにリラックスできるリゾート。キッズクラブも充実しておりファミリーでもハネムーンにもかなりおすすめ。

広いキッズクラブ

ゾウガメもいます!
マヘ島に滞在して驚いたこと。それはセイシェル=ビーチのイメージが強かったが、意外と山が多いこと、そしてビクトリアでの車の渋滞と、物価の高さ。
地図で見れば小さな島で、移動も簡単なように思えるが、空港からボーバロンベイエリアのホテルに行くには問題ないが、今回宿泊したケンピンスキーまでは山を越えるため、実はかなりグネグネとした山道を登ったり下りたりしながら行く。空港から離れたホテルに宿泊の場合、車酔いしやすい方は酔い止めがあった方が良いかもしれない。
また、マヘ島ではここ数年で急に車が増えているらしく、ビクトリアでは渋滞が問題となっている。因みに、セイシェルでは車は日本と同じ右ハンドルで、日本の免許書があれば簡単に車を借りることができる。バスはビクトリアを中心に、南と北に一律料金(5ルピー)で運行している。(南部から北部に行きたいときは必ずビクトリアで乗り換える)コストは抑えられるが、あまり頻繁に走っていないため、島での移動にはレンタカーかタクシー便利だ。タクシーは流しのタクシーは走っていないので、タクシー乗り場で拾う必要がある。
ホテルから空港へ行く際など、時間に遅れられない場合は渋滞していることを考慮し早めに出発することをおすすめする。
またセイシェルではココナッツとパイナップル以外はほとんどのものを輸入に頼っているので、極めて物価が高い。5つ星ホテルだとお水1本500〜800円程、ビール1本1500〜2000円程。町中ではあまり買い物ができるようなところはなく、特にビクトリアから離れたリゾートに宿泊する場合は現地では何も買えないと思った方が良い。特に歯ブラシは置いていないホテルがほとんどだったので、必要なものは必ず持って行くことをおすすめする。
☆☆アブダビ☆☆
日本からルセイシェルに行くにはエミレーツ航空もしくはエティハド航空でドバイかアブダビを経由して行く。今回私はエティハド航空でアブダビを経由し、帰りに1泊した。
セイシェルの素朴な感じからはうって変わり、次はオイルマネー大国へ。これまでドバイには行ったことがあったが、アブダビはドバイとはまた違う雰囲気があった。
ドバイでは高層ビルがまるでその形や高さを競うように立ち並んでいるのに対し、アブダビではドバイ程高層ビルは多くない。またアブダビでは緑を大切にしているため、道路を走っていると街路樹がずっと立ち並んでいる。車でアブダビからドバイまで走っていると、ドバイに入った途端街路樹がなくなるからすぐに分かるとか。 また、ビーチもありとってものんびり、ゆったりとした空気が流れている。
今回、ケンピンスキーさんのご協力の下アブダビで一番高級と言われている「エミレーツパレス」に1泊させていただいた。そう、あの「Sex and the City」で使われていたホテルだ。まさか、自分がここに泊まれるとは、、。

ホテルに入り、チェックインをしているとまずバラの花を一輪渡される。(女性のみ)そして、次に手渡されたのが金のルームキー。

金のルームキー

フロント
館内も室内も見渡す限り金だらけ!


金の自動販売機



金のエレベーター


コーラルルーム

ティッシュのケースまで金!
歯ブラシやごみ箱まで金ぴかでした。
お部屋にはiPadがあり、電気や空調などは全てこれで操作できるだけでなく、音楽や映画なども豊富に揃っている。

壮大な敷地の中には、なんとレストラン15軒、大きなプールに1.3kmにも及ぶプライベートビーチが。1泊では全然足りない。

エントランス

金のロールスロイス
まさに「豪華」とはこのこと。恐るべしオイルマネー。とにかく桁の違いに開いた口が塞がらないまま、1泊という短い滞在は幕を閉じた。
セイシェルとアブダビ。雰囲気も文化も食べ物も違い、最後の1泊のアブダビがこの旅の良いスパイスとなった。日本からアブダビまでは約 時間、そこからセイシェルまで 時間と長旅になるので、途中一息入れるにも、この2国組み合わせはおすすめだ。
ケンピンスキーセイシェル ★★★★★
松田聖子が歌った夕陽をぜひホテルの岩山から独り占めして下さい。
フォーシーズンズ ★★★★★
やっぱり世界のフォーシーズン。徹底されたプライベート空間で2人だけの時間を満喫できます。
エミレーツパレス ★★★★★
Sex and the Cityでも使われた超豪華ホテル。金のカプチーノが有名。館内を見て回るだけでも楽しい。
(2015年10月 池田郁依)

- 消滅するアラル海...消えないウズベキスタンの魅力...安倍首相も来たよ。
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エリア:
- アジア>ウズベキスタン>サマルカンド
- アジア>ウズベキスタン>タシュケント
- アジア>ウズベキスタン>ウズベキスタンその他の都市
- テーマ:ホテル・宿泊 世界遺産 自然・植物
- 投稿日:2016/01/05 15:17





今回は初の中央アジア、初の「スタン」であるウズベキスタンへの視察の機会をいただいた。なかなか個人的な旅行では、今まで候補にもあがってこなかったシルクロードの中間地点である。出発前にしっかりVISAの取得をして、十月の下旬のこの時期はウズベキスタン航空の直行便がお休みしているので、韓国の仁川を経由しアシアナ航空でタシケントまで約10時間、乗り継ぎがタイトな上、アシアナ航空の毎度の遅延の為ヒヤヒヤしたが無事乗り継ぎ、タシケントに到着した。現地で耳にした話では、来年からウズベキスタン航空が週3便に増便するらしい。フライトキャンセルが増えないか心配ではある。
仁川発タシケント行きの機内での事、ウズベキスタンの人であろう人達が、飛行機が離陸寸前だというのに空いている席を求めてウロチョロ、ウロチョロ。多数見受けられるほど落ち着きがない・・・ウズベキスタンに到着する前からそんな一面を垣間見ることが出来た。機内でウズベキスタンならではの、税関申告書を2枚も記入して到着に備える。
何と全ての外貨の持参金額を記入しなければならないなど厳しい。
また出国の際にも、記入が必要となるので保管用の1枚は大事に保管しておこう。
タシケントに到着後列なき列を並び、入国審査をするのだがキッチリ審査をするようで、
かなり時間を要した。長い時は1時間以上時間がかかるらしい。なおウズベキスタンは隣国も多く治安維持のため入国や出国、県境での検問などかなり念入りにやっているのが見受けられた。その甲斐もあって国内全土で治安が良好である。
バゲージを受け取り、税関申告書を2枚提出すると1枚返してくれるので、出国時まで大切に保管しなければならない。
また宿泊したすべての都市およびホテルでレジストレーションカードが発行され、これもパスポートに挟んで出国時にチェックしているようだが、紛失した1枚、予定外の民宿泊の為厳密には2枚足りなかったが、きちんとはチェックしていないようである。
また国際、国内、鉄道駅を含め利用者以外は立ち入り禁止の為、
荷物を受け取るとネームボードを持った空港係員が外のガイドまで連れて行ってくれるので、迷うことなく会うことが出来た。場合によっては、入国審査の手伝い(横入り)もしてくれるらしい。

インフレ?US$50分のスムの札束。
<アラル海と言う名の湖>
今回の目的は「アラル海」地球の歩き方に情報が少ないので、予備知識はほぼ皆無である。
首都タシケントに到着翌日、国内線を利用し、ウズベキスタンの西部の自治共和国であるカラカルパクスタン共和国の首都「ヌクス」に移動しアクセスする。
空港で待っていたローカルドライバーガイドの車をみてビックリ・・
おんぼろな古いセダンの車で行くようだ。後部座席に座る。
現地ドライバーと日本語ガイドがなにやら話している・・・ウズベク語?!なのでわからないが、ガイドに聞くと手配の内容ではジープで行くことになっているらしい。何故ならこの後道なき道の悪路を延々とドライブするのである。おんぼろの車では命の保証がない。
壊れたら最後、電波も人も何もない大地に置き去りである。
そんなこんなで、ドライバーチェンジである。いつ準備されるかわからないジープをひたすらホテルで待つこと、5時間ようやく新しい車のランドクルーザー当日手配で準備完了。
予定ではアラル海の湖畔でテント泊の予定だが、この時期は寒く氷点下の為、難しいそうであるが、その前に出発が5時間遅れで到着しても夜中なので、早くも予定変更の予感である。
何はともあれ、ひたすら走る事3時間半ほどで日が沈む前のムイナクに到着した。





ムイナクはもともと漁業でなりたっている地域であったが、今ではアラル海が完全に干上がり多数の漁船が放置され朽ち果てた姿は皮肉なことに船の墓場として有名になってしまった。またウズベキスタン側のアラル海と言うと一般にムイナクの船の墓場をイメージされる方が多い。ムイナクの村のはずれの小高い丘のモニュメントとともに錆びた鉄屑の漁船が放置されている。近くには博物館もあるので、変わり果てる前のムイナクの歴史をみることが出来る。




思った通り予定外の民宿で一泊し夜明け前にムイナクの町を後にして、アラル海の湖を目指す。ジープ(トヨタのランドクルーザー)で悪路の中を、道なき地平線が続く沙漠を進む。それにしても不思議なほど、ローカルドライバーが凄い!カーナビも地図もなければ、道もない!経験を頼りに真っ暗な道を進むこと4時間程すると消滅の危機に瀕するアラル海の湖畔に朝陽が昇るころ到着した。
かつて世界第4位の大きさを誇る湖だったアラル海もソ連による綿花栽培の用水として用いられたために半世紀で約5分の1に縮小してしまった。そして今なお縮小し続けている
アラル海は本当に消滅してしまうかもしれない。そしてアラル海を元の姿に戻すまでには、用水としての利用をやめたとしても70年もの歳月を要すると言われている。





泊まる予定だったテント。

道中には遥か昔の住居跡

何もない地平線を進む

スドチ・レイク

ラクダの行進にも出会う。
ちなみ予定ではアラル海が見渡せる丘の上にテントを張り一夜を過ごす予定だったが、昼間でも寒かった事を考えると、予定外が良かったのかも知れない。
なおアラル海は、塩分濃度が非常に濃いため夏の暖かい時期は、死海と同じように浮かびながら新聞を読むことが出来るらしい!!1泊2日の道中を含めトイレ・シャワーはないのであしからず。遺跡とは異なる新たな体験は思い出に残ります。
<カラ周り>
ヌクスからヒワへの移動日の事、道中カラ周りでもしてみる?!よくよく聞くと古代ホレズム文化を生み出したアムダリヤ川の流れを変えるたびに城を作り替え、1940年代に数百キロに渡り都城跡(カラ)が発見されて今なお点在している。アヤズ・カラにはユルタキャンプもあるので機会があれば宿泊してみるのも面白いだろう。キジル・カラ、トプラク・カラ、アヤズ・カラと3か所を周ったが観光客一人も会うことが出来なかったが、あまり知られていないウズベキスタンを見ることが出来ると思う。




日干しレンガで修復中のキジル・カラ



住民の居住区もあるトプラク・カラ




ユルタキャンプもあるアヤズ・カラ
<青の都 サマルカンド>
サマルカンド出身のタジク人の現地ガイドがポツリ。ウズベキスタンの国名を知らない人が多いらしい・・・しかしサマルカンドと言うと沢山の人がピンと来るほど有名な「サマルカンド」!!紀元前4世紀アレキサンダー大王が、その美しさに驚いたという長い歴史があるオアシス都市です。
レギスタン広場の3つのメドレセ(神学校)を始め、中央アジア最大級の「ビビハニムモスク」、イスラム教徒の聖地「シャヒジンダ廟群」など「青の都」と呼ばれる所以の外壁を覆う青いタイルのその独特の青色は、「サマルカンド・ブルー」と称えられとても美しい。
またナンの王様と言われるサマルカンド・ナンだけでなく、行列の出来るサマルカンドのプロフは激ウマでした。








大行列のブロフ屋さん



<タシケント>
タシケント観光の二日前に中央アジアを歴訪中の安倍首相がタシケント訪問し日本人墓地を訪れたそうだ。ソ連に抑留された日本人たちが遠い中央アジアのウズベキスタンまで流れ、治安の良いウズベキスタンの各地で安らかに眠っている。記念碑に刻まれた「鎮魂」そして石碑に漢字で刻まれた氏名・出身地には心の奥に刺さるもの感じずにはいられない。
また日本人が強制労働で見事な建物を作り上げたナヴォイ劇場も訪れて欲しい。その建物はタシケントの大地震でも唯一崩れなかったからこそ、ウズベキスタンの地でもメイド・イン・ジャパンの信頼や親日として好意を抱いてもらうことが出来ているのだろう。
しかしながら現在のウズベキスタンは、街中や車、電化製品を見ても間違いなく韓国が大勢を占めている。ちょうど安部さんも訪れたが日本とウズベキスタンが韓国と同等位には近い関係になってくれると非常にうれしく思う。




最後にウズベキスタンを旅行して分かった事があるので、これから旅行する方がいればぜひ日本語ガイド付きをお勧めしたい。やはり言葉の壁は高くウズベク語もしくはロシア語を話せないとかなり苦労する印象だ。しかしながらウズベキスタンの人はとても親切で愛嬌があり治安もとても良いので観光には最適です。
アラル海 ★★★★★ 地平線、水平線の大地が広がる。
サマルカンド ★★★★★ 鮮やかな青色は美しい。
タシケント★★★★★ 日本人の足跡を感じる事が出来る。
(2015年10月 大道 隆宏)
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